翌日の20日もこれまた実に素晴らしい快晴に恵まれて、一日家にいるのがもったいないほどの天気であった。
よって、再度出かける事にしたが、出掛けに少々迷ったというか、躊躇したものだから、出るタイミングが少し遅れてしまった。
最初、家を出る時に家内に「明智に行って第三セクターの列車に乗ってくる」と言ったものの、心の中では昔の越美南線に乗ろうと考えていたので、こういう迷いが時間を大幅にロスさせてしまった。
この日は「ローカル線の旅」という事で、心は決まっていたが、行き先を選ぶにあたって迷いがあった分タイミングを逸してしまった。
そんなわけで、昔の越美南線に乗るつもりであったので、家を自転車で出て、牛山の駅に行き、犬山行きの電車に乗ろうとしたが、これが運悪く出たばかりで、ここで20分近くロスをした。
その上、犬山では再度乗り遅れて、鵜沼まで行くのに同じように20分近くロスをしてしまった。
鵜沼の駅というのもなんだか時代遅れの駅で、名鉄電車とJRの乗り継ぎがまことに不便この上ない。
名鉄電車の駅とJRの駅をつなぐ連絡通路というものは、なんだか30年以上前の青函連絡船の乗り場を髣髴させるような景色である。
冬の青函連絡船の乗り場というのは、あの「津軽海峡冬景色」に出てくる情感そのままである。
薄暗い連絡通路を、大きな荷物を抱えて小走りに走る情景というのが、今でも私の瞼から消えることはない。
季節も場所も違うとはいえ、この連絡通路を歩いていると、そのときの情景が思い出されてしょうがない。
今は青函連絡船そのものがなくなってしまったので、何とも感慨にふける術がない。
で、名鉄電車を下りて、切符を渡さなければならないだろうと思って、それを手に握り締めて下りてきたところ、誰もそれを受け取ろうとするものがいない。
先回ここを通過したときは逆周りであったが、確かにここでJRの切符を渡し、それと引きかえに名鉄の切符を購入した記憶があるが、出るときには一向に切符の回収というものがなかったのも不思議なことだ。
それでJRの鵜沼駅に行ってみると、ここも実に寂れた駅で、駅員の数も少なければ、業務そのものも閑散としている。
それでも駅の待合室にはJRの時刻表が設置してあったので、昔の越美南線、いまは第3セクターになって長良川鉄道と言うらしいが、これについて調べてみると、美濃太田から北濃まで3時間もかかり、料金も片道千五百円とわかった。
この時点で、丁度昼少し前の時間だったので、これから往復するのにはちょっときついと思ったので、急遽、明智鉄道に乗ってみることに方針を変えた。
その為には多治見まで出て、そこから中央線で恵那まで行かなければならない。先回と逆周りになるわけであるが、明智鉄道のほうは片道1時間程度なので、これならば今日の日程のうちに楽に収まると思って、そうする事にした。
しかし、いずれにしても美濃太田に出るまでは同じ列車で行かなければならなかったが、これが又なかなか来なくて、ここでも20分近くロスをした。
まあ急ぐ旅ではないとは言うものの、こういう時間のロスはまことにもったいない。
それでも仕方がないので、ホームの端から端まで歩いてみたり、駅舎の中に何か面白いパンフレットでもないかと、探し回ったりしているうちに例のワンマンカーのデーゼルがやってきた。
この駅のホームに立って、岐阜の方向を見ていると、この辺りの土地は緩やかに起伏しているらしく、最初、列車のヘッドライトが見えたと思ったら、しばらくするとそれが地平に隠れて見えなくなり、又再び地平からライトが見えてくるという風に、おおらかな光景が見えた。
こういう光景は以前武豊線に乗って緒川という駅で列車を待っていたときにも見えた。
この時も、知多半島のたまねぎ畑の中の線路が大きくうねっていたようで、これと同じ光景が見えたものである。
それとアメリカの大平原をバスで走っている時、アメリカの車というのは昼間でもライトをつけなければならないらしく、こういう光景に頻繁に出くわした。
それで、このワンマン列車に乗り込んでみると、お客は結構いたようで乗車率70%ぐらいはあった。
もっとも、本数が少ないので、これでも大いなる赤字には違いなかろうが、それでも列車が美濃太田に着くと、大方の乗客が反対側に止まっていた列車に乗り換えてしまった。
というのも、この列車は多治見行きで、高山方面に行く人は先に止まっていた反対ホームの列車に乗り換えなければならなかったからである。
だからこれから先、多治見まではほとんど空の状態になってしまった。
これではJR東海もなかなか赤字から脱出することが困難に違いない。
しかし、考えてみると、名古屋を中心にして大きく回り込むように環状鉄道は既に存在しているわけで、これを上手に生かす方法をもっともっと考えるべきだと思う。
名古屋という土地は、トヨタ自動車という大企業を傘下に抱えているので、鉄道の依存度よりも、自動車に依存する度合いが大きいわけで、そういうものが目に見えない形で名古屋の財界というものにのしかかっているのかもしれない。
名古屋・多治見間が約40分弱であることを考えれば、太多線に乗り換えたとしても、まだまだ充分に通勤圏内に収まると思う。
ところが我々の受ける印象としては、太多線に乗り換えるとなると、いかにも僻地という感を免れない。
この辺りに家を構えるとなると、どうしても車に依存してしまうわけで、ますます鉄道のほうは疎遠になってしまうわけである。
昨今、地方の時代といわれて既に久しいが、この地方では、地方の住民エゴがすさまじく、都市計画一つとっても、地方が他の地方と手を取り合って共存共栄を図る、という発想が全くないものだから、各自治体ごとに住宅団地を開発したり、工業団地を開発したりするものだから、それがモザイクになってしまって、整合性が全く見当たらない。
よって交通機関一つとっても、自分勝手に車で通勤することばかり考えているので、鉄道の上手な利用の仕方というものに全く目が行き届いていないのがこの地方の特徴だと思う。
先に述べたように、小牧のピーチライナーでも、自治体の側のエゴのみで作ったものだから、全く不合理な場所に駅を作った挙句、誰もそれを利用しない、という結果を招いているわけである。
桃花台の住民を、小牧だけに引き込もうとした、馬鹿な発想がもたらした、哀れな結果である。
岐阜から鵜沼、そして多治見というJR線も、岐阜、鵜沼間は名鉄との競合で、苦戦を強いられるのもやむをえないが、鵜沼、美濃太田、多治見間というのは、工夫次第でもっともっと活性化しうる余地があるように思える。
多治見に着くとすぐに中津川行きの列車がきたので、これに乗り込んでしまったが、この列車というのは太多線の車両と比べると雲泥の差で、実に快適な列車である。
日本の鉄道車両というのもずいぶん良くなったわけで、私が子供の頃知っている車両というのは木造で、ドアは手動、座席といえばロングシートのみで、明治・大正の頃の雰囲気を漂わせたような代物であった。
のんきというか、のんびりというか、敗戦後の日本にはまだまだそういう車両が沢山あった。
中央線、我々、この土地に住む人間の感覚としては中央線で通ってしまうが、本当は中央西線というべきではないかと思うが、このラインも私の知っている限り蒸気機関車が牽引し、客車のほうはチョコレート色の文字とおり国鉄色であった。
ところが今時の中央線といえば、実に素晴らしい車両が投入されている。
そして、この辺りでは50年前と比べても新駅の増設というものがないようで、一つの駅の区間は昔のままで、実に長い。
この素晴らしい列車が、山あいを進む様は、いかにも旅行をしているという気分にさせてくれる。
恵那には30分足らずで着き、精算所で精算をしたら千円取られた。
JRの運賃というのは、採算性の悪い路線は運賃が高いので、恐らく太多線の部分が割高になっていたのであろう。
この恵那の駅というのは盆地の高いところにあるようで、市街が下の方に見えた。ここで切符を精算し、一度駅舎の外に出てみると、すぐそこに明智鉄道の切符売り場があって、この路線は片道1時間弱のはずだから往復買っておいた。
この明智鉄道というのも、近くにありながら一度も乗ったことがないので興味津々であるが、前の方の丘陵から下りて来た、たった一両のデーゼルカーは、色鮮やかというか、軽快な感じの塗装を施されたこじんまりとしたものであった。
駅舎に置いてあったパンフレットを見ると、この路線には日本で一番勾配の厳しいところがある、となっていたがどうも日本一という部分が信じられない。
日本一という部分に、何か限定条件がついているのではないかと疑っている。
例えば「第3セクターの路線では」とか、「JR以外では」というような、限定条件付の日本一ではないかと思う。
私の乗った車両は、偶然にも前から後ろまでロングシートのもので、お客が一応席に着くと、後ろから前まで綺麗に見渡せる状況であった。
その客というのが、これまた養老院の遠足のようなもので、見事に年寄りばかりである。
その中に一人二人と高校生らしき者が混じっているのがかえって違和感がある。過疎という言葉が実感を持って肌で感じられる。
列車の一番後部に席を占めたが、一番後ろからも先頭の窓の外はよくわかる。
汽笛一斉恵那駅を出るや否や、動き出したとたん、もう登り勾配で、あえぎあえぎという感じで、ゆっくりゆっくり勾配を稼いでいった。
最初のうちは堰堤のようなところを登っていったが、そのうちに山あいに入ると、切り通しを抜けたり、そこを抜けると田園風景になったりして、のどかというか、のんびりというか、日本の田舎の風景の中を進んでいった。
パンフレットによると、日本一の勾配というのは千分の33という事であったが、行きにはその標識を一つも見ることが出来なかったが、帰りには確かに千分の
32とか33という勾配の標識を確認した。
車窓に顔をくっつけて外を見ていると、山の日陰にはまだ雪が残っており、それにもまして驚くことは倒木が多いことである。
そして、竹は雪害であろう、青竹のまま折れている光景を見ると物悲しい気分になる。
山の倒木というのも、原始時代ならいざ知らず、今日という状況下で、折れたままの木々がそのまま放置されているということは、将来の日本にかかわる重大な事柄のはずである。
日本の林業というものが、外国産の安価な材木に押されて不振を囲っていることは頭では理解できるが、これは林業だけの問題ではないはずで、それこそ環境問題そのもののはずである。
私ごときが、一度アメリカに行っただけでも、アメリカの大地と日本の大地の違いというのも実感として感じているのに、世の識者というのは、その意味を全く理解していないがごとき感を呈している。
アメリカ西海岸の大地と、日本の大地は完全に異質のものである。
アメリカの大地は基本的に砂漠である。
日本の大地は、基本的に緑織り成す豊穣の大地である。
この緑豊かな豊穣の大地が、今破壊されつつあるわけで、山の倒木をそのまま放置しているということは、林業の問題以前のことである。
環境問題の根幹にかかわる事柄のはずであるが、こういう点には余りマスコミのスポットがあたらない。
原始時代ならば、倒木もそのまま放置しておけば、それがそのまま次の生命に生まれ変わるが、今の日本の状況では、そういう雄大なタイム・スパンで物事を考えることは出来ないわけで、今ある倒木をそのまま放置しておけば、近い将来にその弊害というものが我々の生活を脅かす存在になってしまうわけである。
環境問題というのは、自然を自然のままに放置しておけばいい、という問題ではなく、自然はあくまでも人間の力で管理しなければ、自然そのものを温存することが不可能な時代になったということである。
その意味で、日本の林業というのは、自然を管理するという意味も含まれていたわけであるが、昨今のように、林業を継続する若者がいなくなった日本では、山の倒木を如何に管理するか、という事が自然の温存に直接的な影響力をもつようになったわけである。
昨今、ボランテイアという言葉が安易に使われ、あたかも一種の流行のような状況になっているが、これも人々の偽善がもたらす安易な発想で、山の管理とか、ごみの収集というような、肉体労働を伴うようなボランテイア活動というのは敬遠されがちである。
神戸の震災や、越前海岸の重油漂着事件のような大きなニュースの元には、ニュースに便乗して、「ボランテイア活動」というお祭りに参加するような気分で、偽善行為をすることで何か良いことをしたような気分に浸っているが、本当に自分の祖国を愛する気持ちがあるならば、森の中の自然を維持する行為にも視点を向けるべきである。
しかし、そうはいうものの、こういう事には素人が素直な気持ちで入り込めない「所管」の問題がある。
山の関係者でもないものが、かってに山に入ることは、恐らく法に触れることになるのではないかと思う。
仮に、倒木一本処理しようとしても、多分、法的には管理者の許可が必要になるのではないかと思う。
それは、木を盗む行為というのが昔からあり、最近にいたっては、逆にごみの不法投棄の問題と絡み、山自体に素人が勝手に入ってはいけないのではないかと思う。
そういう難しい問題が、絡みに絡んで、山は荒れ放題という事になっている。
飛行機の上から日本の山々を眺めると実に美しい。
それに引きかえ、アメリカの西海岸を飛行機から眺めると、実に砂漠ばかりで、地の果てという感がする。
昨年、アメリカをほんの少し旅行したが、その時に、日本の緑は大事にしなければならない、とつくづく実感させられた。
小さなワンマン・デイーゼルカーは、そんな私の思いを乗せて、小一時間で明知に付いたが、ここには大正村というものがある。
そのことはずいぶん前から知っていたが来たのは始めてである。
私は大正村というのも明治村と同じように、ある区切られた柵のなかにあって、当然、入場料を取るものではないかと想像していたが、ここは町全体が博物館となっており、特別に入場料というものは不要のようだ。
駅前に降り立つと、何処にでもある風景で、ひなびた田舎の光景あった。
駅前には、普通ちょっとした飲食店があって、飲み食いできる場所があるのが一般的であるが、この駅前にはそれらしきものも見当たらなかった。
恵那の駅で腹ごしらえをしたかったが、時間が中途半端だったので、パスしたままにしており、いささか空腹感を感じていたが致し方ない。
それで駅を出て前のほうに進むと幹線道路あり、それを右に折れ、ほんの少し行くと、大正村の大きな駐車場があり、みやげ物らしき店が見えたので、そちらに行ってみると、その奥のほうに博物館のような建物があって、いきなり赤レンガの銀行が出現した。
その案内板を読んでいたら、東京駅を模して最近復元された旨記されていたが、要するに、明治時代の銀行を引き継いでいるということである。
その間、銀行としてはいろいろ離合集散はあったが、この建物自体は、大正時代に立てられたものが連綿と生き残った旨記されていた。
この銀行の脇まで来ると、もうあちらを見てもこちらを見ても博物館である。
明治村というのは、明治時代のものを集めているわけであるが、こちらは大正時代なわけで、その間約40年というタイムラグがあるわけである。
この山里において、大正時代にあった建物というのは、明治時代にあった建造物よりも、生き残る機会は多かったに違いない。
銀行前の道を左のほうに進むと、右手の丘の上の絵画館と称する建物があって、これは白亜の建物で、明らかにその時代的特徴を具現化している。
そして、その前の路地が当時の大地主の蔵屋敷で、いかにもその時代の大金持ちの佇まいという感がする。
このような山間僻地に、こういう文明開化の洗礼を受けた文化が残っているということは、100年も前の日本というのは、今で言うところの都会と田舎の格差というものが全く無かったという事に他ならない。
逆に言うと、今の日本の現状、つまり都会と地方との格差の存在そのものが異常なわけである。
島崎藤村の「夜明け前」とか「破壊」という小説を読んでみると、今この大正村にある情景が髣髴と頭の中に湧き上がってくるわけで、あの小説の舞台がそのままここにあるような錯覚に陥る。
ということは、明治時代にしろ、大正時代にしろ、この時代において、都会と地方都市の格差というものはほとんどなかったと言っていいのではないかと思う。東京、大阪、名古屋という大都市が今日のような姿を呈するようになってのは、明らかに戦後の高度経済成長を経た後のことで、それまでの地方というのは、それなりの独自の生き様を持ち、頑張っていたに違いない。
ところが日本が高度経済成長というものを経験してみると、人々は猫も杓子も都会の生活にあこがれ、都会へ都会へとなびいたわけで、今日この明智鉄道のお客というのは、年寄りばかりで、若者がほとんどいないという情況を呈するようになったわけである。
不思議なもので、自分の親戚の生き様というものをよくよく観察してみると、これが案外日本人全体の生き様を具現化しているように見える。
我が一族を、自分の親父の世代ともう一つ上の世代ぐらいからよく観察してみると、一族の内の頭のいいものから教育を受け、その教育を受けたものは決して跡を取らず、家業を継ごうとせず、親元から離れ、故郷に帰ろうとしない。
故郷に残って家業を継ぐのは、あまり出来が良くなくて、その結果として、学問を受けさせてもらえなかったものが家業を継ぐという風になっている。
昔は兄弟が多かったので、頭が良くて教育を受けたものから家を出、故郷に残って家業を継いだものは、頭が悪くてその結果としてほどほどの教育しか受けれなかったものが家督を継いだわけで、そこに戦後になって、新憲法のもとで、親の財産は兄弟で等分にしなければならず、そこに追い討ちをかけるようの農地解放で、不在地主というのは田畑を取り上げられてしまったため、都会と地方の格差というのは必然的に大きくならざるをえなかった。
極端な言い方をすれば、頭のいい若者ほど都会に出、糟のみが地方に残ったわけで、それが全国規模で普遍化したとすれば、日本の地方というものがよくなる筈がない。
統治する側の都合で中央集権が起きたわけではなく、庶民、一般大衆が生き残るために、はたまた個人としての幸福追求のために、下から押し上げた中央集権、一極集中が起きたのではないかとさえ勘繰りたくなる。
思えば、この明智という土地柄も、昔は結構ハイカラな土地柄であったに違いない。
「夜明け前」の馬込の宿にしろ、この明智という土地にしろ、明治、大正という時代には、商業も結構隆盛を極めていたようだが、時代の流れというか、社会構造の変化にはついていけなかったに違いない。
例えば、養蚕というものを例にとって見ても、絹織物の衰退というものを人間の英知では食い止めることが不可能なわけである。
もう一つ、石炭産業の衰退を例にとって見ても、こういう時代の流れというのは、人間の英知で以って食い止めるということはありえないわけである。
絹織物が衰退したとき、それに携わっていた人々はどうしたかといえば、都会に流れてきて、新しい生業を見つけるようにしたわけであり、石炭産業が衰退したときにも、人々は同じような行動に出たわけである。
人々が出て行った後は、街ごと衰退するほかなかったわけで、それが明智という町であり、馬込という集落であったわけである。
歴史的建造物に囲まれた路地を歩きながら、そんなことを思いつつ駅に戻ってきたわけであるが、帰りの便は、これまた異常に客がおらず、私を含めて3人しか乗っていなかった。
このラインの利用者というのは、想像するところ、恐らく、恵那で所要を済ませる人ばかりのはずで、そういう人々は、多分午前中の便を利用するのではないかと思う。
午後の便では帰りに不都合なはずで、そういうことを考えると、空いていても仕方がない。
途中の駅で高校生が10人程度乗り込んできたが、その中に女子生徒も2,3人混じっていた。
この高校生の姿というものが、日本全国何処に行ってもほとんど同じなのも不思議な現象である。
恐らくテレビの影響という事は想像できるが、男子生徒のだらしのなさ、女子生徒のルーズ・ソックスの姿というのは、東京の六本木も、この明智もまったく遜色ない。
男子生徒のあのだらしのない格好というのも、これまた格差というものは微塵も感じられない。
時々、若い女性を見ると、日本人の女性の体型というのが変わってしまったのではないかと思うことがある。
若い女性のスカートが短くなったことに関しては、それが流行と片つけてしまえば、それ以上詮索する必要はないが、問題は、その脚のほうである。
短いスカートから見えている脚が、人間がもともと持っている脚の形をしていないところに問題があるように思う。
大腿部のふくらはぎに肉がついておらず、足首から大腿部まで、ほとんど同じ太さであるところが異常だと思う。
少女漫画の登場人物のように、漫画の世界である。
こんなド田舎の女子高校生でも、漫画の世界の人間のように、細い脚だけれど、メリハリのない、足首から大腿部まで同じ太さの脚の持ち主がいることは、ある意味で驚きである。
私の世代で、田舎の女子高校生をイメージすれば、健康的で、日に焼けて、なんとなく田舎くさい雰囲気を持ち合わせ、丈の短いスカートから細い足を見せるなどとは想像できない。
この山あいの僻地において、数少ない高校生が、大都会の高校生と何ら風俗的に変わることがない、というのもある意味で、今の日本の現実の姿を見事にあらわしているものと思う。
これは言うまでもなくテレビというマス・メデイアのなせる技であるが、こういう状況が今の日本にあるということは、もう既に都会と僻地の文化的格差というものは存在しないという事になる。
この生意気な高校生も、職業につくというときには、恐らく都会に出て、たまにしか自分の家に帰らないに違いないが、そうなるとますます田舎、僻地というのは姨捨山になってしまう。
田舎に行けばいくほど、年寄りばかりの世界になっているわけで、文化の格差がないということのメリットは、若者が都会に出たときに、田舎者というコンプレックスを抱かなくてすむ、ということぐらいで、田舎に住んでいる年寄りには何ら貢献するものではない。
情報というものは、生かすも殺すも本人次第なわけで、 年寄りといえども、都会の新しい情報に接したいという願望があれば、どんな田舎にいてもそれが可能なことを高校生が示しているわけである。
昨今、環境問題が姦しいが、都会で環境問題を論じている日本の識者というのは、私から見れば偽善者でしかない。
こういう田舎に立ってみて、この風景を如何に後世に残すべきか、と考えることこそ環境問題の原点だと思う。
山に倒木があっても、田舎の高校生で、それを何とかしようと考えている人間はほとんどいないに違いないし、ましてや都会で環境論を論じている識者などは、この現実すら知ろうとしていない。
今、この列車に乗っている年寄りは、恐らく介護保険の恩典にもあずかれないに違いない。
この山あいで、一軒一軒訪問して介護するほうに人、つまり介護をする側の若者がいないのではないかと思う。
帰りのでデイーゼルは、出発したときはたった3人しか乗っていなかったが、途中で例の高校生などが乗ってきて、恵那に着くころには60%ぐらいの乗車率にはなっていた。
乗り物の旅というのも、頭の中でいろいろなことを考えることができるので、これはこれで又楽しいものである。
そういうわけで、後は中央線で大曽根まで来て、乗り継ぎながら家に帰ってきた。
出掛けにはいろいろ迷ったが、今日一日それなりに実りある日であった。