自分史4

 

小学校高学年

 

話し変わるが、小学校5年か6年の頃、父の教え子の一人に材木屋というべきか、製材所というべきか、そういう関係の子弟がいて、そこから薪をもらったことがある。

それは製材した木の切れ端で、材木を四角の柱にカットした際出る、使い物にならない廃材をもらったわけであるが、それを中川運河の或る所から、リヤカーで小牧の家まで、運んだことがある。

父がリヤカーの梶棒を中で引き、私が綱で前から引っ張ったものである。

あれも今考えてみると大した仕事だった。

リヤカー一杯薪を積んで、それを引く父も偉かったが、小学生でそれを手伝った私も偉かったなあと思う。

昔の人は健脚であったとはいうものの、リヤカーを引く父と、その綱を引く子供の姿などまったく涙が出そうな話だ。

当時、上飯田から南は市電が通っていた。

今の御成り通り、丁度、ダイエーのある辺りには紡績会社があって、ダイエーの敷地から、織部住宅の辺りはすべてその工場であった。

それで上飯田の駅前からダイエーの東側の道路に沿って市電が走っており、その市電の軌道に沿って、紡績会社のコンクリート塀は今の交番のある辺りまであった。

その辺りを父と二人で歩いているとき、この辺りは名古屋空襲で大勢の人が死んだ、という話をしてくれた。

名古屋空襲は記録を調べれば正確な日付を知ることが出来ると思うが、この空襲で名古屋は壊滅的な打撃を受けたことは事実である。

あのコンクリート塀にも死体が張り付いていた、という話を聞いて気持ちが悪いなあと感じたものだ。

しかし、中川運河から小牧の家まで、小学生の私が歩いたということは、その後何年も父は我が事のように自慢していた。

父と一緒に歩いたことといえば、羽黒の石上げ祭りにも、父が連れて行ってくれたことを覚えている。

あれも確か小学生のころのことと思うが、これは夜だったので、途中の記憶は定かでないが、尾張富士と本宮山の背比べで、低いほうの山に石を積み上げるのだ、という話を聞きながら父と一緒に登り、夜中の12時過ぎに家にたどり着いた記憶がある。

こうしてみると、私は長男であるせいか、幼い頃は、父とかなりコミニケーションをもっていたような気がする。

次男と三男は、父に対してどんな気持ちを持っているのか知らないが、長男というのは、父との関係が他のものよりも少しは深いのかもしれない。

どうしても、子供のためということになると、長男が基準になってしまうからかもしれない。

小学生の頃のことでもう一つ書き忘れてならないことが、私自身の病気のことである。

あれは多分、夏休み中のことであったが、外で遊びすぎて、日射病にでもなったのかもしれない。高熱が出て、頭がおかしくなったということだ。

本人はさっぱり記憶にないが、父の話や、弟の話をつなぎ合わせて総合すると、一時的な記憶喪失に陥ったらしい。

学校に行くといって、小牧駅に行ったという話が有名になっていた。

だから私の後を次男がつけて歩いた、と語り継がれている。

私自身は、病気になったことは覚えているが、小牧駅に行ったことは記憶にない。

やはり熱が相当出ていたのであろう。

 

中学生になって

 

以上が幼年時代から小学校までの思い出であるが、中学、高校時代というのはさほど強烈な思い出というものはない。

どういう訳か、新しい友人もこの時代には沢山出来たはずであるが、今では覚えている人がいない。

多分、コンプレックスのなせる業であろう。

あの頃、何にコンプレックスを感じていたのか今振り返ってみると、やはり一番は経済的なものではなかったかと思う。

その次には、やはり学業成績だったと思う。

たとえ自分が貧乏でも、周りが同じようならばさほど苦にならないが、周囲の人が全部金持ちで、自分ひとりが貧乏というのでは、どうしてもコンプレックスに陥りやすい。

彼らと同じことが出来ないということは、深層心理に大きな影響を与えていたに違いない。当時はそんな意識はなかった。

しかし、40年近く経過した今、当時のことを思い返してみると、そんな気がしてならない。

ならばしっかり勉強して、人を見返してやれば良いではないかと、反論されるが、それがうまく出来ないのでコンプレックスに陥るのである。

貧乏を学業でカバーできれば、コンプレックスなど陥らなくても済む。

貧乏もどうしようもない、それかといって勉強のほうもどうしようもない、その状況にジレンマを感じ、それが深層心理に入り、コンプレックスに陥ったのだ。

別に父を責めるつもりはない。父は私に対してよくやってくれたことは知っている。

それに応えることが出来ない自分にジレンマを感じ、悩んでいたわけである。

父はあの頃よく言っていた。

「やれば出来る、やれば出来る!」と、しかし、やれば出来ることはわかっているが、やれなかったのである。勉強の仕方がわからなかったのだ。

小学校のカリキュラムから、想像を超えたカリキュラムに進んでいたのだ。

しかし、これは今だから言えることであって、当時は遊びたい一心であった。

だから基本的にはあの学校の選択が間違っていたと思っている。

これは今でもそう思っている。

学校の選択は間違っていたが、あの学校でよかった、ということも同時に感じている。

これも事実である。

あの東海という学校に対して父は異常なほど執着を持っている。それは今でも変わらない。どうしてあれほど執着するのか不思議だ。

私が入学する頃、父はまだ若かったのに、どうしてあの学校に執着するのか理解できない。あの入試対策は父が自ら私に施したものだ。

小学校も5年くらいだったと思うが、夜寝る前に、古い明治時代のような教科書で、数学のみを父の前で何問か解かされ、それから寝ることが許された。

いわゆる今でいう特訓を受けた。これは数学というか、算数のみであった。

6年生の時、学校で、中学に進学するについて希望調査のようなものがあり、その時の解答で、担任の増田先生が私が東海を目指していることを知り、あわてて家庭訪問され、玄関先で父と何か相談していたことを覚えている。

その時初めて、他にも東海を希望しているものがいることを知った。

そして、彼らもそれぞれ受験対策に、めいめい塾に通っていることを知った。

私は父の特訓のみで、塾には通わなかった。

けれども、彼らと同じ参考書だけは買ってもらったが、さほど難しいとも思わなかったような記憶がある。

そして受験はなんとなくバス。

この時から私の人生は変な方向に転換してしまった。

この時点で、前の母が死亡し、2度目の母が父と一緒になっていたが、今、この時、前の母だったら東海への進学についてどう思うのだろうと、時々考えてみる。

前の母が存命していれば、きっと喜んでくれたことと思う。

これには前提となる条件がついて回る。

というのは母が健康で生きていれば、という仮定が入る。

そのような条件下であれば、きっと母も喜んでくれたに違いないと思う。

又、私も母から、もっと違った教唆を受けていたに違いないと想像する。

2度目の母も、息子が東海という名門に受かったという事実に対しては、素直にうれしかったことと思うが、その後の経済的な負担には相当悩んだに違いない。

その分、父はアルバイトに一生懸命であったことは認めるし、今でも申し訳ないと思っている。

この時の事で、私は父の轍を決して踏むまいと思って、自分の長男は全て公立一本やりであった。

親父は私の長男が中学に入る頃になると、東海に入れるよう勧告に来たが、私は「公立学校で充分だ!」と、一歩も譲らなかった。

父と私は、この点ではっきりと違っていた。

そしてクラブ活動なども、学校の教育方針をそのまま受け入れて行わせた。

結果的には、長男の教育に関しては、親父よりも私のほうが良い結果を生み出している。大体、小学校6年生ぐらいで、一人だけ他の子供とはなれて、特別な学校に行かせること自体不自然なことである。そういう選択そのものが間違っている。

小学校6年生ぐらいでは、親としても自分の子供の能力のすべてを測ることが出来ない。小学校で少々成績が良いからといって、それが中学、高校と続くと思うほうがおかしいのである。

確かに、そのまま一直線に伸びる天才的な子もいることは確かであるが、自分の子供もそうだと確信したとしたら、親の思い上がりもいいとこである。

金の有り余っている家ならば、それでも良いが、我々レベルのしがないサラリーマン家庭では、いくら教育が大事だとはいえ、分不相応な教育は却って子供の能力を蝕むことになる。

それが私が東海に行った結論である。

だから私は、長男を公立ばかりで通した。

そのことにより、子供は子供なりに地域の子供と友達になったり、上に行くに従い、それ相応の友人をこしらえている。

子供の教育には金がかかるのは当然であるが、どうせ金をかけるならば、小さいときよりも大きくなってから金を注ぎ込んだほうが有意義だと思う。

今、長男に金が掛かっているが、これは東海に要る金が今掛かっているのだと思って、我慢して遣り繰りしている次第である。

大勢の金持ちの中で、自分のみ貧乏である、ことは惨めな思いがするものである。

学校の行事でも、自分では行きたくても行けない惨めさは実に嫌なものであった。

それならば勉強で見返してやろうと思っても、この勉強でも太刀打ちできないとなると、その惨めさは倍加する。

ここに集まっている連中は、多少とも小学校では上位にいた連中である。

なかなか抜きん出ることは出来なかった。

結果的に、入学してから卒業するまで、低空飛行の連続であった。

それでも初めて中学生になったとき、学校の講堂の立派さや、実験室などが完備されているのを見て、歴史の浅い小学校などは及びもしないと思ったものだ。

そんな施設が成績を上げてくれるわけではない。

結局のところ、文字通り灰色の青春以外のなにものでもない。

 

音楽について

 

あれは中学3年生の時だったと思う。

高校生が文化祭か何かで講堂で音楽を演奏していた。

それをこっそり覗きに行って、今でいうロック・バンドというべきかジャズ・バンドというべきか、とにかく生のバンド演奏を聴いて驚いたことがある。

あれが音楽なのかとびっくりしたものだ。

それを在校生がやっているのを見て、これにも驚いた。

今、思い返してみても、あの時の音楽が本当にジャズだったのか、ポピュラーだったのか、定かではないが、生のバンド演奏に接した事は、私の脳裏に強烈なインパクトを与えた。この時代、中学から高校にかけて、我が家のラジオは2度目の母が持ってきた5球スーパーが東の居間の茶箪笥の上においてあった。

夜10時になるとS盤アワーとか、L盤アワーという番組があって、これがポピュラー音楽を流していた。

もっともあの頃は、ジャズとポピュラーのジャンヌ分けなどなくて、アメリカのものなら何でも大雑把にジャズと言っていた。

丁度、1950年頃で、そろそろプレスリーが出、ビートルスが出ようとしていた頃で、このS盤アワーとか、L版アワーが聞きたくて、聞きたくて仕方がなかった。

電気に強い同級生は鉱石ラジオを作って、自慢しあっていた頃であるが、まだトランジスター・ラジオは出現していなかったように記憶している。

この番組が聞きたいがため、自分では解けない難しい問題を、父に教えてもらう振りをして、居間の5球スーパーに耳をくっつけて、この番組を聞いたものだ。

丁度この頃の曲が最近コンパクト・デイスクで復活されている。

23枚買い求めたら、息子がちゃっかり持って行ってしまった。

自分が青春時代、親の目を盗んで聴いた曲を、息子が又聴くというのもCDを持っていかれて困るという面と同時に、なんとなく嬉しいような妙な気持ちである。

これはお父さんが若いとき聞いたものだと教えると、「ふーん」というのみで無関心を装いながら、体をスイングさせているのを見ると、時代の経過を抜きにして現代の若者にも通ずる何かがあるに違いない。

後年、私が音楽を聴くことが好きになったのは、この生演奏を盗み見したからである。

しかし、とことんのめりこむほどの情熱はなかったので、自分で何か楽器を習おうという気は起こらなかった。

音楽は今でも好きで時々CDなどを鳴らしている。

 

自転車通学

 

高校生になったら今度は自転車通学を始めた。

それまでは電車通学で、小牧から上飯田までは名鉄電車で、上飯田から市電で山口町まで通っていた。

これをどうして自転車にしたか定かに覚えていないが、きっと定期券代を浮かすぐらいの魂胆があったに違いない。

その代わり、自転車を一台新調したので、あまり経費節減にはなっていなかったように思うが、それよりも放課後の自由さにメリットを見出していたのかもしれない。

定期券だと自宅と学校の間はそれでいいが、いざ学校からどこかに出かけようとすると、電車賃やバス代がいるので、それを節約したのかもしれない。

高校に入るとよく図書館に通ったものだ。

鶴舞の図書館や栄の図書館や愛知県立図書館にはよく通ったものだ。

当時、小牧から名古屋への県道は既に舗装されており、楽に走れたが、帰りには、特に秋口など西風が強く、風の強い日には前に進むことが出来ず閉口した。

雨にはさほど困ったことはなかったが、秋口の西風にはまいった。

あの頃、学校まで40分から45分で行ったように記憶している。

家を出て、今の名犬県道に出、道路の左端を今の自衛隊のゲート前から上飯田、平安通を通り山口町まで通ったものだ。

ゲート前から水分橋までの間はアメリカ軍の軍人や軍属の車で切れ目がなかった。

あの頃は大曽根から小牧までの間に春日井の坂下(現名鉄春日井駅の西側)の三叉路にひとつ信号機があるだけで、今の交通渋滞は想像も出来なかった。

アメリカのフルサイズの車、フォード、シボレー、ダッジ、クライスラー、オールズモビルその他もろもろの乗用車が整然とゲートに向かって進んでいた。

とにかく我々がゲートの前を通過して、平安通りを通過するまで車の列が続いた。

信号機が少なかったので、そのすべてが速度こそあまり出ていないが、それでもある程度のスピードで流れていた。

アメリカ人は「素晴らしいなあ」と羨ましかったものだ。

我々、日本人といえば、文字通り銀輪の一列縦隊であった。

それも犬山から名古屋まで自転車に弁当をつけた人の行列であった。

私も自転車の後ろにカバンを括りつけて、その中の一人として通ったものである。

途中、飛行場の前のクラブではボーイが掃除しているのを横目で見ながら、垣間見たクラブの内部の豪華さに驚いたり、アメリカ軍不出品の店の前をわざとゆっくり通過したりして、ペダルをこいだものだ。

自転車通学は図書館に通うのに便利であった。

鶴舞に行くのにも、栄に行くのにも、学校からは簡単に行くことが出来た。

図書館では閉館までいたこともあった。

又、夏休みなどわざわざ鶴舞まで自転車で出かけるので、父から「時間がもったいないから家で勉強せよ」といわれてもやはり出かけたものだ。

 

伊勢湾台風

 

父が始めてテレビを買ったのは私が高校3年生のときだったと思う。

大学入試に現役では失敗し、浪人生活中に伊勢湾台風が来た。

あの時はひどい台風であった。

あの時、我が家で一番大切なものといえばテレビだったような気がする。

夜には電気も消え、ローソクの火でテレビを防護するために布団を被せたように記憶する。家の中にいても雨漏りがひどく、雨が天井裏の煤をつけて落下してくるので、黒い雨が家の中に降っていた。

家の中にいても傘が必要なくらい雨漏りがひどかった。

こんなに雨が漏れば、もう瓦など一枚も残っていないと父と話したものだ。

そのうちに雨戸が内側にしなってきた。

これはいけないと言って、内側から雨戸を押し付けていた。

こういう肉体作業となると、どういうわけか3人兄弟の中で私の役割りになってしまう。日頃いがみ合っている家族も、このときばかりは協力しなければならなかった。

結局、家の中は雨漏りだらけになってしまい、どうして眠ったか記憶にないが、翌日、起きて屋根を見るとちゃんと瓦は乗っていた。ちょっと信じられない気持ちだった。

その当時、我が家は町の中にあり、南に大きな家があり、西側は電話局のビルがあり、台風の割には被害が少なかったのは、それらに囲まれていたからだろうと想像する。

しかし、あれだけの雨漏りがあって、瓦が残っていたことは信じられなかった。

この瓦を見たとき、我が家が潰れもせず、瓦が残っているところを見ると、たいした台風ではなかったと思っていたが、日が経つにつれて、その膨大な被害に驚かされた。

まず第一、牛山の家の事が心配で、自転車で牛山の家を訪ねた。

途中、道路にはいろいろなものが飛んできていたり、電柱が倒れていたりして走りにくかったので、桜井の踏み切りから、電車の線路を自転車で走った。

線路は異状がなかったが、電柱が倒れて架線が垂れ下がっていた。

電車が来ないことがわかっていたので近道をしたわけであるが、牛山の家は井戸舘が倒れたのみで他はたいした被害はなかった。

その後、小牧山にも行ったが、これは前に書いたとおり、鋤を入れたように風通しも日当たりも前よりも良くなっていた。

桜の大木が倒れたりして、台風の大きさを改めて認識させられた。

停電は思ったより早く復旧したように記憶しているが、電気が来るようになると、テレビで報道される被害の大きさに再度びっくりしたものだ。

名古屋市南部と、海部郡などの水郷地帯の被害の大きさに驚いたものだ。

後年、家内と一緒になって、家内の口からこの伊勢湾台風の体験談を聞くと、家内の話し振りが巧みなのかどうか知らないが、可笑しくて仕方がない。

寝ていたら急に体が浮いたとか、兄弟が近くに疎開したとか、家内の口からあのときの話を聞くと、あの大惨事も笑い話になってしまう。

 

入試失敗

 

この台風の所為でもないが、翌年の入試も失敗して、いよいよ社会に出ることになった。入試に失敗して嬉かったというと変だが、これから社会人になれると思ったら、正直言って嬉しかった。

家が貧乏であった割には、私はこれまでアルバイトというものをしたことがなかった。

前に述べたように、牛山の父の実家で農作業を手伝ったことはあっても、あれはアルバイトではなかった。

ただ一度、頼まれてアルバイト的なことをしたことがあるが、この一回のみのアルバイトは、なぜか印象に残っている。

あれは高校の何年生のときか定かではないが、以前から家族ぐるみで交際していた江長さんの家の仕事の関係で、そこの娘の賀津ちゃんと二人で、劇場のもぎりをしたことがある。江長さんの家との付き合いというのは、以前、母の元に江長さんの奥さんが刺繍を習いに来た関係からである。

その家の息子の彰彦君に、父が家庭教師を頼まれていた関係もあり、江長さんのところとは長い付き合いがあった。

そこの家に、賀津ちゃんという娘さんがいて、これが私と同級生。

そのアルバイトというのは、この娘と二人で、お雛様のように劇場の受付に座っていたので、そのときの初々しい胸のときめきが今でも記憶に残っている。

先に述べた小便くさい小牧劇場の受付で、二人座ってのもぎりの仕事であったので、忘れようにも忘れられない。

その後も、彼女とはいろいろな絡みもあったが、後ほど書くとしてここでは割愛する。

社会に出たとき、中学・高校の暗いトンネルをやっと抜けたと思った。

灰色の青春を、死んだ2度目の母の所為にするのは、母に対して酷なことと思う。

しかし、私の場合それが真実であったことも事実である。

負け犬の遠吠えかもしれない。卑怯なことかも知れない。

結局は、自分が弱かったということかもしれない。

別に母を恨んでいるわけではない。

私のような腕白坊主に曲がりなりにも飯を食わせて、成人になるまで世話をしてくれたことに対しては心から感謝している。

当時、母と私はよく諍いを起こしたものだ。

今、振り返ってみるとその原因が何であったさっぱりわからない。

経済的なこともあったことは事実で、母もよく内職をしていた。

かといって、母は内職の金を私のために出費していたようにも見える。

まるまる自分のためばかりではなく、我々兄弟のために出費していたようにも見えるし、母も我侭であったことは事実であるが、やはり私も相当我侭であった事も事実である。

我侭同志がぶつかり合っていた。

ひょっとしたら私が母に甘えていたのかもしれない。

しかし、この諍いが勉強にマイナスに作用していたことは事実である。

 

ハリー

 

父と2度目の母が一緒になったのは私がまだ中学に上がる前であった。

父は、母と一緒になると、すぐその後で子犬を一匹もらってきた。

薬の空箱に入れられて、風呂敷包みから顔だけ出した子犬を、父が勤めの帰りに持ち帰ったのを覚えている。

母は犬が大好きで、その子犬は結局我が家で156年寄食を共にすることとなった。

この犬を母は非常に可愛がった。

犬はハリーと名づけられて、母はハリーを家の上で飼うといって譲らず、結局、我々と一緒に寝ることとなった。

母はこのハリーに目がなかった。私も大の仲良しになった。

家の上で飼っていたので、母はいつも4つの足を洗って、上にあげていたが、それが自然と私のほうにも回ってきて、私もハリーの足を洗って上げるようになった。

母はハリーを溺愛していたが、私のほうは時々ハリーを特訓するので、犬のほうも尻尾を振っていいのかどうか迷っているように見えた。

それでも私の布団が好きで、私の足元に入り込むこともあった。

母の散歩は町内のあまり遠くないところで終わってしまうが、私と散歩にでると、川に行ったり、小牧山中を駆けまわったりするものだから、私には喜んでついてきた。

父はまったくハリーを可愛がらなかったが、それでも一家の大黒柱であることを犬なりに認識しており、父が勤めから帰ってくると、必ず足元によって、愛想を振りまくのが面白かった。

母は餌をやるので、母のみは犬の食事中でも器に触っても怒らなかったが、私では怒りを露わにした。

その代わり、私が散歩に連れ出すような仕草をしようものなら、飛び上がって喜びをあらわにした。

犬のことではまったく母とも同意が成立していたのに、他のことは諍いの連続であった。今思うと、両方が甘えながら我侭をぶつけ合っていたのかもしれない。

大学進学をあきらめたことは、残念だともなんとも思っていない。

今でも差ほど後悔はしていない。

父のみが、全ての苦労が水の泡となり、一番惨めな気持ちだったかもしれない。

 

中央貿易(株)名古屋

 

父も私の入試が失敗したということが分かった時点では、うじうじしておらず、私を父の友人の中央貿易の安部さんという人に紹介してくれて、その日のうちから私の社会人としての生活が始まった。

この中央貿易の時代はわずか1年半ぐらいしかなかったが、まさにばら色の青春であった。まず貿易会社ということで第一印象が良かった。けれども後がいけなかった。

最初のうちは何をしていいのかわからず、先輩の言うことだけを一生懸命していた。

大抵はタイプで清書したインボイスのチェックの仕事であった。

インボイスというのは送り状のことで、先輩が手書きで書いたものを、タイピストがタイプし、その出来上がったものを私がチェックするという仕事であった。

そのとき、英文レターを読んでいて、英語教育がいかに無力かということがわかった。

学校教育と実務とが掛け離れている。

この仕事はチェックするだけであったので、左程嫌な仕事ではなかった。

会社に入っても嫌な仕事というのはほとんどなかった。

倉庫で木箱や段ボール箱に、商標や行き先を刷り込む作業も、全部好きであった。

そして会社が名刺を一箱作ってくれたときは本当にうれしかった。

これで俺も本物の社会人になれたのか思ったものだ。

それとタイピストたちと一緒に食べる食事も楽しかった。

昼頃になると、弁当屋が会社の入り口に弁当を置いていって行ってくれるのだが、女の子にお茶をついでもらって、この弁当を食べるのがどんなに新鮮に映ったことか。

私の上司というべきか、先輩というべきか、わずか15名足らずの社員しかいなかったので、その両方を兼ねている人に石島という人がいて、この人は背が低く話し好きであったが、腕抜きをしてペンで原稿を書いているのを見て、俺も早くあんなになりたいものだと思ったりした。

この時、父が背広の上下を買ってくれた。

始めての背広でしたので、自分ではどういうものが良いのかさっぱりわからず、店側の言いなりに買ったけれど、気持ちの中では嬉しかった。

中央貿易の扱っていた品物は、陶磁器と玩具が主であったけれど、そのほかにもスーベニア的な雑貨を扱っていた。

しかし、取引金額としてはたいしたことなかったと思う。

社員15人足らずの中小企業でしたので、残業手当なども手当てとして確立されておらず、8時、9時まで残るときは、7時くらいのところで、どんぶり物を会社の金で取って、それで終わりだった。

それでも当時の私にとっては新鮮に映った。

その時の給料が9千円だった。

私の隣が上司の石島さんで、その隣がタイピストの塚元さんで、あと原立君や伊藤さんとか大畑さんとか、若い世代のものが一緒になって仕事をしていた。

残業のないときなどは、56人で栄まで足を延ばして、喫茶店などでおしゃべりをしたりして、同じ方向の者同志、白タクに乗って帰ったりして楽しかった。

当時、ルノーの白タクがあった。

巷には、アメリカのフルサイズカーとルノーのような小型車が同居しており、まだカローラもサニーもデビュウ前の時代である。

安部社長の専用車が、セドリックの縦目のものでしたので、時代がわかろうというものである。

会社にはセドリックと、他にオートバイが2台あった。

ホンダドリームが2台そろっていた。

この運転も中田という先輩から教わった。

路上を走ることはわけなくマスターしたが、あの頃オートバイの免許はスクーターで行われており、このスクーターには一度も乗ったことがなかった。

それでオートバイの免許を取りに行ったとき、試験場のお山のてっぺんで脱輪してしまい、免許取得には失敗してしまった。

その後、自動車の免許を取ろうとした矢先に、東京に行けということになって、これも沙汰止みになってしまった。

まだ名古屋での仕事も十分の覚えていないのに、東京に行けというのは、会社側も少し早計だったようだ。

結局、これが原因で会社を辞めることになってしまった。

結果的に、その後30年もその会社を辞めずに居れたかというと、必ずしもそうとは言い切れず、何時かは辞めざるを得なかったに違いない。

東京転勤がその時期を早めたことは事実である。

退職については、安部社長に不義理なことをしてしまい、申し訳ないと思っている。

社長としては人一倍目を掛けたつもりで、東京転勤ということであったかもしれないが、名古屋での仕事もまだ十分理解していない時点での、東京転勤は無意味だったようだ。

名古屋の仕事とはまったく関係のない東京の仕事は、若い私にとって、その意図を汲み取れなかったのかもしれない。

社長はもっと違うことを考えていたのかもしれない。

それを私が汲み取れなかったのかもしれない。

いずにしても東京転勤が退職を早めたことは確かだ。

 

オートバイ

 

話を元に戻して、このオートバイというのは普通に乗る分にはなんら支障なく、昼休みなどに、それを借りては天白の友人の家まで出かけたものである。

会社宛のお中元やお歳暮を山分けして、自分の分を家に運んだときなど、自転車で40分かかっていたところを、たった15分で来たことも覚えている。

前にも書いたが、当時は春日井と大曽根の交差点にしか信号機がなかったので、途中はそれなりに飛ばせたものだ。

このオートバイでは大変な失敗をして、会社というよりも社長に迷惑をかけたことを覚えている。

あれは名古屋港の潮止町の先に動植物検疫所というのがあって、梱包材料のワラの検疫証明をもらってくる仕事で、その帰り道、中川運河を走っていて、雨上がりで水溜りを避けて走っていたためか、バラのセメントを運ぶトラックにかぶせられて、転倒したことがある。

この時、身体は反対車線を飛び越えて堤防に投げ飛ばされたが、幸い怪我がなく一命を取り留めた。

オートバイのヘッド・ライトがトラックの排気口に当って、トラックの方は何の損傷もなかったが、オートバイの方はヘッド・ライトの部分が壊れてしまった。

それで近くの店で電話を借りて先輩に助けに来てもらった。

このことは社長には内緒にしていたつもりだが、多分ばれていたことと思う。

しかし、オートバイというのは痛快な乗り物である。

暴走族が乗り回すのもわかる気がする。

又、多くの若者が夢中になるのも理解できる。

こういうことはやはり経験してみないことにはわからない。

親父もいつ頃か定かでないが、ホンダスーパーカブを乗り回していたことがある。

あのカブの前に風防を取り付けて、当時はデイラー・オプションで風貌が取り付けれた。親父のことだから大事に、大事に、長いこと乗っていた。

私はカブはあまり好きでなかった。

オートバイは車体にまたがって乗るが、カブやスクーターは両足を揃えて、ちょこんと座る格好で乗らなければならなかったので、あれが好きになれなかった。

あの車体にまたがって、体で風を切って乗る痛快さは、やあはり若い者を魅せる要素を持っている。

しかし、危険も同居している。

私はオートバイを体で調子をとりながら、スキーのウエデルンの様な感じで乗っていたが、今のように信号が多いと、どうしても知性というか、ルールにのっとった交通法規に従わざるを得ない。

60km/h以上で走行しているときは、体でバランスが取れて安定しているが、それ以下の速度では意識してハンドルとブレーキを操作しなければならず、かえって不安全に感じた。当時はまだヘルメットの着用も義務化されておらず、皆ノーヘルであったが、交通事情は今とは違っていた。

それでも危険という点ではさほどの違いはない。

信号機は少なかったが、それとは逆に市内の至る所に市電のレールがあり、これに車輪を取られることもあり、市電の軌道内は石畳であり、オートバイのみならず、すべての車も走りにくかった。

けれども全体的には今よりも車が少なく、のんびりしていたものだ。

それにしてもオートバイというのは、昔も今も壮快であると同時に危険な乗りものであることに変わりはない。

 

タイプライター

 

この中央貿易にいるときには、オートバイも覚えたが、タイプライターも覚えた。

インボイスのチェックの合間に一台余っていた黒いアンダーウッドの19世紀風のタイプライターで練習したものだ。

タイプライターを専門に習得したタイピストには及びもつかないが、このタイプを習った経験は、後年ワープロを触るときになって非常に有意義になった。

あの時の黒のアンダーウッドは重さも重かった。

両脇で抱えなければ持てないような代物であった。

けれども、初心者の練習用には打って付けのものであった。

その代わりキイも重く、指で押し込むという感じで打たなければならなかった。

タイプ用紙の間にカーボン紙を入れると、同時に何枚もコピーが取れ、西洋人というのはまったく合理的なものを発明したものだと偉く感心したものだ。

後年、日本語ワードプロセッサーが登場し、タイプライターの影も薄くなってしまったが、これに最初に接したときは、その合理性に驚いたものだ。

昔、ジープのヘッド・ライトに肝を冷やしたほどではないが、ここでも一種のカルチャー・ショックを受けたものだ。

あのタイプライターは英語がアルファベット26文字で成り立っていることにより、存在しえたのであるが、後年の日本語ワードプロセッサーは、日本語の数限りなくある語彙を、電子技術の力で克服し、あの頃のタイプライターに近い代物に仕上げたものだ。

実に立派な発明だと思う。

タイプライターは26文字を機械的にメカニカルに打つのみであるが、日本語ワードプロセッサーは、それに比べるとコンピューターそのものである。

印字という、最後のところでは同じような結果であるが、ここにはハンマーとコンピューターの違いが隠されているので、これを見落としてはならない。

あの会社で、優秀なタイピストは電動タイプライターやポータブル・タイプライターを愛用していたが、所詮、電動タイプライターといっても、ハンマーと梃子の部分を電動にしただけで、軽いタッチで打てる、というメリットにすぎず、ポータブルのほうは全体を軽量化したのみで、基本的には大昔のものとなんら変わっていない。

ワープロはタイプライターとは異質のものである。

このときタイプを練習したいたおかげで、後年ワープロが世に出回ってきたときも、なんらショックもなくスムースにワープロに接することが出来た。

このワープロの出現は実に素晴らしいことである。

ワープロについては後に述べることになるかと思うのでここでは割愛する。

こんなわけで中央貿易の名古屋時代は、日に日に、目に入るものが新鮮であった。

それが東京に行くことになり変な風向きになってきた。

 

中央貿易 東京

 

東京の支店というべきか、営業所というべきか、東京の事務所は、最初、御徒町の肉屋の2階にあった。

下町の2階屋に電話と机をおいたようなところで、先輩と女の子が一人いた。

今思うと、この拠点の使命は、玩具や雑貨品のサンプルの収集が仕事であったようだ。

よって、シッピングやインボイスの書類作成という輸出業務の本来の仕事は何もなかった。ただのアンテナに過ぎなかった。

入社して一年足らずの若造で、会社の仕事もまだ十分に理解していない私は、そのことが理解できずにいた。

私が東京に転勤なってしばらくしたら、この事務所は御徒町から浅草のタイガービルの4階に移転した。

会社としては、ビルに移転して会社の規模拡大という線が決まっていたのかもしれない。そこに私が先発隊として送り込まれたのかもしれない。

そうした含みを私は気がつかずにいたのかもしれない。

そこで私は先輩から言われるままに行動していたが、この先輩というのが、どうも生活の滲み出た、フレッシュさに欠けた、如何にもサラリーマン生活に疲れたという感じで、はきはきとしたところがなく、女の子といえば、これも無気力で、何を聞いても返事がなく、てきぱきとせず、好きになれなかった。

先輩も女の子も、人は人、自分は自分、言われたことはするがそれ以外は舌を出すのも嫌という感じで、私としては取り付く島もなかった。

私といえば、この先輩に言われたことをするのみで、毎日使い走りのようなことばかりしていた。

住まいは、会社が四谷3丁目というところに下宿を借りてくれたので、寝食には不自由しなかった。

此処から御徒町、後では浅草橋まで、あらゆる手段で通勤した。

さすがに東京都内であって、どんな手段でも通勤できた。すべての交通機関が利用できた。

一度、台風で電車が不通になって、つい先ほど開通したという状況に置かれたことがある。このときの混みようといったら全くひどかった。

電車の中に人間が3重ぐらいに重なり合っていた。

窓ガラスは割れるし、それはひどいものであった。

あんなことはそれほどしょっちゅう経験することではなかったが、東京での会社の仕事はさっぱり要領を得ず、どうしていいのか分からずしまいで日が暮れていった。

しかし、私生活のほうでは、東京での生活を100%謳歌したものである。

明治大学に進学した平野君が阿佐ヶ谷におり、浪人中の市川君が下総中山いたりして、両者の間を行ったり来たりしたものである。

又、平野君や市川君の下宿から出勤したりして、自由奔放、青春を謳歌したものだ。

あの頃、平野君は立派な洋間に下宿しており、市川君はベニヤ一枚、向こうは新婚夫婦というひどいところにいた。

あれでは市川も勉強もおちおち出来なかったに違いないと想像する。

当時は、まだオリンピックの前で、新宿西口などはバラック建ての店舗が並んでおり、その中は迷路のようになっていた頃だ。

夕食をわざわざ此処まで食べに来たことも何度かある。

今考えてみると全くひどいところだ。

戦後の焼け跡がそのまま残っているという感じで、この時点で戦後も13年か14年経っていたにもかかわらず、終戦直後のたたずまいを匂わせていた。

銀座とか、渋谷とか、新宿駅前はかなり復興して、高度経済成長に入っていこうとしたときに、この新宿西口は終戦直後のままのムードが漂っていた。

その後のオリンピックで、これらは一掃されているが、あの雑踏には一種の懐かしさがある。

縁日の雑踏とは違う、何か異様な雰囲気がある。

何か、金儲けのネタでもないかと、皆が鵜の目鷹の目で生き馬の目をも抜きかねない殺伐とした緊張感がみなぎっていた。

縁日の雑踏のように、のんびりとした、だらだらとして混みかたと違う雰囲気があった。最初、事務所が御徒町にあったので、御徒町のガード下のアメ屋横丁をよく歩き回った。今でもそうであるが、ここは米軍放出品と、食料品の小さな店が並んでいた。

ジッポーのライターが3ドル何セントと向こうの値札のまま売っていた。

当時はまだ1ドルが360円の時代でしたので、ライター一個千円になるが、当時の物価からするとずいぶん高いものであったことがわかる。

今でも大晦日のテレビでは御徒町の買い物風景を写すが、当時もまったくあのとおりの風景であった。

しかし、どうして御徒町があのような繁栄の形態をとったのか不思議だ。

これは私の独断と偏見による推測であるが、東京中が焼け野原になったときに、あのガード下のみは屋根があり、当時バラックを作って商いをしようとした人たちにとって、あのガードしたのみは屋根を作る必要がなく、周囲を囲うだけで雨露がしのげたので、目ざとい商売人にとっては店を出すのに一番手っ取り早く、簡単な場所だった想像する。

それに上野駅に近いという場所柄も大きなキャパシテイとして作用し、人通りが多いということで、潜在的な需要があったに違いない。

東京に来て驚いたことは、やはり人が多いということである。

私のように、名古屋が近いとはいえ、田舎育ちのものにとっては、長いこと居ることは出来ない。

始めのうちは、いろいろなものが目新しいので、さほど苦にはならないが、生活の期間が長くなると、やはり辛抱できなくなるようだ。

あの人の多さには参ってしまう。

東京の大学に進学した連中もほとんど帰ってきている。

住むのは名古屋で、ときどき東京に出張で行く程度のほうが我々田舎のものにとっては心が休まる。

「生き馬の目を抜く」という言葉があるが、我々田舎者にとっては、そんな生活を長くは続けることは出来ない。

当時、名古屋・東京間は準急の「東海」と呼ばれていた列車があった。

これだと片道4時間ぐらいかかったが、それでも当時一番安い列車であった。

ある時、名古屋に帰って東京に向かうとき、物は試しと思って、名鉄電車で豊橋まで行って、そこでこの「東海」に乗り継いだところ、結局東京につくまで検札が来なくて、豊橋東京間のキセル乗車に成功したことがある。

検札がくれば切符を買うつもりではいたが、いよいよ東京が近くなってくると、切符を買うのが惜しくなって、あわよくば成功しますようにと、半分祈りながら、半分びくびくしながら乗っていたものである。

完全に成功したらバンザイ!シテヤッタリ!と思い、小さな悪魔が拍手喝さいしたものだ。その後は、これ以上においしい話はなかった。

東京生活も、私生活の面では充実していたが、仕事のほうは行きつまりを感じて、挫折を迎えることと成った。

まあここで辛抱したとしても、いづれは挫折を迎えねばなければならなかったが、貿易業務のイロハでも、完全にマスターしてからならば良かったけれど、マスターする前のことだったので、その点心残りだった。

これはソニーとかナショナルのような急成長して、段々大きくなる成長産業の会社ならばしまった!という悔悟の念もあっただろうが、遅かれ早かれこの破局は迎えたに違いない。

 

日本碍子

 

そしてこの次は、名古屋の南、雁道にあった日本碍子が小牧に進出するということで、その小牧要員として日本碍子に入った。

これは江長さんの知人の田中さんと言う人で、今でも絹庄の前に家があるが、そこの紹介で入ったけれど、田中さんの紹介ということで、中央貿易のときのようにスムースに入社できるものと高をくくっていたが、何のことはない、臨時工で、田中さんの紹介というよりもただの口利きだけであった。

そして文字とおりの肉体労働であった。

最初のうちは雁道の本社工場まで半年ぐらい通った。

雁道は遠いので上飯田線を一番電車で、上飯田から市電に乗り換えると、なんと全員日本碍子に勤める人間ばかりであった。

半年ぐらい経ったら、小牧工場に移ったが、小牧工場は二重堀に出来た新鋭工場であった。それに近いところでしたので、ここは自転車で通った。

ここでも新鋭工場とはいえ、肉体労働が主体であった。

今はきっと合理化されて、ロボットやベルト・コンベアーが導入されていることと思うが、当時は労働者の肉体が今のロボットの仕事をしていた。

今思うと、碍子という、単一品種を多量に作る作業というのは、合理化が一番しやすかったと思うが、その割には遅れていたような気がする。

あの頃は、ロボットやオートメ機械よりも、人間の方が安かった時代だったからかもしれない。

ここにいる間は文字とおり100%労働者であった。

それも本工の下の臨時工であった。

2カ月おきに契約書を更新しながら2年近くも意地で頑張った。

なにくそ!負けてたまるか!という意地で頑張った。

本工になった途端に辞めてしまった。一種の意趣返しのつもりであった。

中央貿易には未練があったが、恨みはなかった。

しかし、日本碍子には恨みはあったが未練はなかった。

ここの仕事は全くひどかった。

組立課というところに配属されたが、この組立課というセクションが一番きつかった。

ここは、焼きあがった陶器の部分に、金具を取り付ける作業であるが、これは水蒸気がもうもうと立ち込めるところでする作業で、30分もしていると上から下までびっしょりと濡れてしまう。

セメントを養生するための蒸気と、自分の汗の両方で、手ぬぐいを絞るときのように濡れてしまう。

金具が上向きに流れてくるところに練ったセメントを入れ、そこに陶器の部分を押し付けて、それを養生釜の水蒸気のトンネルの中に入れると、トンネルを通ってくる間に、蒸気の熱でセメントの部分が養生され、出口に出てくる頃は程よい硬さになっている。

この金具からはみ出したセメントを、竹のへらで突いて取り除くのが仕事であったが、このセメントを取り除く作業が、蒸気と自分の汗でびしょびしょになるわけである。

力と健康でさえあれば誰でも出来る仕事であったが、大企業はこういう部分に臨時工を使っていた。

小牧工場で働いていたのは、臨時工といっても基本的には基幹要員になるはずであったが、同じ高卒でも、きちんと入社試験を受けて入社したものには、こうした作業にあまり長いことさせてはいなかった。

これは日本碍子のみならず、大企業は大なり小なり同じようだ、と言うことが三菱に入社したときにわかった。

あの当時一緒だった連中も半分くらい今でも残っているが、他の半分は我慢できずに辞めていったようだ。

単一商品の大量生産だから、今では完全にロボットかFAが実際の仕事をしていることと思うが、当時はまったくひどかった。

企業内に風呂が用意されているということは、仕事がきついから風呂がある、と考えたほうがいい。

これも三菱に入って、大幸工場に配属されて気がついたことである。

ここでも立派な風呂があったが、その分、仕事がきついことは日本碍子と同様である。

日本碍子にも立派な風呂があって、仕事を終えると風呂に入って汗を流し、つやつやした顔で家路についたものである。

その分、社内における労働はきつかった。

しかも夜勤があって、昼間と同じ労働を夜中にやるのである。

これもきつかったが金にはなった。

 

再び音楽について

 

あの頃、夜勤から帰って朝の7時頃だったと思うが、家でテレビをつけたら、アメリカのケネデイー大統領が暗殺されたというニュースが飛び込んできた。

あの時は、日本とアメリカの同時放送であったと思う。

まだ衛星放送がなかったので、海底ケーブルか何かで、アメリカと日本でリアル・タイムに放送する最初のときであったように記憶する。

その後は、ずっとその放送ばかりで、大統領の背中にジャクリー夫人が覆いかぶさっていくシーンを何度も見た。

そして飛行機の中で、副大統領のジョンソンが宣誓をしているシーンもあった。

あれには驚いた。

その後、あの事件に対してもいろいろな考察がなされ、さまざまな本も出たが、あの時これは偉い事になったと思ったが、その後、大した変化も我々の身辺では起きなかった。

しかし、アメリカはあの時就任したジョンソン大統領からベトナム戦争の泥沼に入り込んでいったことを世間の人はあまり評価しない。

日本碍子の仕事は単純な肉体労働でしたので、中央貿易にいたときのような目新しい感激というものは何もなかった。

けれど、夜勤をしていたため金回りは良かったので、ステレオを購入した。

我が家には親父が自作したという電蓄が昔からあった。

小牧の女郎屋の店先に置いてあったような、あれと同じような電蓄が玄関の戸を開けると真正面に鎮座していた時期があった。

そしてレコード盤もケースの中にいっぱいあった。

戦争前に父か母が買い求めたものであろう。

2度目の母が持って来た5級スーパーも愛用していたが、これではレコードが聞けなかった。

あの頃のレコードには、SPLP,EPというのがあった。

SPというのはドーナツ版ともいってセンターの穴が大きかった。

LPというのはロング・プレーヤーの略で普通に言うLPである。

このLPというのは最近CDに押されて少なくなったが、そのほかにEPというのがあった。これはLPほどの大きさで、78回転で、一面約3分ぐらいで終わってしまう。

戦前から普通「レコード」という場合は大抵EPである。 

この父の自作の電蓄は鳴らせば鳴った。子供の頃から私は時々鳴らしていた。

しかし、ソフト、つまりレコードの方が買えなくて、古いレコードを引っ張り出してはかけていた。

最大のボリュウムにすればかなり大きな音量になった。

家の前が警察であった頃は、「昔の軍歌を奏でると牢屋に入れられる」という噂を真に受けて、軍歌をかけるときはボリュムを絞ってかけたものである。

そんなわけで、戦後も10年以上経つと、電蓄が廃り、ステレオというものが幅をきかせてきた。

私も20歳を過ぎていたので大きな買い物としてステレオを買った。

昔、小牧駅前に伊藤電気という家電の店があってそこで買った。

今は第一電気の系列に入っているが、店そのものは残っている。

このステレオはスピーカーが左右に分かれていた。

当然であるが、まだ一体式のものでした。そしてFMチューナーもついていた。

FM放送はまだ実験段階で、本放送はまだなされていなかった。

FM放送というものも、あの頃まだ理解できなかった。

ただAMよりも音が良いというぐらいの認識しかなかった。

それに放送もされていないのでFMチューナーについては期待もしていなかったが、ステレオを手に入れたことは嬉しかった。

このステレオを床の間において、付録につけてくれたプレスリーのLPを聞き入っていた。

この時の気分は、何だか自分が一回り大きくなったような、満ち足りた感じがしたものである。

その後、タンゴのLPを買ったり、映画音楽のLPを買ったりしていたが、その時点ではまだジャズに凝っていたわけではない。

日本碍子の違うセクションにいた村井という男と、何かのことで知り合って、彼からジャズの教唆を受け、のめり込んだのである。

その時のきっかけは、村井が日本碍子小牧工場の食堂でレコード・コンサートを開いたことがあって、それがきっかけとなったような気がする。

彼からオーデイオの話を聞き、ジャズの話を聞いたのが、ジャズにのめりこむきっかけであったような気がする。

その時分から、柳橋のヤマハ・ビルに出入りするようになっていた。

あのビルは、昔は1階が楽器売り場で、2階がレコード売り場であったが、最近行ってみると反対になっているのでびっくりした。

ヤマハの帰りか何かで、広小路を東に歩いて、CBCの前を通りすぎ、新栄町の手前で、汚いショウ・ウインドウにレコードのジャケットが2,3枚展示してあったので、「何かな!」と思って覗いていると、店の奥から親父が飛び出してきて、「あんた、前に家の店でレコードを買ったことがあるだろう!」といって私を家の中に引っ張り込んで、いろいろと自分の勝手なことばかりをしゃべりだした。

そのうちに「レコード・コンサートには行くか?」というので、「行くと」と言った。

確かにレコード・コンサートは中央貿易にいた頃から、いろいろなメデイアで知る限りにおいては出かけていたので、中区役所ホールで行われていた国際レコード・コンサートなどもよく行ったものだ。

そして「中区役所ホールの国際レコード・コンサートはどうだ?」というものだから、「よく行く」と答えたら、「あれは俺がやっている」というので、今度はこちらがびっくりしてしまった。

考えてみると、あのレコード店と中区役所は目と鼻の先であった。

あのコンサートは前半がクラシックで、後半が ポピュラーであった。

そして司会者は年配の人が、きちんとした黒の服装で、礼儀正しくやっていたので意外な感じがした。

その親父の話を聞いてみると、オーデイオのついても、ジャズについても、非常に造詣が深いので、これは本物だと思った。

店の中(小池レコード店)に引き込まれて、汚い畳の上に座らされたとき、「何だ、この汚い店は!」と思ったものだが、アンプもスピーカーも裸のままで、コンデンサーや真空管には埃がたまっていた。

まさかあのレコード・コンサートの司会者と同じ人物とは信じられなかったが、話を聞けば納得さざるを得なかった。

「今どういうレコードを持っているか?」と聞くものだから、ありのままを話したら、ケチョンケチョンにけなされてしまった。

「いっぺんで良いからうちで買ってみよ!」と言われ、一枚だけ買った。

今でも持っているが、ブルーノートのジャッキー・マクレーンの「フリーダム・ソング」という盤だ。

ここの親父は今で言うところの個人輸入、輸入代行業をしていたわけである。

あの頃、レコードの自由化はまだなされていなかったので、ヤマハにも日本プレスのものはあったが、直輸入盤というのはなかなか手に入らず、こうした店でなければ買えなかった時代である。

この時代にはまだブルーノートというレーベルも知らなかった。

それで、その盤を買ったところ、一枚3千円ぐらいしたと思うが、普通のLPが2千円ぐらいしたので随分高かったわけだ。昭和35,6年の話である。

この話を村井に話したことにより、一気に意気投合したように記憶している。

このブルーノートのジャケットを、辞書片手に訳したが、ついに棒折れになった。

とにかく直輸入盤であったので、日本語は一切書いてなかった。

その後、ヤマハでブルーノートばかりではなく、バーブやリバーサイド、その他の洋盤も買っているので、あの親父から買ったのはあの一枚だけであったが、あの博識には驚いた。当時、LPは国産品で一枚2千円、ヤマハの輸入ものかどうかは知らないが、その類のもので2千5,6百円前後であったところをみると、LPは生産開始から終焉まで、ずっと2千円前後で推移していたというのも面白い事実である。

このレコードの歴史というのも考えてみると面白い。

エジソンが始めて蓄音機を作ったときは、竹の筒のようなソフトであった。

それがEPになり、ドーナツ盤になり、LPになり、CDになる。その過程は実に興味深い。新しいものが出てくる度に、前のソフトが駄目になり、全く応用も代用もその他の利用法もなく、ただのゴミになってしまう。

ただ持ち主の感傷的記念品でしかない。

CDのハードでLPは聞けず、LPのハードでEPは聞けない(初期は回転数を変えることで聞くことが出来た)。

「宝の持ち腐れ」というのはこういうことを言うのであろう。

この頃、レコード・コンサートにはよく行ったものだ。

それは大抵、何処でもタダだったからよく行ったわけだ。

その他にも、平野君の大学の関係で、明大マンドリン・クラブの演奏にもよく行った。

これは平野の切符の割り当てのノルマを消化するのを助けると同時に、自分でも聞きたかったので一挙両得であった。

中央貿易で東京にいた頃、日比谷の野外音楽堂でハワイアンの演奏を聞きに行ったとき、日本の聴衆のレベルの低さには驚いたものだ。

あの時、バッキー白片だったと思うが、ハワイアンでは一流であるにもかかわらず、フラダンスが始まると、若い女性たちがくすくす笑い出して、こちらがびっくりしたことがある。

東京の女はハワイアンを見たことがないのかと不思議に思ったものである。

このときもタダの演奏会でしたが、タダだと聴衆のレベルもタダに近い連中なのかもしれない。

値段の高い演奏会だと、元でも取り返すつもりで、真剣になるのかもしれないが、タダでもいいものはきちんと聴くものだと思う。

その後、自衛隊に入って、ジャズにのめりこむ情熱も減退し、しばらく遠のいていた。

が、何処にいても同好の士というのはいるもので、それは5術校の学生隊で隣の班長をしていた安南さんで、今でも年賀状のみは交換しているが、これが熱烈なるジャズ・フアンであったのには驚いた。

人は見かけによらないもので、村井にしても、安南にしも、ジャズという雰囲気ではない。三菱に入ってからも、意外な人がジャズが好きということを聞いて驚いたことがある。

意外な人というのは、名誘の勤労課の野立さんである。

若い頃のジャズの情熱が冷めて、この年になって、落ち着いてジャズというものを考えてみると、ジャズは大人の音楽である、ということを改めて認識させられた。

ロックは若者の、クラシックはインテリの、演歌は庶民のものと、ジャンヌ分けするとすれば、ジャズは心身ともに大人になりきった人の音楽である。

ジャズも常に変わっているので、これを進化させるとフュージョンになるが、こうなると気障っぽくなる。

ジャズがジャズのままでいる間は、大人の音楽である。

何が大人かというと、この大人の定義の仕方で、ジャズが大人の音楽であり続けるかどうかの分かれ道である。

一口に大人といってもその定義は難しい。

子供に対する大人という意味で、精神的に落ち着いて、何物にもとらわれず、個人の意思で行動するというもの、という条件も大事な要因であろうが、口で言ったり、文字では表現できないものと思う。

ロックの若者たちからは一歩はなれ、演歌の庶民性からは超越していなければならない。5級スーパーに耳をくっつけて聞いていた頃は、ロックも、ジャズも、その他のポピュラーもさっぱりわからず、それでも自分ひとり粋がっていたが、あの頃は演歌のことを流行歌といっていた。

これは子供の頃から好きにはなれなかった。

今、演歌と言っているが、昔の流行歌もかなり幅があったようで、その中でも美空ひばりは嫌いの歌手の筆頭であった。

私の脳裏の中では演歌、流行歌、小便臭い小牧劇場、という連想ゲームが成立する。

昔の小牧劇場では映画の休憩時間の10分か15分の間にかかる流行歌、これが今で言う演歌である。

この休憩時間にかかる、この手の曲が大嫌いであった。

その頃からジャズに傾倒していたわけではないが、演歌とは相容れないものが体の中にあったようだ。

だから今でもカラオケには一度も行ったことがない。

 

宴会について

 

カラオケといえば、今は宴会の仕方もずいぶん違ってきた。

昔の宴会は、芸者を呼んで座敷の中央で踊る人、脇で三味線を弾く人、太鼓を打つ人で、お囃子をしたものである。

歌も端唄とか、新内とか、唄を歌うのは本職で、つまりプロが歌って、客である素人は、手拍子を打つ程度であった。

素人が唄うのはあくまでも余興で、出来ない人、嫌がる人を無理に引っ張り出すというようなことはなかった。

そんな宴会は、中央貿易に入社した最初の慰安旅行の時が、最初で最後であった。

時代の流れとともに、その芸者そのものがいなくなったので、全員回り持ちで歌う、というスタイルになったが、そこは酒に酔った振りをして、下戸にもそれなりに通った。

下戸であろうが上手であろうが、ノルマさえ果たせば後は酒を飲んでいればよかった。

この頃はまだ肉声で手拍子が主体であった。

それが今の宴会ときたら、酒飲みが小さくなって、酒を酌み交わすよりも、歌を歌うほうがメインになってしまった。

宴会とは名ばかりで、その実はカラオケ大会である。

昔の宴会は酒飲みが大きな顔をしていたが、今では下戸でも歌が巧い者が大きな顔をしている。

大勢の中にはゆっくりと酒を酌み交わし、じっくりと人の話を聞きたい、と思っているものもいるはずであるが、カラオケに振り回されている。

宴会でカラオケを歌って、「俺の歌を誰も聞いていない」と怒っているものがいる。

送別会でも、忘年会でも、全てカラオケ大会である。

宴会のカラオケ大会で歌いたがるのは大抵下戸である。

下戸は酒が飲めないので、自分ひとりで歌っている分には構わないが、ボリュウムを最大にしないことには納得せず、これが又はた迷惑である。

「俺が歌っているのに聞かない」と怒っているのと同様、一種の自己顕示欲の発露である。他愛ないといえばそれまでだが、私から見れば馬鹿の一言である。

今、日本全体が経済的に躍進しているので、海外でもこのカラオケが出回っているらしいが、日本の恥の文化の輸出である。

カラオケという言葉からして可笑しい。

あれはメインの歌はないが、バックのオーケストラは入っていっているわけで、いうならばカラウタでなければならない。

それならばストレートに理解できる。

 

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