続・名古屋の堀川探索

名古屋の真ん中辺り

12月15日にはここまでの踏査にしておいた。
というのは、これから先は堀川として海にまで続いているので、この日の実績としてはここで中断する事にして、少しこの辺りを探索して見た。
すると面白い事に、この巾下橋のほんの10m上に小さな橋があって、そのたもと、つまり東側の橋詰のビルの陰にやはり碑があって、それにはこう記されていた。
堀川堀留の跡の碑
堀川は慶長15年(1610年)城下と熱田の浜を結ぶ輸送路として福島正則によって開削されたと伝えられている。
当時、名古屋城近くのこの地で堀留になっていたが、天明4年(1784年)に行なわれた大幸川の付け替え、明治10年(1877年)の黒川治愿による黒川の開削、更に昭和初期の改修を経て現在の姿になった。
朝日橋は天明5年(1785年)に始めて架橋され、昭和初期まで橋の下に苔むした石積みの落差があった。
その水音から「ざーざー橋」と呼ばれたり、お堀の水の落ち口近くにあったことから「辰の口橋」、あるいは橋の上を歩いた時の音から「どんどん橋」とも呼ばれ、人々から親しまれた。
かって巾下御門に通じるこの地には多くの船が行き交い、今の州崎付近に至る渡船が始まる万延元年(1860年)には、名古屋の交通の中心であった。
又遡ってくる潮に乗って鯖や鰯がこの付近までさかのぼってきたといわれている。     昭和59年9月名古屋市
となっていた。
この碑のあるのが堀川の左岸、巾下橋のほんの10mほど北、ビルの陰にひっそりと立っており、その脇には朝日橋という橋があった。
これがこの銘文に書かれている橋に違いないが、この辺りに来ると堀が無くなってしまっているので、一体どうなっているのか、と思って廻りを探索して見ると、堀はここで終わっている。
堀に沿って北から来ると、ここで道は二股に分かれ左に行くと名古屋城の正門に出、右に行くと巾下橋に行きつく。
それで掘りの行き止まり、これを多分堀留と言ったに違いないが、この辺りに大きな木があり、その下に昔の高札のような形をした案内板があった。
辰之口水道大樋  
この樋は巾下御門の枡形の北にあり、樋の両側は石で組まれ、底は南蛮たたきで出来ていた。
東の口に立切(水止め)があり、これは外掘りの水位を一定に保つためであった。
又、西の端には切り口の銚子口があり、常に滝となり、大幸川(現在の堀川)に落ちていた。となっていた。
おおきな木の根元には丁度巾1mぐらいの石の橋があり、その下を東から西に水が流れるようになっていたに違いないが、橋の下には土嚢が積み込まれ、西側は道路になり、堀川に落ちる辺りは、材木屋の工場になっていた。
道路の反対側、つまり西側の水路のうえ辺りの位置には、小さな社が祭ってあった。
しかし、この社には何一つ説明がなかった。
これら二つの説明文から察するところ、昔にはこの辺りに大幸川という川があったようだ。
おそらく堀川というものを南の方から掘ってくるにさいして、その大幸川というものを上手に利用して、その川に沿って開削をしてきたのではないかと、素人なりに推測する。
この辺りのお堀には、かもが泳いでいたり、大きな鯉が泳いでいたり、平和といえば平和な光景である。
大幸橋、朝日橋と続いて巾下橋となるわけであるが、この巾下橋というのは川の幅よりも道路の幅の方が広いぐらいで、名古屋と岐阜を結ぶメイン道路の象徴である。
この橋の西詰めで、南から来た車の流れが岐阜に向かって行く方は西に流れ、その反対の方向にわかれていく車の流れは19号線に向かうわけである。
この橋の西詰めで横断歩道を渡って南側にくると、城の石垣の下を通って、白い小さな橋に来る。
これは小塩橋で、平成9年3月竣工となっている。
意外に新しい橋であったわけである。
この橋を少し下るといよいよ景雲橋となるわけである。
この橋は名古屋駅に行く時にしばしばバスで通るが、バスに乗っている時は、全く気にもとめずに通過してしまっている。
しかし、改めて関心を持って眺めて見るとなかなか風情のある橋である。
特に欄干は、青銅で出来ているのかどうか知らないが、その色は青銅色に変化しており、作りも凝っている。
この東詰めの石垣寄りには、景雲橋公園というものが出来ており、そこには黄色く変色したメタセコイアの木が3本並んでいた。
このメタセコイアという木は日本では嫌われているが、私は好きな木である。あの樹形が好きである。
その木が樹形を保ったまま、木全体が黄色く変色する様が好きである。
この橋は昭和44年12月に改修か改築が成されたに違いない。
これより少し下がると、五条橋という小さな橋があった。
この橋は小さいだけあって、華々しさはないが、いかにも古くからある橋という感じで、現代から取り残されたような橋である。
それでも昭和13年竣工となっているところを見ると、昭和に入ってからの構築物であるということがわかる。
ひょっとすると堀川にかかる橋の中でも古い方の部類に入るのかもしれない。
この橋の西詰めには、この橋の謂れを記した案内板が掲げてあった。
五条橋
かって、清須城下の五条川に架けられていた橋を、清洲越し(慶長15年・1610年に行なわれた清洲より町ぐるみの引越し)の際に、この地に移され、橋の名前もそれに由来すると言われている。
元は木橋であったが、昭和13年1938年にコンクリート橋にかえられた。.元の橋にあった擬宝珠には五条橋慶長七年壬刀六月吉日の銘があり、現在名古屋城に保存されている。
西側の橋詰めには小さな社があった。
そして橋の人間が歩く部分は石畳風に加工されていた。
しかし、橋の南側の欄干は全面的に工事中で、トラ柵で覆われてしまっていた。
この次が中橋というもので、これも小さな橋であったが、橋の東詰めにはごみの山があって、いかにも汚らしい感じがした。
そのごみの山をホームレスがあさっていて、大都会の暗部をさらけ出しているような光景を目撃したが、これがなかなかに由緒正しき場所であった。
この小さな橋は大正6年9月竣工となっているので、先の昭和13年よりももっともっと古いことになるが、この橋をほんの10mも西に行くと土蔵があって、それには「不可思議」という屋号の喫茶店であった。
ところがこの喫茶店は閉店してかなり年月が経っている風に見えた。
建物の造作が非常に荒れており、昨日や今日、閉店した風には見れなかった。
以前、小樽を旅行した時、こういう感じの喫茶店を見つけ、中に入ったらこれがジャズ喫茶で驚いた事がある。
それと全く同じ雰囲気であったが、店を閉めているところが何とも物悲しい。
そしてその後ろにちょっとした社があり、それには案内板がありこう記されていた。
浅間神社
   木花開耶媛命(このはなのさくやひめのみこと)を主神とする古社であるが、創建は不詳。
尾張志によると、正保4年・1647年に、この地に遷座したとある。
境内には樹齢300年を越す楠やケヤキが7本あり、市の保護樹に指定されている。
毎年10月1日・2日には大祭が行なわれる、となっていた。
そして、この社からすこし上の方に歩くと、古い町並みが残っており、道に面して格子戸があったりして如何にも昔の商店街という風情が広がっていた。
この浅間神社の右には、この町並みに関する説明板もあった。
それによると名古屋市四間道町並み保存地区
名古屋城の築城は慶長15年・1610年に始まり、城下町の建設も同時に進められた。
尾張の政治の中心も清洲から名古屋に町ぐるみ移転しました。
これがいわゆる清洲越しといわれるものです。
この地区は清洲越しの町人の町として生まれ、堀川沿いには水運を利用して、米穀、塩、味噌、酒、薪炭などを樹下町へ供給する商家が軒を連ね、繁栄しました。
四間道は元禄12年・1700年の大火の後、防火の目的や、商業活動の為、道幅を四間・約7mに広げたことにより、その名がついたといわれています。.四間道を挟んで東側には石垣の上に連続する土蔵、西側には町屋が並ぶこの独特の景観は、元文年間1740年頃に形成されました。
となっていた。
確かにこの案内板が言うとおり、道路の西側には格子戸の店や風の家が並び、東側には石垣に上に土蔵が残っている。
しかし、今こういう歴史的景観をそのまま維持するには、様々な問題を抱え込んでおり、言うほどには安易には出来ない。
200年も300年も前の生活を、今再現させようとしても無理な話で、遺跡として残すのならば、人の生活を考えなくて済むが、人が住みながら昔のままの姿でおれ、というのはその中で起居する人がたまらない。
中で生活する人の事を考えると、どうしても保存と言う意味で徹底さが欠けるのは致し方ない。
その意味で、この中橋の周辺は興味ある地域であった。
次は桜橋で、これは言わずと知れた、桜通りに掛かっている大橋で、これも無意識のうちに利用している。
この橋の名から桜通りという道の名前が出来たに違いないが、これは昭和12年という銘があるところを見ると、その後何度も改修が成されたに違いない。
桜通りの銀杏並木は綺麗に紅葉し、美しかったが、初冬の紅葉にはこの落ち葉が問題となり、嫌う人もいるが、落ち葉などは自然のままにしておけば、自然の力が風化させるに違いない。
それを何がナンでも掃除しなければならない、と思い込んでいるものだから、苦痛になるのではないかと思う。
この位置からは、名古屋駅に完成したツイン・タワーが真横に見える。
次が伝馬橋、これは小さな橋であったが大正9年3月と銘があり、それなりに古く、西側の橋詰めは小さな公園になっていた。
それから錦橋と納屋橋と続くわけであるが、これらはそれぞれに通りの名ともなっているのでわかりやすいし、常日頃、無意識の内に利用している。
錦橋の方は昭和62年3月拡幅となっている。
納屋橋の方は昭和56年10月に同じように拡幅されているようだ。
この納屋橋にはやはり説明板があり、次のように記されていた。
納屋橋は堀川にかかる広小路通りの橋で、慶長15年・1610年、名古屋城築城の折、堀川が開削された時に架けられ、付近の地名を取ってその名がつけられている。
その後、幾度か架け替えられ、大正2年1913年、鋼製のアーチ橋に改築され、名古屋の名橋として広く市民に親しまれた。
その欄干の中央には、掘川開削の総奉行福島正則の紋所があり、両脇には郷土3英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の紋所が飾られている。
改築にあたり、欄干を再び利用して、長くこの橋の面影を偲べるようにした。
こう書いてあるので福島正則の紋所なるものを探したが、確かに橋の中央が畳半分くらいの広さで川の方に張り出した部分があり、その踊場の中央に当たる所に、丸に十の字の島津藩の紋所のようなものがあったが、あれが福島正則の紋所であろうか?
確かに3英傑の紋はその脇にあったところをみるとそうかもしれない。
次は天王崎橋で、これは左程大きくなく、昭和33年12月改築となっているところを見ると、それなりに古い橋で、生活道路の一環という感じがする。
次の新州崎橋というのは、これはまた大きな橋で、上を高速が走ったりして、何とも文字で表現のし様がない。
昭和35年10月竣工となっている所から見れば、モーターリゼーションの到来を見越した設計とも取れる気宇壮大な橋で、現代をそのまま実感するのみで、風情というものは何も感じられない。
その次の州崎橋というのは昭和10年の架設で、こちらは周辺住民の生活の匂いがする。
この新旧の州崎橋の間の100m程の左岸は、コンクリートで整備され、殺風景ではあるが手を加えた、という事はわかる。
その次に岩井橋、日置橋とつづくが、この日置橋というのは明治14年9月、昭和13年9月改築となっている。
これまた周辺市民の生活の匂いがぷんぷんする橋で、如何にも下町の川辺りの町、という感じがする。
橋そのものは古式ゆかしき石畳で欄干にはコンクリートが使用されているが、橋の幅が狭いので両側に人の通るスペースが鉄製の板で後付けされている。
そして、その色が黄色ときているので、美観も何も考えずに、ただたださび止めのためにペンキを塗った、という感じがする。
そういうある意味の無責任さというものにも、なんだか庶民的な匂いを感じずにはいられない。

中心から下の方

次は松重橋となるが、これはあまり大きくない。
それでも昭和33年に架設となっているところを見ると、それまでは無かったのかもしれない。
堀川のこの部分は西に大きく張り出しており、その張り出した所に、松重閘門というものがある。
古くからその存在は知っていたが、これがどういうものか今一つ理解しがたいものであった。
よって、閘門というものを広辞苑で牽いてみると、「船を高低差の大きな水面に昇降させる装置とある」。
よくよく見ると同じものが100m西側にもあるわけで、この南北の道路を挟んで両側に同じ施設があるわけである。
その西側は中川運河になっているところを見ると、広辞苑に書いてある通りの船を上げ下げするものであったのかもしれない。
いわばスエズ運河の規模の小さいものと考えられる。
しかし、その堰の部分の、上げたり下げたりする扉というのは、もう既に固定されてしまっており、その要は成していないが、それでも鎖だけは垂れ下がっている。
そしてその周辺が汚い。誰も管理していない風に見える。
もったいない話だと思う。
上手に管理すれば貴重な観光資源になるのではないかと思うが、まるでごみ捨て場になっている。
閘門の柱というか、門柱のような施設は色あせているというものの、珍しいものである。
この閘門と平行に走っている橋が南北橋というのも何となくわかるような気がする。
この辺りに来ると両側は材木屋が多くなる。
しかし.この材木屋というのも道路を占有してしまって、道路が作業場乃至は物置となってしまっている。
その成り立ちから考えれば致し方ないのかもしれないが、部外者にとってはまことに不都合である。
そこを過ぎると山王橋とか古渡橋と続き、尾頭橋と続くことになるが、この辺りには場外馬券売り場があって、その関係の人がうようよ歩いているのであまり環境が良いとはいえない。
人は何故あれほど競馬に夢中になるのか私には不可解である。
そういう人に限って、競馬の意味を知らないのではないかと思う。
競馬というものが元は貴族の遊びで、すってもすっても困らない人の遊びであった、ということをどれだけの人が知っているのであろう。
もっともゴルフでも同じ事が言えるが、どだい、遊びというのは、生活に困らない人のもので、生活に追われている人にとっては、これほど縁遠いものも無い筈である。
それを何処でどう履き違えたのか知らないが、それで金儲けが出来る、と勘違いした所に、競馬やゴルフの隆盛があるような気がしてならない。
この尾頭橋には例の説明板が掲げてあったが、あまり人通りが多くて、メモすることが出来なかった。
それで記憶に留めてきたが、それによると、東海道というのは七里の渡しから船によるものであったが、その代替として、津島を通って西に行く道路が整備され、これが佐屋街道と呼ばれたが、その街道が出来た時に、熱田の宿から西に向かうため、ここに新しい橋が作られ、その為、新橋とも呼ばれた、と記されていた。
その次が住吉橋、瓶屋橋と続き、最後に白鳥橋となるわけである。
この白鳥橋というのはあまりに大きくて収拾がつかない。
道路が実に複雑に交差しており、向こう側に渡るだけでも信号を2つも3つもやり過ごさなければ渡りきれない。
けれども、東側の橋詰めには、堀川端公園というものがあり、それなりの整備されているが、あまりにも交通量が多くて、憩っている人がいない。
南東の橋詰めには噴水もあり、綺麗に整備されているが、川端にはホームレスがシートの小屋を造って占拠していた。
この公園のすぐ南には大きな施設があったので、何だろうと訝っていると、これが名古屋市下水道局中島ポンプ所となっていた。
そしてその南には、やはり綺麗に整備した公園があったが、その真ん中にコンクリートで出来た帆掛け舟のモニュメントが有った。
これは言わずと知れた七里の渡しの船を模したものであったが、そうたいした感銘を受けるほどのものでもなかった。
ここまで来ると、もう既に潮の香りがするわけで、その次には大瀬子橋という橋にきた。
これは小さな橋であったが、ここは既に七里の渡しの公園になっている。
そして道路に立っている案内板には、熱田の宿のあった頃には、この当たりに沢山の魚問屋があった旨記されていた。
ここまで来ると、もう熱田の七里の渡しの跡地になるわけで、さすがにこの付近は公園として整備もされ、渡し場の雰囲気も再現され、昔の灯台も再現されて、史跡と同時に観光目的の公園ともなっている。
この公園に関しては既に東海道の方で記述しているのでここでは割愛する。
これ以降は、内田橋を渡って海に沿った道を闇雲に走ったら、山崎側の河口に出てしまい、東築地小学校のところでUターンしてきた。
この当たりは特別に記すべきものはない。...

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