自分史3
進駐軍について
坂井さんの家の前まで来ると、今の絹庄本店のところから、小牧のユニーに通じる道路があるが、この道を米軍のトラックが頻繁に行き交っていたものだ。
飛行場の拡張工事のため、小牧山を削った土を積んでひっきりなしに通ったものだ。
正確な時期はわからないが、あのダンプカーとジープの合理性には子供心にもショックを受けた。
ジープのヘッドライトの明るさと、車体が幌であることの合理性には文字通りカルチャー・ショックをうけて、これならば戦争に負けるのも致し方ないと子供心にも思ったりしたものだ。
このショックを受けたのが学校に上がる前で、もう少し成長して行動範囲が広くなり、小牧山まで延びると、ここで繰り広げられていた土木工事、山の土を削ってダンプカーに乗せ、飛行場を拡張するという、この作業を見たときの驚きを忘れることは出来なかった。パワー・シャベルの威力、ダンプカーの合理性、子供心にもえらく感心して、負け戦も致し方ないと納得したものである。
ジープのヘッドライトの明るさには本当に驚いた。
ジープから足を組んだGIの姿にも驚いた。
GIがジープに乗っているときのリラックスした格好にもびっくりした。
戦闘車両はあれでなければいかんと子供心にも感心したものである。
ジープの屋根のキャンバス・シート、サイドの細い支柱、側面の開放感、アメリカ文化の真髄を垣間見たような気がした。
パワー・シャベルを始めて見たときも驚いた。ダンプカーを始めて見たときも驚いた。
パワー・シャベルのキャタピラーやバケット、ダンプカーの荷台が上に上がるのを見て、アメリカの底力を見せつけられた思いがしたものである。
今の日本ではこんなものはどこでも見られる風景であるが、終戦直後は本当に驚異であった。
日本の土木工事といえば、モッコと天秤棒、少し合理化されたところで、トロッコである。そんなところにいきなりダンプカーやパワー・シャベルで工事が始まれば、その驚きは察するに余りある。
アメリカ人のオープンな面にも驚いたことがある。
GIがジープに女を乗せて走り回っているので(当時女といえば、パンパンのことで)子供心にもアメリカの軍人はどうなっているのか不思議でならなかった。
ジープという官用車に女を乗せること自体、制服を着て女と一緒にいること、勝ったほうの軍隊に負けたほうの女が一緒にいることなど実に不可解で仕方がなかった。
これは私の成長とともに不可解が徐々に消滅していったが、子供の時は不思議でならなかった。
母の病気
しかし、この時分の我が家は暗かった。
それは母の病気の所為であった。母は当時結核を患っていた。
父は母の病気は医者の見立て違いだ、と憤慨していたが、怒ったところで母の病気が直る筈もなかった。
私が何歳のときかは定かでないが、とにかく小牧病院の南向きの病室に入院していた、
当時の小牧病院は今の小牧市民病院と同じ場所ではあったが、あれほど立派なものではなかった。
木造二階建てで、南側の病棟の下は土手になっていた。
そこには大きな桜の木の並木になっていた。
この土手の下にはメダカや、オタマジャクシや、アメンボウのいた水溜りがあった。
ここに母が入院していたので私はよくお使いに出された。
お使いで母のベットの傍らに近寄ると、薬ビンと薬袋が枕元にあった。
また病院全体がクレゾールの匂いて包まれていた。
母は子供心にも父にはもったいないと思った。
父" height="には悪いが、母のほうが父よりも知的であり、趣味もよく、子供心にもいい母だなあと思っていた。
しかし、心の中ではそう思いながらも、行動のほうはよく我侭を言って母を困らせたものだ。
病気見舞いとして、父の元に来た鶏卵を母のところに届けると、母が5円の小遣いをくれた。この5円の小遣いは嬉しかった。
病気見舞いの卵といえば、当時は今のようにパッキングの技術がなく、菓子箱に籾殻を入れて、その中に卵を入れて贈答品として立派に通用したものだ。
卵も今のように白いものもあったが、赤い卵も多かったように記憶する。
赤い卵はたぶん名古屋コーチンの卵ではなかったかと思う。
父は勤め人でしたので、我々は鶏を飼ってはいなかったが、当時は個人の家でも鶏を飼っている家が多かった。
非農家で、結核の母を抱えた我が家では、卵の病気見舞いは有り難く、貴重であった。
しかし、私はこの卵が羨ましかった。
当時、結核はまだ克服されておらず、国民的な恐怖に満ちた病気であった。
決定的な特効薬はなく、パスという薬を父が買ってきていた。
ずいぶん高価な薬だったことと思う。
その後、ストレプト・マイシンとかペニシリンという抗生物質の薬が出来て、これらが特効薬として、結核が克服されたのではないかと素人なりに考えている。
母がこのストレプト・マイシンを使用したかどうかは定かでない。
どちらにしても、病気の母を抱えた父の苦労は並大抵ではなかったろうと想像する。
今、自分が当時の父と同じ立場の陥ったとしたらと思うと、背筋が寒くなる思いがする。幸いなことに、今のところ妻も元気で有り難いことだと思っている。
当時の父の状況としては、男の子供が3人いて、自分は勤めに出なければならず、どうしても家事をしてもらう人が入用であった。
そのため、小原の小母さんが来てくれたことがあった。
本当は小原のお祖母さんというべきであったが、どういうわけか小原の小母さんといっていた。
小原の小母さんは、子供心にもきれいな小母さんで、品位があると思った。
この母にしてこの子あり、ということが子供心にもわかった。
品位という点では、長谷川家よりも一歩上位にあると感じた。
この小原の小母さんが我が家に来て、母の代わりに炊事をしてくれたので、私は年寄りに力仕事をさせてはならじと、井戸の水汲みをしたわけで、カメにちょうど3杯と、予備に
1杯汲み置いたものだ。
母がこうして病気だったので、私自身も炊事をしたことがある。
小学校の5年生か6年生の頃だったと思うが、お釜で米をといで、八百屋で材料を買ってきて、今思うとすき煮を作っていた。
流し、コンロ、井戸、台所などが目の前に浮かぶようだ。
当時、我々3人の子供も大変であったが、父もさぞかし大変だったろうと思う。
次男は母の病気の所為で牛山の父の実家に預けられていたことがある。
あの頃、父の実家ではヤギを飼っていて、ヤギを大山側の堤に連れて行って、草を食べさせていたが、このヤギが次男を頭で小突いて川に落とした、といってニュースが伝わったこともある。
父の実家が農家であり、当時はまだ我々の祖父母は健在であった。
母は乳飲み子を抱いて、自分は病床に伏し、子供は他に預けられて、さぞかし無念な気持ちだったろうと想像する。
それで病気の母親の母乳では子供を育てるのに悪いというので、三男は粉ミルクを飲んでいたように記憶している。
ミルクばかりでは家計の負担が大きいので、牛山のヤギの乳をもらいに私が使いに出された。
当時、小牧と間内の間の運賃が5円であった。
朝、父と一緒に電車に乗って、間内駅で降りて、父の実家まで行き、ビンに入ったヤギの乳を貰って、帰ってきて、それから学校に行った。
小牧駅は当時まだ木造建てで、小牧口の駅はなかった。
ホームのみはあったが、電車は止まらなかった。
だから間内は小牧から1区間のみであった。
間内の駅も無人で、自分で電車の扉を開け、車掌のところまで行って切符を渡していた。当時の小牧駅も焼いた枕木で囲った粗末なものであったし、間内駅は無人駅で、囲いも何もなく、ホームの端から畦道とも路地ともつかない道が集落の中に続いていた。
無賃乗車しようと思えば簡単に出来た。
けれども度胸がなかった所為か一度も無賃乗車はしたことがなかった。
それでこの5円の運賃が恨めしかった。
牛山の実家ではヤギを飼っていたことは前に書いたが、母屋の裏にヤギ小屋があって、ちょうど1坪くらいの大きさであった。その前にヤギの乳を搾る柵があった。
その柵の中にヤギを入れて乳を搾るのであるが、ヤギの乳房は温かく、産毛があって、子供の手ではうまくしごくことが出来ず、上手には出来なかった記憶がある。
祖母がやると ジュージューと音を立てて大ジョキの中に溜まっていった。
このヤギの乳を小さななべに入れて煮ると、表面に薄く幕が張って、脂肪が分離したものであろうが、これを自分で食べてしまい、残りに砂糖を入れて哺乳瓶に入れた記憶がある。今、思い出せばまことに健気なことをしていたものだと、自分でも感心する。
そうせざるを得なかった父も母も、不憫と思いながら、自分の不幸を恨んでいたことだろう。
今、こうして思い返しても、自分でも哀れに思える。
しかし、当時の私は、自分自身決して不幸などと思っても見なかった。
それが自分でも不思議だ。生まれつきの楽天家なのかもしれない。
ある日、外から帰ってくると、西日の差す西側のガラスの入った障子のところに、北向きに母が寝ていた。
顔には白い布が被せてあり、頭のところには短刀がおいてあった。
母が死んだなと思ったが、不思議なことに、涙も出なければ、悲しいとも思わなかった。葬式がどのような手順で行われたかは記憶にない。白木の位牌は覚えている。
母が死んだときは小学校の6年生だったので、その間、母に心配をかけるほどの悪さをしたことは事実だ。
当時、娯楽のない時代で、小学校の校庭などで夜、野外映画が上映されて、そのときの出し物で母物というのがあった。
大抵は、三益愛子が出演して、瞼の母に会うとか会わないとかいうものであったが、この映画を見るとすぐに涙が出てきて困ったものであるが、自分の母親の死に直面した時は、少しも涙が出なかった。
2度目の母が死んだ時も、不思議と同じように、悲しくもなく、涙も出ず、極めて冷静に対処できた。
身内の死に対しては冷淡なのだろうか?
母が結核でしたので、葬式の後、そこらじゅうにDDTを真っ白になるほど蒔かれた記憶がある。
結核のせいかどうかは知らないが、よく床下浸水もしたので、DDTを蒔かれてもしかたがないが、伊藤という家は、我が家が結核だったことに露骨に嫌悪感を表していたことを覚えている。
両親とのふれあい
あの当時でも悪いことばかりではなかった。
小学校の何年生だったかは定かに覚えていないが、父が自転車の練習に付き合ってくれたことを覚えている。
あの中町の農協(当時の)の通りで、自転車の荷台を押さえて乗せてくれたが、あの時はなんて自分は物覚えが悪いのかと、自己嫌悪を感じたことがある。
他の子供は親に押さえてもらわなくとも乗れたのに、自分は親に手伝ってもらっても、なおマスターが遅かったような気がして、自己嫌悪に陥ったことを記憶している。
けれども、この自転車をマスターしたことで、私の行動半径が一気に大きくなった。
最初の練習は、古い子供用の自転車であった。
当時、子供用の自転車というのは世間に少なく、珍しい存在であった。
それで、この子供用の自転車を覚えた後、大人用の自転車の横乗りを覚えた。
他の子供は、子供用の自転車がないものだから、いきなり大人用の自転車の横乗りから覚えたので、私とは順序が逆になった。
自転車を覚えたら、お使いの距離も長くなって、牛山の実家へ米の買出しと、農作業の手伝いがお使いのレパートリーに加わった。
米の配給だけでは足りないので、父の実家、祖父母のところに米を買いに行くのであるが、米代を持って現金で払うのではないので、なんとなく気が引けて、嫌なお使いであった。あの米代を父が払ったのか払わなかったのか、未だに知らない。
結局、親から子へのプレゼントになってしまっていたに違いない。
それと、米そのものが統制品であったので、買っても売ってもいけない時代であったため、法にそむいているという点からしても、嫌なお使いであった。
尤も、この頃ヤミということがよくわからなかった。
ヤミ米ということがよく理解できていなかった。
父の実家からもらってくるのは、米ばかりではなく季節の野菜も貰って帰ったものだ。
私が子供用の自転車で祖母のところに行くと、「よく来た!」ということで、祖母が季節の野菜を荷台にくくりつけてくれるのだけれど、私は内心現金をくれないかなあと思ったものだ。
農家は野菜や果物はあっても、現金は持っていなかったので、こちらの都合のいいチャンスはなかった。
その頃、桜井から鳥居松に抜ける道は、舗装されておらず、砂利道で、道筋をよく読まないと砂利に車輪をとられ転倒するため、砂利の細かいところを選んで走ったものだ。
あの頃、桜井の交差点を左折すると、今の不発橋まで一面の桑畑で、他に何もなかった。大山のお宮さんがあったのみだ。
自転車を覚えたことにより、小牧山の西の三淵から飛行場、東は桃山の辺りまで遊びのテリトリーが広がった。
この頃の楽しい思い出に、父が東側の庭先で、竹馬を作ってくれたことを覚えている。
極端に高いものではないが、30cmぐらいの高さはあった。
竹馬は比較的簡単にマスターすることが出来た。
その際、逗子の叔父さんが幼少の頃、竹馬で怪我をしたことを話してくれた。
この頃の父は44、45歳前後で一番働き盛りであったが、妻は病気で、三人の子供は育ち盛り、食い盛りであったので、さぞかし苦労したことと思う。
よくアルバイトもしていた。家に答案を持ち帰って採点をしていた。
私も、父の苦労した時代を既に通過したけれど、父に比べるとイージーに通過した。
子供が育ち盛り、食べ盛りなことは同じだが、病人がいなかっただけ、楽な人生を歩かせてもらった。
子供の頃の思い出といえば、クリスマスの翌日、朝起きると、枕元に新品の雑誌、小学何年生というのが3人兄弟のそれぞれに置いてあった。これは嬉しかった。
サンタクロースなどこの世にいないと思いながらも、ひょっとしたらいるのかもしれないと思い返したりして、それにしても我が家の煙突は壊れていたはずなのに、と思ったりしたものであるが、あれはきっと母のアイデアであったに違いない。
あのプレゼントはしばらく続いたが、自然となくなってしまった。
又、お正月には上から下まで新品の下着を着たのも覚えている。
大晦日に新品に着替えて、翌日の正月は、お年玉をもらうのが楽しみであった。
大晦日は風呂(銭湯)が早くから開けていたので、早めに風呂に行って、新品の下着に着替えたものだ。
幼児期の体験で未だに覚えていることといえば、当時1年生か2年生の頃だったと思うが、学校でトイレに行くのに紙がなかったので、ノートの使用した部分を破って使ったという話を母にしたとき、「使ったところは破らずに、使用していない白い部分を使いなさい」とたしなめられたことがある。
文字を書いたところは後から読み返すことがあるので、白紙の部分よりも大事だ、という意味であった。
この時、母の知性の琴線に触れた思いがした。母の趣味は多彩に渡っていた。
日本画から刺繍、音楽等、母の知性を表すものが子供の手の届くところにあった。
母のノートなどを見ては、子供心にも感心したものだ。
母の写真で、若い時にギターを抱えたセピア色をした手札くらいのものがあったが、いかにも深窓の令嬢という感がした。
内心自慢したい気持ちだった。
父とはすべての面であわないのではないかと思った。
父は努力家ではあっても、知性とか、洗練されたセンスというものは持ち合わせていない。あの頃父は「俺はセールス・エンジニアをしていた」と自慢していたが、いくら華やかなサラリーマン生活をしていても、持って生まれた知性とか、品性は変わらない。
子供心にもその違いは見抜けたから不思議だ。
努力して、苦学して、結果として得たものと、持ち前の天性で以って、余裕を持って学校を出たものとの違いは明らかに出る。
当時の私の遊び
母が病気で床に伏していたとき、私はさぞかし我侭を言って、母の頼みごとを利かなかったような気がする。
よく手伝いもしたが、それと同じぐらい母を困らせていたのではなかったかと思う。
小学校時代はこれでも活発な子供で、外でよく遊んだほうである。
父から勉強をするようによく小言を言われたものだ。
そういうことは外で遊びふけっていた証拠だ。
そのあたりの記憶は定かでないが、きっと母を困らせていたに違いない。
魚とりも、野球も、缶蹴りも、馬乗りなど、当時は人と一緒によく遊んだほうだ。
その頃、クラスに朝鮮人がいて、その朝鮮人の家にもよく遊びに行ったものだ。
桜井のお宮のそばのサイという友達の家に遊びに行ったら、豚を飼っている隣で水あめを作っているのを見てびっくりした。
サイ君が、割り箸の先でその水あめを掬ってくれて、食べるように勧めてくれたので、断ることも出来ず食べた思い出がある。
その汚さには不潔さでは麻痺している私も閉口した。
それと反対に、下之町の酒屋の女の子の家は金持ちだったので、店から奥に入ったら、その奥行きの深いことには驚いた。
奥に入っていくにつれて、途中水を張った池があったり、築山の庭があったりして、これが本当の金持ちの家かと思ったものである。
小牧は城下町なので、通りの店も、間口に比べ奥行きが深く、当時はそんなことも知る由もないので、本当のオダイジンというのはこういうものなのかと感心したことを覚えている。
こんなわけで、外で活発に遊んだ分、母を悲しませたのではないかと、今、反省する次第である。
クリスマスに枕もとに雑誌が置いてあったことは先に述べたが、私は小学校の時分から、あの学年別に区分された本はあまり好きでなかった。
学年別の区別のない「冒険王」とか「譚海」という雑誌が好きであった。
「冒険王」は少々高学年向きであったが内容はまあまあであった。
「譚海」は小学生にとっては少しばかり高踏的であった。
今ならば「文芸春秋」と「世界」くらいの違いがあったように記憶する。
この「譚海」はB5ぐらいの大きさであったが、その分厚みがあった。
どういうわけか途中で発行されなくなった。
母も本は文学書を愛読していた。
2度目の母も本は好きであったが、こちらは徹底的に通俗小説であった。
文学書と通俗小説の違いは、やはり育った環境の違いによるものではないかと思う。
私は小学生の頃からよく漫画も読んだ。
下之町の海老原という貸し本屋から借りてきてはむさぼり読んだものである。
今、長女が漫画に夢中で、困ったものだと思っているが、自分でも一時期、漫画に夢中になったことを思えば、あまり娘を責めるわけには行かない。
あの頃、夏になると屋外で野外映画が上映された。
小学校のグランドにスクリーンを張って、職員室からコードを伸ばして映写機をまわして上映されたものだ。
その中に、片岡知恵蔵主演のギャング映画で、途中からカラーになるものがあった。
題名は忘れてしまったが、前半はモノクロで、途中から天然色映画になった。
当時はカラーといわず、天然色映画といっていたものだ。
総天然色映画などといっていたものだ。
この天然色映画を最初に見たときも驚いた。
入場無料の野外映画とは別に、あの頃小牧には映画館が2つあって、上新町にカムカム劇場というのと、下之町に小牧劇場というのがあった。
カムカム劇場のほうは今で言う本当の映画館であったが、あれは途中火事のため焼失して、その後映画館として再建されたように記憶する。
その火事は、我々家族が見物に行って、帰ってきたその夜に燃えたように記憶する。
夜が更けて、家族そろって上新町から横町を通り、中町の家に着いて、寝入ったと思ったら半鐘がなって、翌日劇場が燃えたことが判明したように記憶する。
燃える前はかむカム劇場とは言わず、違った名前だったように気がするが、それは思い出せない。
その後、偉くハイカラな、近代的な劇場になったものだ、と子供心に感心した覚えがある。焼ける前は桟敷席だったように記憶する。
小牧劇場のほうはその後もずっと成人するまで存続していたが、これも私の記憶にある限り、最初は桟敷席であった。
その後、何時ごろかは知らないが、1階のみ椅子席に改良され、2階は桟敷席のままの時代がしばらく続いたように記憶する。
最後はどうなったのか知らない。
今はただ駐車場になっている。(平成14年9月現在、マンションになっている)
小学校の頃はどちらかというとこの小牧劇場にまつわる思い出が多い。
この劇場の薄汚れたカーテン、右手の奥にあった小便臭いトイレの匂いが目にしみる。
見た映画は忘れてしまったが、この二つのみは脳裏に染み付いて郷愁をそそる。
自転車で劇場の前に貼ってあるスチール写真を見て、入ろうか入るまいか迷ったものだ。又、予告編のスチール写真を見ては胸を躍らせたものだ。
小学5年6年の頃、川由君という友達がいて、この子の兄さんというのが小牧劇場の映写技師ということで、この川由君はフイルムの切れ端を学校に持ってきては我々に見せ、それを折って口に入れ、口笛のように音を出していた。
彼は「小牧劇場ならいつでも入れてやる」といっていたが、一度もその恩典にはあやからなかった。
人間の性格はこんなころから形作られていたのかもしれない。
コネクションを利用しない、ということは既にこの頃から始まっていたわけだ。
トイレ・配給・給食
思い出というのは何の関連もなく飛んでしまうが、トイレの話で、あの頃の我が家のトイレというのは実にひどいものであった。
勝手場の戸の外で、屋根は続いていたものの、トイレ自体が傾いており、トイレの中には雨こそ漏らないが、そこに行く途中が屋根あるとはいうものの雨漏りがひどかった。
大便所のほうは床も傾いて、今にも落ちそうで、おちおち瞑想にふけるわけにも行かなかった。
小便所のほうは、大雨が降ると床下浸水になるぐらいのところなので、それこそもう大変であった。
当然、汲み取り式であったので、はじめのうちは農家の人が天秤棒で前後に桶を提げて、長い杓で汲み取っていた。
そして長いカンショウを通って、表のリヤカーに積み込んでいた。
それも何時ごろか定かには覚えていないが、バキューム・カーに変わった。
バキューム・カーなるものを始めてみたときは、その合理性に驚いたものだ。
農家の人が汲み取りに来て、仕事が終わって帰るとき、母がマッチや石鹸などを渡していたことを覚えている。
子供心にも、人の嫌ういやな仕事をする人には、あのような心配りをするものか、と思って眺めていたことがある。
雨が降ると、便所に水が入って、すぐ汲み取らねばならず、両親が悔しがっていたことも覚えている。
バキューム・カーになると、汲み取っている最中の、あの太いホースが脈々と鼓動する有様もなぜか脳裏から離れない。
友達が来たとき、何時「トイレを貸してくれ」と言い出すのかとひやひやしたものである。あのトイレだけは恥ずかしかった。
まああの頃は友達が来てもすぐに外に遊びに出かけたので、そんな心配は杞憂であった。トイレの話はさておいて、あの頃、配給というものがあった。
米の配給というのは印象にないが、缶詰とか、ビスケット、砂糖の配給というのがあった。丁度、家の南側に子供の足で10分ぐらいのところに配給所というのがあって、そこで貰ってきたものだ。
当時、米穀通帳というものがあって、時代劇に出てくる大福帳のような帳面が家にあった。けれども配給を貰うのに、それを使用したかどうかは覚えていない。
アメリカの缶詰にはびっくりした。ビスケットにも驚いた。
コーン・ビーフの缶詰にも驚いたものだ。
アメリカ人はこんな良いもの食べているのかと、文字通りカルチャー・ショックである。缶詰の中でも、ナッツの缶詰は、始めて見るもので、当時何んだか理解できず、果たして食べれるかどうか不安であったが、配給で配る以上食べれるだろう、と思って口にしたが、そのおいしさには感心したものだ。
父は、こうしたアメリカ製品が好きでなかったようだ。しかし、私は好きであった。
乾パンなどはロウ引きの包装紙に入ったまま配給されて、あまりおいしいものとは感じなかったが、携行食としては日本のおにぎりと比較して、これは如何にも合理的だなあと感心したものだ。
小学校に入って何時ごろからか知らないが給食が始まった。
今の小学生は業者委託のおいしい給食を食べているが、我々の頃は、材料を学校に持ち寄ったものだ。
我が家は農家ではなかったので、その材料に何を持っていくべきか悩んだものだ。
それでも玉葱一つとか、サツマイモ一つとか、持ち寄って給食が行われた。
学校に給食室というものが出来て、大きな釜が据え付けられたのを覚えている。
材料の持ち寄りはあまり長いこと続かなかったような気がする。
持っていくものに悩んでいたら、自然と立ち消えになってしまった。
その後は、脱脂粉乳とパン食になった。
アルマイトの盆にアルマイトの器で、コッペパン一つとなった。
この脱脂粉乳は悪童仲間には人気がなかった。
この辺りは空襲にもやられていないので、家が焼かれて本当に困っている人というのがいなかった。
私の同級生も、商人の子か、農家の子が多く、サラリーマンの子は少なかった。
それで食に対しては、皆かなり裕福であったからではないかと思うが、脱脂粉乳が嫌いで飲めなかった子がいたが、私はこれが大好きであった。人の分まで飲んだようだ。
しかし、友達の手前、自分も嫌いな振りをしながら飲んだ。
どうもこのあたりから人前で自分の個性を発揮することが出来なかったみたいだ。
車について
小学校の通学路の途中に、いつも店先にオート三輪を置いて、ドラム缶を並べた汚い店があった。
八百屋の筋向いで、道路の東側に西向きに店を構えていた。
この店の前に停めてあるオート三輪のエンブレムが「くろがね」となっていた。
この「くろがね」という意味がわからず、いつまでも何のことか不思議に思っていた。
このオート三輪は、サドルの下にエンジンをつけ、エンジンのひだひだ(冷却フィン)が剥き出しになっており、アクセルとブレーキが丸出しのハンドルについていた。
そのエンジン周辺のメカニカルな雰囲気に、なぜか魅せられたものである。
ドラム缶からこぼれた油が路上を真っ黒にして、油屋の匂いがした。
この「くろがね」のオート三輪の停めてあった店が、今の絹庄本店である。
その頃も絹庄という屋号であったかどうかは知らないが、それが小牧の駅前に進出した時は記憶にない。
「くろがね」の意味もわからなかったが、もうひとつ「ダイハツ」とか「みずしま」というオート三輪があった。
「ダイハツ」というのはともかく「みずしま」というのがさっぱりわからなかった。
一体「みずしま」とは何のことか実に不思議だった。
「くろがね」は「守るも攻めるも鉄の」という軍歌から、それとなくニュアンスを感じ取れたが、「みずしま」となると全く手がかりもなく、かなり遅くまで、成人してからもわからなかった。
この意味がわかったのは、三菱に入社して、水島に三菱自工があることがわかって、はじめて謎が解けた。わかってしまえば他愛ないことである。
あの時の「みずしま」は三菱製の水島で作ったオート三輪であったのだ。
車に関しては、あの当時、進駐軍のジープとトラックが印象的であった。
これがいまだに何処のメーカーなのかさっぱりわからない。
最初のころは進駐とは言うものの占領軍であったので、当然、陸軍も入っており、ボンネットの低いウイルスのジープが多かった。
占領が後期になってくると、空軍がメインとなり、ボンネットの高い、丸みを帯びたジープが多くなって来た。
あの空軍のジープもトラックも、エンブレムというのが一切なかったように記憶している。後年、中学に入り、友人の幅が広がると、「10輪」というのだと教えられたが、「10輪」といったところで漠然とした呼称である。
まあ車輪が10あるので、イメージとしては掴めるが、漠然としていることには変わりない。
あの空軍のジープとトラックは今でも好きだ。
あの色といい、あのフォルムといい、あの力強さといい、フェンダーの丸みといい、たまらなく好きだ。
空軍になる前、まだ陸軍が進駐していた頃、小牧の町をアメリカのMPが巡回をしていた。MPと書いたヘルメットをかぶり、ジープのサイドを取り払い、天井のみキャンバスを張って、ドライバーは当然ハンドルを握っているが、助手席のMPは長い足をサイドのカーブした部分に無造作に掛け、もう一人後部座席にいた。
黒地にMPと白文字を入れた腕章をして、小牧の町を巡回していた。
あのMPの、ぴかぴかに磨き上げられた編み上げ靴、黒い棍棒、サイドをはずしたジープはそのままアメリカ映画のシーンを見るようだった。
それに引き換え、当時の日本の木炭車といったら、全くひどいものであった。
この木炭車が今の木納さんの前に止まっていたのを覚えている。
木納さんは昔から燃料屋だったので、木炭を扱っていたのかもしれないが、この木炭車は煙ばかり出してちっとも走り出さなかった。
トラックの荷台の右側にドラム缶2本立ててつないだボイラーがあって、そこに10cmぐらいに切った材木を入れ、下でハンドルを回して風を送っていたが、煙ばかり出して全く使い物になっていない感じがした。
この違いを見れば、子供心にも戦争に負けるのも致し方ない、と納得せざるを得ない。
不可解なこと
子供の頃、どうしても訳の分からないことに、パンパンとか女郎屋の存在があった。
今、思い返してみると、小牧は人間の数の割りに、昔から女郎屋の数が多すぎるのではないかと思う。
いつも通っていた銭湯の傍にも女郎屋があって、その家の前を通ると、暖簾の奥に大きな電蓄(電気蓄音機)があって、入り口の床はぴかぴかに磨かれており、子供心にもここは一体何をするところか実に不思議であった。
こんな店が片町にも、横丁にも、下之町にも一軒ぐらいずつあった。
何時ごろか知らないが、そうした店が小牧劇場の西側の、本通より少し入ったところに集合させられて、移転していったことに気がついた。
が、当時の小牧の人口に比べると、いかにも多かったような気がしてならない。
小牧という町が、以前から周辺の集落よりも近代化されていた証拠かもしれない。
近郊近在から、こうしたところに遊びに来る客が、それだけ多かったというということだろうと今想像する。
長い城下町としての歴史が残っているということだろうか。
しかし、父や祖父母から、この手の話は一切聞いたことがないので、我が家は昔から堅物の家系だったのかも知れない。
女郎屋の雰囲気というのは不思議なムードが漂っていた。
昼間から店先で派手な着物を着た女達がうろうろしており、えらく金持ちの家だなあ、と思ったものだ。
この情緒は、小牧劇場の西に移転した時点で既に失われていた。
同じように暖簾、電蓄は整っていても、やはり違うなあと子供の感性にもわかった。
この女郎屋の情緒は、子供の感性にも、気持ちを落ち着かせるものがあったが、これがパンパンとなると、又雰囲気が変わって、ポパイとオリーブの世界だ。
GIの、イレズミのある毛むくじゃらの腕にぶら下がるようにくっついているパンパンの姿は、まさしくポパイとオリーブにそっくりである。
女郎屋とかパンパンという言葉を小学生の頃から知っていたわけではない。
この言葉を知ったのは、やはり年相応に成長して、好奇心が旺盛になるととともに、自然に知るようになった。
しかし、中学生の時、自転車に乗ったオッサンから「坊主!女郎屋はどこだ!」と聞かれて、すらすらと教えることが出来たところを見ると、相当スレていたのかもしれない。
小学生の頃から女郎屋の前を通ったり、パンパンを盗み見したりして、今のPTAのおばさんが知ったらさぞかしびっくりするような環境の中で成長したにもかかわらず、大してグレもせずに成長したものだと自分でも驚いている。
このパンパンは現れるところが固定しておらず、GIの車のあるところ何所でも出没していた。
父の実家の牛山にお使いに行ったときなど、竹薮の中の細い道で、大きなフルサイズの乗用車が左に傾いているので、パンクでもしているのかなと思い近づいてみると、GIが女を引き寄せて運転しているので車が傾いていたことがあった。
あのフルサイズの車の大きさ、クッションのよさ、女を引き寄せながら運転する様など、全てが小さな脳裏には驚きの連続であった。
前にも書いたとおり、ジープにしろ、トラックにしろ、車には子供のころから異常に興味を示したものだ。
中学生になって、車のエンブレムが読めるようになると、フォード、シボレー、ダッジ、クライスラー等の会社は、すべてそのシルエットだけでメーカーがわかるほどであった。この頃でも、将来、自分が車で会社に通勤するようになるなどということは想像もつかなかった。
代用食
当時は食糧事情が悪く、前に書いた通り、配給制度があったりして、庶民は食うものにさえ事欠いていた。
それが為、各家庭でも、食料を得るのに考えられるあらゆることを試みた時期があった。
我が家でも、東側の庭の塀にカボチャを這わせて、それが巣掘りのドブの傍らに種を蒔いたものだから、ものすごく沢山出来た記憶がある。
ドブに沿って種を蒔いて、便所の屋根から母屋の屋根まで這わせて、最終的な収穫では玄関の土間に半分以上カボチャで埋まったこともあった。
又、サツマイモも作ったことがある。
これは今の北外山の家のある辺りが畑であって、そこを開墾してサツマイモを植えたところ、予想をはるかに超えるほど沢山出来て、これもリヤカーで家に持ち帰ったことがある。これらは採集することを目的に植えたものであるが、外の田圃にとりに行ったものもある。それはセリとかヨモギである。
ヨモギは小牧山の前の川、合瀬川の堤にとりに行った。
セリは小学校の北側の田圃の畦に沢山あった。
セリは茹でて、ゴマ醤油を掛けて食べたが、私は好きであった。
ヨモギは当然ヨモギ餅で、中の甘いあんこが好きであった。
これは前の母も、後の母も、同じように作ってくれた。
それからイナゴ取りというのがあった。
これは布の袋の口に竹の筒をくくりつけて、とったイナゴをこの口の中に入れるものであった。
中のイナゴは外に出ることが出来ず、袋の中にたまるというもので、稲が実って頭を下げる頃、田圃に行ってイナゴを取り、せっせとこの袋に入れて家に持ち帰ったものだ。
このイナゴはホウロウで炒って、醤油で煮込んだように思ったが、今ひとつ記憶が定かでない。
それでも食べたことは食べた。
少しこおばしく、苦く、歯応えがあって食べにくかった。
この頃、父の実家の牛山の祖父母のところに行くと、大きなカメの中にドジョウが一杯入っていた。
祖父が田圃の畦に罠(ラサといっていた)を仕掛けてとり、ドジョウ汁を作るためである。あの罠はどう呼ぶのか当時は知らなかった。
竹で編んだ筒のようなもので、あれを田圃の水の流れに向けて入れておくだけで、ドジョウが取れたものである。
そんなわけで、ドジョウ汁と言うものを食べて記憶がある。
ドジョウを煮えたぎった味噌汁の中にザルで掬って入れると、鉛筆のように一直線になってしまった。
食べると、うどんのように少しぬるぬるしてて食べにくかったが、これは体に良いと言って、無理にでも食べさせられた。
本当は、死んだ母などがこれを食べるとよかったかもしれないが、おそらく母は食べなかったのではないかと思う。
「うどんのような」と言っても、やはり太すぎて、頭や尻尾がのどを通るとき、違和感があって、食べにくかったように記憶している。
イナゴは秋だがドジョウは梅雨時だった。
農作業
父の実家、我々の祖父母の家というのは農家だったので、私は農作業というものを一通り経験している。
あの頃、小学校が町の中にあったにもかかわらず、農家の子弟が多かったせいか、文部省の指導によるものか、田植え時期や、取り入れの時期に、農繁期休みといって学校が休みになった。
こんな時、朝から自転車に乗って、祖父母の家の牛山に行って、農作業を手伝ったものだ。
父が実家から米やヤギの乳や、その他の野菜などももらっていたので、そのお礼という意味もあったが、小さいながらも一生懸命手伝った記憶がある。
田植えも、水を張った田に糸を引いて、大人に混じって、苗を左に持ち、右手の3本指で植えたものである。
あれは3本指を土に突き刺す要領で植えたものだ。
稲刈りは、稲の束を子供の手ではうまく握ることが出来ず、上手には出来なかった。
又、切った稲をワラで束ねることが出来ず、小学校の子供には少し無理な面があった。
その代わり、モミ干しはうまく出来た。
これは庭一面ムシロを広げて、モミを干す作業であるが、腰の曲がった祖母が息を切らしてやっているので、私がよく手伝ったものだ。
干すときは重い布袋(南京袋)を持たねばならず、取り入れるときはムシロの持ち方にコツが要った。
それにしてもよく祖母を助けたものだ。祖母も心から感謝している様子だった。
当時、足踏み式の脱穀機があった。
あれを使うには少しばかりコツが要った。
足踏み式のペダルを踏むとき、回転部分に弾み車がついていた(回転部分のみの重量であったかもしれない)ので、踏み込むときにタイミングを取らなければならない。
それに気をとられていると、手もとが留守になり、稲を中に巻き込んでしまう。
これも叔父さんから教わり一生懸命やったものだ。
それから何年かたつと、エンジン付の脱穀機になった。
こんなわけで農作業は断片的ではあるが、一通り経験した。
農作業を終えて、薄暗い裸電球の下で五右衛門風呂から出ると、子供心にも労働した喜びと、充実した一日を過ごしたという充実感に浸ったものだ。
それから自転車に乗って今の北外山の家の前を通って家に帰ったものだ。
3人兄弟でも農作業をまともに手伝ったのは私一人だ。
追記、
当時の農家は2毛作で、冬には麦を作っていた。
その麦の畝を壊して、平らにして、次の田植えの準備をしなければならなかった。
この麦の畝を壊す道具が妙なもので、天狗の一本歯の下駄のついた鍬であった。
一本歯の下駄が梃子の支点となって、鋤お越しながら後ろの下がるというものであった。どういう名前の道具かいまだに判らない。
お祭り
秋に取入れが終わるとお祭りがあった。
牛山のお祭りは「おまんと」というのが記憶に残っている。
これはお宮(天神社)の西側を流れている大山川の堤防で行われたが、後年は馬場で行われるようになった。
堤防で行われたときは、お宮さんの西の立派なコンクリートの端のところがゴールで、もう一つ下の橋からゴールに向かって裸馬を走らせたものだ。
あのコンクリートの橋は当時木造の橋で、左岸の堤防も馬が走るのにちょうど都合のいいところであった。
下から上に向かって裸馬を走らせ、ゴールで馬方が捕まえるのだが、途中で若い衆が鞭で馬をたたくものだから、馬がすごい勢いで駆け抜けようとする。それが勇壮であった。
途中、馬が柵を超えて外のほうへ逃げ出してしまうと、若い衆が「馬が逃げた!」と大声で叫び、馬のほうは広い田圃を自由に駆けてくるというハプニングが起きたものだ。
「おまんと」の前には、馬に幟を立てて、鞍の部分に小さなお神輿のようなものを取り付け、旗を立てて、若い衆が5,6人女の襦袢のような派手な着物を着て、白足袋を履き、馬の轡のあたりをもって、わっしょい、わっしょいと囃し立てながら神社の境内を廻ったりして、その後「おまんと」が行われたように記憶している。
「おまんと」が終わると、馬と馬方は一旦宿に帰り、そこでご馳走にあずかり、それから若い衆に送られ、家路に帰るのであるが、このとき歌われる馬追い歌がなんとも情緒に富んでいた。
しみじみと日本の歌という感じがした。
子供の胸にもジーンとくる日本情緒を感じたもので、日本の田舎そのものであった。
この「おまんと」も、その後は神社の正面に出来た馬場で行われた。
今でもその場場が神社の前にあるが、馬場の正面に民家が出来てどうにも情緒に欠ける。馬場の先に灯篭があるが、この灯篭の脇に民家が立ち、あれでは寸つまりで、馬場としての機能が死んでしまっている。(参道を馬場として使っていたようだ)
以上は牛山という田舎のお祭りであるが、小牧のお祭りも印象深いものがある。
こうして牛山のお祭りと、小牧のお祭りを改めて比較すると、小牧のお祭りは都会的であった。
江戸から明治に至る時代には、小牧は濃尾平野の中では都会で、他は田舎であったに違いない。
きっと、犬山、小牧、古知野、鳥居松がこの地方の文化の拠点になっていたことと思う。我々が小学生であった頃、昭和23年から30年頃まで、小牧には4つの山車があった。当時は春、夏、秋と年に3回もお祭りがあった。
それを父が怒っていたことを覚えている。
それというのも、その都度、寄付を集めに来るからである。
商売人はお祭りで儲かるからいいが、サラリーマンは儲からないから馬鹿らしいといって憤慨していた。まあ無理もない話である。
当時、下之町、中町、横町、上之町と旧小牧の主な町内は皆山車を持っていた。
夏祭りは、この山車を提灯で飾って、前も後ろも側面も提灯を下げ、山車の中ではお囃子を演奏し、女子子供が太いロープを引いたものだ。
若い衆は、梶棒を担いで、町内の角に来ると、その人たちが全員掛け声とともに山車の方向転換をしたものだ。
山車の上には電線を持ち上げる人もいた。
この夏祭りでは、からくり人形を動かしたかどうかは定かでないが、春と秋のお祭りのときは、小牧の神明社の境内にこの4台が集合して、此処でからくり人形の競演があったように記憶する。
どこの町内がどのからくりかは忘れたが、桃が割れて桃太郎が出てくるものや、子供が宙返りするものがあって、今の高山の祭りのからくりと比べても決して見劣りするものではない。
しかし、最近はどういう理由か知らないけれど、どうも行われていないようだ。
高山の山車がとみに有名になっているが、昔は小牧でもあれと同じ程度はやっていたのだ。犬山の山車も、この辺りでは有名であるが、小牧も山車を上手に宣伝に使えばよかった。お祭りといえば、小牧の北にある田県神社のお祭りも面白いものだと思った。
あれは中学2,3年のときだったと思うが、2度目の母も父のところに来る前から、話は聞いていたに違いなく、自分でも一度は見てみたいと思ったのであろう、母が我々3人を連れて電車に乗って見に行ったことがある。
あの時の母は、いかにも楽しそうであった。
お神輿の前後にはみ出した男性のシンボルを見て、心の底から楽しそうであった。
私はシンボルよりも、それを見に来たアメリカ人の振る舞いのほうがよほど面白かった。彼らは、ブルーの軍用トラックで、制服のものや、アロハシャツのものが鈴なりになって、如何にも楽しそうに、賑やかにやってきていた。
そして、鳥居だろうが、灯篭だろうが、お構いなしに登って、写真を撮ろうとしていた。当時、田県神社も今のように整備されておらず、本当に田舎の中の素朴な神社であった。アメリカ人は底抜けに明るく、日本の神社の何であるかもわからず、又占領下のことでもあるので、あの行儀の悪さには唖然としたものである。
後年、色香が気になる年頃になり、外人は日本の浮世絵を見て、日本人は皆一物があんなに大きいと思い込んでいるらしい、ということを知って、彼らがあんなに興奮するのも頷けるようになった。
今では外人の女性も田県神社に来るが、彼女達はアッケラカンとしたものだ。
シンボルの前でVサインなどをして、はにかみとか照れくささ、というものは微塵も見受けられない。
小牧山
この田県神社も田圃の中の森、鎮守の森という雰囲気であったが、小牧山も田圃の中の小さな山であった。
当時、小牧山の頂上に登ると、文字通り四方八方、360度、田園風景であった。
春先になるとレンゲ、菜の花、大根の花の色彩が実に美しかった。
この3つの花と、本来の土の色、この4色が織り成すモザイク模様は実にすばらしい眺めであった。
遥か彼方の南には飛行場のラン・ウエイ、当時は滑走路といっていた。
東から北にかけては低い山並みがあり、西のほうは遠くに鈴鹿山脈が見えるのみで、
360度の眺望はすばらしかった。
私の少年期は、この小牧山抜きでは語れない。
小牧山の東側に小牧中学校があるが、(この時点ではまだ有ったがその後移転した)この中学校のグランドはやけに広い。
これは以前進駐軍が飛行場の拡張工事のために、小牧山のこの部分の土を運んだその跡だからである。
この部分の土が、今の名古屋空港の大山側の北の部分の埋め立てに使われた。
航空自衛隊の第5術科学校のある部分である。
米軍は合瀬川のヘリの部分から、大きなパワー・シャベルで土を掬って、ダンプに乗せ、パワー・シャベルのバケット3杯でダンプ1杯となり、すぐダンプは出発して、小牧山と飛行場の間をピストン輸送したものだ。
このダンプは、我が家のそばを通り、坂井さんの家の前を通り、今の絹庄の所で右折して、飛行場まで運んだ。ドライバーは全員日本人であった。
戦争に負けた国の人が、戦争に勝った国の仕事を手伝うのが不思議でならなかった。
当時は仕事にない時代でしたので、あの当時のドライバーにしてみれば、生きるために致し方なかったろうが、これは後年成人してだいぶ経ってから、アーネスト・ベネジェクト女子の「菊と刀」を読んだら納得できた。
あの当時、パワー・シャベルなどという言葉も知らなかったけれど、あの合理性には心底驚いたものだ。
あの中学校が出来たのは、小牧山の東側の部分であったが、私にとっては小牧山の全体が遊び場であった。
南側の今の市役所のあるあたりは堀になっていて水が貯まっていた。
ここでは上から下がっているツタの枝にぶら下がって、ターザン・ゴッコといっては飛び越えて遊んだものだ。
もう少し西によると洞窟があって、中には地下水がたまっており、白い骨などが転がっていたものだ。あの骨が何の骨だったかいまだにわからない。
西側の竹やぶには、何故だか分からないが、畳の敷いたところがあった。
昔の小牧山は隅から隅までで知っていたつもりだ。
今は北側からも登れるが、あの当時は、あの辺りは熊笹の林で近寄れなかった。
当時も山の北側に沿って警察の裏の道路はあったけれど、小牧山からあの道路には熊笹があって出ることは出来なかった。
今、市役所の建物の裏から直接小牧山に出る小さな出入り口があるが、あそこから頂上には一直線に登ることが出来た。
一番の最短コースであるが、普通には立て歩けず、登る時も降りる時も、両手両足を使わねばならないが、我々はあれを兵隊道といっていた。
市役所の西側に、下の道路から直接登る道があるが、あれは2番目の近道である。
あの道をジープが上がってきたことがある。
我々の子供の頃は、小牧山も今のように整備されておらず、遊園地もなく、文字通り山があるのみであった。
しかし、我々には最高の遊園地であった。
セミ取り、トンボ取り、魚とり、全部小牧山が関係していた。
後に思春期を迎え、思春期特有の悩みに陥ったときも、すべてこの小牧山に行くことにより、自分で解決した。
丁度、思春期になるころにはハリーという犬を飼っていたので、その犬の散歩を兼ね、また犬をお供として、小牧山に行きいろいろと思考を巡らしたものだ。
高校を卒業した年だったけれど、伊勢湾台風が来たときも、すぐに小牧山を見に行った。大きな木が倒れており、ずいぶん明るくなったと思ったが、これならば又再生できると思いながら小牧山を眺めたものだ。
私の成長にとって、小牧山の存在は大きな位置を占めている。
思考の面でも小牧山は大きな影響を与えてくれている。
私の成長の過程において、小牧山という逃げ場、幼年期においては遊園地であったものが、思春期においては一緒の逃げ場として機能していた。
悩みが出来るたびに逃避し、思考し、結論を下し、今があるような気がする。
ここ数年、小牧山の下のユニーまでは行くが、小牧山までは行かない。
幼年期も、思春期も過ぎて、生活に追われ、悩んでいる暇のない証拠である。
悩みが無くなったわけではないが、小牧山で沈思黙考する前に生活しなければならず、悩んでいる暇がないというわけである。
幸福というべきか、不幸というべきかわからない。