入鹿池から内津峠

平成13年2月19日、この2、3日天気が良かったので、自転車で近郊を回る機会を狙っていた。
丁度、この日がその都合に合わせたように天候に恵まれて、朝から快晴で、風もなかったので、それに取り掛かることにした。
こういう条件に恵まれた日というのは、家内の用事がなく、私の体が一日開放された日でなければならない。
で、そういうわけで朝の10時に家を出発したわけであるが、今日は山に中に踏み込むつもりでしたので、足元を厳重に固め、ホーキンズのトレッキング・シューズを履いてきた。
自転車だからといって歩かないということはないわけで、街中ならば歩くこともないが、この日は入鹿池の奥に分け入るつもりで、山道を登る覚悟で出てきた。
最初のうちは小牧市内で、平坦な道ばかりなので、これほどの重装備はいらないが、問題は先のほうである。
我が家を出て、進路を北にとり、CKDの脇を通り、カインズの前を通り、文津の三叉路を西に曲がり、名鉄電車の線路の手前を右に折れ、小松寺団地に入り、この団地の中を抜ければ北の方にいける道があるのではないかと、シュート・カットするつもりであったがこれが意に反して大損してしまった。
とにかく、この団地というのは山の傾斜地にあるわけで、坂道が多く、登り切るのに苦労した。
登りがあれば下りもあるわけで、苦労の後には楽なことがあるというのはやはり真実で、下るときには大いに楽をしたわけであるが、登り切った頂点で西に方向を変えれば、今度は下り坂になり、それを下りたら田縣住宅のほうに出てきた。
丁度、田縣神社の東側の団地に出た。
ここに小さな川というか用水というか、いわゆる小川があり、それを北の方向に向かって自転車を漕いでいったわけであるが、その川の両側には丁度自転車に乗るのに適当な道があり、舗装もしてあって非常に走りやすかった。
しかし、この川も両岸がきちんとコンクリートで護岸がしてあって、川の魚にとってはもっとも住みにくい川に違いない。
環境破壊のもっとも顕著な例に違いないが、これもしなければ農家のほうから「用水の整備をせよ」と言われるし、付近の住民からは「洪水防止のために護岸をせよ」といわれるに違いない。
全く人の言い分というのは自分勝手なことばかり言っているわけである。
農家のことや住民の言うことをまともに聞いて、小さな小川の護岸をコンクリートで固めてしまえば、小川に住む小魚は住んでいられなくなってしまうのは自明のことである。
この小松寺団地というのも、私が子供の頃にはよく遊びにきたところで、その頃はまだ禿山に近く、赤土に背の低い松が茂っていたところである。
その下を流れていた小川が、今完璧な護岸で整備された道になっているわけである。
あの禿山が住宅団地になってしまうなどとは子供の頃は思いもよらなかった。
その当時の小牧というのは、小牧山の頂上から眺めれば、見渡す限り四方八方、360度水田で、その水田と丘陵地の接線がこの辺りで、ここは丘陵地であるが故に、水田にはならなかったわけである。
水田にはならなかったので、赤土の禿山として残っていたわけであるが、それが今は住宅地として開発されているわけである。
それはある意味で致し方ない面があるが、この住宅ももう既に20年以上という歳月を経ているわけで、そこに移り住んできた人々も当然老齢化してきている。
私が小川の淵の舗装路を快適に自転車をとばしているのに、この老齢化した人々が、犬を連れて散歩しているのに何度もであった。
私はこういう年寄りをある意味では軽蔑したくなる。
散歩するほどの元気があれば、私のように行動すればよさそうに思うが、犬を連れての散歩とか、ゲートボールとか、如何にも老人じみた年よりくさい行為しか出来ない人間を軽蔑する。
「老いる」ということは「如何に生きるか」という事でもあるわけで、価値観の相違というのは言い逃れであると思う。
この小川をさかのぼっていくと、入鹿池から流れ出ている五条川に突き当たった。この辺りは羽黒の駅の少し東に寄った位置であるが、この出会う場所のほんの少し手前、東側の山に沿った場所で大な土木工事をしていた。
工事の看板を見てみると「調整池を作った」ということが記されていたので恐らく溜池をこしらえたように思う。
そして、その池ののり面が西側、つまり水田や民家のある方向に向かって綺麗に出来上がっていた。
出来上がったばかりの土木工事というのは、実に立派で新鮮なものであるが、これも逆の視点に立てば環境破壊に他ならない。
この先で五条川を渡り、堤防沿いに回り込んでいくと、その工事現場に入って行けたが、入り口にガードマンが頑張っていたので、深入りはせず、入り口の看板のみ見てきた。
それにしても大きな工事である。
で、それから、この五条川の右岸をさかのぼって行ったが、途中いくらも行かないうちに、昨年の集中豪雨で破壊された山の斜面があらわれた。
この五条川をさかのぼって入鹿池に行くというコースは、私の子供の頃の遊びのフィールドで、何度となく通っているので、いまさら目新しいものは何もないが、それでも懐かしさがよみがえってくる。
昔は砂利道で、砂利に自転車のタイヤを取られて苦労して漕いだものであるが、今は舗装されているので実に快適に走れる。
ただダンプが通行する際には恐怖感が伴うが、それでもガードレールの内側ならばいくらか安全である。
この五条川をさかのぼっていくと、先で生コン会社のところで橋を渡らなければならないが、この橋の名前はいまだに知らない。
今回、この記を書くについて改めて地図で調べてみると、富士橋となっていた。この富士橋を渡って直進すると尾張富士のほうに行くが、入鹿池に行くには通常ここで右折するのが普通のコースである。
尾張富士のほうからも入鹿池には出れるが、自転車のときは登り坂であるので敬遠するにしくはない。
それで、この橋で右折して尚も進むわけであるが、如何せん、この道は近頃とみに交通量が多くなって、危なくて仕方がない。
というのも、この先で中央高速の小牧東インターに出れるし、桃花台に抜けれるので、車にとっては便利な道であるが、自転車にとっては苦難の道である。
この道の左側も、以前はただの雑木林の丘陵であったが、ここも小松寺団地と同じで、新興住宅地として開発されてしまった。
確かに家は立ったが、ここは全く陸の孤島で、住んだ人は車がなければ一日足りとも生けておれないような場所である。
それでも人が住んでいるから不思議である。
まあそんなことを考えながら尚も奥に進むと、いよいよ採石場に来るわけであるが、この採石場というのも私の子供の頃からここにあったわけで、山の形もすっかり変わってしまっている。
日本は山国であるから、山などいくらつぶしてもかまわないような気がする一方、これは自然破壊の最たるものにもかかわらずが、世の中の非難というものが、この場面には当ってこないのも不思議である。
というのは、石を取る事で被害を受ける人がいないからだと思う。
この採石場の散在する真中で道は大きくカーブしており、その上を愛知用水が通っている。
ここを抜けた辺りに入鹿池から水を落とす閘門が道の左側にあり、それを今工事している。
その水路の堤防を池のほうに寄っていくと、これも先の閘門の関連工事であろうか、池の堤防下で大きな工事をしていた。
池の堤防とこの下の道路との落差はかなり大きなものであったが、そこを自転車を引きながら越えてしまった。
途中、入鹿池管理組合の立派な建物の脇を通ったが、これも工事の補助金で作ったものに違いない。
この斜面は急な坂道であったがかなりのショート・カットが出来たわけで、堤防の上に出てみると、取水口のすぐ脇に出た。
取水口の下のほうでは大きな工事をしていたので、池の水は全くといっていいほど無かった。
昨年の秋、この水の無いのを利用して、池の底の方を探索してみようと思って、その中に入っていったところが、小さな流れを渡ろうとして、その流れの中の飛び石に飛び移ったところ、その石がぐらついて全身水浸しになってしまい、ほうほうの体で逃げ帰ったことがある。
今回はそういう馬鹿な事はせずに、遠めに見て、その印象を瞼に焼き付けるだけにしておいた。
この湖岸をゆっくりと自転車を流して、いよいよ奥入鹿に向かったわけであるが、この辺りまでは車ではしょっちゅう来ているところなので、さしたる関心も無いが、問題はこれから先である。
頭の中のイメージとしては、ここから多治見に抜ける林道があるはずで、それを走破したいと思った次第である。
実はこのコースは2度目の挑戦で、前にも一度挑戦したことがある。
そのときは山越えした向こう側の、つまり多治見側の採石場の広い工事用道路、当然砂利道であったが、その下り坂を猛スピードで下っている最中に、砂利にタイヤを取られて見事に転倒したことがある。
5、6年前の話である。
それと同じコースに挑戦するつもりであったが、結果的には途中でコースを間違えて、多治見側では違う場所に出てしまった。
奥入鹿に着くと、集落の中に入る直進する道と、左に折れて湖畔を周り込むように今井のほうに向かう道に分かれており、この三叉路に信号機が出来ていた。
私の子供の頃には、この辺りに信号機がつくなど思いもしなかったところである。
この日はこの三叉路を直進して、集落の奥に進むと、その入り口で道路工事をしており、車は完全に通れない有り様であった。
ところがこちらは自転車なので、ほんの小さな隙間を通りに抜けて、作業員が「気をつけて通ってくれよと!」言うのに返事をしながら通過した。
まだこの辺りの道は、細いとはいうものの舗装がしてあったのですいすいとクリアーできた。
で、いよいよ山の中に分け入るわけであるが、山の中というのは特別な目印というものも無いので、文章にはしずらいものである。
一般的な表現で、日本の何処にでもある田舎の風景という感がするが、山間地なるがゆえに水田の面積が小さく、言わずと知れた棚田になっている。
何時も日本の僻地を旅行して思うことであるが、よくもこんなところまで水田にしたものだ、という驚きは否めない。
人間の英知というのは計り知れないものがある、と思うのと同時に、これも欲との二人連れで、人の欲望のなせる技に違いない。
誰がどうやってこの山間の狭い土地を水田にしたのかと思うと不思議でならない。当然、登り道なので自転車のギアを組替えて登っては見たものの、やはり勾配が急になると、私の人力では限界がきてしまい、下りて押さなければならないところもしばしばあった。
舗装路でも人力では上がり切れないほど勾配がきついところもあったが、少し平坦になると又またがって漕いだりして、とにかくがむしゃらに上を目指したわけである。
特別高い山に登るわけではないが、この辺りの山は愛知県と岐阜県の境になっているのではないかと思う。
それで途中の二股に分かれたところに来て、さてどちらに行くべきかと迷ったが、こういうときに私の第六感というのは全く当てにならない。
右の方に車の轍があったのでこちらのほうを選んだところが、これが大失敗で、ほんの少し進むともう行き止まりになっていた。
まあこの間の距離が短かったので、ロスとしては被害が少なかったが、道が自然と山の斜面に吸収されてしまっており、とても進めたものではない。
そして周囲を見渡すと、分かれた方の道には電信柱が並んでおり、これは先に民家があるなと判断してそちらを行くことにした。
思えば、先回来た時にも、全く同じ所で同じ失敗をしたことを思い出した。
あの電線を見てそのことを思い出した。
それでその間には冬枯れの水田があり、その畦道があったので、その畦道を通ってショート・カットしたが、道路が1mほど上にあったので、その落差を自転車を持ち上げねばならなかった。
そして新しい方の道を更に登ることになったわけであるが、こちらの道も勾配がきつく、乗ったり引いて押したりを繰り返して、散々苦労していくらか平らなところまできた。
途中、この道をトラックが下りて来るのに出会った。
当然、道幅いっぱいになるわけで、こちらが脇に寄らなければならないが、こんなところまで車が入れるのかと思うと、文明の利器の力というものを改めて実感した。
自転車に乗っていて、急勾配にかかると、やはり文明の利器が恋しくなる。
車ならば「こんな苦労はしなくても済むのになあ」という実感が湧く。
この辺りまでくると周囲は背の低い松とか雑木ばかりで、舗装はしてあるとはいうものの、人っ子一人通らないような道が何故に舗装したあるのか不思議に思っていた。
その訳は、こんなところにも人が住んでいたからである。
そうして苦労して登り切ってみると、そこには再び三叉路になっており、突き当たりに大きな民家があり、その家を挟んで右と左に分かれていた。
この民家も荒れ果てており、今は人が住んでいないように見えた。
それでもセコムの標識が張ってあったところを見ると、防犯には気を配っているようだが、こんなところに住んでいる人は一体なにものなのか、非常に興味あるところである。
この民家の左の方には工事中という看板があったが、私は先回の経験から、右に行くつもりでしたので、ここでは迷うことはなかった。
ここでは一息ついて、タバコをゆっくり嗜んで、持参したチョコレートを2,3口に放り込んだ。
一息ついたとはいうものの、ここから先は未舗装の道で、第一この道は東海自然歩道の一区間で、ハイキングコースになっていたわけである。
この東海自然歩道というのも以前挑戦したことがあるが、自然歩道というからには歩くのに快適な道が整備されているかというと案外そうでもなく、まるで登山道のようなところもある。
この区間は登山道のような険しいコースではないが、それでも普通の靴で歩くには、苦痛を伴うような道である。
赤土の上に大小さまざまな石が散在しており、つまり、これは自然の風化作用で赤土の中の石が雨に洗われて表面に浮き出て、それがそのままになっているというもので、歩くだけでも非常に苦痛が伴う道であった。
その上、大小の上り下りがあり、自転車に乗ったり下りたりして、散々苦労して進まざるをえなかった。
それでも尾根道になっていたようだが、如何せん、周囲の樹木に邪魔されて、眺望が全くきかない。
そんな中を進むことしばし、東海自然歩道の案内板があり、左は内津峠、右何とか橋となっていたが、橋というならばきっと川があり、その近くには民家あるであろうと判断したが、これが大間違いであった。
先回の時は内津峠のほうに進路を取ったようで、結果的には内津峠の名古屋寄りの採石場に出て、内津神社の袂に出てきた。
途中、広い砂利道を猛スピードで駆け下りる最中に、見事に転倒するというおまけまで付けたが、今回は内津峠の多治見側に下りてしまった。
例によって、上のほうは採石場になっており、広い道が完備されていたが、今回は見事な舗装路であったので、自転車で下りるのは実に快適であった。
しかし、採石場からはダンプが出てくるたびに、道の脇に退いてダンプをやりすごさねばならなかったが、それでも登ることに比べれば天国と地獄の違いである。
舗装路といえども、路面には砂利が浮き上がっているので油断はならず、前と後のブレーキでスピードを微妙に調節しながらの下りであったが、まるでスキーの直滑降をしているようなものである。
スピードが上がってくると、目の端から涙が吹っ切れそうな感じがし、風圧で目が開けていられないほどに感じられたものである。
ダンプさえ通らなければ、スキー場の広いバーンでパラレル・クリスチャニアをしているような気分を味わえる。
今まで苦労して自転車を担ぎ上げた苦労が一気に解消されるようなものである。人生には山あり谷ありとはよく言ったもので、まさしく苦労の後の快楽というのは筆舌に尽くしがたいものがある。
採石場の下り坂をいい気になって下りてくると、民家が近くなり、早々、浮かれてばかりいられなくなったが、ある地点で信号機があり、何時もこの道は車で通るところであったが正確な地名を知らない場所に出た。
今回、この記を書くにあたり再度道路地図で調べてみると、大原町となっていた。それで、この大原町で右折して、国道19号線に出ることにしたが、このルートは車でいつもいつもドライブするコースで慣れた道であったが、自転車でとなると登り坂のきついことといったらない。
文明の利器の有り難さが骨身にしみて解った。
やっとこさ、頂上に着くと、どうしても一息つきたくなってしまう。
その頂上には三菱の関連企業、菱重興産の分譲住宅の入り口があり、ここで一息入れた。
ここを過ぎれば後は19号線まで下り坂のはずで、楽が出来ると分かっているので、ここで小休止を取り、再度出発したが、下り坂は実に楽チンである。
ところがこれを下り降りたところに信号があり、それが国道19号線との出会い場所であるが、こちらに出た以上どうしても内津峠を越えないことには帰れないわけで、あのトンネルを越さねばならないのかと思ったら憂鬱な気分になってしまった。
この時点で、愛岐道路を通れば平坦な道ばかりを選べるのではないかと、邪な気持ちになりかけたが、旧道があるはずだからそこまでの辛抱だと思って、多治見側から内津峠を登りかけた。
トラックが頻繁に行き交う幹線道路だから脇に歩道は作られているが、なにしろ登り坂なものだから、いくらギアを切り替えても人力では登り切れなく.途中で下りたり又乗ったりした。
トンネルの入り口が見えるところまで来ると、前に旧の19号線がでてきて、そこには大きな歩道橋があった。
その歩道橋には自転車用のスロープもついており、上で道路を横断する方向と、旧19号線につながる道と二股に分かれており、それを登りきるとほんの少しで頂上になった。
もちろん旧19号線の頂上である。
恐らく今のトンネルの真上ではないかと思うが、この内津峠のトンネルが出来るまでは、このつづら折れの坂道をエンジンをうならせて上り下りしたものである。
下にトンネルと新道が出来て、今は通る車もほとんどない。
それでも時々土地の人であろうか、車が通るので、全く使われなくなったわけではない。
ここまで来れば後はしめたものである。
ほとんど我が家まで下り坂といってもよいぐらいである。
旧道であるので、人も車もほとんどおらず、自分一人の道のようなもので、スキーのスラロームのように快適な滑降が堪能できた。
途中、2、3あった信号も、全部信号無視で通過してしまった。
しかしだんだん下りてきて民家が多くなってくると、車の往来も次第に多くなり、身の危険を感ずるようになったので、道の端に寄らなければならなくなってきた。
明智を過ぎ、坂下まで来ると、もう完全に肩身の狭い思いをしなければならなくなってきた。
道の端を自転車で行くということになると日本の道路行政の不満が募ってくる。日本の道路というものは、特に生活道路としての身近な道路というのは、実に自転車にとって不親切な構造になっている。
特に、あの車道と歩道を分離するつもりで設置されている縁石というものが一番難物である。
それというのも、日本の道路というのは、もともとが車のために出来ているものではなく、昔、人力車や第八車のためにあったものに、車というものが後から割り込んできたわけで、そのために車も人も双方が不便をかこっているわけである。
ならば人のための道路として、一切車を拒否すればよさそうに思うが、そこが日本人の日本人たる所以で、双方を妥協させることによって、双方とも不便を分かち合っているわけである。
もともとそこに住んでいる人にしてみたら、後からきた車などに家を壊されてはたまらない、というわけで、家をガードする意味で縁石を作ったわけであるが、それが付近の住民の行き来を阻害しているにもかかわらず、目に見えない利便よりも、目に見える家の破損という事に重点を置いているわけである。
ましてや、通りすがりの人のことなど眼中においていないわけである。
こういう古い街道沿いの事ばかりではなく、新興住宅地においても、自転車の利用という点から見て、自転車に親切な道路設計というのは皆無に等しい。
あの段差の存在が一番のネックである。
まあそんなわけで、内津峠の頂上から主に旧道を下ってきたが、篠木というところから旧道の旧道に入った。
この旧道の旧道というのは、いわゆる下街道と呼ばれるものであるが、私は不勉強で、この下街道についてはほとんど知識を持ち合わせていない。
ただここに入り込んでみると、路面が綺麗なタイルを使って、モザイク状に敷き詰められていたので、不思議さを感じた程度のことで、今後の課題として、この下街道についても少しは勉強しなければと悟った次第である。
両側は商店街になっているので、さほど珍しい光景ではないが、そこに実に古ぼけた家があり、その前には味噌たまりを絞る大きなプレスが展示してあり、その脇に説明板があったのでそれを読んでみたところ、昔、名古屋城を出て中仙道に出るのに、小牧を通るルートと、この勝川を通るルートがあり、小牧を通るルートは公の街道で格式が高かったが、この勝川ルートというのは、いわゆる庶民のルートとして開けていたということであった。
とは言うものの、それは徳川家の藩内の事情であったわけで、全くローカルな事柄であったに違いない。
この看板を見てからというもの、そういう視点でこの街を見ながらゆっくりと自転車を漕いでいたら、知らないうちに勝川まで来てしまっていた。
そういう目で、何時もは何気なく見逃している風景を見てみると、この辺りにも歴史を感じさせるような建物は案外残っているように見えた。
そう思いつつ、勝川のサテイーに入って、遅い昼食を取った。
家を出たのは10時で、ここに着いたのが14時であったから、4時間程度の小さな小さな旅であった。

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