名古屋の堀川探索

ローカルの旅 1  平成12年10月

上飯田の付近

定年になってからというもの毎日が日曜日でどうにも落ち着かない。
現職中は自分で意識はしていないが、休んでいても仕事のことや、会社内の事が頭の隅にあったようであるが、そういうものから一切合財解放されると、全く空虚な気持ちになってしまった。
暇は腐るほどあるので何かをしなければならない、と思う一方で、ならば今しなくても、もう少し先ですればよい、という訳で、自分の怠惰な気持ちの方が先になってしまって、日一日と伸ばしてしまっている。
自分でも不甲斐ないと反省することしきりであるが、それでも日常生活に変化を与えなければ、というわけで10月13日、秋の陽気に誘われて、以前から一度試して見たいと思っていた散策に出掛けて見た。
この日は偵察のみで、メモを持っていかなかったので、後日ゆっくりと探索するつもりであった。
そしてそれを実現したのは12月の15日と16日で、暖かな冬の日を受けて自転車で出発した。
以下の文を書くについては3日がかりとなったわけである。
今年、還暦を迎えた私は、幼少の頃から上飯田線を利用していたが、通勤、通学で、何時も電車の窓から見ていた光景に庄内川の取水口がある。
庄内川の鉄橋を越えたところ、つまり鉄橋の南側に名古屋城のお堀に水を入れる取水口があるのが目に付いていた。
この取水口から入った水は、矢田川の下をくぐって、お堀に入っているに違いないが、それを自分の目で確認した事がない。
だからそれを一度見てみたいと思っていたので、この日それを実行してみた。
まず家を出て、春日井西部中学の東側を通って南下して、大きなマンションのある交差点で西に折れ、名鉄上飯田線に沿って南下した。
昭和自動車学校のある踏み切りで、道路を渡るのに苦労した。
車の切れ目が無いのでなかなか道路を横断する事が出来なかった。
辛抱強く車の切れ目を待って、ここを渡って味美の駅前から線路の西側をなおも南下すると、二子山古墳の東側に出て、その先で川にぶつかり、ここで旧の名犬国道に出、それを庄内川まで南下した。
庄内川の橋を渡るとその左側に取水口があった。
この橋の上流側には可動堰があって、水の量によって水門が上がったり下がったりしていたが、取水口そのものはフェンスで囲まれており、直接は見ることが出来ない。
しかし、水の取り入れ口には異物混入を防ぐ為にガードがあり、明らかにここで水を取っている、ということは伺える。
そして、この光景は通勤の行き帰り何度度も見ている風景である。
この取水口から堤防の下をくぐって水は南の方に流れているが、この堤防から下の川まではかなりの落差があるにもかかわらず、ここを自転車に乗ったまま降りてしまった。
川になっているので電車の窓からもよくみえるが、春先には桜が咲いて、のんびりとした光景をかもし出していた。
この水が次の矢田川の下をくぐって取水場へとつながっている。
この間の川の水は綺麗で、桜並木もあり、かなり風情のある光景であるが、如何せん、周囲の住民に美意識が欠如していると見えて、川の周囲の手入れが全くなされていない。だから雑然としている。
矢田側の河畔にある取水場は、公の施設とみえて、比較的綺麗に維持されているが、私の人生にとってこういう河川管理に関しては全く知識がないので、これがどういう施設なのかも解らない。
不思議な事にこの矢田川には川を挟んで同じような所に同じような施設が両岸にある。
それで日を改めて、本日(12月15日)じっくりそれを調べて見たら、左岸にある施設、川の北側のは名古屋市下水道局守西ポンプ場となっていた。
右岸にある方、南側はただの三階橋ポンプ場となっているだけで、何処の所管になるのかわさっぱりわからなかった。
ただ単に水の流す量を管理しているぐらいのことしかわからないが、この施設から水路は二手に分かれていた。
一つは矢田川に沿って、側溝のように西の方に流れており、もう一方は、もう少し南に向きを変え、南西の方向に流れている。
どちらが堀川につながっているのかわからなかったので、作業をしていた係員に聞いたところ、左手の水路がそれだ、というのでそちらの方向に自転車を走らせた。
矢田川に沿った方の水路は庄内用水というものらしい。
というのは、この水門の前に案内板があり、それには概略次のように記されていた。
     1570年に掘削され、明治9年・1876年、黒川開削、北区、西区を流れ荒子川に至る。
     農業用水、工業用水として利用され総延長は28kmとなっていた。
ここより12月15日
掘川の方はポンプ場のすぐ下、施設のフェンスから10mもくだらないところにもう堰があった。
そして、その風情が何とも奥ゆかしく、由緒正しき施設のように見えたが一向に何の説明もなかった。
そのすぐ下では直径30cmほどの管が川に突き出ており、綺麗な水がとうとうと流れていた。
多分、地下鉄工事の地下水を流しているのではないかと思う。
新聞に地下鉄工事の地下水を黒川に流しているので、川が非常に綺麗になって魚が住めるようになった、という記事を読んだことがあるから多分それではないかと思う。
この水門と言うか、この界隈に掛かっている橋というのは、つまり名犬県道、昔は国道であったが41号線が開通してからというもの県道に格下げされたらしいを北から、つまり小牧の方から来て、この三階橋で上飯田の駅の方に進路を取ると、この部分が下り坂になっていた。
ここに橋のある事など、ほとんど気がつかない。
その橋をよくよく見ると、橋の欄干というか、正式にはどういうものかわからないが欄干の両端の一段と大きい柱には「夫婦橋」ときちんと橋の名前が記されていた。
餓鬼の頃から幾度この橋を渡ったか知らないが、ついぞ今まで、橋の名前に注意を払った事がなかっ。
この橋の辺りは実に道路が複雑になっていて、文字では表現しきれない。
で、その橋を横断歩道にしたがって渡り、反対側、つまり西側に行って見ると、川にそって舗装道路がきちんと整備されている。
最初、右岸の道路を走りかけたが、写真を撮ろうと思ってちょっと振り向くと、左岸の方に妙なモニュメントがあるのに気がついた。
それで、それに近づいて見ると、木の桶の中心に縄を通して、それが3つ縦に結ばれているような妙なモニュメントであった。
それがステンレスの支柱からぶら下げてあり、下の方は浅い四角い池になっていた。
その脇には銘文があり次のように記されていた。
     御用水跡  
寛文3年(1663年)頃、庄内川の水を名古屋城内堀に引き入れる目的で掘削された用水路で辻村用水とも言った。
その頃は志賀、田幡村の南を経て、御深井(おふけ)御庭の東北隅から城内にはいり、さらに幅下堀川に達していた。
明治9年(1876年)この用水に平行して黒川が切り開かれた。              名古屋市教育委員会
となっており、この左岸がおおよそ黒川の辺りまで散策路として整備されていた。
先回は右岸を走ったが左岸の方がやはり散策路として整備されているだけあった自転車でも走りやすい。
それに樹木も大きく成長して立派な並木になっている。
その樹が桜であるので、春にはきっと立派な花が咲くに違いない。
上飯田の夫婦橋から次々と橋が掛かっており、新掘橋、辻栄橋ときて瑠璃光橋とつながる。
この瑠璃光橋というのも良く利用する橋で、ここは上飯田のダイエーに買い物に行く時に良く渡る橋である。
この橋の名前は実にいい名前である。
瑠璃の光の橋とは何とも素晴らしい命名で、今にも後光が指してきそうに感じれる。
しかしこの端のたもとの道路というのも実に複雑な交差点で、それこそ文字では表しづらい。
この辺りまで、左岸の方はマンションの連続で、風景に特別変わったところは無い。
右岸の方は普通の町並みで、こちらも特筆すべきものは無い。
散策路というだけあって、ところどころにベンチがあったりモニュメントが有ったりして、散策するには格好の場所である。
この瑠璃光橋を過ぎると、次に「きつねばし」と言う橋があった。
「きつね」と言えば当然、獣の「狐」を連想しがちであるが、字をよく見ると、木津根橋となっていた。まことに紛らわし呼称である。
わざわざこういう字を当てる所を見ると、何か謂れがあるに違いない。
この辺りの左岸は何かの工場になっていると見えて、長いコンクリート塀が連なっていたが、その壁面に「黒川夢ボード」と銘打って、小学生の絵が張ってあった。なかなか良いアイデアである。
そのボードは10枚程度あったが、それが尽きたところに、今度は野鳥の絵を描いた図鑑のようなものが表示してあった。
この川辺りに、餌をついばむためにやってくる野鳥を網羅したものに違いない。やはり10種類以上描いてあった所を見ると、それだけの野鳥が、この川辺りに来ているということであろう。
それもそのはず、この川を下っていると、カモの姿をちょいちょい見掛けるので、やはり野鳥も多く来るに違いない。
この散策路は志賀橋で終わりとなっていた。

黒川交差点付近

志賀橋というのは、三階橋から防衛道路を黒川に向かって進んで、突き当りを右に折れると黒川の交差点になるが、それを左に折れた所である。
この防衛道路というのも、本当の名称はそんな言い方ではなかろうが、どういうわけか、昔からそう言い習わしている。
恐らく50年以上も前、アメリカ軍がまだ進駐していた頃、そのアメリカ軍の宿舎が今の白川公園にあり、そこから米軍の将兵やら軍属が、この道を通って小牧の基地まで通ったので、そう呼ばれたに違いないと思う。
こういう昔の事を言うと、三階橋から水分橋というのは、その時から少しも変わっていない。
50年前といえば、まだ日本ではまだモーターリーゼーションは起きていないわけで、その時から変わっていない、ということは逆に時代に逆行していると言う事に他ならない。
時代の波に乗っているとすれば、これらの二つの橋は幅が2倍になっていても不思議ではない。
それに較べると、この志賀橋というのは幅も大きく立派になっている。
これは西の方から来た車の流れを、平安通りを通って大曽根の方向に流し、19号線に乗せるためのものだと思うが、名古屋市の施政というのも、非常に意地汚く、小牧・犬山の方向からの車は市内に入れたくないので、昔のままの橋で我慢させているに違いない。
この志賀橋の突き当りでは、大きな工事をしていて、聞くところによると、例の防衛道路が今の黒川の交差点の100mほど南で交差するための付け替え工事、という風にも聞いたが真偽のほどは知る由もない。
その大工事のところは川に沿っては通れないので、大きく迂回する事になるが、それを道なりに進むと、再び橋があるが、これが黒川橋であった。
その次の橋が例の41号線の橋にぶつかる事になり、これは北清水橋というものらしい。
そして、この黒川橋と北清水橋の間の川岸は、実に立派に整備されて、都会の中のオアシスという感じであるが、こういう風に綺麗にし整備して市民の憩の場にすると、それをホームレスが占拠してしまう。
ホームレスも人間だから差別してはならないと、理性ではわかるが、やはりホームレスのいるベンチには同席したくないものである。
この黒川の交差点というのも実に大きな変化を遂げて、10年前では想像もつかない姿になってしまっている。
第一、 この橋も車で通過する分にはあるかないかわからないぐらいである。
私自身、何度もここを通っているが、橋のある事など気がつかなかった。
この黒川は上を高速道路が開通して、インターチェンジにもなっているが、私はまだ一度もここを通った事がない。下りたこともない。
この川の左岸、橋の南西の角には北区役所があり、道路を挟んで北側には、北警察がある。
その上に高速道路があるので、まるでビルの谷間アスファルト・ジャングルに囲まれた、という感じがする。
41号線を信号で西側に渡ると、そこにも碑があって、それにはこう記されていた。
黒川は庄内川にかかる水分橋の付近から取水し、三階橋付近で伏越樋によって矢田川の下を潜り、辻町に出て南西に流れている。
愛知県職員の黒川治愿技師の設計によるもので、その功労者の姓をそのままとって命名されたと言われている.「北区誌より」となっていた。
この北区役所の裏には黒川スポーツセンターなども出来て、まさしく大都会の真っ只中という感じがする。
この辺りはすこし迂回をしなければならなかったが、それは高速道路の出口があるので、その為に人と自転車は迂回しなければならないようだ。
道としては結構整備されているが、歩く人と自転車を迂回させるというのは、人にやさしい施設とはいえないのではないかと思う。
しかし自転車で走るぶんには走りやすかった。
ここからは右岸を走る事になったが、歩道の部分が広くサイクリングには快適な道路であった。
田幡橋、金城橋、城北橋と続くわけであるが、この城北橋の西の橋詰めには、これまた大きな施設があって、これは名古屋市下水道科学館となっていた。
同時に、それは名城下水処理場でもあった。
本館は道路から階段で10段くらい上がらねばならなかったが、その階段の左側にはオルゴールに合わせて水柱の中のボールが踊る仕掛けがあり、子供が一人楽しんでいた。
この施設はかなり大きなもので、ゆっくりと見学すればそれなりに面白いのではないかと思う。
ここから川にとうとうと水が流され、川面にはかもが泳いでいた。
ここを過ぎると川は南の方に向きを変えることになる。
そして中土戸橋、掘端橋となってくるわけで、次の筋違橋まで来ると名古屋城のお堀とほんの10mぐらいしか離れていない。
交差点の向こうにはお堀の水が見えているが、この黒川の水が何処からお堀に入っているのかはわからずじまいであった。
それでもどんどん南に下がって行くと巾下橋にでた。
巾下橋といっても我々には全く理解できないが、要するに国道22号線の橋である。
しかし、この道を車で走っても、ここに橋があることなど気が付かずに通りすぎているに違いない。

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