不法入国者の問題

水の流れと反対の潮流

平成14年5月12日、梅雨の合間の晴れ間という感じの日曜日であった。
昼間少し外出したので、外出から帰って昼寝をしてしまった。
昼寝をしたものだから、夜、目が冴えてついつい夜更かしをした。
それで徒然なるままにテレビのチャンネルを弄くっていたら、NHKのBSでヨーロッパの不法入国者を追跡するドキュメンタリーを放映していた。
つい先ほど(8日)中国の瀋陽における日本領事館への北朝鮮人家族の亡命事件の事がオーバー・ラップして、ついつい見てしまった。
今のヨーロッパ、特にEUでは、周辺諸国からの密入国者の多さに相当に困っているらしい。
地球上に生きる人々は、お互いに国境というものを設けて、その中では国家主権ということをお互いに認め合って、世界というものが成り立っている。
いわゆる地球人というのは、その枠の中の主権という概念を持っている限りにおいて、この国境というものを認めないわけにはいかないと思う。
太平洋上にある日付変更線と同じで、実際にあるわけではないが、概念として国境というものを認め合って、お互いの主権国家というものが存立しているわけである。
概念の産物だけではなく、実際に鉄条網で目に見える形で境界を形作っているところもあるが、海とか山、乃至は川で仕切られているところでは、概念上の境でしかないところも多々ある。
我々日本などは、まさしく海で囲われているので、壁とか鉄条網で仕切られた国境というものは認識できない。
今、地球上で果たして正確に主権国家が何カ国あるのか定かには知らないが、恐らく180ヶ国以上だと思う。
これらの主権国家というのは、国境の中の主権ということを唯一の国家存立の理念としているが、そのことは同時に、その枠の中で生活を営んでいる人々の、つまり国民とか市民とか、生活者としての思惑とは何ら関係がないわけである。
枠の中で一つの運命共同体を構成している人々からすれば、自分たちを統治しているリーダーが、好きだとか嫌いだとか云う感情とは無関係に国家というものは存立している。
人間が複数集まれば、その中で自然とリーダー格の人が生まれ、そのリーダーの指示で、他の人々が動くということは自然発生的な人の在り方の形態だと思う。
そのリーダーにとっては、自分達の囲いの中の人々は、自分の仲間であり、囲いの外の人々の扱いとは自ずと違いが生じるのも、人間の在り方として極自然な事だろうと思う。
人間の集団の中で自然発生的に生まれたリーダーは、自分の仲間の便宜を、囲いの外の人達よりも優先的に配慮しようとする事も、人の在り方として極々普遍的なことだろうと思う。
人類は皆兄弟とは言うものの、AのグループとBのグループが隣り合わせに居たとすれば、お互いに先ず自分のグループのことを優先順位の上位にもって来て、その後で隣のグループへの関心を示すに違いないと思う。
これが人間の生存にとっては普通の、そして自然な在り方ではないかと思う。
人間の集団としてのA、B、C、D・・・・その他のグループは、それぞれに自己のグループのことを最初に考え、その次に余裕があれば近隣のグループの事も考えるようになろうが、余裕がなければとてもそこまでは手が回らないわけである。
ところが、この人間のそれぞれのグループというのは、それぞれに多様な特徴を持っているわけで、その多様さがあるが故に、考え方も均一ではないわけである。
近代文明の発達する以前の人間社会というのは、地球上のそれぞれの場所で、それぞれの民族が、その多様性の元で多様な社会を築いていたわけである。
ところが時代が19世紀から20世紀、そして21世紀と進んでくると、マス・コミニケーションの発達で、地球上の各地に分散して多様な社会を築いていた人が、情報を共有するようになったので、他との比較をするようになった。
すると他人の庭が良く見えるようになり、「自分もああいう風になりたい」と思うようになったわけである。
これは人間の持つ根源的な欲望である。
その根源的な欲望というものが、マス・コミニケーションの発達で触発されてしまったわけである。
最初から知れなければ知らないで、「これこそ全宇宙だ!」と思って、何ら疑いを持たずに居れたものが、「この川の向こうには何があるのだろう」、「この山の向こうに何があるのだろう」、「この海の向こうにパラダイスがあるに違いない」ということを考えるようになって来たわけである。
その川の向こうにあること、山の向こうにあるもの、海の向こうの新天地というものをマス・コミニケーションというものが全部ばらしてしまったので、人は水が低い方に流れるのとは反対に、高い希望に向かって進みだしたのである。
高い希望に向かって進む、ということは人間の基本的な欲求であったわけである。情報というものがない世界では、こういう欲求というのは起きない。
20世紀の後半のマス・コミニケーションというのは、テレビのスイッチをひねるだけで、パラダイスの様子というのが手にとるように判るようになってしまった。
それを見た人々は、我も我もとその新天地に向けて進もうとするのだが、ところがどっこい、そこには国境というものがその行く手を阻んでいるわけである。
ところが人間が新しいパラダイスを追求するという行為を、人間の英知では抑制できないわけである。
それは人としての潜在的願望であり、潜在意識であり、潜在的な欲求であったわけである。
マスコミの情報が地球規模で飛び交っている20世紀の後半から21世紀の地球上には、既にパラダイスを築いてしまったところと、これから如何なる手法をとっても、パラダイスになりえない地域というものが歴然と出来てしまったわけである。

盲流を触発するマス・メデイア

この私の見たテレビ放送では、ヨーロッパ、特にEUでは、不法侵入者、不法入国者、密入国者を如何に阻止するかということに主眼があったが、確かに社会として完全に出来上がったヨーロッパに、中近東やアフリカ、はたまたアフガニスタンとか東欧から当てもなく人が入ってこられたら、既存の社会が困惑する事は目に見えている。
自分達が営々と築いた社会というものが、彼らによって破戒されてしまう事は必然である。
だから国境警備ということに真剣に対処しているわけである。
密入国者という点では、アメリカもメキシコとの国境が接しているので、同じ問題を抱えている。
そしてこれも同じように、国境警備の実情がドキュメンタリー・タッチで放映されたことがある。
これは文化の高いところに、文化の低いところから、人が流れるということである。水の流れと逆なわけである。
これらの地域、つまりメキシコなり、中近東、アフリカ、アフガニスタンの人々に教養があり、高度の技術があり、社会的な軌範をしっかりと持った人たちならば、密入国しなくても正面から堂々と入国できるわけである。
第一そういう人ならば、他所の国に出かけなくても、自国内できちんと生きていけるわけである。
問題は、そういう人でない人達が雲霞の如く押し寄せるから、送り出す側も、受け入れる側も困惑するわけである。
本国できちんと生活できている人ならば、移入先でも何ら嫌われる事はないが、本国でさえ何の特技もなく、技術も持たず、社会的軌範に疎く、職もなく、無為徒食の輩だからこそ、ビザが下りず、不法な手段でなければ他国に行けないということである。
本国でまともに教育を受け、本国の法規を遵守し、本国でトラブルを起していなければ、出す方も受け入れる方も何ら問題はないわけである。
そうでないから本国ではパスポートの発給も、ビザの発給も拒否するわけで、受け入れる方でも、パスポートもビザも取得できない人間を、そう安易に入れるわけにはいかないのも当然である。
この先進国と開発途上国という主権国家間の格差、つまりその格差というのは、民主化の度合いの格差の事もあれば、経済的な貧富の差という場合もあるが、お互いの主権国家の間にこういう格差があるから、人は高い方へ高い方へと流れるわけである。
この先進国と低開発国の格差が去年、2001・9・11のアメリカで起きた同時多発テロにもつながっているわけである。
アメリカという国とイスラム文化圏というものを比べればみれば、明らかにここには富みの格差があるわけで、あの同時多発テロが起きたとき、世界の識者というのはアメリカとイスラム圏の富の格差がその原因だと、もっともらしい事を云っていた。
それは確かに一面ではそうであろう。
ならばその富の格差を是正するにはどうしたらいいか、という問題になった時、答えが在り得るであろうか。
アメリカがアフガニスタンの空から爆弾の代わりにドル札をばら撒いたら、経済の格差は是正されるであろうか。
そんな発想はあまりにも漫画チックである。
ならばどうすればいいのか、という事になると、誰にも答えはないわけである。
人間が集団としてある絆を媒介としてかたまっており、その仲間内で囲いを作って、自分達の仲間内でより良い生活を作り上げよう、というのは人間の本質的は欲求だろうと思う。
この欲求に色々と温度差があるわけで、物質文明に毒された人々は、快適な住宅に完全冷暖房の装置を施し、快適な乗用車で行き来をすることが究極の欲求だとすれば、もう一方では、一日5回もアラーの神に祈りを捧げて、日がない泥の家の前でだべって時を過ごし、日暮れ腹減りで悠悠自適に生きることが究極の欲求という民族もあるわけで、これを全て均一にしようとする発想は、それこそ基本的人権の侵害であるし、民族自決の精神を冒涜する行為である。
ところが、こういう民族間には多様な価値観があるにもかかわらず、20世紀後半のマス・コミニケーションというのは、それこそ均一に情報を流すわけである。
テレビというのは開発途上国では映らないというわけではない。
アメリカの同時多発テロというのは、全世界で同じ映像を見たわけである。
価値観が多様化しているところに、マス・コミニケーションのもたらす情報というのは、受ける側の文化の度合いということを斟酌することなく、アメリカもコンゴもアフガニスタンも日本も中国も同じ情報が流れるわけである。
すると開発途上国の人々の間にも、価値観の多様化の壁を乗り越え、従来の自分達の価値観を克服し、文化の高いところに行けば、自分達もその恩典を享受できるに違いないと錯覚する人が現れてくるわけである。

格差の是正は偽善にすぎない

彼らにしてみれば、新天地に行けば自分もそこの人と同じ生活が出来るに違いないと思うわけである。
自分の生まれた土地で、自分の祖国に従順に生育していれば、当然そこの国の一般市民として普通に扱われるが、そうでない者は当然その報いが本人に降りかかってくるわけで、それがパスポートも発行されず、ビザも下りない人達だと思う。
自分の祖国を逃げ出そうという人を、積極的に受け入れる国家というのはありえないと思う。
自分の祖国に忠実でないものが、移入先の国でその国に貢献するということはありえないと思う。
政治的亡命とか、難民というと、「気の毒な人々」という印象が強いが、それは豊な国の恵まれた立場の驕りではないかと思う。
かって共産主義が世の中を席捲して、共産主義国家からベルリンの壁を乗り越えて自由主義国家に逃亡してきた人が大勢居たが、こういう人々は政治的亡命者といわれて、イデオロギー対立が激しかった頃は何となく「善人」という印象で受け入れられていた。
しかし、果たした本当だろうか。
あれは人間の我侭ではなかろうか。
如何なる主権国家においても、その国の国民が自分達の統治者に100%満足している国民というのはありえないと思う。
統治される側の国民としては、統治する側に対する不平不満というのは、大なり小なりあるわけで、「自分達の国の政治体系が気に食わないから逃げる」ということはある種の我侭としか言い様がない。
今月の8日に、中国の瀋陽で起きた日本総領事に逃げ込んできた北朝鮮の家族でも、そういう見方が可能だと思う。
ところがそれを報道するマスコミというのは、北朝鮮のようなひどい政治体制の国から逃げてきたんだ、というニュアンスで報道しているが、それは人間の真意というものを善意に解釈している事だと思う。
EUが中近東からの密入国に神経を尖らして国境警備をしている事を、さも仕事口を求めて来る気の毒な人を追い返すような「悪い事」をしている、というニュアンスで報道されている。
国連の難民高等弁務官の発想、乃至は日本の知識人の発想は、そういうものであるが、国連なり部外者としての日本の知識人にしてみれば、綺麗事で済ませれるわけである。
事の真実を、つまり人間としての赤裸々な本音を言えば、相手の憎悪を駆り立てる事になるが、当り障りのない奇麗事を言っておけば、自分は評論家として禄を食んでおれるわけである。
手に何の技術もない人々がヨーロッパに流れてくれば、豊なヨーロッパは、そういう人々を援助しなければならない、というのが国連の発想である。
国連はそれで済ませれるが、実際に入ってこられたヨーロッパの生活者の視点に立てば、たまったものではないはずである。
既存の秩序は無視する、自分達の生活習慣は変えようとしない、手に技術があるわけではなく、既存のヨーロッパ社会でも失業があるのに、そういう人達にまで回す職もないわけで、現地の生活者の視点に立てば奇麗事では済まされないわけである。
現代のヨーロッパ社会でも、アメリカ社会でも、高度に発達した物質文明を享受しているが、これは彼らの努力の結晶なわけで、その努力が開発途上国の搾取だったとしても、自分達の欲求を満たそうと、血を流し、汗を流して努力したのはヨーロッパでありアメリカの人々であったわけである。
そういう努力の積み重ねの結果が、今日の繁栄であったわけで、そういう努力をせずに、熟れた果実だけを頂こうとしても、それは強欲というものである。
今日の低開発国、開発途上国というのは、政治が不安定で、国民は安心して統治者に身を任せられないので、救いの手を差し延べなければならない、というのは奢れるものの偽善である。
アメリカにしろ、イギリスにしろ、フランスにしろ、日本にしろ、今までの歴史の中で安定した政治状況というのがあり得たであろうか。
アメリカの独立戦争から南北戦争、イギリスの産業革命、フランスの大革命、日本の大東亜戦争、それぞれに茨の道を乗り越えて今日があるわけで、それは統治者のみが茨の道を歩んだわけではなく、国民、市民、一般生活者にとっても茨の道であり、苦難の道であったわけである。
卓越した統治者に善導されて、何の苦労もなく今日の社会が出来上がったわけではない。
苦難の連続の歴史の過程で、自分達の政治状況が悪いからと言って、他所の国に逃げるということをせず、統治するものも、されるものも、同じ苦難を乗り切ったからこそ今日があるわけである。
富の格差の是正ということは、理論的にありえない。
今の開発途上国の人々が、皆が皆、アメリカ人やヨーロッパ人のように自分の欲求を満たす努力をしない限り、富みの格差の是正ということはありえない。
人間の英知でそれを是正しようとしたのがいわゆる共産主義であったわけで、この考え方というのは、ソビエット連邦の崩壊ということで、画餅に過ぎなかったということが証明されたわけである。
全地球規模で見て、今という時代は、もう帝国主義の時代ではない。
ということは、イラクであろうが、イランであろうが、はたまたアフリカの国々であろうが、武力で領土拡張するということはありえない。
領土拡張がそのまま経済の繁栄につながるという時代ではない。
武力の後ろ盾で経済発展があるという時代ではない。
今は知恵の時代である。
知恵こそが経済発展の根源である。
知恵こそがオールマイテイーの神通力を持っているわけで、自分の国を平和に維持するのも知恵ならば、経済を豊にするのも知恵の使い方にかかっているわけで、その意味では、戦後の日本が歩んできた道というのは、開発途上国にとって大いに参考になると思う。
今のマス・コミニケーションは知識を豊富に運んできてくれるが、知識だけでは知恵にはならないわけで、知識を如何に使うかが知恵なわけである。
開発途上国で、人々が自分の国を捨てて他所の国に行きたい、など思う人がいるということは非常に不幸な事である。
国も不幸ならば、その国民も実に不幸といわなければならない。
そういう不幸を背負った人々が、アメリカにしろ、ヨーロッパにしろ、滅多矢鱈と入ってこられたら、入ってこられた方は大いに迷惑な事は目に見えている。
移入してくる人が、周囲の状況に上手に順応出来れば問題はないが、元々教養もない低レベルの人が、職の当てもなく、特技もないまま入ってくるわけだから、移入先でも結局のところ落ちこぼれとなってしまうわけである。
最終的には移入先の社会問題と化してしまうわけである。
先のフランスの大統領選挙でも、移民反対を掲げた極右政党の候補者が決選投票にまでのし上がってきたのも、こういう背景があるからだと思う。
2002.5.14

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