自分史5
スキー事始め
音楽の話はさておき、この頃スキーを始めた。
始めたといっても一年に何度もスキー場に行ったわけではない。
前からやりたいと思っていたので、最初は今で言うバス会社のパッケイジ・ツアーで白鳥に行った。このときが最初であった。
この時は、最初、江長さんのところの賀津ちゃんと一緒に行くつもりであったが、その場になって「嫌だ!」と言い出したので、つまりドタキャンを食らったので、親父に「行くか?」と言ったら「行く!」というので、親父と一緒にバス旅行で出かけたものだ。
しかも、小牧のスポーツ店でスキー一式借りて、それを担いで行ったものだ。
今から思うとなんとも間の抜けた話である。
このとき白鳥のスキー場で、若い女性が高いところからすいすいと、いかにも楽しそうに滑って降りてくるのを見て、心底「くそー!」と思ったものだ。
なんで女に出来て俺に出来ないのか、と思ったが、所詮、練習の違いだとわかっていても悔しかった。
こちらはスキーをつけるのも、ストックを持つのも始めてである。
歩くのがやっとで、あのバス・ツアーにはコーチが一人もいなかった。
2回目が日本碍子の組立課の連中と、会社仕立てのバスで、やはり白鳥のスキー場息であった。
このバス旅行では、組立課の連中は全員初心者であったので、スキーの腕前はどんぐりの背比べでしたが、バスの中に女の子が乗っていたので、それがトラブルの元となった。
というのも、バスが郡上八幡で小休止したとき、組立課の連中がウイスキーを買い込んできて、女の子の前で格好いいところを見せようと、見栄を張って、ラッパのみして気勢を上げたまではいいが、宿について大喧嘩になった。
原因は他愛ないことであったが、ウイスキーが原因であったことは確かである。
しかし、この件で私自身はポイントを上げた。
というのも、片町の磐田さんの気を引くことに成功したので、その意味ではポイントをかせいだが、最後の破局も劇的に終わった。
そのことについては後に述べることになろう。
自衛隊入隊
日本碍子に勤めていた頃は夜勤をしていたので金回りがよく、ステレオを買ったり、レコードを買ったり、またスキーに出かける余裕があった。
けれども自衛隊に入ったら又文無しになった。文無しでも生活できる環境下にはいた。
「衣食足りて礼節を知る」諺を地でいったようなものだ。
そもそもなぜ自衛隊などに入ったのか、という点からして一種のミステリーである。
これには深いわけなどまったくない。
ただ親友の谷山(秀太郎)君が、「愛知地連のノルマだから、試験だけ受けてくれ」というので、はじめはそのつもりで、試験だけのつもりであった。
「試験を受けてくれるならジープに乗せてやる」と、冗談とも本気ともつかない言い方をしていたが、こちらもそれほど軽い気持ちで受けに行った。
試験はわけなく出来た。
それでも試験管は「わからなければ教えるから」といっていたが、別に世話になる必要はなかった。
その試験に作文があったが、その作文も原稿用紙一枚程度でいいというものを、原稿用紙に5枚も6枚も書いてきた記憶がある。
あの頃、ミステリー小説を読み耽っていたので、シャーロック・ホームズとエルキュール・ポワロの違いをとうとうと書いてきたように覚えている。
両方とも知っている人は知っているが、知らない人にはまったく理解できなかったと思う。言わずと知れた、探偵小説に登場する探偵であるが、少しばかりオチョクッテやれとばかり悪戯をしておいた。
それでもまだ入隊する気はなかった。
それが急に入隊する気になったのは、やはり日本碍子の仕事がきつかったのと、そこに入ったときの屈辱感が拭い去れなかったためと思う。
この屈辱感と言うのは、人を頼って、信頼したことが、とんでもない裏腹の結果になり、自分自身の甘さに対する後悔の念によるもので、誰も恨むことの出来ない悔しさのことである。
入隊は昭和39年の6月のことで、愛知地連のジープが家まで迎えに来てくれ、母が玄関で見送ってくれた。
そのジープで岐阜基地に連れて行かれた。
この基地は始めて入ったところであるが、その美しいたたずまいに、これが自衛隊の基地かと疑ったぐらいだ。
小牧の基地は珍しくないが、それでも金網の中には入ったことがなかった。
小牧の基地も米軍がいた頃は美しい基地であった。
あの当時、1ドルは360円でしたので、米軍は安い日本の労働力を使って、芝生の管理もよく手入れされていた。
これが我々が入隊する頃になると自衛隊が管理するようになって、途端に手入れが悪くなった。
当時の岐阜基地には大きな並木があって、建物は木造であったがアメリカ映画に出てくるような風景であった。
しかし、この基地のトイレには最初びっくりした。
そのトイレは、扉が真ん中だけしかなく、しかも階段を2段上がったところにある西洋便器であった。
丁度、自分の目の高さに扉があるので、トイレに近寄るだけでこちらの気分が変になりそうに感じた。
トイレに入っている人の足元は丸見えで、座っている人の顔だけを隠しているにすぎず、こちらの目のやり場がない。
下からも上からも覗こうと思えば苦もなく出来る。そんなトイレに度肝を抜かれた。
その後、自衛隊ではどこに行っても西洋便器なので、それには慣れたが、あの2段上がるというのは流石に他の場所にはなかった。
慣れれば、西洋便器のほうが感じがいい。
岐阜基地には2、3日いたが、その後防府の教育隊に移動した。
この時、一応制服の支給を受けていたが、教官の教え方が悪く、階級章の取り付け位置が悪く、今から思うとなんとだらしない格好をしていたものか冷汗が出る。
そんな格好で、衣嚢を背負って、人前を歩くのは嫌なものであった。
その後訓練を受け、自身を持った自衛官になってからは、そんな萎縮した気分にはならなかった。
俺は大事な仕事をしている、という誇りを持っている所為かと思うが、このときは制服を着ているとは言うものの、何一つ身についていないという気後れがあった。
とにかく、何もかもがちぐはぐで、実に惨めな気分であった。
防府で受けた前期の教育は、始めから死ぬ気というと大げさであるが、成るようにしか成らない、と覚悟をしていたのでそれほど苦しいとは思わなかった。
又、日本碍子の経験で、どんな苦しさでも耐えることが出来るようになっていた。
夏の暑い最中であったが、防府は瀬戸内海にあるせいか、名古屋よりも過ごしやすいように思えた。
それでも夏の陽射しの下で行われた教練は、こたえた事はこたえた。
日本碍子にいた頃、身長170cm、体重55kgという痩せの部類でしたので、自衛隊の体力測定ではすべての種目で列外であった。
体力とか運動神経というものはまったく期待できなかった。
それでも人並みにはついていけた。
30km行軍のときは、車で移動するサポート隊に入れられた。
どこの国の軍隊でも同じことだと思うが、新隊員教育というのは、人間性など無視したも同然である。
防府とて同じで、訓練で汗かいて、大汗をかきながら早飯を食って、後は寝るだけの生活である。
見方によっては監獄よりもひどいかもしれない。それでも人間死ぬものではない。
ああいう環境におかれると人間性が麻痺するのかもしれない。
それでも風呂から上がって、隊舎の蔭で夕涼みしていると、爽快な、なんとも満ち足りた気分になった。
炎天下の激しい訓練から開放されて、就寝するまでのつかの間の人間性回復のひと時である。
炎天下の戦闘訓練では気力が問題である。
「負けてたまるか!死んでたまるか!」と自分に言い聞かせて耐えたものだ。
それでも済んでしまえばどうということはない。
給料も1万円前後だったと思うが、日本碍子にいたときとは問題にならないので、衣食住が整った環境では、必要最小限を除いて後は全部貯金してしまった。
外出も一度もしなかった。シャバにも未練はなかった。
そんな訳で、ここではどちらかというと「食っちゃ寝、食っちゃ寝」の生活で、昼間は過激な運動をするので55kgの体重が62、3kgぐらいに増加した。
これぐらいになると立派な体格になる。自分でも一回り大きくなったなあと感じた。
この教育隊にいるときに、将来の希望と、本人の適性が調べられたが、私は希望する項目に難しいものばかりを書いておいた。
その一つはATCである。これは航空管制官になる道で、試験さえパスすれば特進が出来た。これは入隊の時期が悪く、アキがなかったようだ。
というのは、4月入隊で、新卒の高校生がどっと希望した後なのでコースのアキがなかったようだ。
次は暗号員であったが、これも前と同じ理由でポストがなかった。
AC&W(警戒官制員)というのは、本当は内容がよくわかっていなかった。
しかし「ATCに行けないのなら、これに行け」と言われて、内容がわからないまま、このコースにきてしまった。
このコースは術科学校が小牧ということで、再度小牧に舞い戻ってしまった。
小牧ではその年の9月から翌年の2月まで、半年間も第5術科学校で教育を受けた。
第5術科学校は防府と違って、かなりアカデミックであった。
屋外の訓練は体育ぐらいで、あとは座学ばかりであった。
その中でも英語のヒヤリングの授業はブースという電話ボックスの様なところに入って、ヘッドホーンを当てて英語を聞くわけであるが、どういうわけかあまり英語の聞き取りは上手にならなかった。
我々の世代は耳よりも目からでないと脳のしわに刻み込まれないようだ。
ここでは教官がプロッチング・ボードに書く逆さ文字が驚異だった。
ここに来てからの教育で、航空管制がどういうものか理解するようになったので、それなりに意欲も出てきた。
やはり未知のものに遭遇すると、好奇心が刺激されて、新たな意欲が湧き上がる。
ここの隊舎は米軍の使っていたままの兵舎でしたが、米軍というのは質素なところは実に質素にするものだと、またもや合理主義の真髄に触れたようだ。
雨風をしのぐミニマムの建物である。
最近の住宅に応用されてきたツー・バイ・ホー(2*4)の建物である。
屋根はゆるい勾配があるものの防水シートを張った平屋根で、壁といえばベニヤ板そのものである。
かろうじてプライバシーが維持できるという代物であった。
学生は8名一組で、一室に2段ベットでしたが、内務班長のみは一室で一段ベットであった。
私も後年同じようになったが、軍隊生活をしていて、個室を確保できるというのは恵まれた立場だ。
この第5術科学校というのは、小牧基地の一部になっているが、当時小牧基地には5つの部隊が混在していた。
メインはやはり第3航空団で、次が第5術科学校であった。
後は気象隊とか警務隊という、総隊管轄の分遣隊がいたが、組織的に一番大きいのは第3航空団であった。
第3航空団は実戦部隊で、領空侵犯措置として緊急配備についていた。
当時はF86Dがアラートについていたはずであるが、これは我々が教育を受け実戦部隊で経験をつむようになると、あまり良い機体ではないということがわかってきた。
機上レーダーを積んでいたので、運動性が悪く、邀撃管制官が苦労していた。
レーダーを積んでいないF86Fのほうが好まれていた。
しかし、この第3航空団が中部地方の空の守りについていたことは紛れもない事実である。今は輸送航空団になって、一線部隊とはすこし性格を異にした部隊が駐留しているが、これも飛行機の性能が向上して、小松基地や百里基地からこの名古屋をカバーできるという判断で、一線部隊が退いたのかもしれない。
F86シリーズはF4、F15、F1などに比較するとその能力は雲泥の差である。
小牧基地は米軍が駐留していた間に今の姿になっているが、そこに今、民間機の空港としての価値が大きくなろうとしている。
昭和20年代にアメリカの進駐軍が有無を言わせず、基地としての土地を確保してしまったので、ここでは成田闘争のような土地騒動はおきていない。
それでも近年、防衛庁は近隣の住民の感情を慰撫するため。供用施設や騒音対策として民家の窓を2重にしたりしているが、どちらにしても名古屋という大都市の近くにある基地としては、存在の意義が縮小されるのは致し方ないことかと思う。
基地全体の敷地の数値は知る由もない。
しかし、あの基地を何度もマラソンで走ったが、広いことは広い。
5術校を出て、三菱の前を通り、空港の中を通ってランウエイの南側を回ってPOLを抜けて一回りしてくると小一時間かかる。
あの基地を何周したかわからないが、運動神経の鈍い、運動能力の欠けた私がそれをしたこと自体、今になってみると驚異である。
まあ若さがさせたことと思うが、その惰性で自衛隊を辞めた後でも、かなりの年になるまで、ランニングというのは続けていたが。
さすがに40代以降は出来なくなった。
基地そのものは米軍が駐留していたときも時々解放されていたので見る機会はあった。
ゲートをまっすぐ進むと、広いエプロンに出、左側にコントロール・タワーがあり、その手前に消防隊のエリアがあったように記憶している。
第5術科学校はゲートは入ってすぐに右に折れたところにあった。
第5術科学校
第5術科学校の学生中に印象に残ったことといえば、座学による英語教育のことである。これはヒヤリングに力点を置いたもので、先に述べたとおり、ブースという電話ボックスのようなところに入って英語を聞くというものであったが、私にとってはあまり効果がなかったようだ。
それよりも航空管制の全般的な話は非常に興味を持って聞くことが出来た。
それと体育では、持久走と兵隊用語で言っていたが、何のことはないマラソンのことである。
このマラソンでは、第5術科学校のグランドから小牧山の頂上までのマラソンがあった。マラソンといっても競技大会ではないので、ペースはそれほど速くはないが、50名近くの人間が、マラソンで小牧山まで走ったものだ。
高校時代にはスポーツというものにはまったく縁がなかった。
学校のほうもスポーツには力を入れていなかったので、自衛隊に入るまでスポーツの意義というものが理解できずにいた。
けれども自衛隊に入って、教育隊から術科学校に来るに従い、スポーツの意義というものを理解しかかった。
私の中学、高校時代というのはクラブ活動というのはあまり活発ではなかった。
自衛隊に入って、始めてスポーツの意義というものを知ることとなった。
5術校に入校中は小牧山へのマラソンをはじめ、基地一周マラソンは何度も実施された。それにも脱落しないほど体力もついてきた。
AC&Wの教育は、見るものがすべて珍しく興味あるものばかりであったので、シュミレーターとはいえ、本物のレーダーやプロテイング・ボードなどすべてが好奇心を刺激するものばかりであった。
まあ実際にサイトの赴任してしまえば、これらのものを使って仕事をするわけだから、珍しくもなんともないが、一番最初のときは驚異の連続であった。
この第5術科学校においては、任地の選択が大きなポイントになるが、私は最初から当別を希望しておいた。
暑いところは昔から弱いし、できることならスキーがやりたかったので、一番スキーの出来そうなところと、仕事の面からもほどほどに飽きの来ないところと思って、石狩当別を選んでおいた。
稚内とか、網走でも良かったが、ここだと監視するのみで管制の面がなかったので、出来れば当別と思っていた。
幸い希望とおり石狩当別に配属がきまって、いよいよ青春真っ盛りということになった。
石狩当別
1965年、昭和40年の正月明けの直後、石狩当別、第45警戒群に配属となった。
朝も早い時間であったが、母も玄関まで見送ってくれた。
名古屋から西に向かって当時「なにわ」と呼称された東海型準急電車で米原まで行って、そこから特急「はつかり」に乗って、北海道の任地に向かった。
「なにわ」も「はつかり」も、車中では特別感激するようなことはなかった。
「はつかり」には、途中で分かれて東京のほうに行く車両もあったように記憶する。
この車中、大阪出身で根室に赴任する古賀という男が私を探しに来た。
しかし、座席が離れていたので、それ程長い話は出来なかったが、それでも青函連絡船に乗り換えるときは一緒に船に乗った。
「はつかり」は昼間の特急であったので、青森には夜中について、青函連絡船への桟橋を小はしりに走った記憶がある。
暗くて、寒く、やはり北国だなあと思ったものだ。
その頃になると、自衛隊の制服も体になじんできて、初入隊のときのような珍奇な格好ではなく、あの紺色の外套も好きだったし、ブルーのマフラーも気に入っていたので、かなり格好のいいGIになりきっていた。
それで船の暗いデッキに出てみたけれど、暗闇の中に町の明かりがてんてんと点いているのみで何も見えなかった。
青函連絡船も一番安い席であったが、ここでは体を伸ばして眠れるので、まんざらでもなかった。
どうせ4、5時間の船旅であるので、これで必要かつ十分であった。
函館に着くと今度は「おおぞら」という特急列車であった。
そんなわけで札幌には翌日の朝8時に着いた。
札幌駅で列車からホームに降り立ったとき、空気がピリッとしており、鼻の中が急に緊張して、むづむづと感じたことを覚えている。
朝8時に札幌について、その日一日何をしたか記憶にないが、とにかく駅前の旅館で一泊したことを覚えている。
そのとき通された部屋が和室であるにもかかわらず、部屋の中にストーブが有ったのには驚いた。
部屋の隅のほうに、木枠にブリキを張ったものの上にだるまストーブがあり、その燃料が今まで見たこともないものを使用していたので、それも珍しかった。
その燃料はオガライトといって、おが屑を棒状にプレスしたもので、真ん中に竹輪のように穴が開いていた。
このオガライトを見たのは、そのときが最初で最後であったが、最近この地方でも見ることが出来る。
その旅館に一泊して、翌日石狩当別に向かった。
途中、デイーゼルの窓の外に映った石狩川を見て大きな川だなあと思った。
石狩当別の町は、駅前通りがいかにも寂れた町という感じがした。
改札を通って、駅前に出たとたん、馬橇がシャンシャンと鈴を鳴らして通り過ぎて、いかにも北海道だなあと思ったりしたものである。
その馬の足の毛がふさふさしており、やけに太く、これがあの道産子というものかと思ったりしたものである。
それにしても町の中を馬橇が行き交っているのを見て、うれしくなってしまった。
駅前を左に進むと隊外クラブがあった。
ここに入っていくには階段を2、3段下りて、首をすぼめて、店の中に入らねばならなかったが、この階段の分だけ雪が積もっていたわけである。
ここで第5術科学校から配属された3人の同期生と落ち合った。
ここでは5術校にいたときと同じようなつもりで大きな声で話をしていたが、外出していた先輩が三々五々このクラブに集まってくると、我々の声もだんだん小さくなってしまった。
先輩のほうは、自分のクルーにどういう新兵が来るのか興味もあったみたいだ。
そのうち時間になると、先輩たちに教えられて、駅前に止まっているトラックに乗った。トラックの荷台の真ん中には大きな木箱があって、その両側の硬いイスに座ったが、後部に近いところだったので、部隊で下りたときはトラックが巻き上げた雪で真っ白になっていた。
これでいよいよ当別の人間になったわけである。
部隊についても2、3日時間があった。
それで同期の斉藤と水谷と3人で、早速、官給品のスキーを引っ張り出してきてやりだした。
他の二人は東北出身で、私ほどの素人ではないが、それでも官給品のスキーでは思うように滑れなかったようだ。
この官給品のスキーというのは、編上靴のままスキーが履けるようにと、ビンデングがカンダーハになっているものであった。
今のように良く出来たものとは違っていた。
この部隊では、冬になればどこでもスキーが出来るほど雪はあったが、しかしやはりそれなりのルールはあったはずで、それを知らずに所かまわずやっていたので、早速、お目玉を食らってしまった。
それでもその後当別の生活では、スキーが切っても切れない生活の一部になってしまった。真冬に、全国のサイトでも一番雪深いサイトに赴任したことになるが、部隊のある環境は素晴らしいものであった。
キャンプは、阿蘇岩山の頂にあり、隊舎の窓からは、暗く雲の垂れ込めた日本海が見え、TXとRXは、それぞれ山の尾根づたいの道の向こうにあり、私の一番好む環境であった。それかといって、札幌には1時間ぐらいで出られるという地の利にも恵まれていた。
仕事面においてはスキーほどイージーには構えておれなかった。
というのも、プロッテイングの作業がどうも苦手であった。
このプロッテイングの作業というのは、レーダー・スコープを見ている人から、その飛行機の映像の位置を知らせてくるので、それをプロテイング・ボードという透明な板に記入するわけであるが、上手な人は2つも3つもその位置を頭の中に記憶しておいて、ゆっくり表示することが出来るが、私は同時に1つづつしか処理できなかった。
その点でどうしても人より見劣りがした。
それと、各隷下サイトから送ってくるデータにしても、同時に2つも3つも記憶することが出来ず、1つづつしか処理できないので不自由を感じた。
記憶力というのは生活態度とか、知性とか、感性といったこととはまったく関係ない。
それかといって努力すれば克服できるものでもない。
このプロッテイングの作業は正直言って苦手であったが後はすべてうまくいった。
第5術科学校で教わったことに少し磨きをかければ通用することばかりであった。
どんな面白い仕事でも、毎日の仕事となるとルーチン化してしまい、こうなると仕事の興味も半減してしまう。慣れとは恐ろしいものである。
ルーチン化した作業は慣れるに従って面白くなくなって来る。
第5術科学校でいくら感激して好奇心を高ぶらせても、それが毎日のこととなると、慢性化するのも致し方ない。
当時は3クルー、2シフトで、グループが3つあり、夜勤、夜勤、スタンバイ、日勤、日勤、オフという流れだったように記憶している。
夜勤がまた二つに分かれ、前半と後半に分かれていた。
夜勤の前半だと、人数が半分のうえナイト・ミッションが21時頃まであり、かなりきつかった。
それが一段落すると、ロシア(旧ソ連)のフライトが飛び交い、なかなか楽をさせてもらえなかった。
後半の夜勤だと、朝方の勤務交代の8時頃になると、千歳やロシアのフライトが活発になり、これもきつかった。
その点、日勤は人数も多かったのでその面では楽であった。
しかし、冬の勤務交代などは、吹雪かれた日など、人から見るとかなり辛そうに見えたかもしれないが、当人たちはそうは思っていなかったみたいだ。
とは言うものの、大変なことに変わりはない。
除雪が間に合わないほど雪が降ってしまえば、膝まで雪に埋まりながら、徒歩でオペレーションにあがったこともある。
除雪さえしてあれば、トラックかジープが出るので歩くことはないが、除雪が間に合わないとなれば致し方ない。
我々の勤務交代も大変であるが、除雪をする隊員も大変であったようだ。
彼らは陸上自衛隊の施設部隊から、この時期になると派遣されてきていたようであるが、日勤者の出勤に間に合わせるために、朝の4時頃から作業をしていたようだ。
ブルトーザーで道を開けるのであるが、屋外の作業であるし、朝の4時といえば一番冷え込む時間だし、我々以上に大変だったろうと思う。
我々は、隊舎やオペレーションに入ってしまえば、内部は完全暖房でシャツ一枚でいられるところで仕事が出来る。有り難いといえば有り難い。
冬の朝、オペレーションの頂上の見張り窓から外を眺めると、四方八方、360度、白一色で、遠く石狩湾が見渡せる。
空気はピリッと張り詰めており、何ともすがすがしい気持になったものだ。
この当別は春夏秋冬、年中素晴らしかった。こんなところに住んでみたいと思った。
けれども熊の出る可能性もあった。
ものの本によると、大抵は熊のほうが先に人間を見つけ、姿を消すということであるが、それが自然というものだろうと思う。
この当別というところは、札幌から沼田までをつなぐ札沼線で、札幌から5つ目のぐらいの駅で、周囲は田圃ばかりである。
田園そのものであるが、このあたりは元来湿地帯なので、これを水田にするには相当な労力と努力がいったことだろうと想像する。
湿地帯というのは、まったくどうしようもない土地で、何の利用価値もない。
水田にするには土の入れ替えをしなければならない。
湿地帯といえば、尾瀬の水芭蕉が有名であるが、まあ水芭蕉を眺める程度ならいざ知らず、作物も出来なければ家も建てられない。
それでも最近は自然保護の名のもとに、その保存が叫ばれているが、まあ乱開発で台無しにするよりは、そのまま残したほうが良いに決まっている。経済価値はないに等しい。
その田舎町が北に伸びて、阿蘇岩山というところに航空自衛隊のキャンプがあった。
此処では、山の麓の歩哨小屋から、ゲートに電話してからでないと登れない。
というのは道が狭くて、途中で車がすれ違えないので、下りる車があるときは、その車が下に着くまで待っていなければならないからである。
まあ400mぐらいの山なので高いとはいえないが、それでも日本海が見わたせるのでレーダー・サイトには最適なところに違いない。
このサイトも米軍が建設したもので、米軍はこういうサイトを日本全国に24箇所も作ったことを考えると、どうしてこのような立地条件のところを探し出したのか、不思議でならない。
米軍は日本の地形というものを、我々日本人以上に知り尽くしていたに違いない。
そういえば戦争中、米軍の爆撃があったが、あの爆撃の目標設定も、まことに要領を得ている。
ただ闇雲に爆弾を落したわけではない。
ちゃんと文化都市は排除し、都市のなかでも軍需工場を狙って爆弾を落としている。
まだ軍事衛星のない時代に、偵察機で探したといっても、それほど高空を飛ぶことの出来ない時代においてである。
かといって、スパイがいたとしても、全国的に目標を網羅することは出来ないはずである。アメリカが敵対国の情報に詳しかったことは驚きに値する。
戦後になって、レーダー・サイトを作るに当っても、どうしてあのような場所を選んだのか全く不思議である。実に驚くべき情報量である。
我々のキャンプのある阿蘇岩山というのも、全くの無名の山で、TXやRXのあった山についてもそれぞれ名前があったのか、なかったのか定かではない。
とにかく無名の山であるが、この山が稚内、網走、根室、奥尻、大湊と、完全に一直線に結ばれているわけである。
それがため、超短波で話が出来る。
こうした地理的条件を全部満たす地点を探し出すことは、日本人でも並大抵ではないのに、外国人である米軍がやってのけたということは、まったく驚異に値する。
富士山のてっぺんにWXレーダーを据え付けるのとはわけが違う。
富士山のてっぺんのレーダーは、それ一つで機能するが、AC&Wのレーダーは、全国の
24箇所のものが全部連動しなければ意味をなさない。
サイトの立地条件にも驚いたが、山がどんなに吹雪いても、飛行機が飛ぶということも驚異であった。
たとえ千歳がアウトでも、ロシアの飛行機はまったく北海道の天候とは関係なく飛び、サハリン、または沿海州は、北海道とは天候が違うといってしまえばそれまでであるが、阿蘇岩山が猛吹雪で一寸先も見えないようなときでも、平気で飛び回っているのにはまったく驚かされた。
まあ200マイル(360km)も離れていると、理屈ではわかっているが、ロスケもなかなかやるわいという感じである。
ロスケのフライトにも驚かされたが、米軍の空中給油にも驚かされる。
オペレーションから外に出ると、真っ暗な闇夜で、雪がちらちら降っているのに、米軍のKC−135は哨戒中のP3Cオライオンに襟裳岬の南の海上で空中給油を行っている。
その時間は小1時間かかっていたように思うが、P3Cが6、7時間のミッションをしていると、KC-−135が南からやってきて空中給油を行うわけであるが、こんな闇夜に暗い海上で2機が遭遇し、なおかつKC−135はホースを延ばし、P3Cはノズルをそのホースにドッキングさせるなどということが信じられないことであった。
しかし、米軍のUSAF(NAVYだったかもしれない)の連中は、それを実際にやっているわけである。
空中給油はビデオや映画では時々見たことがあるが、実際真っ暗な夜空で行うとなると、大変なことだと思う。
技術が人間の感をカバーしているといっても、最後は人間の目と技に頼らなければならないと思う。
こんなわけでAC&Wの仕事は面白かった。
慣れによるルーチン化はあったけれど、仕事そのものに奥行きがあって、当座の仕事に慣れただけで、勉強しなければならないこと、興味深いこと、好奇心を刺激することは、オペレーションの中には一杯あった。
我々が第5術科学校で教えられたことは最低限のレベルで、30(さんまる)と呼ばれるもので、そのうえには50(ごうまる)70(ななまる)と呼ばれる上級過程があった。
夜勤が開けると早速スキーである。
スキーはさすがに雪国であって、自衛隊の正式な教科にもなっており、1シーズン2、3回、陸上自衛隊のスキー教導隊から教官が来て練習したこともあった。
しかし、普通は隊舎の横のゲレンデで、かってに練習すればよかった。
夜勤の前半は16時から翌1時までの勤務であったので、その日の午前中は自由に練習が出来た。
後半のときは1時から8時までであったので、午後練習が出来た。
オフは当然一日中練習が出来た。オフの練習は実に恵まれていた。
一日中滑って、昼も夜も飯のことを考えずに思う存分練習できた。
まるでスキー場のレストハウスにいるようなものだ。
それでも後のほうになると外出して他のスキー場にわざわざ出かけたものだ。
藻岩山にも行ったし、手稲山にも行ったし、小樽の天狗山にも行った。
キャンプの西のスキー場は、雪のないときは一面熊笹の原っぱである。
途中、柵があるが、雪が積もれば柵は雪の下になってしまった。
ここの勾配はかなりきついが、それでも最後の頃は自由に滑ることが出来るようになった。しかし、いつも同じ斜面で練習していると慣れてしまうので、やはり他のスキー場に武者修行に出ることは必要である。
昨今の近代的なスキーと違って、リフトがなかったので20分かけて上がってきて、3分で滑り降りてしまうので、又上がってくるのがつらかった。
それでもえっちらこっちら登っては降り、上っては降り、金のないときのオフはここで一日中練習したものである。
ここは部隊公認のスキー場であった。
それでも北国育ちでもスキーの嫌いな人もいるし、南国育ちでも運動神経の優れた人は、2,3年で相当なベテランになれる。
私もどちらかというと運動神経があまり良くないので、努力でカバーしたほうであるが、それでも自分ではまだまだ納得できない。
打ち込んだことは打ち込んだが、結果がいま一つ納得できない。
まあこれも自分の運動神経のなせる技で、私の限界かもしれない。
こんな訳で、スキーのセットを3つも買い込んでしまった。
当時、部隊のBXに入りこんでいた化粧品屋で、ツケで買った。
化粧品屋がスキーを扱うのも妙な話であるが、それで通っていた。
スキー一式が給料分ぐらいしていたように思う。
今から見れば時代を感じさせるようなものであるが、当時ではこれでも精一杯奮発したほうである。
グラスファイバー製が出始め、メタルスキーが出始めた頃である。
あまり高級なものを買っても、足前のほうがついていかなかったので、この程度で十分であった。
釣り人が竿を買いたがるのと同じで、スキーものめりこめば段々と道具に凝りたくなるのは人間誰しも同じようだ。
こうして、冬の間は昼間はスキー、夜はビールに明け暮れたわけである。
キャンプの一階にBXがあって、このBXは文字とおり酒保で、21時までopenしていたが、気の合った仲間が4,5人集まって飲みだすと、テーブルの下にビールビンが20本近く並んだものだ。
つまみは野菜炒めと決まっていた。
今考えてみると実によく飲んだものだ。
昼間スキーをして、夜ビール、これが一銭もなくしてできる、ということはまさに天国である。
その代わり給料日には、給料の大部分をBXの小母さんに渡さなければならなかった。
とにかく現金で飲んだ記憶がない。
小母さんも心得たもので、その場で金を取ろうとはしなかった。
もともと北海道には「鰊払い」とか「鰊勘定」とかいって、鰊が取れたときに払う、というツケの商習慣があって、売るほうも買うほうもツケが当たり前であるので、飲み代はすべてツケであった。
ツケというのも飲むときは良いが、払う段になると実に痛い。身を切られる思いだ。
財布の半分以上が空になってしまうが、それでも私のように善良なものは、少したまると気になって気になって払わずにおれなくなってしまう。
スキーの道具もこれと同じでツケで買った。ある時払いの催促なしである。
まあ当別のような小さな町の小さな部隊であるので、踏み倒すようなことは出来ないため、商売屋もそのあたりの計算は出来ていたことと思うが、それにしても現金がなくても生活できたことは有り難かった。
このサイトにいる間に、我々若い連中で面白いことを流行らせた。
それは色物のパンツとマドロス・パイプである。
この色物のパンツというのが傑作である。
ある日、BXの小母さんが小間物の商品ケースにナイロン製の色物のブリーフを5,6枚陳列した。
その色というのが、あまりにもけばけばしく、赤や、紫や、オレンジ、ブルーといったまったくの原色で、無地、材質はナイロンであった。
こんなものを陳列するものだから、若い連中が面白がって、それを使用しだしたのである。後日、家内と結婚したときまだ残っていたが、全部捨てられてしまった。
教育隊や学生隊ならば決して許されることではないが、そこは実戦部隊である、そんな野暮なルール、つまらないことに目くじらを立てないところが大人である。
それにしても赤や紫のパンツは傑作であった。
マドロス・パイプというのも面白かった。
これは札幌に出たときに誰かが買ってきたものだが、次から次へと伝染して、かなりのものがパイプの愛好家になってしまった。
タバコは「桃山」という刻みタバコ専門である。
これも一時的に流行ったが、そのうちに廃れた。
ほんの遊び程度のものであったが面白かった。
こんな訳で、冬はスキーとビールに明け暮れたが、雪のないときには何をしていたのかというと、これはこれで結構楽しく過ごすことが出来た。
5月になると、ぼつぼつスキーも出来なくなるが、それでも山の所々には雪が残っている。雪の解けたところからはフキの芽が出てくる。
そして雪解け水がちょろちょろと流れて谷に向かって落ちていく。
この頃、山はまだ良いが、里に出ると雪解けでまったくひどいものだ。
車はどろどろ、乾けば砂埃となるため、長靴とレインコートは必需品である。
レインコートは埃よけである。
雪解けが終わって初夏になるとむせるような新緑である。木々の緑で窒息しそうになる。今、流行の森林浴がキャンプの周りを歩くだけで出来る。
この頃、川原でビールを冷やし、ジンギスカン鍋をしたことがあるが、思い出すだけでよだれが出そうである。
あの頃、当別の町でそれぞれ下宿を持っていた。
3クルーあるので、そのクルーの一人づつがタイアップして一つの下宿を借りれば、お互いに外出でぶつかり合うこともなく利用できたわけである。
それで銘々布団を借りて、外出のたびごとに、そこで飯を作ったり酒盛りをして楽しんでいた。
その下宿で牛乳や醤油が凍ったことがある。ビールが凍ったこともある。
ビールの凍ったものはもう飲めない。
ビールびんの中でビールがシャーベット状になってしまって、口を下にしてもそれが出てこない。
こうなるともう味も死んでしまって美味くもなんともない。ただの水といってもいい。
北海道の下宿といっても古い民家を借りたものだから、その立付けの悪いことといったら、押入れに入れておいた油や醤油が凍るというのを見ても判るように、北海道でも昔の民家は防寒という点でまったく無防備であったようだ。
寒さを防ぐには囲炉裏端の火を絶やさないようにする以外ないような状態であった。
布団に寝ていても朝起きると布団の上がうっすらと白くなっている有様である。
当時でも新しく作られた民家はこんなことはなかったが、入植した当時の民家はまったく防寒と言うことが考慮されていなかった。
我々の下宿も寒かった。冬は下宿で寝るよりも部隊に帰ったほうがよほど暖かかった。
真冬の1月に赴任して、最初の1年が過ぎようとした頃、我三男坊がやってきた。
始めは受験に来た。
北大の入試のためであるが、札幌駅の改札口で待っていると「兄い!」といって、だぶだぶのコートを着て、列車から降りてきた。
急に来られても
試験中宿を一度変えたように記憶する。
しかし、合格通知は最初の旅館から本人のところへ一番にあったらしい。
彼が北大に受かるなんて信じられなかった。まさか受かるなんて思っても見なかった。
受験を口実に遊びに来たと思っていたので、合格したと聞いたときは信じられなかった。そんな訳で、最初は北大に通うのに、北大の近所に適当な下宿が見つからなかったので、当別の町中で下宿を見つけておいた。
そこから彼は北大に通ったが、当別の下宿も駅には近いところだし、北大も札幌駅の裏なので、それほどの不便はなかったと思う。
この彼の下宿も、まあ安普請のアパートであった。
歩けば部屋の中まで足音が入ってくるようなところで、しばらくすると自分で
それでも当別で北大というと一目置かれた存在であった。
昔から、北大は内地の人が入ってしまうので試験場を道内に限定してしまったが、この頃でもやはり道内からは容易に入れなかったらしい。
ましては自分の子供(長男)が北大に入るとは、この時点では思いもよらなかった。
第一結婚前のことなので、当然といえば当然であるが、やはり私は
当別の近くに樺戸という地名があるが、ここは樺戸の刑務所のあったところで、ここの囚人が札沼線の建設や、周囲の開拓に使われたということである。
函館本線で札幌に向かうと、大沼の少し北に八雲というところがある。
ここは徳川家が入植して開拓したところである。
今、小牧と姉妹都市の関係を結んでいるが、ここに住んでいる女の子と文通していて、名前は忘れてしまったが一夜そのお宅に世話になったことがある。
当時、その女の子は高校生でしたので、親が心配してついてきたようであるが、それでも一宿一飯の仁義で、その家の生活環境を知ることが出来た。
この八雲というところも、何もないところであるが、前は海、後ろは山があって、やはりこんなところ住んでみたいという気にさせるところである。
ここではサイロの中を見せてもらった。
サイロの壁はブロック積みであるが、あれは牛の食べる漬物である。
中はかなり深く、上から草を入れ、その間に酵母を入れ、発酵させるのである。
あの中は甘すっぱく、なんとも言えぬ良い匂いがする。
ここでは牛もいるし、馬もいるし、トラクターも持っている、まったくの専業農家であった。
一度札幌近くのペンパルの家でも援農をしたことがあるが、このときはまったくひどい目にあった。
北海道の農業はまったくきつい労働である。
何故かといえば、耕作面積が広く、秋の取り入れには冬とのおっ駆けっこで、初雪が来るまでに取り入れをせねばならず、外が暗くなってもトラクターのライトを点けて作業をするという状態のときに、のこのこと援農に出掛けたので、そのきつかったことといったらなかった。
それでも耕耘機の運転を覚えたが、あれはまったく運転しにくい乗り物である。
カーブを切るときなど実に不具合である。
とにかく耕地面積が広いので、その広い耕地から稲を集めては脱穀しなければならない。
一日働いてコップ酒一杯の報酬であった。
そのコップの中に蝿が飛び込んで、その蝿を指でつまみ出して、そのまま飲んだが別に病気にもならなかった。
あの頃は体も一番健康なときであったからよかったのかもしれないが、それにしても
当別から札幌に出るには札沼線で出るのが普通であるが、中央バスで出る方法もあった。私は時々バスで札幌に出ることがあったが、このあたりは石狩平野というだけあって、実に広い。
昔は湿地帯であったかもしれないが、当時既に水田に変わっていた。
あれから20年以上経って、昨年、我が子(長男)の北大入試を機会に再度訪れてみたら、またまた変わっていた。
私がいた頃は防風林しかなかったところに、瀟洒な住宅が建ち、赤や青の屋根が印象的であった。
あの頃、外出したときはほとんど一人で歩いた。
友人と歩くと、こちらの好奇心の赴くままに動けないので、大抵は一人で歩いた。
植物園も、北大構内も、中島公園も一人で歩きまわった。
そういえば三男の母校の一宮高校出身で、北大の教授をしていた酒井さんの家を訪ねたことがある。
我が弟が後輩であるということで親切にしてくださったが、この酒井さんがバラの収集家で、珍しいバラを自宅に集めてみえた。
しかし、バラの原種とか、コーカサスのバラとか、専門家らしい珍しいものが多かったが、名前がわからないことには埒が明かない。
このときのカラー写真はよく撮れていると今でも思っている。
この頃、カメラにも現をぬかしていた。
カメラもアサヒペンタックスとキャノンの2台を買い込んで、花を撮ったり、モデルを撮ったりして、熱を上げたものだ。
というのも、部隊には仕事用の暗室があったからである。
これは飛行機がジャミングといって、レーダーの目つぶしを仕掛けたとき、それを写真にとって分析するための暗室であった。
モノクロの写真ならば、ここで現像、焼付け、引き延ばしなど、一応一通りのことが出来たので、それをフルに活用して、写真の技術を習得した。
モノクロ・フイルムならばフイルム現像から引き延ばしまで出来るようになった。
金の無い非番のとき、就寝点呼後、当直幹部に見つからないようにこの暗室に忍び込んで、明け方近くまで現像や引き延ばしをやったものである。
人間、何でもやってみるものである。
やるときはどんなきっかけでも、やり始めたら一生懸命やってみれば、何か得るものがある。
どういうわけか、私はこのときまで写真をやったことがなかった。
それがここで一つ覚えることが出来た。
仲間の中にはこういうことを一切せず、マージャンとパチンコばかりしているものがいたが、私はどういうものかそういうものは興味がわかなかった。
不思議なことに、やりたいという気も起こらなかった。
そんな時間があったら少しでも
演習について
航空自衛隊では一年に一度、秋に総演といって、全国の航空自衛隊が同時に演習を行うことがあった。このときはよく事故がおきた。
一度などは襟裳岬の南の海上で、T―33がF−104に追突されて演習がそのまま中止になったこともある。
その時は、7,8時間後にパイロットは生還したと聞いた。
この総演のときにはGDXといってグランド・デイフェンス・エクササイズという地上防衛の訓練があった。
これはオペレーションの中で行われる演習と違って、又一段と好奇心をそそるものである。戦争ゴッコと言ってしまえばそれまでであるが、やはり敵味方に分かれて行うGDXは、それなりに緊張するものである。
殺される心配はないとは言うものの、実際の戦争はこうしてやるものかと思うと、戦争ゴッコといって侮ってはいられない。
本当の戦争ならば、こちらが殺さなければ相手に殺されてしまうのかと思うと、真剣にならざるを得ない。
攻撃側は、陸上自衛隊のレンジャーが闇にまぎれてこちらのサイトを攻めてくるという想定で行われる。
いつも明かりがついて煌々としているところに、灯火管制を敷いて、真っ暗にして、自分たちのサイトを守るわけであるが、こちらも物影に隠れて息をひそめていると、相手は山の稜線を横切って移動しているのがよくわかる。
それを察知して、サイトに入れないように防御するわけであるが、とても遊びなんてものではない。
カービン銃には空砲を20発ぐらい装てんしているが、攻めるか攻められるかの緊張感で、鳥肌が立つくらいである。
こちらも相手に気付かれないように、匍匐前進や、地面を這い回って阻止しなければならない。
これとは別のGDXでは、私を含めた新兵3人が、無線機を背負って斥侯に出されたことがある。
無線機はすぐに故障してしまって、さっぱりコンタクトがとれず、結局、汗びっしょりと
なって熊笹の中を歩き回ったこともある。
あれは無線機が時代物で、コンタクトを取れる取れないというよりも、ただのウエイトでしかなかった。
当時は、そんなこともわからないので、こんなものだと思って歩き回っていた。
考えてみたら携帯無線機という割には大きかった。
重さも20kgぐらい、大きさはジープの携行ガソリン缶ほどであった。
今の無線機ならばもっと小さく、感度ももっと良いはずである。
今の携帯電話のことを考えると隔世の感がする
これなども面白い経験であった。
又、こんなこともあった。
それはスキーを履いたままの突撃である。これはナンセンスなことだと思った。
大体、スキーを履いたままの突撃など出来るわけがない。
あれでは何百人と突撃しても相手の標的になるだけのことである。
スキーといっても、官給品のスキーで、ゲレンデ用とは違って、戦闘用になっているというものの、スキーとしての機能はまるでないに等しい。
我々のやっているスキーはゲレンデ・スキーで 自衛隊の求めているのは戦闘用のスキーである。
ゲレンデ・スキーをやっていれば、すぶの素人よりはましかもしれないが、それでも違う。戦闘用のスキーということは、どんな雪でも進むことが出来、なおかつ射撃も出来るということになっているが、それでもスキーをつけたままの突撃ということは、少し可笑しいようなきがする。
雪の中の戦闘という事であれば、やはり木の陰に隠れて狙撃を主体としたゲリラ攻撃が順当だと思う。
戦闘用のスキーというのは当然白色で、斜面を登ることができるようにカンダーハになっている。
スキーが今のようにレジャーになる前は、戦闘用にオーストリアで開発された技術である。よってスキーの原点に立ち返ったと見れば、興味深い経験ということが出来る。
雪の中でのスキーは実に歩くのに便利である。ゲレンデ・スキーでもそれは同じである。雪が腰くらいあれば、とても歩くことは出来ないが、スキーならば自由に行動できる。
映画やビデオで、新雪の中を格好よく滑るのがあるが、あれ程になるには並大抵ではないが、あれ程格好よく滑らなくても、斜面を下りるだけでもスキーがあるのとないのとではまるっきり違う。
キャンプ西のスキー場でも、スキーをつければ下から上まで、登ってこられるが、あれをスキーなしではとてもできるものではない。
どんな新雪、深雪でもスキーさえあれば自由に動ける。
たった2本の板であるが、これだけのことが日本人の発明でないところが不思議だ。
日本人の発想といえば輪かんじきである。
スキーと輪かんじきを二つ並べてみると如何に違うか。
両方とも発想の原点は同じなはずである。
雪の中で自由に行動したい、という願望が形に表れたものだろうと思うが、出来上がったものはまるで違う。
日本人の発想の中にはスピードという要素が欠けている。
もともと日本人は農耕民族で、狩猟民族ならば獲物を追うのにスピードということは必須条件であるが、農耕民族ではスピードを要求されることはない。
こういう違いがあったのかもしれないが、こうした違いは馬車の発達にも同じように見受けられる。
西洋の馬車と日本の馬車では馬を利用するという点では共通であるが、発想が根本から違っている。
西洋では快適に、スピーデイーに移動するということに主眼が置かれているが、日本では人間の能力を補完するという意味で、荷物を運ぶことに主眼が置かれている。
西洋人は馬を道具とみなしているが、日本人は道具とまではっきりと割り切れずに、家畜とペットの中間というような感じで接している。
馬車が発達して自動車となったわけであるが、これなども西洋では移動するための道具と割り切っているが、日本人はどうもそこまではっきりとドライに割り切れず、ステイタス・シンボルというか、財産というか、何かじめじめした接し方をしている。
雪の中で如何に動きやすいものを考えるかというところで、西洋と日本ではぜんぜん別の物を考え出したわけである。
一旦西洋から日本に入ってくると、それを利用する技術というのは本家本元を凌駕してしまう。
スキーでもオーストリアの軍人が高田の部隊で紹介するやいなや、たちまちにうちに日本中に知れ渡り、今じゃ日本中の人がレジャーとして楽しんでいる。
元はといえば軍事技術の一つであったことを知って楽しんでいる人が何人いるであろう。スキーは楽しい。この楽しさは下手は下手なりに、ベテランはベテランなりに楽しむことが出来る。
楽しいということが共通分母として日本全国に広がったものと思うが、それにしても芋の子を洗うようなスキー場の混みようには困ったものだ。
恋
人も幼年期、少年期、青年期と成長するに従い、恋をするのは自然の摂理である。
年頃になって、恋をして、はじめて心身ともに健康に生育したといえる。
私の一番最初の恋は、久美子という女性だった。
姓の方は忘れてしまった。実に不謹慎なことと思う。
彼女とは、彼女自身が我が家を訪ねてきたことにより、最初の出会いがあった。
あれは私がまだ浪人していたときのことと思うが、2度目の母を尋ねてやってきた。
当時はまだ織物工場が盛んで、佐屋の紡績工場に就職していたので、佐屋から訪ねてきた。それで私が小牧周辺を案内してやった。
始めは恋心などなかったが、中央貿易に入社して、東京勤務になったら、急に恋心が芽生えたようだ。
まだ小牧にいる間は、江長さんというガールフレンドがいたせいかもしれないが、そういえば江長さん宅で成人式のとき、江長さんの友達と私の友達が集まってパーテイーをしたとき彼女もいた。
江長さん宅の賀津ちゃんとは小牧劇場でもぎりのアルバイトをしたときから急に打ち解けて、お互いの家を行ったりきたりしていた。
それでパーテイーとなって、その後もドライブにも行ったことがある。
当時、江長宅にはブルーバード310があった。
その帰りに車がエンストしてしまって、押し掛けをする羽目になった。
その時、どういうわけか谷山もいたが、谷山は自分がもてないものだから、腐ること腐ること!大体、あの時のメンバーでは男性軍よりも女性軍のほうが有能であった。
ということで最初から最後まで面白くなかったようだ。
こんなわけで賀津ちゃんとは近所でもあるし、行き来はしていたが、不思議と恋心は起きなかった。
何故あの時恋心が起きなかったのか、その後もいろいろ考えては見たが、どうも親の考えていることが解っていたので、始めから避けていた所為かもしれない。
江長さんの母親というのは、合理的な考えをする人で、私と一緒になれば娘が不幸になると読んでいたようだ。
それに賀津ちゃん自身もそう考えていた節がある。
その前に、お互いの家族同志が、お互いの家庭のことを知りすぎていた所為かもしれない。だから幼馴染ではあっても愛情にまでは至らなかったのかもしれない。
しかし、青春の心の軌跡ではある。
久美子に対しては熱情というものを感じた。
それで小牧に居るときは1、2度しか会っていないが、中央貿易で東京に行ってからは、かなり頻繁に手紙の交換をした。
ある時、東京と名古屋を両方ほとんど同時に列車に乗り、その真ん中の清水でデートしたことがあった。
東と西から両方ほとんど同時に列車に乗り、清水のホームで落ち合って、三保の松原に行って語り合った。
三保の松原は白砂青松と聞いていたが、現地に行ったら、砂は黒く、羽衣の松というとちょっとばかりメヌヘンチックに聞こえるが、まるで工業地帯であった。
これでは彼女と恋を語る舞台としては不向きであった。
彼女は奄美大島に育っているので、この三保の松原よりも風光明媚なところをいっぱい見ているわけだ。
舞台の設定に失敗した例である。
その後も手紙でいろいろなことを言い寄ったけれど、結局は振られた。
その後、彼女も彼女なりの道を歩んだことと思うが、不幸なことに、まだ2度目の母が存命中ではあったが、彼女が乳がんで死んだということを聞いた。
そのときは家内と結婚して、かなり経っていたので、私も満ち足りた生活をしており、今更未練もなかったが、それでも気の毒だなあと心から思った。
あの時、無理にでも結婚していたら、今頃俺もヤモメになっているか、と思ったら複雑な気持ちになった。
今の家内で本当に有り難かった。
2度目の恋は小牧と北海道で同時に燃え上がって、これも今考えると馬鹿げた話である。自分が如何にいい加減なアホかと、つくづく自分の不甲斐なさにあきれたものだ。
一度に2つの恋が芽生えるなどとは不真面目以外の何物でもない。
その一つは我が三男坊の下宿先の娘で、坂井美奈子であり、もう一つは小牧の磐田友子であった。
美奈子のほうは弟の下宿先に出入りしているうちに自然発生的に恋に落ちた。
下宿に出入りしているうちに食事に呼ばれるようになり、先方の母親もかなり私のことを気に入ったようであり、たびたびのデートも積極的にバックアップしてくれたりしたものである。
最終的には家族同様の扱いまでしてくれたものである。
それが壊れたのは彼女の父親の死亡であった。
父親の死亡ということで、本人も母親も気が変わってしまった。
まあ一面、無理もない話だと思う。
しかし、その葬儀には親戚の一員として参列するようにとさえ言われたのに、日が経つにつれて話がこじれてしまった。
まあ先方にしてみれば、自衛隊という風来坊的な職業も、当時の私の給料を考えただけでも不安材料であったに違いない、と思わなければならない。
そして私も本気でしたので、クルー・チーフにもその一部始終を話しており、葬儀にも参列させてもらったので、話の壊れたこともクルー・チーフに相談したところ、急遽、第5術科学校に転勤になってしまった。
この転勤は妥当な処置であったに違いない、と思わなければならない。
ただスキーには未練があった。
美奈子にも未練はあったが、ここはあきらめるほかないと判断した。
始めは好き同士であっても、心が離れた以上、無理押し、ごり押しは、かえって将来に禍根を残し、良くない結果になるのではないかと思って、素直に転勤に応じた。
磐田友子さんについては本当に悪いことをした。
磐田さんは東町の米屋の娘で、3人姉妹で、昔からその存在は知っていた。
いつも学校の行きかえりには彼女の家の前を通っていたので、その頃から心の隅では意識していた。
それが日本碍子に入社したら同じ会社に勤めることとなって、前にも書いたとおり、スキーに行って喧嘩になったときも、彼女の存在を意識していた。
その後、北海道に渡ってからは文通をしていたが、たまたま帰郷したときに、彼女が交通事故で自宅療養していた。
そのとき見舞い行ったのがいけなかった。
その前に文通していたときから軽はずみことばかり書いていたので、見舞いに行ったことにより、彼女が本気にしてしまったが、こちらはこちらで美奈子と付き合っていたので、彼女のほうは断ってしまった。
まさかあのような結果になるとは思っても見なかったので、あのときの選択が反対になっていれば、私の人生は又違ってものになっていたかもしれない。
まさに「二兎を追うもの一兎も得ず」の諺を地で行ったようなものである。
彼女とは、家内が身ごもって小牧病院に通っていたとき、ばったり病院内で出会ってしまった。
彼女のほうも身ごもっていたようで、一応は幸せな結婚をしているように見受けられた。このときは強くなじられたが、これは致し方ないことだ。わが身から出たさびだ。
愛とか恋というのは実に不思議なものである。
所詮、心の移り変わりの問題であるが、人間の心が移り変わっていくことが不思議だ。
古今東西、すべての小説はこの問題を扱っているが、いまだに答えが出ていない。
心理学というのも、「何故、人間は心かわりするのか?」解答を出していないようだ。
人間の心変わりは、人間の正常な生理現象かもしれない。
人が人である以上、その心は常に揺れ動いているのかもしれない。
しかし、今の私は妻を愛するという点で、心変わりするなんてことはありえない。
今更、他の女に熱を上げたところで、相手にされないことは火を見るより明らかである。
けれども、世間を眺めてみると、仲の良い熟年夫婦もいれば、いい年をして女の尻を追っかけているものもいる。
その比率は半々ではないかと思う。
我々ほど年齢を重ねれば、やはり精神的にも落ち着いた熟年夫婦が、人間の本来の姿ではないかと思う。
今の家内とは100%の見合いであった。
見合いといっても高級レストランで仲人を立てての正式な見合いではなかった。
こうした正式の見合いも一度したことがある。
このときの相手の女性というのはどうしたものか私にはまったくふさわしくない女医さんであった。
これは見合いから帰った時点で、母が先方の写真をこなごなに切り裂いてしまって、部屋の中に撒き散らすというハプニングでご破算になった。
何故あの時、母があのような行動に出たのか、今もって不可解である。
それで瞳美との見合いは正式なものとはいえないが、瞳美の父が娘を連れて我が家を訪問するという形で行われた。
それでも縁のあるときはとんとん拍子で話が進むものである。
今度こそ目出度くゴールにたどり着けた。
そういえばあの時、母は家出をしていたときであったかもしれない。
あの見合いの席に母はいなかった。
見合い写真を切り裂いてから母は家出をしたことがある。
家出先まで私が迎えにいったことがあった。
あの時、母の心には何がおきたのか今もって不可解である。
まあ母と私は以前からいがみあい、うまくいっていなかったことは事実であるが、それにしてもあのときの母の心の乱れは不思議である。
この件については私は瞳美に対して大きな負い目であり、コンプレックスでもあり、申し訳ないと思っている。
もう少しまともな母ならば、と思ったことが何度もある。