自分史 2

私の半世紀

1940〜1990

 

 

東春日井郡小牧町小牧25511

 

幼児体験のうちで今でも鮮明に記憶しているとことといえば、どういうわけか「東南海地震」のことである。

あれは昭和19年のことであり、母親がお勝手をやっていて、七輪を持って外に飛び出したので、子供心にも地震で家がつぶれると火事になるのでコンロをもって逃げるのかと思い、同時に自分の母親は偉いなあと思ったものである。

私は昭和15年生れなので、当時は5歳であった。

もうその頃には小牧の町に住んでいたのである。

当時の父の話によると、東京で生まれ、東京が危なくなったので、守山に逃げて、守山の瀬戸電の線路の脇の家の記憶もあるが定かではない。

その後、小牧に移ってきた。

当時の小牧の家の住所は、まだ東春日井郡小牧町小牧2551の1と記憶している。

当時住んでいた家は、今の小牧の電話局の東側のビルの隙間の路地を入ったところで、今もそのまま残っている。

今も残っているのが不思議場くらいだ。当時でも相当に老朽住宅であった。

今、電話局(現NTT)の東に東海ビルという小さな5階建てのビルがあるが、あそこは酒井さんという人が住んでおり、独立2階建てであった。

その南に、路地に沿って細長い4軒長屋があった。

路地を北から入って伊藤、輪田、我が家、久佐田と住んでいた。

輪田さんと我が家の間にはカンショウという通路があった。

このカンショウという通路を利用したのは、我が家と久佐田さんともう一軒、このカンショウを通らなければ出入りできない袋小路の奥に家があって、そこに今で言う暴力団のような人が住んでいた。

しかし、今思い出してみると、昔風のヤクザの最後だったのかもしれない。

背中にイレズミをした、いかにもその筋の人というのが花札をしていたように記憶する。時代劇に出てくる博打打ちという感じがした。

どうしてこんな袋小路の奥で博打などするのか不思議だったので、父に聞いた事があるが、「警察に見つからないよう」にということであった。

しかし、我が家の前というよりも、この4軒長屋の前、つまり西側は、当時警察であった。当時、警察も終戦の混乱期で、多分、民警と言っていたように記憶する。

この長屋は当時でも相当老朽化しており、排水が悪く、大雨が降るともう一面湖で、カンショウの中に排水溝が通っていたが、カンショウも、家の裏も、玄関も水浸しで、文字通り床下浸水であった。

カンショウという言葉は、子供の頃、何の疑いも持たずに使っていたが、改めてその意味を知ったのはごく最近になってからである。

「閑所」と書いてカンショとはよく言ったものだ。

当時の我が家は4軒長屋の北から3番目、玄関が西向きにあり、玄関を入ると3畳間があって、その隣が6畳、6畳、6畳と続いて、東側の6畳が居間になっていた。

東側と西側には少しばかりの庭があって、東側には無花果、西側には「まき」の木があり、それぞれ板塀で囲まれていた。

西側の6畳が一応客間として、真ん中が寝室、東側が居間という感じで使っていた。

居間の南がお勝手となっており、壊れたクドがあった。

便所は屋根続きの別棟というと聞こえは良いが、今にも倒れそうなひどいものであった。井戸は共同井戸で、井戸の水を汲んではカメに移して洗い物をしていた。

この水汲みが幼い私の仕事であった。

昔の借家だったので、今から思うとかなり広い感じがするが、子供心にもひどい家だなあと思ったものだ。

それに、寝間にしていた隣の部屋は、地下に防空壕を掘った穴があった。

いつもじめじめしていて気持ちが悪かったように記憶している。

お化け屋敷のような感がした。

結局、物置になっていたが、お勝手といい、流しといい、井戸といい、今の人には想像もつかないような古風なつくりであった。

農家の屋敷の作り方をコンパクトにして町中に取り入れたといった感じだ。

戦争で家を焼かれた人のことを思えば、雨風をしのぐ家のあったこと自体、当時としては有り難かったので、少々の不便は致し方ない。

それにしても井戸のポンプといい、流しといい、クドといい、今から思えば非常に原始的なことをしていたものだ。

ポンプも屋根がなかったので、雨の日は左手に傘を持ち、右手でポンプを押し、それをバケツで運んで、流しの横のカメに移し変えたものである。

バケツ3杯でカメが一杯になり、予備にもう1杯汲んでおいたものだ。

クドは煙突が壊れていたので、コンロを使用していたが、地震のとき母がこのコンロを両手で抱えてカンショを通り、本通りまで運んでいったので、そのときの印象が強く残っている。

家の東側には、前に述べたヤクザの出入りしていた家の前に土蔵がひとつあり、その土蔵の軒下で、伊藤さんのお爺さんが鋸の目立てをしていたのを覚えている。

家の西側は警察署であった。

木造2階建てで、白ペンキが塗ってあって、警察署になる前は税務署だったと聞いた。

戦後、警察機構も大幅な改革がなされて民主警察になり、この建物が警察になったとき、内部の見学が許され、見学する機会があった。

多分、警察サイドのPRの一環であったのであろう、そのとき牢屋、今で言えば留置所というべきでしょうが、これを見たときは自分の家と比べてあまりにも立派だったので、泥棒のほうが我が家よりもいいところにいるのかと、子供心にも世間の矛盾を感じたものだ。

この警察の2階では時々映画が上映された。

今のように各家庭にテレビジョンのある時代ではなかったので、この映画は必ず見に出かけたものだ。

警察の2階で映画を上映するなど、今にして思えばのんびりしていたのかもしれない。

この警察の敷地内で、我が家に寄ったところに2本の大きな「銀杏」の木があった。

また「もみじ」の木もあり、この「もみじ」の木に登って警察の2階に渡ったりして遊んだものだ。

しかし、この警察の敷地が4軒長屋の敷地より高く、その間には素掘りの溝があったが、雨が降るとこの側溝が水であふれ、我々のほうは床下浸水になってしまった。

この警察の斜め向かいにキリスト教の幼稚園があり、ここに入園できたのは章生一人で、私と宣生は目の前の幼稚園を眺めるのみで、入園したことはなかった。

ただし、課業が終わった後は、私どもの遊びのテリトリーになったことはいうまでもない。

 

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