続 正月の家族旅行・鳥羽

朝潮ホテルにて

今回泊まるところは島らしい。
何せ今回の旅行は我々自身で企画したわけではなく、長男の嫁が企画したものだから、我々は大船に乗ったつもりでタッチしなかった。
だから行き先もろくに認識していないありさまであった。
それで、そこに行くにはパールロードという有料道路に乗らなければならない。
この道は、紀伊半島のリアス式海岸に沿って、山を上ったり下ったりと、非常に変化に富んだ道で、景色が次から次へと変化するので全く飽きる事はない。
この道で的矢というところまで行って、そこで渡し舟に乗り換えなければならなかった。
パールロードというのは、坂を登ったり下ったりと、非常に変化に富んだ道で、少しも飽きることがないが、如何せん、片側一車線の道だから油断はできない。
何時、対向車が現れるかわからない。
長男の車にはナビゲーション・システムがあるので迷うことはないが、この的矢という集落は、実にこじんまりとした小さな集落であった。
息子は何度もホテルの電話して、連絡を取り合っていたが、渡し舟の発着場がわからなかった。
それで、この集落の中のほうに迷い込んでしまったが、この漁村というのは実に狭いところに民家が密集しており、車一台が通るのがやっとという道幅である。
それで、渡し舟の発着場がわからないものだから、奥のほうへどんどん入っていったら、とうとう行き止まりになってしまって、そこでユー・ターンをしてきたが、湾の奥の漁村というのは、えてしてこういうせまっ苦しいところがある。
以前、知多半島の新四国88ヶ所を回った時にも、こういう場所にめぐり合ったことがある。
これも日本人の意識がなかなか変わらない、ということの一つの証明に違いない。
漁業で生計を立てるにしても、自分の住む家ぐらい広々とした土地に作ればよさそうにと思うのがよそ者の発想で、ここに住む人からすれば、ここでなければならない理由があるに違いない。
漁に出るのに一歩でも海岸に近いほうが有利だ、ということは素人目にも理解できるが、私などの発想からすると、こんなに海に近ければ津波や高潮のときはどうするのだろうと、そういうことが心配になってくる。
船着き場は、学校の生徒が集合する場所がそれらしき風情をしていたので、そこから息子がホテルに電話すると、そこよりもう少し戻ったところに、きちんとした駐車場があるとの事であった。
そこは広い駐車場になっており、その一辺に浮き桟橋がこしらえてあり、そこが渡し舟の発着場であった。
駐車場の隅に車を止めると、船の姿かたちも見えないので、最初は本当にここに船が来るのかどうか心配であったが、しばらくするとどこからともなく小さな船が来て、人が我々のことを呼んでいるのでそれとわかった。
渡し舟は舳先を浮き桟橋につけ、我々は舳先から乗り込んだわけであるが、孫は初めての経験で、目をまん丸にして驚いていた。
船が桟橋を離れると、船の両側は筏ばかりが並んでいたが、この筏はおそらく蛎の養殖のものに違いない。あるいは真珠かもしれない。
的矢湾といえば、蛎の養殖がつとに知られているわけで、多分、蛎と思って間違いないだろう。
で、船が島に着くと、ホテルの従業員と思われる中年女性が迎えに出てくれていたが、この島というのはほんに近いところにあった。
船に乗っている時間はものの10分もかからなかった。
ところが、これは厳密に言うと、渡し舟ではないようで、降りる時、金2千円なりを請求された。
いわばタクシーのようなものであったが、6人も乗って2千円なら、そう悪い相場ではないと思った。
ホテルというのはやはり寂れた感は免れないが、もともと夏の海水浴向きのホテルのようで、いまどきの客というのは、閑散時のその場しのぎの営業という感を免れない。
都会のホテルとは比較にならない。
女性従業員に案内されて、部屋にたどりついたが、この部屋は4階の一番手前で、エレベーターに一番近い部屋であった。
8畳間ほどの大部屋で、それに控えの間とか玄関というべきスペースのついた部屋で、窓の向こうには海が眺望できた。
我々にとっては可もなく不可もないという無難な部屋であった。
この日はゆとりを持った行程であったので、そう疲れてはいないが、それでもこういう大きい部屋に通されると、我々の潜在意識として、五体を大きく伸ばしてくつろぎたくなる。
孫は大きい部屋で、大勢の大人に囲まれて、おおはしゃぎである。
常日頃は狭い社宅の中で、たくさんの家具に囲まれて生活しているし、我々のところに来ても、そうそう広い空間を独り占めできるわけもなく、こういう広い空間で自分を愛してくれている人たちに囲まれてみれば、有頂天になるのも当然であろう。
この大広間でしばらく休憩してから私は風呂に行った。
大浴場はエレベーターで下に降り、再び中二階に上がったところであったが、広くて気持ちがよかった。
日本人の風呂好きと言うのも不思議なものである。
これには日本の風土が関係しているように思う。
日本というのは、地勢的に亜熱帯にあるので、湿度が高いため、暖かい風呂で汗を流すことに快感を感じている、という説があるが、もっともな話だと思う。
それが習い性となって、年がら年中、風呂に入りたがっているに違いないが、こういう大きな浴場というのは、確かに快感であり、気持ちが緩み、精神が開放される、ということが実感できる。
風呂から上がって、浴衣を着るというのは、まさしく日本人の精神を究極の位置にまで弛緩させるものである。
しかし、温泉街で浴衣のまま街をひやかしに歩くと、これはみっともないといって世間の顰蹙を買うことになる。
我々は程度ということをわきまえず、分を知るということがないので、このあたりの精神構造は、まだまだ未開人に近いような同朋が散見される事も確かである。
しかし、浴衣姿で歩き回るのはみっともない、というけれども、ビキニ姿で歩き回る女性はどう説明したらいいのであろう。
浴衣が悪くて、ビキニならいい、というのも整合性がないように思う。
そんなことはともかく、風呂から上がって一服してから今度は食事に出かけた。
食事をする部屋は、再度エレベーターで一階まで下りて、そこを左のほうに行ったところにあり、その途中には昔の囲炉裏のようなバーべキュウの炉のような施設があった。
これはおそらく板前が客の前で実演しながら食事をさせる仕組みではないかと思うが、今回はそういう凝った企画の食事ではなかった。
食膳はそれなりに凝った膳でしたので、これは記憶に留めておいて、後で文章にしたためなければと、その場では思ったが、今となってみると、その食膳にどういうものが乗っていたかまったく記憶に残っていない。情けない話である。
私は食べ物に関してあまり関心を持たない性分から、自分の食べたものをすぐに忘れてしまう。
会社にいたときでも、昼のメニューをすぐに忘れて、自分の食べたものがさっぱり思い出せなかったことがしばしばある。
先天性アルツハイマーなのかもしれない。
この食事の時でも、孫は初めての経験なせいか、はしゃぎまわっていたが、以前、家族でレストランに入ったとき、よその家族の子供がはしゃぎまわっているのを見て非常に面白くない感情を抱いたものであるが、今は自分たちが同じ事をしでかしている。
一応この席は、我々家族だけに隔離されているが、そうでなければ人から見れば顰蹙を買いそうな場面を展開していることになる。
しかし、不思議なことに、自分の息子の子供、つまり自分の孫が、心から喜んでいる姿をこの目で見ると、なんとも可愛らしくて、怒る気持ちがまったく消えうせてしまっている。不思議なことである。
思えば、私自身、若いときには、自分がお祖父さんになる、ということなど考えたこともなかった。
家内と結婚した当時でも考えたことがなかった。
ガンになって入院中でも、自分がお祖父さんになるなんて事を思いもよらなかった。
長男が嫁をもらったのは、私がガンを患った後のことで、病気のときに人生観が変わったということもなかった。
若い頃は、街のレストランで、大家族で食事をしている見も知らぬ人達の一家団欒の姿を見て、若夫婦が老夫婦に甘えていると思い込んでいたが、今自分がそういう立場に立って見ると、あの姿というのは、老夫婦が若い夫婦を眺めて、心から満足感に浸っている図であることが理解できる。
自分がこの一族の家長である、という実感がひしひしと感じられる。
まあ、そんなことで、食事を終え部屋に帰ってくると布団がしかれていた。
寝るには少し早い時間であったが、他にすることもないので、私は一番隅の布団で寝てしまった。
他の者はそれぞれに紅白歌合戦を見ていたらしいが、私は最近の紅白歌合戦は見る気がしないので、この数年見ずに終わっている。
最近の紅白歌合戦が面白くなくなった理由は、あまりにも演出に懲りすぎて、ドンちゃん騒ぎの雰囲気がたまらなく嫌いだからである。
NHKはNHKらしく、格調高く、高踏的な雰囲気をそのまま維持しくれたならば、私にとってはありがたいが、NHKも民放に迎合して、だんだん質を落としてきているので、最近の紅白歌合戦は私にとっては見るに耐えない。
こうして我が家の20世紀は幕を閉じたわけである。

帰途、滝原神宮に代参したこと

翌、21世紀の早朝、長男がもそもそと起き出して部屋を出て行った。
朝のご来光を見るために出て行ったらしいが、この朝は雲が多くて、日の出が見えるか見えないかの、非常に判断の難しいところであった。
それでも長男はビデオを持って出て行ったが、帰ってきてから聞くところによると、海はそうとうに荒れていたらしい。
海流が激しく、船が方向転換をするのに難儀していたといっていた。
その上、他のホテルの船は立派なものだが、我が宿の船は昨日の渡し舟で、大いに見劣りがしたと悔しがっていた。
5人の大人と、一人の子供が大部屋で寝ていたのだから、これはまあ雑魚寝に近いようなものである。
三々五々、目を覚ましたものから身支度をかねて身繕いをして、全員がそろったところで朝食に出掛けた。
場所は昨夜夕食を取ったところであるが、このときはさすがに元旦ということで、膳に雑煮がついていた。
小さな餅が二切れ入っていたことは記憶しているが、どういう雑煮であったのか定かに思いだせない。
雑煮というのは地方地方によってこれほど趣を異にする料理も珍しいのではないかと思う。
そう思って注意していたつもりでも、我がアルツハイマーにいたってはさっぱり雑煮の内容が思い出せない。
朝の食事を済ませたら、いよいよこのホテルともお別れであるが、チェック・アウトぎりぎりまで部屋でくつろいで、それから出発することにした。
昨日のコースは初詣の人で道路が混雑すると先読みして、もう少し紀伊長島の方に寄って、大回りではあるが空いた道路を選ぶことにした。
それでホテルを出て、昨日の渡し船で車を止めた駐車場に渡ろうとしたが、この日は他にお客がいて、あちらこちら寄り道しながらきたので、昨日よりは時間がかかった。
駐車場に着いてみると、昨日は我々のほかにもう2台車が止まっていたが、この日は一台もなく、管理人もいなかった。
その代わり、「駐車料金を払うように」と、督促の紙がフロント・ウインドウに張ってあった。
黙って逃げるのも気持ちが悪いし、新年早々、悪事を働くこともできないので、規定の料金を郵便受けに入れ、そこを出発したが、最初のうちは快適に走れて、道路のアップダウンを楽しんでいたが、そのうちの道路がだんだん狭くなって、楽しむどころではなくなってきてしまった。
この日は元旦ということで、普通の車は少ないのでいくらか走りやすいが、道路が狭くなってくると、対向車がきたらどうすべきか、そのことが心配になってきた。
高みから下のほうを見ると、トラックが一台上ってきているが、あのトラックはどうやってすれ違うのか、そんなことまで心配になってきた。
そんなことを心配していると、あにはからんや前からも一台トラックが来て、これはどうにかすれ違うことができたが、すると坂の上にトンネルがあり、このトンネルの狭いことといったら、先のトラックはここをどうすりぬけてきたのか不思議でならない。
そんなことに気をもみながら揺られていると、非常に快適な道路に出、そこには展望台があった。
この展望台からの眺めはすばらしく、志摩の海の全部が見渡せるような場所であった。
展望台にはお土産屋もあり、結構、人が入っていた。
海に面して、鳥羽一郎の歌が石に刻まれていたが、演歌はパスだ。全く興味なし。
展望台の名前もそのときは記憶できなかったが、後で道路地図を調べてみると、ニラハマ展望台となっていた。
ここからしばらく走って紀伊長島に入り、今度は国道42号線を名古屋に向かって走ることになった。
この辺りでそろそろ昼時となり、食事をするところを探しながら外を見ていたが、元旦から店を開けているところがそうたんとあるわけではない。
と、あるところで車が混雑しているところがあり、そこが道の駅奥伊勢木つつ木館というところであった。
幸いに、すぐにあいた駐車スペースが見つかり、そこで全員が降りて食事をする事になったが、ここは軽食が主で、ろくに食事らしいものはなかった。
それでも店の前に臨時の調理場を設けて、熱いうどんの立ち食いの場が出来ていたので、ここでそのうどんを食した。
腹が満腹になるというしろものではないが、それでも腹の中に熱いものを入れれば、一時の空腹は満たされる。
この店はやはり観光土産の店で、店の中には木製品がいっぱい並べてあった。
そして人々があふれていたが、この人々は初詣にきた人々で、この店の傍らには、お宮さんがあり、パトカーも近くに待機しているところを見ると、毎年、近郷近在の人が出て、混雑を極めるもののようだ。
それで私も初詣をすることにした。
帰りに伊勢神宮に参詣できればそれにこしたことはないが、おそらく伊勢神宮は人だかりで、そばにも寄れないのではないかと思って、ここで代参することにした。
この神社は滝原神宮となっていたが、私のような不信心な人間は、神様ならばどの神様も同じのような気がして、伊勢神宮もこの地の氏神様も、御利益は同じに思え、そう思って中のほうに入っていくと、奥のほうはかなり深く、この駐車場を一歩奥に入ると、長い参道があり、そうの両側にはテキヤの店が並んで、結構な賑わいを見せていた。
奥のほうにどんどん入っていくと、大きな杉並木の覆われて、如何にも奥ゆかしいという雰囲気になり、その行き着きの左側に、こじんまりとした社があった。
社は小さなものでしたが、御利益と言うのは社の大小で加減されるものではないと思い、心をこめてお参りしてきたが、賽銭を奮発できなかったので、21世紀もあまり御利益に浴せないかもしれない。
それでも、その場に持っていた全財産を奉納してきたわけで、もともとポケットにお金が入っていなかったのだから致し方ない。
ま、そんなわけで、ここでは思い思いにくつろいで体を伸ばし、精神を弛緩させ、再び車上の人となったが、この辺りはどうも木材の産地らしい。
家内はここで嫁さんから木の無垢の椅子をプレゼントされた。
直径30cm、高さ同じく30cmほどの丸太の切れ端で、それがそのまま椅子になっているものである。
この道を左側に入れば大台ケ原という日本で一番雨量の多い地域になるわけで、それから見れば、この辺りで木材が産出するのは不思議でもなんでもないはずである。
木製品に関する店が殊のほか目に付くような気がしてならない。
一度ゆっくり来て、ゆっくり回って見たいものだ。
そんなわけで、帰りは勢和多気から高速に乗って一目散に我が家に向けて走ってきた。
途中、亜由子が婚約者と約束があるということで、弥富インターを下りたところにあるサークルKで待ち合わせた。
こうして我が家の正月逃避行は終わったが、正月を迎えるということは実に大変なことである。
最近は海外旅行が自由になって、正月を海外で迎える人も多くなったが、正月を海外に出て過ごす人の気持ちもよくわかる。
家庭で正月を迎えようとすると、食事の買出しから、家の中の清掃も含めて、実に大変なことである。
正月料理のセットがデパートで売られるようになった時は、これは主婦の手抜きを助長する事のように思えて、あまり好感度がもてなかったが、この年になると、正月を迎える準備というものは非常にわずらわしくなってきた。
そのことは、あの正月料理のセットというものにも理解が出てきて、あれを購入すればかなり迎春準備の労力が節約できるのではないか、と思うようになった。
考えてみれば、我々、日本人というのは太古からこれと同じ事を綿々と繰り返してきたわけで、21世紀という時代には、もうこういう風習というのも見直してもいい時期ではないかと思う。
率直に言って、既に見直しの機運があるからこそ、人々が海外に逃げたり、おせち料理のセットが出来ているわけで、私だけがそれに気づくのが遅れていただけのことである。
お正月を祝うということは、我々、日本民族の古くからの習慣で、それをしたい人は、今までどおりにすればいいわけで、それをわずらわしいと思う人は、自分にあった正月を過ごせばいいわけである。
しかし、現実の問題として、正月を我が家で、自前のおせち料理で迎える、ということは意外に金もかかり、わずらわしさも伴い、手間隙かけなければならない。
手作りの迎春準備というのは、ある意味で一番贅沢な正月の過ごし方ともいえる。今時、自分の手で、自分の納得のいくものを手つくりする、ということは最高の贅沢である。
今の時代、自分の身の回りのものを、自ら手作りするというのは最高の趣味である、と同時に最高の贅沢でもある。
例えば、家庭菜園一つとっても、金のことを考えればスーパーで買ってきたほうがよほど安いし、手間隙かけなくてもすぐ使えるが、家庭菜園の喜びというのは、野菜を自分の手で苦労しながら作る、というところに人々の究極の喜びがあるわけで、経済のことを考えれば買ってきた方がよほど安上がりになる。
しかし、そういうことが充分わかっていながら、それでもなお自分の手で作る、ということはその作る過程の苦労を楽しんでいることになる。
正月の迎春準備というのもそれと同じ事だと思う。
主婦は、材料の買出しから、料理の下ごしらえから、本格的な料理から、盛り付けと、その上部屋の掃除から庭の掃除と、年末という時期は一家総出で立ち働かなければならない。
我が家であれば、これだけの事をまともにすれば、家中大喧嘩になってしまい、最後には誰かが切れて、後味の悪い結末になってしまいそうである。
そういう喧騒を避けるためにも正月を逃避するという生き方も悪くはない。

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