人類の負の遺産について

負の遺産について考える

2002年(平成14年)6月1日、朝起きて新聞受けに新聞を取りに行くのが日課の一つとなっているが、いつも新聞を開いて真っ先に覗くのが「中日春秋」の欄である。
朝日新聞ならば「天声人語」の欄であるが、中日新聞ではその欄が「中日春秋」となっている。
この第一面の下の方に毎日記載されているコラムと言うのは、新聞社の看板でもある。
社説というものが正面切った新聞社の良識だとすれば、この欄はもう少し格式の取れたやわらかい意思表示ともいえるものであろう。
社説に劣らぬ重要な欄で、社の意志と見解と見識を世に問うているコラムでもある。
それぞれに担当者が違うので表現の手法は違っていても、それぞれに社を代表する考え方の集大成である事は否めない。
それは同時に新聞屋としての良識の発露でもあるわけである。
それでこの6月1日の「中日春秋」にはある本のことが紹介されていた。
紀伊国屋書店の発行した写真集「百年の愚行」という本が紹介されていた。
20世紀の様々な愚行が写真集として集大成されたものという風に紹介されているが、まだ実物に目を通したわけではないので、その本に関する論評は出来る立場に無い。
「中日春秋」の報ずるところによると、19世紀末のアメリカ、ピッツバーグの工場から出る黒煙、BSE(狂牛病)で倉庫に山積みにされた肉骨紛の山、収容所のガス室、広島・長崎の原爆投下、枯葉剤を散布する米軍機、チェルノブイリ原発、水俣湾に流れ込む有機水銀の排水、酸性雨によって奇形化した魚、湾岸戦争で燃える油田、難民キャンプで死にかけている子供、等々の写真がページを彩っていると紹介されている。
これらの内容は写真を見るまでもなくその言葉だけでも我々にはイメージが髣髴してくる事柄ばかりである。
20世紀というものが創造と革新の時代とも言われたが、それに負の遺産としての現実が赤裸々に表されているというわけである。
この写真集を見て、この先の21世紀を危惧しているわけであるが、こういう写真集を見れば、我々の将来に対する不安感が煽られるのは何も著者一人ではない。
この写真集を見た人ならば、誰もが同じ感慨に至らしめる事がこの写真集の目的であるとすれば、それは当然の帰結である。
確かに20世紀という100年は大きな愚行を繰り返してきた事も事実であろう。
しかし、人間の行為で愚行でない行いというものがあるであろうか?
この写真集に掲載された写真を見れば、誰もが「人間というのは馬鹿なことをしてきたものだ!」と思うに違いない。
20世紀というのは創造と革新の時代といいながら、如何に愚かな事を続けてきたのか、という自責の念に駆られるのは、普通に人間の英知を持った人ならば当然である。
確かに、この写真集に掲載されている写真だけを見れば、そう思わされるが、写真集に載っていない事柄に対してどう思うのか、とそこが問題である。
20世紀の創造と変革の時代を全部否定するのかどうか、が問題である。
この20世紀というものが、人間の生活に大きく貢献してきた部分に目をつぶって、悪い面、負の部分のみを取り出して、負の遺産というのはあまりにも悲観主義ではないかと思う。
人間の英知というのは、この負の遺産を最小限にまで持っていく事ではないかと思う。
物事には必ず裏表というものがあり、その裏の部分のみを強調してみたところで、人類全体に奉仕することにはならない。
ここに列挙された事例は全て20世紀の負の遺産であることには間違いないが、創造と変革には必ずそれに伴う犠牲というものが付き纏うわけだから、前進する事を止め、後退しなければならないという論理にはならないと思う。
100年前の生活と今日の生活を2つ並べて、100年前の生活の方が良いと言い切れる人間が果たして何人いるであろう。
自分は創造と変革の時代を心置きなく満喫しながら、写真集でその負の遺産を見つめ、人類の創造と変革を糾弾することの無意味さというものを考えなければならないと思う。

どこまで国家の責任を転嫁できるか?

確かに人間というのは過去の歴史の中で数限りない過ちを犯してきたであろう。
この「過ちを犯した」という概念は、片一方に「正しい選択」があったに違いない、という妄想から生まれているように思う。
「正しい選択」というのは、その時点では誰の目にも見えていないわけで、統治者が推し進めようという行為には、先に起きるであろう結果、つまり先の見通しというものは誰にもわからないまま前進するわけである。
まさしく航路のない世界に突き進むのが統治する者の選択なわけで、それには必ず反対者がいることは理解できる。
しかし民主主義というのは、最大多数の最大幸福を追求するものである以上、少々の反対意見は無視して、「これをすれば多くの人が幸福になるであろう」という推定のもとに、前に進まねばならないわけである。
少数のものが反対意見を述べたとしても、大勢の人の幸福にそれが貢献するであろうと考えられれば、反対意見を押し切ってでも前に進むのが政治家のリーダー・シップといわれるものであろう。
反対者がいるからといって、何もしなければ政治そのものを否定する事になる。
その結果として、大勢の人が幸福になる一方で、その裏側では犠牲者が出るようになったのが20世紀の現実の姿であったのである。
それが負の遺産というものであろう。
水俣病のような公害に関して言えば、これは民間企業の企業活動が被害を大きくしたのだから、その「企業を監督すべき国に責任がある」という論法は、そのまま「社会主義乃至は共産主義社会でなければならない」という発想に直接つながっているものである。
戦後の日本の自由主義経済の中の資本主義経済というものを頭から否定する発想で、基本的に民間企業の起こした過誤は、その企業が償うべきであるという発想を否定する事になる。
しかしこの場合は、その企業を潰しても尚余りあるほどの被害だったから、こういうことになったものと思う。
民主主義というものが最大多数の最大幸福を追求するものであるとしたら、その多数のグループからもれた者、最大多数に組みしない人たちが、幸福の対極にある最大不幸に見舞われた時、我々は如何様に対応すべきかという問題だと思う。
20世紀中には、その答えを人類は見出せなかったわけで、言葉は悪いが、そういう人々というのはいわば切り捨てられていたのが20世紀の情況だったと思う。
民間企業がもたらした世間一般に対する害悪、被害と言うのは何も水俣病のチッソのみではない。
最近の狂牛病の問題も然り、その前のエイズの非加熱製剤の問題にしても、基本的に民間企業が引き起した問題であるが、民間企業が引き起こした災禍だから基本的にその企業に最終的な責任を負わせるというのが基本的な考えでなければならない。
すると被害者の要求するだけの補償なり償いをその民間企業に請求するという場合、その企業そのものが成り立たなくなるわけで、事態がそこまで行けば、被害者の側としては取るべき物も取れなくなってしまうわけである。
だから最終的には国の監督不行き届き、つまり国の責任という事に転嫁し、こじつけてしまうわけである。
そのことの裏を考えると、国というのは統制経済で、あらゆる事柄を指導監督していなければならない、という社会を想定しているということになる。こんな馬鹿な話もない。
最終責任が国という事であれば、補償金の取りはぐれということはないわけで、被害者は救済されるということになる。

負の遺産に対する償い

「弱者救済という事は正義である」という暗黙の了解のもとにこういう発想にいたるわけであるが、この「弱者救済が正義である」というのは20世紀の新しい価値観であり、新しい大儀となったわけである。
「弱者を救済しよう!」という掛け声には、誰一人反対、反駁し得ない。
「弱者など切り捨てても構わない」ということは何人も口に出して言えないわけである。
人間のミニマムのモラルの裏をついたまことに心憎いシュプレヒコールであり、認識である。
「弱者を救わねばならない」ということはまさしく「善」であり、誰もその行為に対して反対は出来ないわけである。
そして、その弱者を作り出しているのが大企業であり、大民間企業なわけである。
そして、時には国家そのもののこともある。
確かに、戦後の日本のように自由主義陣営の側に身を置き、資本主義経済システムで技術革新を繰り返して発展してきた我々の今日の生活の中で、その繁栄の裏側に、その犠牲となった人々がいることは否めない。
水俣病の患者、エイズの薬害の被害者、そしてハンセン病の被害者等々、繁栄から落ちこぼれた人々の存在を無視するわけにはいかない。
また新幹線の騒音公害の被害者や、沖縄の基地の問題等、今日の日本の繁栄から落ちこぼれた人々、繁栄の恩典に預かれなかった人々の存在というものは無視する事は出来ない。
これらの人々というのは「中日春秋」の言うとおり、創造と技術革新の犠牲者であり、その恩典から落ちこぼれた人々である事は否定のしようがない。
否定のしようがないから国が補償金を出すという事もある程度は致し方ない。
民間企業が出した公害だから、その民間企業を潰してしまったとしても、その被害者が浮かばれるわけではない。
企業が潰れてしまったのだから、「後は知らない!」では済まされないわけである。
しかし、いくら補償金を出したところで、元の姿に戻れるわけではないし、失われた時は帰ってくるわけでもない。

社会に貢献することを啓発しないマスコミ

けれども、何もしない訳には行かないとすれば、恩典に浴して繁栄を享楽した側としては、国が犠牲者や被害者に支払う原資としての金をせっせと出す以外に道はない。
それは当然、税という形で国庫に入ることになるが、この税というものは払う側にとっては眞に不愉快な物で、国民の一人として国家の恩典には十二分に浴したいが、払うものは舌を出すのも嫌というのが国民感情としては普遍的なことだと思う。
これは古今東西、全地球規模で見て、社会の一員として管理される側の人間にとっては普遍的な感情である。
この「中日春秋」の言う、写真集「百年の愚行」というのは、この創造と革新の20世紀の裏側のみを掲示しているわけで、その表側で20世紀の技術革新と繁栄を十二分に享受した人々に対して、社会の裏側でうごめく哀れな人々に、何らかのアプローチを推し進めなければならない、という啓蒙の言葉は見あたらないのであろうか。
マス・コミニケーションの本当の使命と言うのはそこにあるのではなかろうか?
人類の恥部を晒すのみで、その恥部を露にしなくても済む社会を作る努力、行為を啓発する事を棚上げしている。
20世紀に生きた人間の恥部を晒す事で、金儲けをしているわけである。
自分だけ金儲けをして、よりよい社会を築くという、社会全体に奉仕しようという行為をスポイルしているわけである。
社会に貢献する最初の一歩というのは、やはり国が指し示す納税の義務というものを謙虚に受け止め、恵まれた生活の一部を割いてでも、納税には協力するという態度を示すことだと思う。
このように社会の裏側で、息もたえだえに生きている人の事を考え、それに対して大上段に構えて、「俺はこれだけ寄付をしているのだぞ!」と、これ見よがしにPRする必要はない。
しかし、20世紀の科学技術の恩典に浴し、豊な生活を享受している人々は、その一人一人がミニマムの義務を果たすように心掛けるだけで、社会全体がもっともっと豊かになると思う。
ところが人間の欲望というものには際限がないわけで、一度手にした富は金輪際一銭たりとも手離したくないと思うもののようだ。
これは人間の浅はかさの一つだと思う。
人が死んでいくときには、いくら自分が血のにじむような努力をして得た金品財宝だろうが持っては行けないわけで、そういうことが論理的に理解できても、尚公共の福祉に貢献する事を嫌う人間がいる。

心の卑しさ

社会的に名を上げ地位を築いた人達の犯罪というのは、そのことを如実に現していると思う。
20世紀の科学技術の恩典を12分に享受して、高度な教育を受け、社会的にも人の上に立つに相応しい地位と名誉を得た人間が、それでも尚「悪」に手を染めるという事は、人間の「業」といわねばならない。
そして20世紀の創造と技術革新の狭間でうごめいている人々を救おう、という気運は「善」であるという認識が普遍化した一方で、その同じ人達が「悪」に手を染めているわけである。
悪事を働く人というのは、昔のこそ泥とはわけが違うわけで、自分のしている事の意味を十分に知りながら、なお法の網を潜ろうとするところが卑しいといわなければならない。
ところが、この人間の卑しさというのは、教育や教養では払拭されないところがむなしいところである。
高度な教育、高等教育を受ければ、そういう卑しさから逸脱して、ノーブル・オブリッジが本当に浸透するかというと、これが案外当てにはならないわけで、そういう人に掛かると高等教育が悪事の手段とさえなり得るわけである。
これも私の持論であるが、日本の社会というのがあまりにも競争社会で、悪事でさえも、競争に晒されているのではないかとさえ思えてくる。
最近話題になった代議士秘書の給料ピンはねの事件なども、国会議員たるものが自分の秘書の給料をピンはねする事自体が言語道断の行為である。
給料をピンはねされて、何故、秘書の方が雇い主を告発しなかったのかと思う。
自分の諸々の雑用を管理してくれている秘書ならば、国から支払われる給料に上乗せするぐらいの配慮があってもしかるべきと思うのに、その給料を寄付という形でピンはねするとは何事だといいたい。
それと同時に、秘書が国会議員に成り代わって、公共事業の入札に関与するなどという事が許されていい訳がない。
仮に国会議員だとて、公共工事の入札に関与して良いわけがない。
自分の秘書が公共工事の入札を取り仕切っておりながら、それを知らない国会議員というのは端から話にならない。
「空いた口が塞がらない」という表現そのものである。
事ほど左様に、社会全体が悪に塗れているわけである。
こういう状況の中で、弱者救済というキャッチフレーズは如何にも新鮮かつ正義感に満ち溢れた印象を受ける。
弱者救済、水俣病の被害者を守れ、エイズ薬害の被害者を守れ、公害被害者を守れというシュプレヒコールには反対のしようがない。
まさしくそれは正義であり、その時の、その時代の大儀である。
こういう大儀に順応する事は一般大衆にとっては非常に安易な事である。
言う方も従う方も、そこに大儀というものがある以上、それに順応する事は人の生き方として非常に安易な手法である。
けれども我々人類の歴史というのは、この大儀に従うことで成り立っていたわけで、そのことは言い方を変えれば最大多数の最大幸福の追求という事でもあったわけである。
だからこそ大儀たり得たわけである。

大儀に順ずることの良し悪し

20世紀に生きた人々というのは、その場、その時の大儀に殉じて生きてきたといっても過言ではないと思う。
その結果として、写真集「百年の愚行」というものがあったとしたら、我々はそれをどう考えればいいのであろう。
問題は、人間というものが国という架空の概念の中で生きているということだと思う。
Aという国の中で生きている人々と、Bという国の中で生きている人々にとって、それぞれの主権国家の大衆にとって、その国民の大儀というのは相反するベクトルをもっているわけである。
写真集「百年の愚行」というのは、その国という架空の概念を取り払った視点で見ているから、人間全体の愚行という感じがするわけである。
ならば、「この地球上を一つの国家にすればいい」という議論に当然行き着くが、それをしたとしても地域の特性というものは厳然と残るわけで、それが証拠に、この21世紀に至ってもアラブとイスラエル、インドとパキスタンなど、宗教を介在して文字通り愚行を繰り返しているではないか。
全地球が仮に一つの国家になったとしても、中国大陸から人々が雲霞のように北アメリカ大陸に流れてきたとしたら、北アメリカの側としては何らかの措置をしなければ、自分達が生きておれないということになるだろうと思う。
国家の概念を取り払ったとしても、地域の特性と人間の習性というのはそう安易に取り払うことはできないわけで、結局のところ国境を完全に無にするということはありえないと思う。
Aという国の大儀はBという国にとっては許し難い事で、逆にBという国の大儀はAという国にとっては生存の危機にさらされるわけである。
そういう事情を全部無視して、天空から神の視点で地上にうごめく人間の行為を敷衍的に見れば、まさしく20世紀の人間の行為というのは愚行そのものである。
人間誰しも自分の馬鹿をさらけ出す事は容易である。
「自分はこんなにも愚かな人間である」という懺悔は誰しも安易に出来る。
その逆に、人間はこんなにも有意義な存在で、美しい生き物であるという事はどのようにすれば認知されるのであろう。
そういう人間の美しい行為を顕彰するのに様々な賞というものが設けられている。
例えばノーベル賞のようなものを考えればいいと思うが、人間の悪行というのは検証することは比較的楽であるが、人間の善行を検証するということは非常に難しい事ではないかと思う。
今では日中戦争という言葉が使われているが、あれは当時、日本側では日支事変と称して戦争とは言わなかった。
それは国際連盟の中の規約を厳密に踏襲し、遵守して、その呼称を使わなかったわけである。
これは当時の日本政府の良心であったわけである。
その日本政府の良心を土足で踏みにじったのが同胞としての旧日本帝国陸軍であった。
このとき日本の政府の良心を、誰がどのように検証してくれたのであろう。
組織の善行というのは誰も検証してくれず、歴史の中に埋没してしまう。
そういう善行も時の流れとともに、その上に悪行が積み重なって、歴史の中に埋没してしまうではないか。
結果として人類の愚行としてのみ、歴史上の事実として残ってしまう。
太平洋戦争が始まる前、野村吉三郎駐米大使は必死になって日米交渉を実りあるものにしようと努力したにもかかわらず、日本の軍部が戦端を開いてしまった事を誰がどのように検証したらいいのであろう。
その結果として広島・長崎の原爆になったわけであるが、あれもアメリカの大儀に立てば、戦争を終結させるための大儀であったわけである。
被害者としての我々の側に立てば、20世紀の愚行と言い切ったとしても、その前に真珠湾がある以上、言い切れない部分がある。
20世紀のあらゆる愚行にも、それぞれに原因と理由があるわけで、それを天上の神の位置から敷衍して、人間どもの馬鹿な愚行だと決め付ける事は、神の威を借りる不遜な発想だと思う。
2002.6.3

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