自分史1

 

はじめのはじめ

 

私は50歳を越したときにそれまでの自分の人生を一通り文章にしたためておいた。

その時はワープロも初期のもので、フロッピーに保存しておいたものが今のコンピューターでは解読できず、結局文章全体を打ち直さなければならなかった。

そして定年をオーバーした今、少しばかり本腰を入れて自分史というものに取り掛かろうとした。

春日井市の自分史講座を受講してみると、前に書いたものは確かに稚拙で、幼稚ではあるが、紛れもなく私自身の手で書いたものである以上、没にするのはなんとも忍び難く、併記することにした。

内容的にはダブっているところもあるし、記憶違いで、食い違った部分もあるが、一つの事実が食い違うほど記憶が薄れたということであって、他意はないのでそのままにしておいた。

どちらが正しいとか正しくないという問題ではないので敢えてそのままにしておいた。

尚、内容がダブっているということは、私の潜在意識の中でそれだけ大きなインパクトを占めているということで、それだけの価値が私自身の中にあるものと考えていただければ幸いである。

尚、本文中。私と関わりのあった人々はすべて実名で登場してもらっているが、嘘の名前や匿名では私の良心が納得せず、良きにつけ悪しきにつけ、それだけ私とのかかわり深かったという意味で、実名で登場してもらっている。

はじめに

 

平成2年(1990年)715日、私は満50歳を経過した。

妻も元気で毎日家事に、アルバイトに、趣味に、昼寝に、人生を謳歌している。

長男は北海道大学水産学部食品科で勉強にいそしんでいるはずである。

札幌から函館に移行できるかどうか、気をもませたけれど、どうにか留年もせず、一応は学校に通っている様子である。

長女の亜由子は春日井南高校の2年生で、将来の進学のことなど、どう考えているか知らないが、のんびりと高校生活を送っている。

お蔭様で家族全員が健康なのがなによりである。

50年といえば、半世紀である。

生まれてからこれまでに1世紀の半分を経過したということである。

このことに50歳の誕生日を通過したときに改めて気がついた。

この50年間にいろいろな出来事があった。

50歳の誕生日に、「半世紀が過ぎたのか」と思ったとき、子供の頃からのいろいろな事が走馬灯のように頭の中をよぎった。

その走馬灯のように頭の中をぐるぐる回る記憶を摘んでおきたいと思った。

それを摘んでおくには、自分で文章を書いておく他ないと思い、それで「思いついたが吉日」という言葉とおり、何が出来るかわからないが、記憶を頼りに思いついたままを書き残すことにした。

私の人生など、所詮、平凡で、何処にでも転がっていそうな人生と思うが、それでもこの世に私だけの人生に違いない。

人の顔と同じで、その人の人生はこの地球上にひとつしかない。

世界に一つしかない人生航路を記録に留め置くことは、それだけの値打ちがあるのではないかと思う。

それで筆が向くまま、気が向くまま、昔の記憶を頼りに書けるだけ書いてみようと思った。人様に自慢できるものは何もないが、自分の人生航路を記録しておくことに意義があると思った。

妻や、長男、長女が読んでくれなくともいい。

大体、私だって、親父の書いた文章をひとつも読んでいない。

これは明らかに親不孝である。

それは自分でもわかっている。

普通の孝行息子ならば、一度は目を通して、まともな批評をするのが本当であろう。

自分が親の書いたものを読まずに、それを妻子に強要するのは虫が良すぎる。

別に読んでもらう必要はない。

これは私の自己満足だけで十分である。

しかし、自分の足跡だけは人が読もうと読むまいと、残しておきたいという衝動に駆られ、思いに駆り立てられた。

それで記憶を頼りに書き綴ったのが以下の文章である。

これが私の50年の人生だった。

一世紀の半分をうろうろとしていたわけだ。

 

この「はしがき」も、まさに12年前のものに多少手を加えたものであるが、その後の

12年間にも私の身の回りにはさまざまな出来事が重なり、再度、自分史の後半を書き加えなければならなくなった。

その中でも定年後、春日井市民講座で自分史の講座を受けたことで、その幅が格段に広がってしまったので、改めて私の自分史を自ら見直さなければならなくなった。

よって、新しい部分と古い部分が重複し、内容的にも重なった部分があるが、あえて両方とも残しておくことにした。

 

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