世紀を超えて家族が集う 平成13年2001年1月1日
昨年12月30日に長男夫婦が帰省して、翌31日には正月逃避行として伊勢の方面に遊びに行った。
日本の習俗というか、習慣というか、正月の行事というのは、我々の年齢に達するとかなり苦痛な行事である。
故郷を離れ、都会に出た人達が、正月とお盆には故郷に帰るという慣習も、21世紀を迎えるこの時代には再考を要する習慣ではないかと思う。
この習慣というのは日本が近代化するとともに国民的行事として定着した感があるが、その裏側を推測して見れば、まだまだ我々、日本人の意識の中に前近代的なものを内包しているということである。
都会に出た人が、盆と正月にはきまって故郷に帰るということは、まだまだ農耕民族としての習俗から脱却できないでいる、という事に他ならない。
本当に人々の意識が近代化したとすれば、都会に出て働いているからといって、故郷の郷愁など綺麗さっぱりと捨て去ってしかるべきである。
それを捨て去る勇気を持たず、何時までもじくじくと故郷に帰る、ということは個人の自立というものが不安定だからと思う。
日本人の古い意識では大方のところで、農家の長男が農業を継ぎ、次男、三男というのは家を出て都会に職を求めて集まってきているわけである。
戦後アメリカ占領軍による農地解放で、日本の農家は戦前に比べるとかなり豊かになった。
しかし、それでも農村の貧困というものが一気に改善されたわけではない。
人類というものが、農業を生きる糧としている間は必然的にその社会は封建制度にならざるを得ない。
農作物を生産する側と、それを管理運営する側の峻別は、必然的に生まれるものであるが、この地球上に生息する人類において、食糧生産に直接タッチする側の人々というのは、貧困にならざるを得ない。
それを逆に言えば、生産に携わらない側の人々が富を独占してしまうということである。
戦後の日本でもそれは歴然と生きていたわけで、戦争に勝利したアメリカは、日本がアメリカに立ち向かってきたのは、日本の貧困がその基底に潜んでいる根源的な要因である、とみなしていたわけである。
よって、今後、日本がアメリカに立ち向かうことのないようにするためには、日本の貧困を根絶しなければならない、と考えたわけである。
その目的遂行のために、日本に進駐してきた時、この封建制度を破壊すべく農地改革を実践ならしめたわけである。
その結果として、日本の小作農は地主の束縛を逃れ、自営農家として自立できたわけであるが、農家というものは、たとえ自立できたとしても、この資本主義体制のもとでは、現金収入というのは作物を換金したときでなければありえないわけで、すべての農家が一気に豊かになれたわけではない。
戦後の復興というのは、この農地改革とあわせて、工業生産においても徐々に軌道に乗ってきたわけで、その過程において農村の次男、三男というものが都市の工場に又は商業に吸収されるというか、流入というか、いわゆる農村から都市に人が流れていったわけである。
それで都市の生活者の中では農村出身者が大勢を占めるようになったわけであるが、この都市の生活者というのも、元はといえば農村に生まれ、農村で育った人たちであるからして、その自分の生まれ育った故郷に対する郷愁というものは一気に捨て去れなかったわけである。
その習慣というか、郷愁というか、故郷に対する思いというもの引きずりながらの日常生活が、盆・暮れという一年のうちのエポックに急に噴出して、日本中が大移動を繰り返しているわけである。
以前はこの国民的大移動も鉄道によってなされていたが、高度経済成長を経た今日では、それが自動車によってなされるわけで、この時期の日本の道路はどこもかしこも渋滞だらけになるわけである。
我が家の長男夫婦も、この例に漏れず、盆と暮れには大移動をしてくるわけであるが、これを迎える側としては、うれしいような困ったような複雑な気持ちになる。
従来の日本の農村のあり方としては、家は長男が継ぎ、次男、三男は都会に出たわけであるが、家に残った長男夫婦の生活というのは、その両親の面倒を必然的に見ているわけで、今の言葉で言えば、年老いた老人の介護をせざるを得ない立場に必然的に立たされているわけである。
家を出た方の次男、三男のは都会で核家族として生活をエンジョイしうるが、家を守っているほうの長男夫婦というのは、年老いた老人の介護をしながら、少ない農業収入に甘んじなければならないわけである。
そういう状況の中に、都会からちゃらちゃらと手土産をぶら下げて家族全員で帰ってこられた日には、長男の嫁さんというのはどういう気持ちで彼らを迎えるのか、その気持ちを察すると傍目にも気の毒でならない。
この矛盾というのは、日本の社会そのものの中にあるわけで、誰を恨むわけにもいかないが、これだけマスコミが発達している中でも、このマスコミがこの「無意味な帰省をやめましょう」という呼びかけを一向にしないところが不思議である。
我々、日本人という農耕民族にとっては、盆、正月を一族郎党寄り集まって過ごすことは「善」である、という認識から脱却できないでいる。
誰一人、長男の嫁だけが殊のほか難儀をしているということに注目しない。
我が家では長男夫婦が連れてくる子供、我々にとっては初孫であるが、この孫がやんちゃ盛りで、手におえないので、家内が「今年は逃避しようか」といっていたが、私は「折角帰ってくるのだから暖かく迎えてやれ」とそれを諌めておいた。
が、実際問題として逃げ出したくなる心境である。
私自身が長男であるので無意識のうちにそういう心構えを持ち合わせたのかもしれないが、盆暮れの帰省ということを誰一人疑わないのも不思議なことである。その後ろには、田舎で老人を看取りながら、少ない現金収入に甘んじ、労苦を強いられている人々がいる、という事をきれいさっぱり忘れ去ってしまっている。
そいうわけで、我が家にも長男が妻と子供を引き連れて帰ってきたわけであるが、この子供、初孫のやんちゃ振りにはほとほと手を焼くが、不思議なことになぜか憎めないものである。
車から下りて「じいちゃん!」と言って駆け寄ってくると、なぜか自分の顔がほころんでいるのが自分でもわかる。
「孫というものは自分の子供より可愛い」と人生の先輩からよく聞かされたことであるが、まさしく先達の言われるとおりで、無性に可愛いものである。
人生の先輩たちの話では、自分の子供を育てるということは、その子育てに責任があるが、孫に関しては、直接的にはその責任がないので、無償の愛を注げるから、と聞いているが、そうかもしれない。
それで長男夫婦を一夜泊めて、翌日、正月を逃避するという目的で、伊勢の方に車で出かけた。
31日というのは大晦日で、街はかなりすいていたので、余裕を持ってドライブすることができた。
我が家から伊勢の方面に向かうには、すぐ近くから東名阪に乗ればわけないことであるが、急ぐ旅ではないのでしばらく下の道を走った。
長男の車にはナビゲーション・システムがついているので、下の道でもスムースに動くことが可能であった。
このナビゲーション・システムというのもこの数年でかなり普及し、今の車はちょっと高級になれば必ず装備されているようだ。
まさしく技術の進歩以外の何者でもないが、これは実に驚くべきことだと思う。私の幼少の頃、おおよそ半世紀前、アメリカ人の車にはラジオが付いているのを知って大いに驚愕したものである。
当時、ラジオといえば、我が家にある5球スーパーしか知らなかったので、どうして電気もなしでラジオが聞けるのか不思議でならなかった。
この時代のことを思うと、自分自身の車が持てるということすら信じられないことであった。
ところがこの信じられない事が、今では一人の一台の状況である。
道路をいくら作ったとしても、車の台数の増加のほうが道路建設に追いつかないわけで、日本中どこに行っても交通渋滞に巻き込まれるようになるとは夢にも思わなかった。
それが今現実の問題となっているわけである。
伊勢に向かう車の中は長男夫婦と子供一人そして我々夫婦と娘を入れて合計6人が乗っていたが、まさしく家族団欒を絵に描いたようなものである。
幸せというか、豊穣というか、円満というか、満ち足りたというか、有難いことである。
で、道もすいていたので蟹江までは下の道を走り、蟹江から東名阪に乗った。
高速に乗ってしまえば後はわけなく目的地まで行ってしまうわけで、何も特別な印象というものはなかった。
私は子供の頃から自動車というものが殊のほか好きであった。
しかも人とは少し違って、普通の乗用車よりもトラックの方が好きで、定年退職を記念して購入した車も本当はピックアップ・トラックが欲しかった。
ところが最近とみに目を悪くして、もうそろそろ免許証の更新ができないのではないかと、それを危惧して無難なセダンにしておいたが、本来ならばピックアップを買いたかった。
いい年をした者がピックアップ・トラックを乗り回している図というのも、様になるように思うが、きっと家内は反対するに違いない。
車と道路に関していえば、昨年、都市交通のシンポジュウムを聞いたとき、プロ・ドライバーの中島悟が「将来は高速料金というものを無料にして欲しい」と言っていたが、基本的に道路から金を取るということは間違っているように思う。
道路というものは一種の社会的なインフラであって、国家が国民の便益のために作るものである以上、利用者から金を取るという事は、ある意味からすれば、別の税金を利用者から毟り取っているようなものである。
道路の維持管理に金がかかるということは理解できるが、本来ならばその部分を税金でまかなうべきで、それをしてこそ社会的なインフラ整備ということになるのだと思う。
動乱の20世紀を越え、21世紀にさしかかろうとする今日、さまざまな事が変革を余儀なくされ、世の中は輪廻転生を常とすることは理屈ではわかっているが、理屈では通らない事があまりにも多すぎるように思える。
日本道路公団が高速道路の料金を取るということもその一つであるが、日本国有鉄道の解体という事も、私にとっては大きな謎である。
日本国有鉄道、いわゆる国鉄の存続の理念というのは、いわゆる日本のどんな僻地でも人の足を確保する、というところにあったはずである。
それは採算性の問題とは別の次元のことで、それが採算性の問題に摩り替わったのは、いわゆる日本のモーター・リゼーションの興隆と軌を一にしているのではないかと思う。
日本のどんな田舎の人でも、車という移動手段をもつことによって、今まで国鉄のローカル線の持っていた使命が変わってしまったわけである。
わずか50年前には国鉄の使命、理念というのは、日本のどんな田舎に住む人にも、移動の手段として、社会的インフラとして、その人達の足の確保をする、ということであった。
そこに存在価値があったわけであるが、それが国民の大部分が車を所有してしまうと、その国鉄の持つ本来の使命、理念というものが失われてしまったわけである。
そこに持ってきて、国鉄の経営の不味さというものがそれに輪をかけてしまい、世間の顰蹙を買うようになったが故に、民営化という事態に至ったわけである。
国鉄の経営の不味さの中には、組合との確執も当然含まれるわけで、それを含めて、政治家に妥協せざるを得ない立場の弱さというものも忘れてならならない。
政治家の票集めにために、赤字ローカル線を次々に作らざるを得なかった、その背景というものも考えなければならないと思う。
しかし、国銃の理念というのは、やはり、どんな僻地にも、移動の足としての社会的インフラとして、ありつづけるということにあったことは間違いないと思う。物の本によると、国鉄の存立の基盤そのものが、採算性というものを抜きに考えられていた、ということであるが、問題は、その中で働く人々の意識に、その理念があったかどうかの問題ではないか思う。
国鉄で働く人々が、自分たちは社会的インフラの一翼を担っているのだ、という意識をもたず、親方日の丸の下で、いくら労働争議に明け暮れても、解雇の心配がない、という安逸な思考でいたからではないかと思う。
目的意識を見失った組織は、自然に消滅することは、あらゆる組織に共通する事象で、それであるが故に、民営化されてしまったのではないかと思う。
民間企業となれば利潤の追求が最優先されるわけで、理念も使命も吹き飛んでしまうわけである。
利益の上がらないセクションは真っ先に削除されてしまうわけで、社会的インフラなどと言っていられないわけである。
道路というのも立派な社会インフラであるが、家の周りの生活道路は自治体が補修してくれるが、これは明らかに税金でまかなわれているわけである。
ならば高速道路というのも、日本の全体から考えれば、立派に社会的、乃至は経済的な役目を果たしているわけで、だとすれば国の税金でその補修を行ってもよさそうなものである。
考えてみると、車に関する税金というのは数え切れないぐらいあるわけで、これは明らかに前近代的な思考であるように思われる。
車というものが贅沢品という観念から抜け切れていないように見受けられる。
これだけ車が普及してくるともう贅沢品ではないわけで、社会生活上の道具に過ぎなくなっている。
そういうことを考えると、国というのは、取れるところから税金を取るということでしかない。
嫌ならば車を利用しないようにするほかない。
ま、そんなことを考えながら長男の運転する車に身をまかせていると、昼少し前、鳥羽の駅前についた。
この日は12月31日ということで、いわゆる大晦日であったため、この鳥羽の駅前というのも観光地の割には閑散としており、明日の元旦の客を見込んで英気を養っているのかもしれない。
店を開けているところが少ない。
食堂もレストランも「本日休業」の看板を掲げているところが多く、店が一斉に休業するというのも、利用者にとっては不便この上ない。
ヨーロッパにおいては、休日には店が一斉に閉まってしまう、ということを聞いたが、世の中の店が一斉にしまってしまう、というのも困ったものだ。
そんなわけで、狭い鳥羽の駅前をぐるぐる回りながら、あいている食堂を探したが、一旦駐車場に車を止めて、足で探そうということになり、全員下りてぞろぞろと閑散とした鳥羽の町をそぞろ歩きをした。
と、あるうどん屋が店を開けていたので、そこに入ったら。他の店がみな閉まっているので、客がここに集中してしまって、結構、混んでいた。
混んでいても背に腹は変えられず、ここで待つほかなく、名前を記入して待つことしばし、やがて人が入れ替わって席につけたが、全員が一つのテーブルにありつくことはできず、グループに分かれ、お互いに合い席となってしまった。
狭い店に客が集中しているので、店の中はまるで戦場のような煩雑さであったが、まあ何とか食にありついて外に出ると、観光地であるにもかかわらず、鳥羽の町の中は静かなたたずまいを見せていた。
食事を済ませ、車を止めたところに帰ってくると、家内と長男夫婦は「赤福が食べたい」ということを言い出して、彼らだけでその店に行った。
私はそんなものには食指が動かなかったので、それよりも周辺の観察でもしていたほうがいいと思って、待ち合わせ時間を決め、別々の行動とした。
車を止めた駐車場は近鉄鳥羽駅のすぐ裏で、ガードを潜るとすぐに海岸になっていた。
右手のほうは遊覧船の発着場になっており、妙な形をした遊覧船が行き交っていた。
デイズニーランドでもあるまいに、あまりにも遊覧船の形は奇をてらいすぎる。陳腐を通り過ぎてグロテスクでさえある。
まあ、そんなことを考えながら海岸に沿ってあたりを歩き回ったが、海は穏やかそのものであった。
このあたりは海岸線が入り組んでいるので、そのせいかもしれないが海は波一つないというありさまで、その中を伊良湖行きか、師崎行きかしらないがフェリーが出航して行った。
そして海の香りをかぎながら、1時間ばかり時間をつぶして車に戻ってくると、全員が私を待っており、すぐに出発となった。