自分史6
昭和44年という年について
家内と見合いをして交際が始まった時点では、私はまだ自衛隊の第5術科学校の教官という立場であった。
三菱に入社したのが、昭和44年7月10日で、家内との結婚が昭和44年10月10日でしたので、その頃はまだ25名の学生を抱えている時であった。
家内は彼女の父親と一緒にアルバムを何冊も抱えてきた。まあユニークな見合いであった。そもそも彼女の父親というのは、人からものを頼まれると断りきれない面があるようで、私の父か、仲人をしてくださった山田美紀先生から頼まれると、断りきれなかったようである。
しかし、考えてみると日本の見合いという制度も、これで結構合理的な面がある。
結婚する当人同士が、いろいろ悩まなければならない過程が省略されているからである。なんとなれば、当人同士のところに話が来るまでに、世話する人の段階で、ふさわしくない話ならば、既にふるいに掛けられているわけで、ふるいを通った後であれば、当人同士がOKするかどうか、というところまで選択の幅が狭められているからである。
当人同士が気が合って、OKならばその後クリアーするハードルは無いに等しいわけである。我々のケースがまさにそれであった。
この昭和44年という年は、私にとって大変革の年であった。
自衛隊を除隊して、三菱入社、そして結婚と目覚しく変化した年であった。
家内はアルバムを抱えて父親と一緒にやってきた。
そして前の家の応接間で対応したわけであるが、第一印象としてはなんと子供っぽい女かと思ったものだ。
その時、母がいなかったので、私がお茶を出したが、この時に父との会話を聞かれて、未だに二人の間の語り草になっている。
その時の言葉は、お茶の葉っぱのことを「チャッパ」といったので、家内はこの「チャッパ」という言葉がよほど印象に残ったと見える。
私の方はアルバムを一通り見て、すぐに親父のカローラで、デートに出掛けた。
デートといっても、それほど遠くに出掛けたわけではない。
ただ鷹来の工廠跡で、名城大学の横に車をとめて話し合っただけである。
今の
見合いは結果的にOKということになったが、後から聞いてみると、松田家のほうではいろいろと論議があったようだ。
まああの頃の我が家の状況から見れば、娘を嫁にやる立場のほうは、論議があって当然である。
母親は家出中で、本人は何度も職業を変えているし、先方としては不安材料が一杯で、論議が出て当然である。無理もない話である。
しかし、これも後から聞いた話で、その当時はそんな経緯を知る由もなかった。
まったくの極楽トンボであった。
しかし、我が家の状況が普通の家庭以下の、最悪の状況だった、ということは身に沁みてわかっていた。
私が娘を嫁がせる立場ならば、頭から拒否していたに違いない。
まだその時点では自衛隊に在籍してはいたが、除隊するつもりでいたので、次の職業をトヨタに勤めることにしていた。
そして家内に会った時点でも、トヨタに行くつもりでしたので、早々とトヨタの近所の若林の県営住宅に申し込んでおいた。
そうしたら運良く当選しており、これで結婚後の新居も確保できたと思った。
しかし、このトヨタについてはいろいろな面からクレームがついた。
トヨタに決めたときは、自衛隊の愛知地連の方から勧められて、「内務班長をしているのなら、トヨタの寮生の世話をする寮の管理人になれ」といわれたので、まあそれも悪くないと思ってOKしたらそのまま採用になった。
あの頃は非常に景気の良い時で、どこの企業も臨時工や季節工を大量に使用していたときで、寮の管理人も必要であったに違いない。
これに真っ先に反対したのが父であった。
あの頃、父は体を壊しており、何かえらく気弱になっていた時期であった。
そんな父の姿を見ていると、これは言う事を聞いてやらねば、という心境になってしまった。
父が言うには、小牧の北外山から トヨタに通うのは大変だから、他の会社にせよということであったので、まだ自衛隊をやめてはいなかったので、再度、地連にいって、「近いところがないか?」と言ったら「三菱の保安ならある」ということで、家内の兄も三菱ということだし、ここは三菱しかないということになった。
家内と二人で若林の住宅を見にいったとき、彼女の言うには「こんな小さなところは嫌だ!」と贅沢なことを言う。
これではトヨタの方はいよいよあきらめる他なく、いよいよもって三菱にせざるを得なくなった。
そんな訳で、地連の紹介で三菱の名航、大江を訪ねていって、最初に面接をしたとき、その後、その人の下で仕事をする羽目になったが、伊藤寛一という人に服装のことで叱られてしまった。
というのは、本来の仕事以外には我々はリラックスした格好をしたがるものである。
その時、私は制服で行かず、軽快な半そでシャツにノーネクタイという軽装で出掛けたが、それが気に障ったらしい。
えらく頭の固い人物だなあと思った次第である。
その後、自衛隊の方も目出度く満期除隊となり、三菱に入社することになったが、この昭和44年という年は実に変動に揺れ動いた年であった。
あの当時、自衛隊の中での私の仕事といえば、第5術科学校の教官という身分で、学生隊の内務班長という仕事をしていた。
昭和43年12月に
2科というのはAC&Wを教えるセクションであり、そこから学生隊に応援という形で内務班長を命じられた。
持った学生が、私と同じような6月入隊の猛者連中ばかりであった。
彼らを卒業まで私が面倒を見ることとなった。AC&Wの109期だったと思う。
この内務班長というのは、今までの仕事とは又違った面白さというものがあった。
私も学生の時は大部屋でしたが、内務班長は個室があてがわれた。
個室を使うということは、何かよほど偉くなったような気がしたものだ。
軍歴のある人ならば、内務班長という言葉を理解できるが、家内のようにまったくそうしたものに縁のないものにとっては、どうもよく理解できないようだ。
家内は今でも理解できないでいる。
けれども、この内務班長という仕事も考えてみれば大変な仕事であった。
大の男25人の母代わり、父代わりにならなければならない。
しかも相手は子供ではなく大人である。そこに別の難しさがある。
彼らを無事、規定の卒業資格を取れるように指導しなければならない。
私のようにAC&Wの仕事の内容を知っているものが内務案長をしている分には、その点有利であるが、他の職種の人では不安で、学生に有効な説得力を持ち得ない。
しかし、現実に25人もの人間を6ヶ月間も面倒を見るということは大変な仕事である。自衛隊という一種の枠の中で、教育を進めなければならないというところに困難がある。出来ないもの、成績の悪いもの、規律に反するものを、どんどん切り捨てることが出来れば話は別であるが、そうした制約を受けながら、全員を無事卒業させ、次の過程に送り込まねばならないところに難しさがある。
それでも何とか6月には無事、第5術科学校美保分校に送り届けた。
このことは自分でもよくやったと思っている。
まあ自己満足かもしれないが、私のような経験もないものが、よく勤め上げたものだと思っている。
第5術科学校で内務班長をしていたときは、短時間の間にいろいろなことが起きた。
班員が警備小隊と喧嘩したり、岡崎公園に花見に行ったり、名古屋のデイスコに全員制服姿で繰り込んだり、警備小隊に応援勤務に出た事や、よくも新人の内務班長に出来たと思う。
これこそ本当に熱意と、創意工夫と、ファイトで潜り抜けたという感じである。
これに比べると、三菱の保安の仕事は実にくだらない。
あまりくだらなさ過ぎて話にもならない。
思えば、自衛隊を除隊する時点で、夢も希望も投げ捨てたので、勤まったのかもしれない。学生を25名、美保の分校に送り届け、雨の中をYS-−11で帰ってきて、2、3日で除隊であった。
そして2、3日で再び三菱の人間として大江工場に通うことになった。
大江には1週間ぐらい通ったが、その後は小牧南工場に配属された。
保安の仕事というのは、今までいろいろ経験した仕事の中で一番面白くない仕事であった。それでも我慢してこれたのは、やはり家庭というものを持ち、妻子がいると思うと、今までのように簡単に職業を変えることが出来なかったためと思う。
そんなわけで、小牧南で保安の仕事をするようになってからは、彼女の家には非番ごとに通ったものだ。
考えてみると、柏森の家には結婚前から迷惑をかけたことになる。
家内の家族は、私が行くと、全員で歓迎してくれたものだ。
あの頃まだ茂子さん(義兄・譲さんの奥さん)が存命で、いろいろ私のために気を使ってくれていた。
家内の部屋は玄関を入った左側で、非番に私が行くと、座布団を枕に眠るように気を使ってくれた。この心使いが嬉しかった。
自分の家では、喧嘩腰でものを言わなければならないものが、ここだと何だか天国にいるように、我侭が言えたような気がしてならない。
そして、結婚式を控えていたため金を使いたくなかったので、帰るときは、帰りの電車賃までもらって帰ったものだ。
新婚生活
私と家内の結婚式は昭和44年10月19日、小牧の田県神社で執り行われた。
当日は日柄が良かった所為か、4組もあって、そのうちの一番最初であった。
私は当日まで勤務して、非番になると同時に家に帰って、髯を剃ってすぐに式場に駆けつけた。
仲人は、両家の親の共通の知人である山田美紀先生にお願いした。
田県神社は、子供の頃行ったときはまだ鎮守の森という感じがしていたが、この頃から少しずつ俗化してきており、今ほどではないにしても、かなり明るくなっていた。
10時に両家の親戚が揃ったところで、社殿に進み、神主からお払いを受けたわけであるが、式を挙げている間、一般の参拝者が後ろから賽銭を投げるのが音でわかった。
この田県神社での挙式は、家内が気に入らず、後々まで文句を言っていた。
別にエッチな言い伝えがあるわけではなく、ただただ単純に五穀豊穣の神様であるので、それほど恥ずかしがることはないのに、なんといってもあのシンボルがいけない。
まあ若い女性には嫌われても仕方ない面も否定できない。
しかし、日本の神様はおおらかなものだ。
性器をシンボルにするなどということは、珍しいといえば珍しい。
それも極めて近いところに、男性と女性のが、ペアで揃っているところなど、如何にも作為的で昔の人の願望が現れているような気がする。
家内に言わせると、何処で挙式したのか恥ずかしくて人に言えないのだそうだ。
まあ女性の立場になって考えてみれば、無理もないかもしれない。
しかし、結果的に一男一女を授かったのは、この田県神社の神様のお陰かもしれない。
お払いを受けた真正面にも、幔幕からはみ出したシンボルが鎮座していたような気がする。神殿でお払いを受けた後、東側の大広間で会席料理で、披露宴を兼ねた会食があったが、次の式のスケジュールに追われて、早々とお開きになった。
その後、親戚に人が我々二人を名古屋駅まで送ってくれた。
そして、新幹線で東京に向かい、品川からモノレールで羽田へ、羽田から727で千歳へと、ハネムーンに旅立った次第である。
727には、この時始めて乗ったが、AC&Wをしていて飛行機のことはかなりの程度まで知っているつもりでいたが、この727では大恥をかいて自己嫌悪に陥った。
飛行機の乗るのは初めてではないが、727は初めてであったので、羽田で搭乗手続きをして、いざ搭乗となったとき、バスや電車に乗るときのように、良い席を取ろうと、田舎もの丸出しで、荷物を抱えて走って乗り込んだ。
しかも、前のタラプから急いで乗り込んで、席を見つけようと機内を移動したところ、結局席は一番後ろであった。
そのすぐ脇には後部タラップがあった。
切符であらかじめ席を確認しておけば、こんな醜態を演じなくても良かったのに、全くうかつであった。
しかし、後方の席であったので、窓外の景色はよく見えたが、所詮、夜でしたので何も見れなかった。帰りの便ではよく見えた。
飛行機といえば、自衛隊にいたときC−46にもYS−11乗ることが出来た。
C−46はバッジで第5術科学校へ再入校したときに、千歳から入間まで乗り、そこでYS−11に乗り換えて小牧まで来たことがある。
C−46というのは、飛行機とは言うものの、まるでトラックである。
それにこの飛行機は、昭和15,1940年に開発されたもので、私と同じ年である。
私の乗ったものも、初号機というわけではないので、必ずしも同年代とはいえないかもしれないが、それにしても良く飛んでいると思う。
YS−11はC−46に比べるとかなり快適である。
C−46は松島の上空を飛んでくれたので、松島を上から俯瞰して眺めることが出来た。
YS−11の思い出は、最後に乗ったときであるが、第5術科学校の学生を境港の第3分校に引率していった帰りであった。
美保の基地から小牧までのフライトであったが、美保を発つときかなり雨が降っており、風も出ていた。
これでも出発できるのかと心配していたが、わけなくテイクオフ。
鈴鹿山脈の上でタービランス(乱気流)のためかなり揺れたが、それを越したら小牧は快晴であった。
ハネムーンのフライトは夜でしたので、窓外の景色は見れなかったが、それでも快適な空の旅でした。
その時もハネムーンのカップルが4組ほどいたようで、機長がパンフレットにサインしてくれた。
札幌について、道庁の近くの私学会館に宿泊したわけであるが、ここは全くホテルと同じであった。
当時、札幌の町は名古屋と同程度に知り尽くしていたので、家内を連れまわしたが、どうもあまり北海道に感動したようには見えなかった。
道庁も、
二人のペアがいて、片一方が散りつくして片一方が全く未知だとすれば、これでもかこれでもかと知識を振り回せば片一方は面白くなかったかも知れず、かえって新鮮さが失われたのかもしれない。
しかし、私にとっては、誰もいない支笏湖と洞爺湖は素晴らしかった。
あの静かな湖面に、立ち枯れた木々を見て、神々の海を思い浮かべていた。
昭和新山の、ほかほかした大地のぬくもり、土の感触も楽しかった。
この時点においても、家内はいまだに独身貴族の残滓を引きずっていて、独身の続きのような気分でいたようだ。
家内は新婚当初、スーパーでの買いものも出来なかった。
当時、小牧駅前のユニーが小牧では唯一のスーパー・マーケットであったが、あのスタイルの店はこの地方では珍しく、スーパーの買い物から教えなければならなかった。
それまではデパートとか専門店でしか買い物をしたことがない独身貴族でしたので、こんな庶民的な買い物はしたことがなかったそうだ。
まあ家庭の環境を考えれば、無理もないかもしれない。
何しろ7人兄弟の一番下なので、買い物に行かされるとか、お使いに出されたことがない。自分で買うものは、自分のものしかなかったはずで、他のものはすべて兄弟の誰かがやってくれたようで、その上一番下の末子で、甘やかされ、我侭を言えば誰がそれを満たしてくれたにちがいない。
家内の母親が、私を前にして娘に「困ったことがあれば、いつでも帰ってきなさい」言っていたが、普通の親なら「一度嫁いだのだから、しっかり頑張りなさい」と言うのに、この家族は反対であった。
これも一種の娘を思う愛情には違いないが、これほど本音ではっきり言われると、かなり強烈に心に響く。
不思議なことに、そうした意味では、家内は一度も実家に帰っていない。
二入で大喧嘩して、私が「お前なんか実家に帰れ!」といっても帰らなかった。
不思議といえば不思議だ。
ハネムーンから帰って私は2、3日寝込んでしまった。
当直明けで、結婚式からハネムーンと旅立ち、その疲れが出たのは明らかだ。
ミニカの購入
こんな調子で我々の新婚生活は始まったが、その翌年の春には自動車を買った。
最初は、中古車でもいいつもりでしたが、家内が「新車でなければだめだ」というので、ミニカ70を従業員販売で購入することになった。
このミニカ70は、その後大いに活躍することとなった。
家内を病院に運んだり、子供が病気になったときなど本当に助かった。
やはり車というものは重宝である。
このミニカ70は、空冷2気筒、360ccでしたが70年代になってスタイルが良くなった。
それまでのミニカはスタイルの点でどうしても買う気になれなかったが、70が出現して購買欲が注がれた。
この時、ミニカには空冷と水冷の2種類のエンジンが用意されていた。
水冷は新開発されたものでしたが、空冷は旧型のものが流用されていた。
しかし、この旧型を選択したことは正解であった。
旧型のミニカはスタイルは悪かったが、エンジンの実績には手堅いものがあった。
結局、手放すまでノートラブルで6万キロ近く走り続けてくれた。
ミニカ70を購入した頃、家内が身籠ったので、病院への送り迎えは、このミニカ70が活躍した。
子供たちの誕生
やがて8月になると長男の出産ということになったが、よくよく考えてみると、大体、ハネムーン・ベイビイに近いことになった。
妊娠中は小牧市民病院にかかっていたが、いざ出産というときになって、当直が産婦人科の医師でないということがわかると、家内は急に病院を変えてしまった。
こういう点が、我侭とも取れるし、良い意味では、慎重とも取れる。
結局、岩倉の大野産婦人科の医院で出産ということになった。
出産の間際までは妻の傍にいたが、いざ出産という段階になったら、逃げ出したいような気持になった。
最近は、夫が妻の出産に立ち会うという傾向らしいが、それにはついていけない。
大体、血を見るのが嫌だし、やはり出産という神秘性を残しておきたい気持ちもある。
最近はテレビ等で家畜や野生動物の出産シーンの放送があるが、科学としては許されるかもしれないが、やはり生命の誕生ということは、ある程度の神秘性を残しておいた方が、人間的のような気がしてならない。
生命の誕生には、ちょっとした神秘性を残しておいた方が自然のような気がしてならない。出産シーンを、明るいところで、あまりにも赤裸々に見せられると、どうも人間の尊厳とか、知性の威厳が損なわれるような気がしてならない。
青春時代に、エロ本から、バンデベルデの「完全なる結婚」から、謝国権の「性生活の知恵」まで、本で好奇心を満たしたものであるが、自分の子孫が新たに誕生するとなると、そういう下卑で邪悪な好奇心は消し飛んでしまった。
ただただ自然界の造物主の命に従うほかない、という敬虔な気持ちにならざるを得ない。自分の一滴が、新しい生命の誕生になる、ということは神秘としか言いようがない。
実に不思議で不可解で仕方がない。
家内が出産する直前まで、そばにいたが、いよいよとなったらその場から逃げ出したい気持ちになったのは事実である。
何か恐ろしいような、神々しいような気持になった。
そして出産後、初めて自分の赤ん坊を見たときも、不思議な気持ちがした。
けれども、まず第一に5体が満足かどうか気になって、赤ん坊の両手両足を確認した。
両手両足が無事だとわかって、始めてしみじみと自分の子供を眺めたが、まるで猿と同じだなあと思った。
真っ赤な顔で、皺くちゃで、小さな手を握り締め、猿の手と同じだなあと思ったものだ。人間はやはり猿から進化したのか、と変な納得をしたりしていた。しかし、嬉しかった。わけもなく嬉しかった。
この時点では、まだ人の親になったという実感はわいてこなかったが、それは家に帰って、台所でプラスチックの産湯用の風呂で入浴をさせる頃になって、始めて「俺も人の親になったのだなあ」と思うようになった。
この産湯のやりかたも、私が家内に教えた。
左手で頭を抱え、指で耳に水が入らないようにして、右手のガーゼで体を洗うということを、自然に身についたようにスムースに行うことが出来た。
そして、名前をつけなければならなったが、こうしたことでは私は迷信を信じないほうで、長男の名前が「渡」で良かったのかどうか、いまだに判らないが、ただ単純に、誰でも読めるようにと言うことだけは留意した。
姓が長谷川ということもあり、長い谷川を渡れば、そこに別の世界を発見できるのではなかろうか、という単純な発想で命名したのみである。
字も一番わかりやすく、無理なく読めるようにと、当用漢字の中から選び、「長谷川渡」とした。
この命名には、特に強い願望も、期待も、何も入ってなく、極自然にという考えで、一人の人間として意義のある生涯を送ってもらえば、それだけで十分であると、という考え方によっている。
特別に偉くなる必要もなければ、人に迷惑をかけるようなことをしなければ、川の流れのように、素直に人生を送ってくれれば、それだけで十分であるという発想に基づいている。
岩倉の大野産婦人科には、その後一年ぐらいアフターケアーでよく通った。
その度に、ミニカ70をポンポンと走らせたものだ。
長男の出産というと、世間では一族郎党を上げて大騒ぎするようなことを耳にするが、我々は二人だけでなんとなくこなしてしまった。
私の父も初孫という事で、家内がまだ入院中に一度は見舞いに来たが、柏森のお母さんもやはり一度見舞いに来たが、その程度で、すべて二人だけでなんとなくこなしてしまった。
考えてみれば、自然界ではそれが自然の姿なので、そうたいして威張ることもないが、その3年後に長女の誕生のときは、義姉に世話にならざるを得なかった。
私が、夜、家に帰れない仕事であったので、どうしても乳飲み子の長男の世話を見てもらう必要があって、この義姉さんに大変世話になった。
この時ばかりは有り難かった。
長女の誕生のときも、全く長男のときと同様であった。
ただ違っていたのは、最初から大野産婦人科にかかっていたので、途中から病院を変更することがなかった。
最初が男でしたので、次も男だとすると、家の中が騒々しくなるなあと心配していたら、女の子であったので、シメタ!と思ったものだ。
一姫二太郎という言葉があるが、最初から3人目の子供は予定していなかったので、これでOKという気がした。
人からは、子供を作るのが上手だと、変な誉められ方をしたものである。
命名にあたっては、やはり川にちなんだものを考えていたが、最初、その頃朝のテレビドラマで「鮎子ひとり」というのを放送していたので、「鮎子」にしようと思ったが、鮎というのは水からあげるとすぐ死んでしまう魚なので、なんとなく短命なような気がして、躊躇した。
川の中を華麗に泳ぐ姿は好きであるが、鮎の字を生のまま使ってはまずいのではないかと、イメージのみ拝借して、字の方は当用漢字の中から、わかりやすく、読み間違わない字を組み合わせてみた。
それで出来上がったのが「亜由子」である。
渡も亜由子も、ありそうな気がするが、なかなかない名前ではないかと自画自賛している。出産計画は、きちんとタイム・テーブルを作って、そのとおりに実行するというものではなかったが、大体、イメージに沿った線で2児を設けることが出来た。
これも田県神社のお陰ではないかと、その前を通るたびに心の中で感謝している。
子供の幼少の頃の思い出
ある時、長男を幼児用の乳母車に入れて、北外山の家から町屋まで家族そろって散歩に出掛けたことがある。
家内が第2子を身篭っていたときでしたので、昭和48年の春のことだと思うが、春の日差しに誘われて、散歩に出た帰り、町屋の旧道を歩いていると、丁度、家の新築工事に出くわした。
本家普請の様子で、餅投げをするような雰囲気であったので、餅投げに飛び入り参加することにした。
近所の人が大勢集まってきて、人だかりがしていたので、これはすぐにでも始まると思ったら、案の定すぐ餅が投げられた。
家内は、餅投げなど、今までに一度も見たことがないし、身篭っていたので、物陰に避難させておいて、私が人ごみに入って餅を拾うことにした。
餅投げというのは群集が血眼になるので危険である。
それで母と子を避難させたことは良かったし、私も5つ6つ拾うことが出来た。
家内を避難させた軒下にも、一個転がってきた、といって嬉しそうに持っていた。
その日の散歩は思いがけないお土産を拾ったわけであるが、家内にとっては、餅投げというものがどうも理解しがたい事のようだ。
名古屋の真ん中に育ったものにとっては、田舎の風習というものが奇異に映ったのかもしれない。
最初のうち、餅投げの餅など汚くて食べられない、といっていたが、これは縁起物だといって納得させた。
その後、会社で、この餅投げの話をしたところ、餅投げの餅を拾うと、やがて自分も家が建てられると教えられたが、不思議なことにその通りとなった。
世の中には沢山の迷信があるが、自分に都合のいい迷信のみは信ずることにした。
今の家を建てて以来、時々その時の餅投げの情景が浮かんでくる。
我々が結婚した翌年、昭和45年、大阪で万国博覧会が開催された。
これは先の東京オリンピックに対抗しうる関西地方のビッグ・イベントでした。
これには会社の施設を利用して見学に出掛けた。
家内は既に身篭っていたので、博覧会そのものは充分見ることは出来なかったが、それでもビッグ・イベントの雰囲気を堪能することは出来た。
この時は、会社の施設で、京都の鴨川荘に宿泊して、そこから電車で出掛けた。
鴨川荘までミニカ70で出掛け、翌日会場に出掛けたが、私は行列で待つことが嫌いで、有名なパビリオンは2時間も3時間も並ばねばならないので、並ばなくても入れるところしか見れなかった。
ということは、人気のないところしか見てこれなかった、ということである。
しかし、世界万国博覧会というだけあって大規模なものだった。
それに見物に来ている人たちも大変なものであった。
この博覧会に直接関係はないが、このEXPO70を記念してサントリーが特別なウイスキーを発売した。
中身はオールドであったが、ビンに趣向を凝らした限定販売のものであった。
家内が買っておいてくれたので、その化粧箱の蓋に「渡が20歳になったら!」と書いて、大事に保管しておいた。
それで平成2年9月に長男が大学の友人を連れてきたときに、そのウイスキーで歓迎してやろうと思い、食事のとき、皆の前で封を切ることになった。
しかし、ビンを立てて保管していたので、コルクの部分が乾燥してしまい、蓋を開ける際、折れてしまった。
それをコルク抜きで抜こうとしたら、逆にコルクが中に落ちてしまい、折角今まで大事に保存しておいたものが全く格好つかなくなってしまった。
中身に変わりはないとは言うものの、演出が台無しになってしまった。
こうした記念のウイスキーはまだ2、3本あるが、これらは今後、自分一人で平らげることにした。
子供を、中2年、3つ違いで授けられたことは、自分では幸運で、うまくいったと思っている。
ところが人によっては「進学のとき、ダブルので苦しいよ」といわれたこともある。
しかし、子供が小さいうちは、どうしても上の子にウエイトが偏ってしまい、下の子は母親任せになってしまう傾向があった。
上の子を引っ張り出して散歩に行こうとしても、下の子は乳飲み子で一種にいけないというわけで、最初のうちはどうしてもそうなりがちであった。
それも極短い期間で、下の子が一人で行動できるようになれば、それからは家族4人で行動を共にすることが多かった。
特に、上の子が男の子であったので、男親としてはどうしても上の子にウエイトが重くなった。
又、男の子と女の子の性質の違いか、ただ単なる個人差の所為かわからないが、長男はどんぐり拾いとか、魚とりとか、野外の遊びが好きだったし、よく興味も示した。
長女は、そうしたものにさほど興味を示さなかったような気がする。
どんぐり拾いといえば、息子をつれてどんぐりのありそうなところによく連れて行ったものだ。
その時は娘も同じようについてきた。
なにしろ車での行動でしたので、家族で行動するときには全く便利であった。
どんぐり拾いで森林公園に行ったり、列車が見たいといえば、神領の操車場や、稲沢の操車場に連れて行ったものだ。
一度など、ザリガニ採りに三菱の小牧南工場の南側の側溝まで息子を連れて行ったが、それを同僚が見ていて、10年近く経ってから「お前は子煩悩だ!」と言うので「どうしてそんなことを言うのだ!」と聞き返したところ、子供をつれてザリガニを採っているのを見たというので、返す言葉もなかったことがある。
小学生になると、息子が海洋少年団に入団して、体験航海で船に乗る機会があったが、このときも他人に見られて、10年近くたってから、その本人からその時の話を聞かされて驚いたことがある。
又、魚とりといえば、入鹿池から木曽川、海部郡のため池、日新町の農業用のため池まで随分付き合ってやったものだ。
ある時、息子が病気になって、病み上がりにもかかわらず、「魚が採りたい」と言い出して、雨の中を背中におんぶして、前の大山川に釣りに出掛け、東海ゴムの横で釣っていたら、10分もしないうちに大きな鮒がつれたので、これで納得させて帰ったことがある。
自分でもつくづく親馬鹿だなあと思ったが、自分もきっとこういうことをしてもらったに違いないと思ったりしたものだ。
息子には水泳を教えなければ、と思っていたので、瑞穂プールまで通ったこともある。
その後、平安通りのスイミング・スクールに変わったが、こうしたことでは娘も全く長男と同様の扱いをした。
あのミニカ70で、息子や娘を連れてスキーにも行った。
今思うと、息子にも娘にも、随分小さいときから水泳、ピアノ、スキーと金を掛けたものだ。
しかし、これらは無駄にはなっていないようだ。
これがあったので、小学校、中学校を通じ、コンプレックスを持たずに成長できたのではないかと思う。
ザリガニといえばそちらに走り、機関車といえば、又そちらに走り、子供の要求するものはすべて満たしてやったような気がする。
これは、家内もそうであるが、私も、子供が興味を持ったものは、興味の尽きるまで、十分やらせてみたいという方針であった。
それと、それが出来た環境も揃っていた。
というのは、家内の兄さんで、私からは義兄、子供たちからは伯父さんに当る悟さんや誠さんがいたので、特に魚つりには大いに援助していただいたからである。
悟さんには特別に魚つりでお世話になった。
悟さんには、名古屋港、伊良湖、北陸の敦賀など、家族ぐるみで世話になった。
悟さんは、自分の二人の娘と、私たちの二人の子供にとって、本当にいい経験をさせてくれた。
なんといっても義兄さんのボートはすばらしかった。
ある時、敦賀の海に行く約束をして、関が原インターで朝6時に待ち合わせをしたところ、目が覚めたときが約束の6時で、家族全員大急ぎで支度をして、すぐ出発して我が家から関が原インターまで1時間でたどり着き、それでも1時間の遅刻でしたので、多分待ってもらえないと思っていたところ、待っていてくれたことがあった。
あの時は誠に申し訳なかった。
それで車2台で現地に着き、ボートを下ろして組み立てて海に出たところ、ボルボの船外機のエンジンが掛からず、義兄がプラグを取りに行っている間に、私がイグニッションをいじったところ、始動してしまった。
始動したはいいが、その後どうしていいか分からず、アイドリングでエンストさせないようにしていたことがあった。
このエンジンはボルボのエンジンで、パワーがあったので、走らせると舳先が上がってしまって波の頭を叩きつけるように進んでいった。
この時はキスを釣った。
釣りの成績はともかく、こうした体験をさせたやれたことが有り難くうれしかった。
スキーに行ったときも悟兄さんにはいろいろ世話になった。
スキーの道具からスキー・ウエアーまで、すべて悟家のお下がりを借りることが出来たので、その分経費の節減が出来た。この時も有り難かった。
魚つりは、息子が小学校に上がる前から、中学校を出るまで続いたが、その他のものは比較的簡単に飽きたようだ。
まだミニカ70に乗っていたときでしたが、正月の2日目ぐらいに、息子が列車を見たいというので、神領の駅に行こうとしたとき、丁度その手前の踏み切りまで来たとき、チンチンと列車が近づいてくる踏切に鐘が鳴り出した。
それで息子があわてて車から降りようとして、車内で転んで、車のステップの部分に頭をぶっつけ、額の部分に裂傷が出来た。
血が噴出して私もいささか狼狽した。
が、とにかく、医者に連れて行かねばと思って、其の場からUターンして、医者を探しながら戻る途中、中村外科という看板を見つけ、まっすぐにそこに飛び込むつもりでたどり着いた。
先生は、正月休みなので、ラフなスタイルで庭先でゴルフのパターの練習をしていた。
私が、頭から血を出した子供を抱えて、真剣に頼み込んだものだから、本当ならば断りたいところだったろうけれども、そのままの格好で怪我の処置をしてくれた。
私は本当に有り難く思い、頭を深く下げてお礼を言っておいたが、こんな時、本当にウイスキーの一本も届けなければならないような気持ちになった。
しかし、時が経つと、医者ならば血を見るのは慣れているし、先方にとっては特別なことをしたわけではない、と思うようになって、結局は、そのウイスキーは私本人が飲んでしまう形になり、医者には持っていかずじまいに終わってしまった。
しかし、あの時は心底狼狽した。
あの時のミニカ70は、エンジンの調子もよく、何の不足もなかったが、どうも血を見たということが気になって、その後半年ぐらいで車を買い換えるきっかけになった。
何となく、血を見た車に乗り続けると、その後にもっと大きな交通事故にでも会うような気がしてならなった。
ミニカ70も、その後のギャランFTOも、比較的安泰に乗り続けることが出来たのも、タイミングよく乗り換えてきた所為かもしれない。
運命論者のような感じだが、二人の子供を見ていると、同じような自分の子供でも、やはり多少性格的に違うところがある。
男の子よりも、女の子の方が育てにくいということを聞くが、我が家でも思い当たる節がある。
どうも長男のほうが素直で、娘のほうが我が強く、言うことを聞かない。
長男の方は、言って聞かせれば納得するが、娘の方は言って聞かせてもなかなか言うことを聞かず、頑固である。
一度、車で走っている途中で、娘が言うことを聞かないので、車を止めて平手でたたいたことがあるが、娘と対立すると、こちらも真剣になって腹が立って来ることがあった。
本気になって喧嘩してしまうことがある。これが小学校に上がる前の子供である。
そういった面で、女の子の方が確かに育てにくいのかなあと思うことがある。
今でも時々そう思うことがある。
親に甘えているのか、それとも親を舐めているのか、その辺がはっきり掴めきれないが、親の言うことを素直に聞き入れないという面がある。
しかし、親というのは不思議なもので、こちらがいくら真剣に腹を立てても、すぐにそんなことを忘れてしまう。
それ以外のときは本当に可愛いと思う。このあたりが親馬鹿といわれる所以であろう。
自分の娘を自慢するほど馬鹿げたことはないかもしれないが、ついつい自分でも知らないうちにそうなっている。
文字通り我田引水である。
長男は小学校のときは水泳、中学校のときはハンドボール、高校はボートと、スポーツは一応クラブ活動でこなしてきたが、いづれもその世代ではハードな上、マイナーなものを選択してきているので、親として頼もしく思ったものだ。
私自身、中学のとき柔道を選択したが、息子のように人並みについていくことが出来なかった。
その点、息子は私よりも偉いところがあると感心した。
小学校の水泳では、どんな暑い日でも練習に出掛け、ハンドボールのときも、ボートの時も、人並みについていくという点では良く頑張ったと思う。
だが親が親ですので、特別に運動神経が優れているわけではなく、レギュラー選手になることはなかったようだ。
それでもスポーツを人並みにこなしてくれた、ということだけで私としては嬉しい。
娘の方はこうした選択を始めからしない。何かに熱中するということがない。
いつも独立独歩、人と少し間隔をあけておくタイプである。
人のものをほしがることもなければ、容易に人と同調することもなさそうで、常に自分のやりたいことをやり、人から強制されたり、自分のしたくないことはしない、という態度であった。
だからクラブ活動も積極的ではなかった。
けれども、学校では先生の話をよく聞いているようだ。
子供を育てるということ
子供の養育ということは、難しいといえば難しい。
なかなか自分の思ったとおりにはなってくれない。
その反面「親はなくとも子は育つ」とも言われ、放っておいても成長するものである。
この相反する見方は、親の考え方次第のようだ。
ただ、子供が「何かをやりたい」と言ったとき、それをバックアップしてやる必要はあるだろうと思う。
その前に「何かをやりたい」と思わせることが大事だろうと思う。
「やりたい」と言い出したときは、子供の心の中に、既に好奇心が芽生えている証拠であるので、この好奇心の芽を少しでも延ばしてやろうとする親のほうの思いやり、配慮というものが大事だと思う。
子供は単純、無辜である。
幼児期においてはまだ何も悪いことは知っていない。
大人に見られるように、損得勘定、利害得失というものを抜きに、ただ単純にストレートにものを見ているので、この幼児期に興味を示したことに、親が力添えをすることは、人間形成に非常に大事なことではないかと思う。
ただこのときの子供の概念が、そのまま子供の成長とともに、色褪せず持続するかといえば、そうとは限らない。
当然、子供自身が成長すれば、子供の考えも変わるのが正常な心身の発展過程だと思う。子供の好奇心を親の目で見た判断に基づいて、すべて押しつぶし、何一つ聞き入れずにおけば、その子はいづれ好奇心を示さなくなるのではないかと思う。
そういう意味で、私は息子にも娘にも、好奇心を持ったことには大いに協力してやったつもりである。
そしてもう少し成長した頃になると、今度は、親のレールの上に、子供の好奇心を乗せるように仕向けた。
それが水泳教室であり、スキーであり、ピアノであった。
これも大体は成功した部類に入るのではないかと思っている。
ピアノなどは私よりも家内が熱心であったが、最初からピアニストにしようという高望みはしていなかった。
ほどほどに、教養の一部としてマスターしておけば良い、というイージーな気持ちでしたが、やはり持続させるためには、規則正しくということが大事だと実感している。
子供にとっては遊びたい盛りであるので、親はイージーな気持であっても、規則正しく通わせると言うことは、又違った努力が必要とされる。
ピアノに関しては、息子は中学を終えた時点で止めたけれど、彼もこれから先、自分からピアノの前に座りたくなるときが将来きっとあるのではないかと思っている。
その時は、自分の幼児体験を再度呼び覚ませばいいのであって、それは本人の選択である。娘の方は高校に通うようになっても続けているが、不思議なもので、日頃は練習していないのに、時々思い返したように練習しているときがある。
やはり自然とピアノに向かいたいときがあるようだ。それが親の狙いでもあった。
世の中には、子供を自分の思うとおりに育てたいと思っている親が多いが、子供も小学生ぐらいになると、立派な人間で、自己主張してくる。
形は小さいが、成長とともに大人のミニチャーになってくる。
当然の成り行きといってしまえばそれまでであるが、形ばかりでなく、精神面でもだんだんと大人に近づいてくる。
だから子供の好奇心と、親の願望をどのようにバランスさせるのか、親の側で考えなければならない。
子供の言いなりに、何でもかんでも与えていけないということもあるし、それかといって、子供の好奇心を全部無視するようなこともだめで、このバランスが難しい。
幸い我が家では、子供が心身ともに健やかに育ってくれたが、これもすべて神様の思し召しとしか言いようがない。
我々夫婦が努力したといっても、万全ではなかった筈だし、自分が育てられたときのことを振り返ってみても、どうも自分の親が私にしてくれた以上のことは出来ていない気がする。
私の父親は、私以上に努力もし、苦労も重ねたが、最初から採用した方針が違っていた。私は、自分の子供に対して親父以上の努力、苦労はしていないが、最初から採用した方針がよかった。
そのため、結果としてうまく行ったようだ。
しかし、子供というものは、親の後姿というものを、本人も意識しないうちに見ているものである。
私も親父の後姿を見て、つくづく親父も「苦労したなあ!」と思ったことがある。
今でも「苦労かけたなあ!」と思っている。
息子も娘も、きっとそう思ってくれる時期が来るのではないかと思う。
父が一生懸命、文集を作ったり、老いてからは論文めいたものを作って、人に押し付けて迷惑がられているが、それと同じことを今自分がやろうとしている。
若い頃、親父のやっているのを見て、「なんと馬鹿なことをするのか」と思っていたが、それと全く同じことをしている自分を見つめなおすと、なんとも不思議な気がする。
親子とは実に変なところが似るものである。
家を作ったこと。
家を建てたときの状況も、親父と私はよく似た状況の中で建てたものだ。
親父も、私がまだ高校に通っている時代に、昭和30年、1955年頃までは、自分で家を建てる気などなかったみたいだ。
それが何のきっかけか知らないが、(多分、伊勢湾台風ではないかと思う)急に家を建てると言い出して、それらアルバイトにもより一層一生懸命になり、最終的には北外山川向
3773に家を建てた。
完成したのは私が高校を卒業した後なので、昭和35年、1960年だったと思う。
当時の最新のプレハブ建築であった。
家のスタイルもモダンなものであった。
あの時代に、あの家を選択したということは、親父の心の中には、相当新しいもの好きの傾向があったに違いない。
あの時点で、家を建てるといえば、常識的には木造の日本家屋である。
その中で、デビューしたばかりのプレハブ建築のモダンな家を選択したということは、親父の世代としては画期的なことだろうと思う。
後年、あの家の内装には私が決定的な判断を下して、「お前が言ったのでそうした」といっていたが、今思い返しえみると思い当たる節がある。
なんといっても経年変化は免れないので、時代を経たということを考慮に入れても、悪くない選択だったと思う。
私も昭和59年、1984年に家を建てたが、私は父と違って、家を建てる時期は決まっていなかったが、自分で家を作ろうという気持ちはあったので、きわめて計画的であった。しかし、父の場合は、こういう計画が家を建てる直前までなかったみたいだ。
というのも、若い頃の父は、「俺が死んでも灰を大山側に流してくれればいい」といっていた。
だから小牧の中町の家にずっと居るつもりのようなことを言っていた。
それと、死んだ母の病気や、私の学資などで、計画的に家を作るための資金を貯えることが出来なかったと思う。
が、私の場合は、父に較べればその点数倍も恵まれていた。
けれども、私も父も、家に対して、何が何でも作らねばという意気込みはもっていなかった。
それでもこうして家を作ることが出来た。
私は、資金面においては、家内の協力を得て、結婚と同時に会社で積み立てを行っていた。これには家内の強い要望があったのと同時に、私もこうしなければと思っていたので、途中、子供に金が掛かって中断した時期もあったが、それでも継続し続けた。
これには優遇措置があったので、建築資金の1/3にはなった。
家の選択においては、私は従来の日本家屋ははじめから眼中になかった。
素材が木であるというところがどうにも気に入らなかった。
日本古来の重要文化財が、木造のままで何百年も建っているので、木に対してもっと理解があってもよさそうに思うが、あの建築物というのは、本当に良い材料を吟味して丹念に加工して贅を尽くして立てられている。
ところが我々庶民においては、木造であの当時と同じような良質な木と加工が得られないという点で、木造建築には今ひとつ信頼が置けなかった。
加工という意味は、木を十分に乾燥させられない、という時間の節約という意味である。コンクリートというのは、日本の一般の人にはまだ嫌悪感が残っているが、私は現在の科学技術というものを信用している。
特に、建築に対するコンクリートというものは、耐久性において木造よりも勝っていると思う。
これは経費の面で、同じ金額ならば、コンクリートのほうが耐久性の優れたものが出来るという意味で、コンクリート礼賛ではない。
本質的には、日本の風土には日本建築のほうがベターだとは思っている。
しかし、我々サラリーマンが限られた予算の中で、より耐久性のある家ということになれば、コンクリートのほうが有利だと判断した結果である。
家を建てる前には展示会場を何度も見ておいたが、最終的には一番近くの春日井の展示会場に展示してあった日本国土ピーコンの物に落ち着いた。
このメーカーのものが一番素材がしっかりしていたからである。
コンクリートの厚さ、鉄筋の太さ、鉄筋の張り具合、が一番丈夫そうでしたので、このメーカーに決定した。
大きさも、子供の成長のことも考慮に入れて、将来的なことも考え、必要かつ十分、ミニマムのものを選択、床面積が一番小さく、容量の大きい総2階にしたのも、私の合理主義のなせる業である。
虚飾は一切無視した。
無駄のない、生活に最低限必要なスペースの確保という点に重点を置いた。
そして、オプションは一切せず、これを出すと際限がない。
そして大阪の実物の展示を見に行って、展示用のものと全く同一のものに決定した。
だから、今思うと、素材の丈夫さということに気を取られて、壁の厚さなど、丈夫すぎるのではないかとさえ思う。
壁の部分のみ薄くしたメーカーもあったが、まあ丈夫すぎることに越したことはない、と思っている。
しかし、展示用と同一にしたという選択は、悪くなかったと思っている。
というのも、展示用のものは皆に好い所を見せようと、企業の一番良い部分を前面に出しているので、その通りにしておけば間違いない、という判断である。
ただキッチンのみは、家内がいろいろと注文をつけたので、彼女好みのものに仕上がっている。
他の部分は展示用のものと同一である。
結果的にはこれで良かったと思っている。
人はなかなか展示用と同一ということに納得がいかないようである。
それでいろいろと注文を付けたがるのが人情で、そこに盲点があり、かえって個性が実現できずにいる。
個性というのは、所詮、選択の問題で、何を選択するかが、その人の個性である。
よってオプションも付けず、モデル・ルームと同一であるので、コスト面でも誤魔化しが効かず、やすく仕上がっているのではないかと思う。
我々の世代において、コンクリートの家で、キッチンには赤がいっぱい使ってあり、押入れの襖は橙色などという家は、ついていけない人が多いと思うが、我々はこれで十分満足している。
その後、我が家の周囲でも2、3軒家が建ったがすべて木造建築である。
やはり、日本人はマンションのようなコンクリートの家には嫌悪感を拭い切れずにいるのだなあ、と思って見ている。
家というのは、所詮、器である。
コンクリートの家は、日本のような湿気の多いところでは向かない、という考えがあるが、いまやエアコンの発達で、その辺りの技術には信頼を置いてもいい。
エアコンを使えばエネルギーの面でマイナスという考え方も理解できるが、エアコンというのは4,6時中まわしているものではない。
木造住宅でも、いまやエアコンが必須条件であるが、湿気を吸い込む木造住宅で、エアコンを使えば、木を使った意義が半減してしまう。
木造にこだわる人は、エネルギーのことや日本の風土のことなどを考えて選択したわけではない。
ただ家は木造に限るという固定観念から脱却できないでいるだけである。
大型消防車
昭和44年、1969年に三菱に入社して、1週間ぐらい大江の名古屋航空機製作所に通った。
当時は、自衛隊を除隊して家内と婚約はしていたものの独身で車もなかったので、岩倉経由で大江に通った。
あの頃、保安の事務所は、あの大江の交差点の角にあって、木造のバラックであった。
あのバラックの東側に仮眠所があって、擦り切れた畳が敷いてあり、押入れから布団がはみ出ていた。
導入教育はその二階で行われたが、文字通りバラック建てのため、トラックが通るたびにがたがたゆれていた。いつも震度2の地震のようだった。
小牧南に配属されても、保安の事務所は同じようなバラックではあったが、大きなトラックが通るようなことはなかったので、その点はよかった。
が、如何せん、大江に比べて出先であったので建物自体が小振りであった。
仮眠するときなど、人の頭を跨いでいかなければならなった。
この点、自衛隊のほうがよほど人間的な住環境であった。
民間企業は、一昔前のタコ部屋と同様の扱いであった。
上下2段になっているとはいえ、布団と布団がくっついているよりもよほど人間的である。けれども、この南工場には大きな消防車が2台も配置されていた。
私の車の免許は普通車でしたので、これでは大型の免許を取らなければならないのか、と思っていたら、「構内を走るだけだから強いてとる必要はない」ということで、結局、取らずじまいで終わったが、あの時取っておけばよかったのではないかと反省している。
けれども、あの大型消防車の運転の練習はした。
私よりも少し前に入社した川俣という人は、元トラックの運転手をしていたという経歴の持ち主で、丁寧に教えてくれた。
何しろあの車は水を2トンも積み、その上粉末消化剤、泡消化剤と、その他いろいろな備品を積載していたので、自重が重く、当時においては名古屋市の公設の消防車でも持っていない様な立派な消防車であった。
私が入社した時点でも、かなり年代を経てきているように感じがしたが、それでも公設の消防には一歩も引けをとらない立派なものでした。
それが2台も揃っていたので流石に三菱だなあと、その時は思ったものだ。
あれを導入した当初の人は、どういう考えを持っていたか知らないが、かなり先駆的な考えを持っていたに違いない。
航空機産業において、自衛隊の航空機、および民間機、または社有機を抱えている三菱においては、当然、あの程度の消防車は必要である。
しかし、その後何年も経たないうちに、航空救難という認識のない人間が、中間管理職になってきて、その意義を理解出来ず,メンテナンスも疎かになり、とうとう更新の時期にワンサイズ、スケール・ダウンしてしまった。
新しく導入された消防車のことはよくわからないが、(他の工場に配属されていたため)、あらゆる面で合理化されているとは言うものの、サイズが小さくなってしまった。
何でも大きいばかりが取り柄ではないが、小さくても機能が向上していれば、それで十分とは言うものの、あの大きな消防車を懐かしく思う。
我々のように、航空自衛隊の出身者ならば、航空救難ということが、飛行機のメーカーにとっても無関心ではいられないと思うけれど、そういうことに関心のない上司が来ると、いつ来るかわからない航空救難に、時間と金を費やすことが無駄に見えるものらしい。
千歳や、小松や、新田原で、領空侵犯措置に対処している実働部隊の実態を知らない者に、いくら説明しても理解が得られない。
航空機産業に携わっていながら、そうしたことがさっぱり判っていない人があまりにも多い。
三菱に何十年と勤めて、自分の領域のことは精通しているかもしれないが、最近の航空戦のこと、航空管制のこと、領空、領海の事などさっぱり理解されていない。
めいめいが、自分の領域だけのことだけしか知らないので、盲人が像を撫ぜているようなものだ。
だから保安でも、航空救難について全く関心がない人が、仕事上の実権を握るようなことがおきる。
あの消防車は自重が重く、必ずダブル・クラッチでなければ発進できなかった。
川俣氏は、懇切丁寧に、傍について教えてくれたので、すぐにその感触をつかむことが出来たが、人間チャンスは逃がさず、教えてくれる人がいるときは、何でも教わっておくべきである。
その後、各工場に転勤になっても、どこの消防車でも、このダブル・クラッチで発進するテクニックは役立った。
今時の車は、クラッチをダブルで踏まなくても発進はするけれど、このテクニックは大型車を運転するときには必ず有用な技術である。
南工場の広いエプロンで、自由自在に大型車を運転できたことは、やはり何時かは役に立っていた。
安保闘争
丁度、この頃、70年安保闘争の華やかりし頃で、よく特別警戒が実施された。
過激派の活動も活発で、工場警備も何かと余分な仕事が多くなった。
当直を終えてそのまま残業になったり、夕方から出勤して、翌日そのまま当直に入ったりしたものである。
夕方から出勤するというときは、結果的に、3晩も家を空けることになるので、家内もさぞかし寂しかったろうと想像する、
新婚間もない我々でしたので、全く恨めしく思ったものだ。
だが仕事ならば致し方なかった。
そんな時は、南工場の南西角にある柔道場が仮眠所となった。
工場の南西角に、高見張りと称して、火の見やぐらのような望楼があり、柔道場はその下にあった。
木造平屋建ての汚い建物であった。
そこに布団を持ち込んで、仮眠するわけであるが、こんなときは誰ともなくアルコールを持ち込んで、それを車座になって飲むわけであるが、こんなことがなんともに楽しかった。3日間も拘束されるので、こうでもしなければ過ごせなかった。
勤務中に酒を飲むなど、部外者が見たらびっくりするようなことであろうが、大の大人が夜中に狩り出されて、工場周辺をぐるぐるパトロールさせられて、汚い柔道場で寝なければならないとなれば、この程度のことは許されても仕方がない。
それである時、家内が重箱におせち料理のように綺麗にご馳走を作って、持たせてくれたことがある。
それを、その日の警戒勤務が終わって、さあ寝るというときに出したら、諸先輩が偉く感激してくれたことがある。
あの頃は、仕事もきつかったが、先輩とのつながりも暖かいものがあった。
厳しい中にもおおらかさとユーモアがあった。
正確な日時は覚えがないが、あるとき三菱に対する抗議団が南工場の正門に押し寄せてきたことがあった。
事前に情報が入っていたので、我々はそれぞれのポジションについたが、私はその正門に配置された。
通常は2名で配置についているのに、このときは5名が配置についた。
そして正門の門扉は閉めておいたが、当時の課長というのが臆病というか、こうした体験がないから仕方がないかもしれないが、物陰に隠れて、正門の様子を伺いながら指示を出していたので実に可笑しかった。
私は自衛隊除隊の前に、こうした状況を体験しているので、心の中の動揺というものはなかったが、保安担当のトップが、鬼ごっこのように、物陰に隠れてしまっては情けない話である。
責任者であるならば、正面に出て、堂々と対応すべきである。
「抗議文は受け取れない」と、同じことを繰り返していれば済むことである。
「入ってはいけない」と、繰り返していれば済むことである。
多少は時間が掛かっても、相手はどうせこちらに迷惑を掛けるためにやっているのだから、こちらもそれを正面から受け止めて、堂々としていればいい。
物影から指揮を執ることはない。
このあたりが軍隊の経験のあるものとないものの違いである。
痔で入院
会社で、保安の生活にもおいおい慣れ、上司のやり方に不満をつのらせ、自分のほうもいくらか我を張ることが出来るようになった頃、ある時、会社の保養施設の木曽川荘で、一泊の行楽行事が行われた。
そしてその頃どういうわけか班内でマージャンが流行りだして、その行事のときも夕食後、2グループに分かれて一軍と二軍に分かれ、それぞれにマージャンが始まった。
私はマージャンがあまり好きではないので、いつまで経っても二軍のままでしたが、それでもメンバーに引っ張り出されてやっていた。
あの時は木曽川荘の娯楽室で、椅子に座ってやっていた。
そして、「お尻の辺りがどうもぬるぬるするなあ」と思って手を当てたら、べっとりと血がついてきた。
これは大変だと思って、すぐ幹事に言って、泊まるつもりのものを急遽家に帰ってきた。丁度、犬山橋の当たりで時計を見たら12時だった。まだミニカ70に乗っていた頃だ。
そして翌日すぐに名市大病院の南にある野垣病院に駆け込んだ。
翌日すぐに飛んで行ったところをみると、休みを取っていたのかもしれない。
それで「痔だ!」ということは、手を当てたときすぐにわかった。
痔が悪いということは、以前から知ってはいたが、病気が病気で、恥ずかしくて医者に行くのを渋っていたに過ぎない。
痔ということはわかっていたが、もうこうなっては恥も外聞もない。
自分でも、いよいよ医者に行かなければと観念して、野垣病院に走ったわけであるが、ここに来ると、痔の人ばかりで、世の中にこんなに大勢、自分と同じ病気の人がいるものかと、驚きもし、安心もした。
医者は一目見るなり「これは手術だなあ!」と言い、「入院は明後日だな!」というので、この医者の言うことには従わざるを得なかった。
そして一度会社に出勤し、その次の非番に、洗面道具を持って、父が車で野垣病院まで送ってくれた。
父が送ってくれたとき、家内も長男も全員で送ってきてくれたので、出征兵士が出征するときのような妙な気持ちになった。
入院の初日は、腹の中の洗浄や、それなりに必要な検査があったが、翌日すぐに手術だった。
手術室は、天井までタイルの部屋で、手術用の大きなライトがあり、まるで調理場のようなところであった。
まあ、ここに来るまでに覚悟は決まっていたので、まるで「まな板の上の鯉」と同じで、なるようになれという、ある意味ではやけっぱちな気持ちであったことは事実である。
腹は決まっていたので、怖いという気持ちはなかった。
麻酔の最初の一本が痛かったけれど、後は記憶に残っていない。
術後2、3日は、身の回りの世話にお手伝いさんが要るということであったが、家内は乳飲み子を抱えていたので、それなりの小母さんを雇ったが、このおばさんがベテランで、よく気が利いて大いに助かった。
術後、最初の排便のときが少し苦しかった。
排便後は、傷口に新鮮なガーゼを当てておかねばならなかったが、このあたりをこの小母さんが実に要領よくやってくれたので、本当に助かった。
そして二人部屋であったが、相棒の方は内妻のような人が付き添っていた。
しかし、病人の介護は素人と見えて、私の雇った小母さんが、かなり手助けしていた。
こちらの金で相棒の世話までは馬鹿らしいなあと、浅ましくも思ったこともあったが、結局、最後には、相棒も借りた義理だけは返してくれた。
というのは、2週間入院して、2週間自宅から通院したわけであるが、この通院になってから、朝、病院に行くと長い順番待ちであった。
この時、相棒がどういうルートか知らないが、私を見つけると、必ずすぐに診察室に呼ばれるように配慮してくれた。
通院の期間中ずっとそれをしてくれたので大いに助かった。
やはり、昔から人が言っていたように「情けは人のためならず!」で、自分に帰ってくるものだなあと、つくづく思った次第である。
それにしても不思議な男で、どうしてあんなことが出来るのか今もって全く不可解である。術後、最初の排便のあった後は実に爽快で、お尻にガーゼを当てているとはいえ、周りの人はみな同じことをしているので、ロビーでもいろいろな面白い話に花が咲いて、実に和やかな雰囲気であった。
入院中は朝10時に朝風呂に入って、この入浴がこの病院の企業秘密だ、という話であったが、真偽のほどは定かでない。
午後は、鉄砲の弾のような座薬を一つ入れるだけの治療でしたので、入院の後期になると、エネルギーがあまってしまい、無断外出までしてレタスや野菜の買い物までしていた。
術後は野菜の摂取が強調されたので、サラダをたくさん食べなければならず、野菜の買い出しは理にかなっていた。
しかし、世の中には痔主というものが大勢いるものである。
若い綺麗な女性の痔主など考えられないが、やはり現実には、そうした気の毒な人もいるもので、こんな綺麗な人が俺と同じ痔主か、と思うと可笑しいやら、可哀想やら、複雑な気持ちになる。
いくら若くても、いくら美人でも、やはり病気には勝てないらしい。
あらゆる病気は、貧乏人にも、金持ちにも、若くても、美人でも、不美人でも、公平につくものらしい。
しかし、いくら公平に取り付く病気でも、治療の段階になると、金持ちと貧乏人では違い大きな差となって現れてくる。
いづれにしても病気というのは、治ってもともと、治ってプラスマイナス・ゼロで、病気になって完治するまでの過程は大損である。
健康ならば、この損の部分がはじめから不要であるので、健康には大いに留意すべきである。
痔の手術も思い切ってやって良かったと思っている。
こんなことならば、もっと早い時期にやっておけば良かったと思った。
私も医者嫌いなので、とことん悪くならないと医者に行こうとしないので、損な性質である。
早期発見、早期治療といわれているが、全くそのとおりだと思う。
わかっているがそれが出来ない。