木村太郎への反論

売国奴の発想

5月20日の中日新聞3面に、木村太郎氏の国際通信というコラムの中で、彼は先回の中国瀋陽で起きた日本総領事館に中国の官憲が押し入った事件に関して、「あれは本当に不可侵を侵したものであったのだろうか?」という見解を開陳している。
つまり、中国の官憲が領事館内で鉄砲をぶっ放したわけではないから、彼らが待合室にまで無断で押し入って、北朝鮮からの亡命者を連れ去っても、領事館の不可侵を侵すものではないという論旨である。
鉄砲をぶっ放すという表現はいささかオーバーで、こういう文言は記されていないが、つまり中国の官憲がいくら日本の領事館内に入ってきても、それは領事の本来の仕事を邪魔したり、妨害したりしたわけではないから、治外法権を侵した事にはならないのではないかという事である。
その論拠として、法律の文言を並べ、日本語と英文の条約文の文言を引き合いに出して、自分の論拠としているが、あの場面というのは、事件発生以来何度もテレビで放映されているにもかかわらず、あのシーンを見てこういう悠長というか、危機感のなさというか、自分の国の主権を捨て去るような発言が出来るものだと思う。
まさに自分の国の事よりも、中国の味方をする売国奴に等しき言動である。
自分の国を害するように、不利益なように、滅亡の方向に向けようとする魂胆が見え見えで、自分の祖国よりも、相手国の繁栄を願っているという構図である。
私はここで過去のナショナリズムを懐古する気はないが、こういう人としての倫理に反する思考というのが、戦後の日本の知識人の生き様ではなかったかと思う。
同じ日に21世紀に最初に誕生した独立国として東チモールの事が載っていた。
民族が独立をするということは非常に大変な事だと思う。
それと同時に、独立を維持するという事もそれ以上に大変な事である。
一旦独立したからと言って、それが未来永劫続くとは限らないわけで、旧ソビエット連邦を形成していた諸国家のことを考えれば、それは一目瞭然であるが、我々、日本という国に住んでいる日本民族、大和民族と言うのは、そのことを水か空気のようにしか思っていない。
木村太郎氏が、中国の官憲の行為に対して、寛大な所見を述べる事が許されるというのも、日本が如何に能天気な状況にあるかということの確かな証拠である。
この木村太郎氏の思考というのは、日本の戦後の知識人に共通する発想だと思う。中国の官憲が治外法権の保証されている領事館内に無断で押し入っても、そこで血を流したり、人を危めたわけではない。
人命というものが、その場で危機にさらされたわけではなく、軽微な窃盗犯の逮捕劇というようなニュアンスでこの事件を見ようとするから、こういう見解が生まれるのではないかと思う。
ある行為を法律なり国際条約の文言に照らして考察するという事は、基本的には良いことである。
しかし、ここで問題となるのは、その文言を自分の都合にあわせて、自分の都合の良いように解釈するという事である。
文言をストレートの受け止めるのではなく、その文言の意味を歪曲して、自分の都合に合わせて、解釈しようとするご都合主義というものを我々は注視して見なければならない。
その典型的な例が言わずもがな、日本国憲法第9条である。
独立国として、自分の国を自分で守る事を放棄した主権国家などというものは論理的にありえない。
にもかかわらず、あの憲法をこれからも遵守していこう、という勢力が未だに日本に居るわけで、その勢力の大半が進歩的知識人と呼ばれる人々である。
日本国憲法第9条を素直に読めば、自衛隊というのは完全に憲法違反である。
だから憲法を変えようとすれば、「平和を乱す」と言い、そうかといって自衛隊を全く無にする勇気ももたず、憲法を拡大解釈することで現実に合わそうとしている。
基本的国家主権をはっきりと表明する事を避け、自らの主権をぼやけた存在にしておきながら、周辺諸国の顔色ばかりを上目遣いに伺っている図である。

真実と正義の狭間

あの北朝鮮からの亡命者に対する木村太郎氏の所見というのは、第三者として、傍観者として、日本の進歩的知識人の典型的な思考だと思う。
現実の人間の生き様から遊離した、傍観者として、高い高い人間界を超越した天上から、必死になって死ぬか生きるかの狭間で戦っている生身の人間を睥睨した感想だと思う。
そういう私は外務省を擁護するものではない。
むしろ外務省のあの対応には怒りを覚えるもので、その外務省も進歩的知識人の範疇に入っているわけである。
その意味では主権を放棄した、インテリー・ヤクザ、乃至は税金泥棒でないかとさえ思っている。
日本の知識階級というのが、現実の人間の生き様から遊離した空理空論、理念という画餅を宗教の護符のように崇め奉り、現実の人間界から離れた別世界から我々を睥睨して生きておれるということは、我々の住む日本という地上が、彼らにとっては天国であるからである。
彼らの発言には責任というものがないわけで、いくら政府なり、外務省なり、行政の悪口を言っても、それで自分が食いはぐれるということは全く無いわけである。そして、そういう悪口が、マスコミ業界で商品として価値を持っているからである。この事件に関し、小泉総理がマスコミのインタビューに答えて、「自分の国の報道を信じるか、相手の言う事を信じるのか」というコメントをしていたが、我々の側の報道が信じられないことも確かな事実である。
故意に嘘のニュースを流したわけではなく、事実を切り売りして報道したとしても、報道を流すソースに不手際があれば、自分達の報道が結果として信じられないということはある。
報道を信じるも信じないも、自分の目、自分の視点、自分自身の判断力というフイルターを通さなければならないわけで、今回の事件でも、中国の発表の後から事後承認という形で情報が小出しになっていたわけで、これでは我々の側の報道は一体何をしているのかということになる。
発表された事を正直に報道したとしても、発表に至る過程と、その内容が出鱈目では、それが信じられない事は致し方ない。
これは完全なる外交戦略である。
言葉の戦争、外交という政治戦争の一環である。
ところがここでも鉄砲を撃ち合ったわけではないので、日本の知識人には、戦争という概念がわいてこないわけである。
瀋陽の日本総領事館内の待合室から中国官憲が亡命者を連れ去ったとしても、血を流したわけではなく、鉄砲が発射されたわけでもなく、業務が阻害されたわけでもないので、主権侵害にあたらないという見解と全く同じなわけである。
組織の末端の現場でこういう事が起きて、「これは不味い!」と、中国側は察知したものだから、外交戦争、政治戦争と認識して、言葉の戦争を仕掛けてきたわけである。
だから先制攻撃として、自分達の不合理を誤魔化すために高飛車に出てきたわけである。
だから有る事無い事、次から次へと日本の外務省が不利になるような情報を繰り出してきたわけである。
戦争であるから、その内容が正しいとか、正確であるとか、倫理に外れていないかどうか、などということは眼中にないわけで、相手を黙らせればそれで戦争の目的は達せられた事になるわけである。
こういう危機感が日本の知識人には全く欠けているわけで、「人命が損なわれていないのだから、どうでもいいではないか」という発想だろうと思う。
こういう事態に至って、法律や条約の文言を引っ張り出して、それの解釈で相手国を利する行為というのは、売国奴としか言い様がないし、自分が窮すると、法律や条文の拡大解釈ですり抜けようという魂胆は、頭の良い人の常套手段である。
目の前の現実を素直に受け取らず、何か抜け道が法律や条文の中にあるのではなかろうか、とそういう抜け道を故意に拡大解釈して、中国側に便宜を図ってやろうという主旨だと思う。
過去の日本の歴史の中で、我々国民が自分達の政府から騙されたことも多々有った。同時に、マスコミというオピニオン・リーダーの偏向した情報で、喧騒な世の中を現出した事があったというのも事実である。
政府の過ちというのは、明らかにされた時点で、政府側の謝罪ということもあり、事と状況によっては、補償金とか見舞金というかたちで償われる事もある。
ならばもう一方の日本のオピニオン・リーダーとしてのマスコミの過ちというのは、誰がどういういう形でその過誤を償うのかと言いたい。
マスコミというのは、そういう反省そのものがないのではないかと思う。
自分達が間違った報道をしたという認識がないことには、その償いということもありえないので、マスコミの業界がそういう認識を持つという事は、未来永劫ありえないのではないかと思う。
彼らの認識に立てば、嘘を報道したわけではなく、誰それの言った真実、誰それがこう言ったああ言ったという部分は真実なわけで、「真実」と「正しいと言う事」とは違うわけで、その意味からすれば嘘ばかり言ってきたということである。
ところがこのマスコミの報道する内容というのにも、時代の流れというものがあるわけで、太平洋戦争前から戦中の日本のマスコミというのは、政府の御用機関であった。
ところが戦後となると一貫して政府批判の機関となったわけで、政府直轄の機関は官報のみになってしまった。

知識人の愛国心を問う

今生きている日本人というのは、その大部分が戦後生まれである。
私が昭和15年生まれで、それでも既に還暦を過ぎ、年金生活者であるからして、今社会の一線で活躍している人問というのは、全て戦後生まれといっても過言ではない。
この戦後生まれの日本人というのは、ある意味で日本人ではないかもしれない。
ところがここに民族の連続性というものがあり、一朝一夕で民族性というものは変革するものではない、という厳然たる事実が有る。
日本人の潜在意識というのは、後から植え付けられた小手先の施策では偏向し難い連続性というものを引きずっている。
しかし、100%変革していないにしても、50%ぐらいは本来の日本人の民族的潜在意識というものが変革してしまっていると言える。
その変革の主要な要因は、いうまでもなくマルキシズムだろうと思う。
先に私は「20世紀の怪物・共産主義」というものを記したが、戦後の世界では、この共産主義というもの影響は絶大なものがあると思う。
マルキシズムというのは暴力を肯定しているので、その暴力の部分を削除した考えが、社会主義だと理解しているが、この思考の特徴は、既存のものに対する反抗ということである。
とにかく既存のものを否定する事から始まっているわけで、我々の場合は、それが敗戦という外圧でなされたわけである。
この外圧でなされた変革を、再び「自分達のオリジナリテイーで見直そうではないか!」というのが憲法改正ということだろうと思うが、「そんな事をすれば叉軍国主義になるから駄目だ」と言う人がいるわけである。
こういう人たちというのは、完全にマルキシズムの呪縛に係り、自分達の自主性というものを自ら否定しているわけである。
自分達で自らの自主性というものを否定するということは、取りも直さず、今まで述べてきた木村太郎の所信と完全に一致するわけで、相手国の行為を容認し、自国を不利な方向に導こうとする発想だと思う。
これは、戦後の日本のマルキシズムというものが、その後の日本のオピニオン・リーダーに絶大なる影響を与えているという厳然たる証拠だと思う。
おそらく本人も自分がマルキシズムに侵されているなどとは意識していないと思う。マルキシズムの全部が悪いとは私は思わない。
日本が敗戦という外圧を契機にして、それまでの国家社会主義的なものを打ち破り、民主化の道を選択しえたという意味では、マルキシズムの良い面が出ているわけで、マルキシズムの全部が全部悪いということはない。
人間の生きてきた過程として、封建主義思想を通過するということは、必然的な流れだと思うが、問題は、その後にどういう社会を作るかが、人類の課題であったわけである。
その過程で、共産主義国家を選択した民族もあれば、自由主義国家で経済の発展を叶えた国家もあった。
我々の場合、外圧によって自由主義国家の側に身を置くことを強いられたわけである。
いうまでもなく、それは連合国のアメリカに占領されたという事実で以って、我々の自由意志でそれを選択する余地はなかったわけである。
ところがそれは図らずも、社会主義的国家にならざるを得なかったわけである。
というのも、戦後の我々というのは全く無一文であったわけで、国民の間で自由競争というものが成り立たなかったからである。
自由競争をしようにも、元々無の状態で、競争が成り立たなかったわけである。
どうしても統治者が、その何もない資源を、とにもかくにもやりくり算段しなければならない状況下で、戦勝国のアメリカに頼らざるを得なかったわけである。
その過程で、物の生産に携わらなくても済む虚業、つまり大学教授とか、マスコミ業界とか、政治家とか、労働組合の幹部とかという人々は、物があろうがなかろうが切実な事柄ではなかったわけである。
口でシュプレヒコールを叫んでいれば済んでいたわけである。
物の生産現場と消費の現場では国家統制経済であったが、政治の現場では、占領軍の民主化のお陰で、古い封建主義、戦時中の国家社会主義的なものを糾弾していれば食っておれたわけである。
だから戦後の日本では、オピニオン・リーダーと称せられる虚業者と、実際の市井の市民としての生活者の間には乖離があったわけである。
こういう社会的状況の中で、マスコミというのは、画に書いた餅のような理念を、さも正義かの如く吹聴するものだから、市井の市民の側としては、偉い大学教授や政党のリーダー達が言うことならば正しいに違いないと思ったわけである。
それがいわゆる戦後の革新勢力というものだと思う。
ある意味で、付和雷同的に自分の意見、自分の考えというものを全く持っていない人が、絵に書いた餅を見て、それを拝んでいるという構図である。
戦後の日本が国家統制経済から出発せざるを得なかった、というのは致し方ない面がある。
1945年、昭和20年の日本というのは、とにかく何もなかったわけで、自由経済、自由競争しようにも、その基盤が何もなかったわけである。
それ以降、段々と経済が復興するにつれて、徐々にその統制が取れていったわけである。
逆に政治の状況においては、占領下のもとでは、占領軍の顔色を伺わなければならない状況があったことは否めないが、日本が独立しようとした時に、その当時の日本のオピニオン・リーダーたるべき人々の中で、この独立に反対した同胞がいたということを知るべきである。
この時の同胞の考え方の流れを汲み、その意志を連綿と継続して主張しているのが、その後の反政府勢力という人々である。
その人たちには連綿とマルキシズムの影響が残っているわけで、自分達の統治者には悉く反対するが、外国の言う事は「お説御尤も」と相手国に媚を売り利益を代弁するわけである。
しかし、戦勝国でありながら敗戦国の我々に食料を送ってくれたアメリカには一目置くわけで、この事はアメリカのいうことを素直に聞くという意味ではなく、日本政府を通してアメリカに文句を言おうとしているわけである。
それは自分で言っても、相手が取り合ってくれない事を知っているからであって、いくらかでも取り合ってもらうには、正式な政府の窓口を通さない事には埒があかないからである。
しかし、日本政府としては、かっては援助してもらった国ではあるし、軍事力の傘の下に入れさせてもらっている手前、そうそう正面切ってアメリカに不利になることを言い出すわけにも行かず、板ばさみになっているわけである。
日本が占領を解かれ、独立するかしないかという時にも、「占領のままでいたい」と言い、日本の政府に反対する大学教授達がいたし、60年安保条約改定の時も、自分達の自主性を加味する事に反対して、「片務的条約のままの方がいい」といって政府に反対していたわけで、こういう日本の進歩的知識人というのを、知識人でない我々庶民は一体どう理解したら良いのであろう。
木村太郎のように、相手の官憲が断りもなしに亡命者を引き連れていくのに、「主権を侵害されたと騒ぐのは可笑しい」という日本の知識人に対して、知識人でない我々は、これをどう理解したらいいのであろう。
マスコミに売文する事を生業にしている人々も、ある意味で気の毒な面がある。
木村太郎にしても、我々、知識人でないものと同じ論旨では売文の値打ちがないし、それかといって、大衆に迎合するような論旨では、本人の価値そのものがマスコミ業界の中で問われるわけで、やはり自分の論旨に価値を持たせるためには、人と違った事を言わなければならないわけである。
今は売国奴などという言葉そのものが死語になっているので、いくら売国奴的な発言をしても、それの意味を理解する人が居ない。
そういう発言こそ国際理解に貢献するものである、と言う逆の価値観になりそうである。
日本のマスコミに登場している日本の知識人というのは、おそらくその大部分が英語も堪能で、海外生活も多かれ少なかれ経験している人達だと思う。
つまり知識を獲得する手段としては非常に優れた才能に恵まれた人たちだと思う。その事は、外国人と個人的に対峙しても決して気後れなどするような人たちではないと思う。
ところが、こういう人が一旦日本人の方向を向いて口を開くと、自分の祖国につばを吐くようなことを言うわけである。
これは一体どういうことなのであろう。
日本の政府と言うのは完全に中国からは舐められている。
大韓民国からも舐められている。
朝鮮民主主義人民共和国からも舐められている。
アメリカも日本政府を馬鹿にしているが、露骨にはそれを示さない。
パートナーとして、こちらの立場を慮って、尊重している振りをしているが、心の中では馬鹿にしている。
自分の祖国がこういう国かと思うと実に悲しい。
それはある面では政治家の所為でもあり、外務省の所為でもあろう。
しかし、一番肝心な事は、我々の同胞の中で、非常に見識も高く、英語も堪能で、海外での経験も豊富であろう知識人、進歩的知識人と総称されるインテリー層が、そろいも揃って自分の祖国を外国に売っている現実が悲しい。
以前のように熱狂的なナショナリズムが良いとは言わないが、日本の教養ある知識人というものが、もう少し自分の祖国に愛着を持って意見を述べてもらえたらと思う。
かって旧ソビエット連邦のソルジェンツイーンは、「収容所列島」を著して、祖国ロシアを追われ、アメリカに移り住んだが、彼は祖国を追われたにもかかわらず、自分の祖国には熱烈なる愛情を持ちつづけ、罪が解かれたら真っ先に祖国に帰っている。
こういう郷土愛、祖国愛というものが我々の同胞、つまり日本人の中にもあってもいいのではなかろうか。
自分の国の政治家や官僚がすべて善人など言う事はありえないわけで、そういう事と愛国心というのは別の問題ではないかと思う。
2002.5.20

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