21世紀を思う

テレビを見て考える

2002.4.28、平成14年4月28日、今年のゴールデン・ウイーク2日目、徒然なるままにテレビのスイッチを入れたら、日高義樹の「ワシントン・レポート」という番組で、日本の21世紀を予測するというような主旨の番組を放映していた。
ついつい引き込まれて見てしまったが、アメリカ、ハドソン研究所の日本を見る目というのは、我々が考えている以上に楽観的な見方をしている。
我々、日本人というのはどういうものか自分たちのことを何時も何時も悲観的に、自虐的に見る癖が有るようだが、そういう先入観のない外国人の目から我々の日本民族というものを見ると、やはり我々というのは高く評価されているようだ。
ハドソン研究所ならずとも、日本のあらゆる研究所においても、研究所と名がつくならば、それに所属する人々というのは、我々庶民とは教育の程度が格段に違うように思うのが普遍的で、事実大学をいくつも出たような人が、日夜分厚い外国語文献を読み漁って考え、論文を執筆しているところだと思う。
そういう人たちが参考書を読み漁り、それに基づいて考え、そしてそれを本として表しているわけであるが、その内容というのは日本人が大喜びしそうなものであったわけである。
ところが我々の側は、その言辞を素直には受け取らず、ひねくれた解釈をしたがっている訳である。
日高氏も、大勢の日本人と同様、その日本礼賛の内容を皮肉な視点で眺め、これが本心ではなく、日本に対するリップ・サービスであるかのような言質を導き出そうとする魂胆を露にしたインタビューの仕方である。
私も、これらハドソン研究所の論客が日本を擁護するコメントを聞いて、何だか信じられない気持ちになるが、言われてみれば確かに言われるとおりで、聞いていて面映いが、事実は事実を思わざるを得ない。
アメリカでは日本礼賛の本がかなりたくさん出ているが、日本からはそういう類のものありえない。
謙譲の精神の浸透した日本人からは、そういう類の発言が引き出せないことは自ら納得できるが、我々日本人、日本民族には、秘められた可能性が計り知れないほど内在しているという事を、日本人以外の人、つまり外国人はそれを堂々と臆面もなく言っているわけである。
これは日本人向けに言っているのではないと思う。
ハドソン研究所がそういう主旨の本を出すという事は、英語圏の全部に知らしめるために言っているわけで、日本人向けに出版しているわけではないと思う。
戦後半世紀の間に、日本人は過去の戦争を、つまり日中戦争から大東亜戦争までの経緯を、罪過を背負っているようなニュアンスの認識に立って言辞しているが、日本人以外の立場からすれば、特に西洋キリスト教文化圏からすれば、自己保存の自衛戦争であるという認識が受け入れられている。
この認識は西洋列強の生き様、主権国家としての生存の有り方からすれば、彼ら西洋のキリスト教文化圏ではすんなり受け入れられるものである。
しかし、東洋ではそうならない。
21世紀に至っても、西洋と東洋ではその文化の異質性というものは均一化されることはないにと思うが、その文化度の異質性があるが故に、東洋つまりアジアというのは一つの纏まったものになりえないのである。

中国について

この日高義樹氏の番組でも、中国が話題になっていたが、「中国が日本を超える事はない」と結論つけられていた。
中国共産党は弱体化するが、それに代わる政治的リーダーが出て来ない、と論破されていた。
当然のことで、そんなことはハドソン研究所の大学者から言われなくとも毎日の新聞を読んでいれば我々レベルの庶民でもわかる事である。
中国が将来に渡って日本を越えられない理由として、西洋的な契約の概念と法秩序の維持という事が出来ない以上、真に日本を越えることはないといわれていた。
この日、つまり28日の中日新聞トップ記事は、中国でトヨタの偽ブランド品の自動車が安価に出回っているということが記されていた。
この事実そのものが、ハドソン研究所の所見と全く軌を一にしていたわけで、契約の概念の無さと、法秩序の無さを如実に物語っているわけである。
私個人は中国というものはよくよく注意しなければならないと思っている。
目下、日本の製造業は賃金の安さから中国に製造拠点をシフトしているが、これは非常に危険な事だと思う。
日本人というのは、人がやれば自分もやる、人が自殺すれば自分も釣られて自殺する民族である。
だから、2、3の製造業が中国に生産拠点を移すと、何も考えずに「あれがやれば俺もやる」という按配で、他人に釣られて同じ事をする傾向がある。
これの顕著な例が南京大虐殺であることは過去に何度も言及してきたが、人が中国を礼賛すると、自分では何も考えず、何も自分で検証することなく、人の振り見て我が振り直すというところがある。
これが我々の持つ雰囲気、気であり、ムードであり、付和雷同である。
ここで話題をちょっと飛躍させるが、私は映画の西部劇が好きだ。
この西部劇というのには、どういうものかインデアンが出てくる。
アメリカの西武開拓の歴史を見ればそれは必然的なことである。
アメリカ大陸には元々インデアンが先住民として住んでいたわけで、ヨーロッパから来た白人というのは、究極のところその元々住んでいたインデアンを居留地というところに押し込んでしまったわけである。
もっと俗っぽい言い方をすれば、ネイテイブ・アメリカン、つまりインデアンというのは、土地を西洋の白人に全部取られてしまったようなものだ。
翻ってアジア大陸に目を向けると、アジア大陸の先住民族としては、中国人が人類の誕生とともに住んでいたわけで、中国には50以上の民族が有ると言われているが、基本的にはネイテイブ・アメリカンと同じなわけである。
それがアメリカ・インデアンと同じ道をたどらなかったのは、そこの長い伝統としての文化あったわけで、その文化の一環として、統一国家というものが曲がりなりにも存在していたからである。
ネイテイブ・アメリカンはアメリカ大陸においてこの統一国家という物を作り得なかったが故に、西洋人に土地を取られてしまったわけである。
ネイテイブなアジア人としての中国人というのは、西洋人に土地を取られることは免れたが、そのことはそのネイテイブな部分というものを克服できた事ではない。
問題は、そのネイテイブな部分である。
つまるところ、中国の4千年とも5千年とも言われる歴史そのものが、この21世紀に問われているわけである。
ネイテイブ・アメリカンでも中国人でも、ネイテイブな人々が近代から取り残される最大の理由は、彼らの持つ歴史そのものが民族の発展を阻害しているわけである。
民族の歴史が、近代の契約というものに価値をおかず、近代の法律と言うものの価値を否定するわけである。
その事は、仲間内だけでは十分機能しているかに見えるが、他との関係で齟齬をきたすわけで、近代、現代という時代状況では、他との関係なしでは他者から受け入れてもらえないわけである。
トヨタの偽ブランド自動車でも、それが通用するのは中国本土内だけで、それを世界市場に出そうと思っても偽ブランドでは世界的に通用しないわけである。
この事実は、即ち現代の契約という概念と、法秩序を守るという意識の欠如であり、ハドソン研究所の研究員(名前はわからない)の指摘の通りだと思う。
こういう事例が中国には沢山あり、自動車ばかりではなく、あらゆるジャンルに渡って、著作権とか、特許とか、意匠登録というものを無視したコピー商品の氾濫となっているわけである。
これは何を意味しているかというと、そのまま中国人の価値観を表しているわけで、「その場だけ儲かればそれでいい」という、刹那的な経済概念が根底にあるものと想像する。
これを突き詰めれば要するに「自分さえ良ければそれで良い」と言う事に尽きると思う。
ある意味で究極の個人主義で、これが社会全体のあらゆる階層の基底に横たわっていると思う。
裏を返せば、全体に対する奉仕よりも、自分さえ得をすれば後は野となれ山となれという思想だと思う。
4千年とも5千年とも言われる歴史を潜り抜けてきた民族の経験則から、こういうことになっているのだと思う。
それに反し、我々、日本民族というのは、2千年有余の歴史の中で、我々の生き様というのは個よりも全体への奉仕で貫かれていたわけで、国家という主体が明確に確立されていない時代には、それが家族であったり、組織であったり、所属する村落であったりしたわけである。
我々は、そういうものへの奉仕なり貢献という事に価値を見出していたわけで、個人の利害というのは2の次であったわけである。
これは西洋から教えられたわけではない。
我々は古来からそういう意識の中で生きてきたわけで、それは地理的に島国ゆえに、この小さな島国では個の確立よりも全体への奉仕をすることで、民族が絶える事の無い様にという深い信念があったのかもしれない。
明治維新の時の志士達の心情も、大東亜戦争で戦場に散った戦士達の思いも、皆、自分の命よりも後に残った人々の為に、という思いであった事を考えると、そう考えざるを得ない。
私の好きな西部劇を見ても、開拓者とインデアンというのは善人と悪人という図式で描かれているが、白人が白人の喜びそうな場面を設定して作ればこうなるのは致し方ない。
しかし、インデアンを放逐して西部を開いた開拓者と言うのは、インデアンの側に立てば悪人でしかないが、開拓者の立場に立てば、自分がここで犠牲を払う事は、後から来る人々のために、という信念によって艱難辛苦をともとして未開の地に進んだわけである。
こういう精神風土が中国にはないわけで、中国ではどこまで行っても金太郎飴のように自己の利益が最優先するわけで、それが10億、20億集まっても世界をリードする事は無いというのがハドソン研究所の見解である。
これも私の持論であるが、中国の文化大革命のとき、下放と称して都会のインテリを田舎に送って肉体労働をさせたことがあった。
つまり中国の農村というのが監獄の代わりになったわけである。
こんな馬鹿な話も無いと思う。
ならば先祖代々、田舎で農業をしていた民衆は、共産中国になっても監獄の中で生まれ、監獄の中で育ち、監獄の中で死んでいったということになる。
文化大革命の時代、受け入れる側も、送られてきたインテリを囚人と同じ目線で見、送る方も、送った先を監獄と思い、送られた本人もそこを監獄と認識していたわけである。
これでは中国共産党が、共産主義革命で人民を解放したといっても、自分の国の田舎が監獄であったとすれば、人民を解放したということにはなっていないではないか。
人民を解放したのであれば、中国全土からそういう監獄的な田舎を解消しなければならなかったのではないか。
これは共産主義革命とはいっても、所詮中国の歴史の延長線上にある君主の交代劇にすぎない。
清王朝としての宣統帝溥儀が毛沢東と交代した政変劇でしかない。
中国が共産主義体制から脱出しつつあるのは、ある意味で中国の過去の歴史と同じパターンなわけで、21世紀においても中国が共産主義から脱皮して、その後に何ができるかという事はイメージが沸かないわけである。
アメリカ映画の西部劇を見ていると、この中からアメリカの民主主義の本質のようなものが見えてくる。
例えば、開拓者というのはお互いが助け合あい、団結しなければ生き残れないわけで、そこで誰をリーダーに選ぶか、という問題が必然的に沸き起こり、議会制民主主義というものが生まれる。
そしてインデアンと戦うことを使命とする騎兵隊、つまり軍隊という組織の中では、年功序列が必然的に生まれ、それは同時に民間人を守るということが軍隊の組織としての使命となっていくわけである。
これを中国に当てはめてみると、中国に連綿と継続する歴史の中で、こういう状況が全く考えられない。
いわばインデアン同志の部族間の戦いばかりで、どのインデアンも目の前のものは何でも殺戮し、強奪し、相手が強いと見ればあっさり寝返りを打ったり、又逆に寝首を掻いたり、弱肉強食、支離滅裂、自分の身を自分で守ろうともせず、やられればやられっぱなしでそれは運命とあきらめ、また逆にやるときは情け容赦なく骨の髄までしゃぶり、死者にまで尚鞭打つ事も平気でするわけである。
それはある意味で人間の本質でもあり、人間の業でもある。
契約の概念とか、法を守るということは、人間の本質をコントロールするということで、人間の本来持つ本質というものを理性とか、英知とか、倫理観で束縛するものである。
西部劇の開拓者達が誰をリーダーに選ぶかと協議することは、人間の英知がなさしめているわけで、その過程がデモクラシーなわけである。
中国では自らがリーダーを名乗るわけで、リーダーの庇護が欲しいと思ったら税という貢物がいったわけである。
それに従わないものはリーダーが勝手に殺したりなぶり者にしたわけである。
そして民衆の側から自分達のリーダーを選ぼう、という理性というものは現れなかったわけである。
よって自分がリーダーだと思っても、それを納得しないものが又いるわけで、そこでは金で人を雇って、兵隊と称して、力を誇示しなければならなかったわけである。
当然、長い年月の間にはリーダー同士の衝突と言うのもあるわけで、そういう環境下では中国全土を網羅した、契約の概念も、法秩序というのも生まれ得ないわけである。

日本の場合

それに反し、我々は曲がりなりにも、契約の概念も、法秩序ということもマスターしたかに見えるが、時々生来の日本の旧来の本質が露呈することがある。
それは一度コンセンサスが出来上がると、無批判にそれに従ってしまうということである。
それは自分で考えた末の行動ではなく、人がやるから自分もやる、という付和雷同的な行動と言うものがある。
最近の日本の製造業の中国への生産拠点のシフトでもそれがあるわけで、こういう現象というのは、自分でものを考えないという点に尽きると思う。
自分でものを考えないのだから、日本全体が上昇気流に乗って、上向いたムードのときは猫も杓子も「行け行けドンドン」となるが、これが一転して逆向きになると、将棋倒し的に奈落の底の転がり込むという現象となるわけである。
我々の民族的潜在意識としての、この付和雷同というのは、我々の内側からの解明というのはきっと不可能だと思う。
ここ10年来の閉塞状況の中で、これからの脱出ということが盛んに言われたが、今まで有効な手段は見出せなかった。
その中でも社会的に大きなインパクトとなっているのは、やはり銀行の抱えている不良債権の問題だと思う。
銀行というのは、国民の金を預かっている金庫わけで、銀行を潰してしまうと国民が自分の預金を引き出せなくなるという恐怖感から、政府をはじめ大手企業も銀行を不良債権処理に本腰を入れ切れないでいるわけである。
銀行の経営が上手くいっていないのならば、銀行員というのは無給になってでも頑張ってもらわなければならないわけであるが、銀行員が無給で働くということは聞いた事が無い。
普通の民間企業ならば、無給だとか、給料の遅配という事は左程珍しい事ではないはずで、往々にしてあるわけである。
銀行が不良債権を抱えて青息吐息ならば、当然銀行としての企業努力の一環として、自分達の犠牲を考えるべきである。
不良債権を抱え込むという事は、自分達の未来予測を見誤った、いわゆる経営に失敗したという事に他ならず、それに見合う努力は当然である。
自分達の給料、つまり取り分はそのままにしておいて、政府の施策が悪いとか、景気の動向が悪いとか、株価が低迷しているからなどと、他の原因に責任を転嫁しようとしても、それは無理というものである。
冒頭に述べたハドソン研究所ではないが、日本の銀行というのもある意味ではシンク・タンクに近い人材をかき集めているわけで、そういう人たちが寄って高って、先の見通しが読めないということは、一体彼らの教養とか知性と言うのはどうなっているのかと問いたい。
八百屋のおっさんとか床屋のおっさんの集まりではないはずで、日本の有名大学を出た人達が、何十人何百人と集まって、一体何を考えているのかと問いたい。
最近の銀行の合併というのも不可解な出来事で、何故昔のままの銀行の名前ではいけないのだろう。
東海銀行のUFJから、第一勧銀のみずほ銀行とわけがわからない。
そしてみずほ銀行のあの体たらくは一体何なんだろう。
銀行のシステムがパンクするなどという事は信じられない。
こういう銀行は庶民の側が愛想をつかして利用しないようにすれば良い。
話を元に戻して、中国には契約の概念と、法を守る意識が薄いので、日本を超える事はないであろうというアメリカ、ハドソン研究所の所見は我々にとっては嬉しい激励になっているが、我々にしてみれば中国と競争するつもりは無い。
ましてアジアで経済力を誇示するつもりもない。
ただただ豊な生活が出来ればそれでいいわけであるが、逆に言うと、この問題意識が無い事が我々の最大の欠点なのかもしれない。
我々、日本民族というのはピンチに強いといわれ、ハドソン研究所の所見でも危機には日本民族は一致協力すると指摘されている。
死ぬか生きるかの瀬戸際になると頑張らざるを得ないわけで、その時になってはじめて組織への貢献という事が浮上してくるわけである。
よって、そういう時には、我々の持つ上昇気流に皆して乗っかる事が善だと言う意識になり、それに皆が皆乗っかると、結果として不死鳥のように蘇るわけである。
今の日本の経済の低迷は、現状の日本があまりにも豊なるがゆえ、社会的なムードが上昇気流を沸き立たせないからである。
今の日本の少子高齢化社会というのは、人類が今まで経験した事のない現象であって、地球規模で特異なことである。
これは人類の究極の姿であって、地球規模で見て、人間の群としての存在の全く新しい形態なわけである。
我々は、人類の生存にとって全く新しいモデル・ケースの存在していない新規の分野を歩もうとしているわけである。
こういう状況に立たされた我々の立場を、ハドソン研究所の人たちは理解しており、それに対して、彼らの見解は、日本はロボットの先進国だから、そういう先端のテクノロジーを次から次へと開発して、その新しい分野を克服するであろうと言っている。
私、個人的には、日本民族というのは物作りの国で、作った物をどう生かすかというソフトウエアーの発想では、そうそう優れたアイデアを持っているようには思われない。
物つくりでは世界一流であるが、政治では三流といわれる所以だろうと思う。
物つくりというのは、民族の内側のアイデアのみで自己完結的に目標達成が出来るが、人を管理したり、人の信頼を得るという政治的な思考というのは、唯我独尊的な発想ではありえないわけで、清濁併せ呑むような大きな度量でなければそれは実現不可能である。
毛沢東のようにたった、一人で12億の人々を魅了するような大言壮語を臆面も無く言い放つ度量を持たない事には、他民族を睥睨することは不可能である。
だから我々がそういう事を望む必要は無い。
政治的には常に二番手、三番手でもいいわけであるが、そうすると今度は相手が「日本は叩けば言う事を聞く」ということを知り、苛めにかかるわけである。
それが今日のアジアの状況だと思う。
中国人というのはまさに喧嘩上手である。
腕力による喧嘩には弱いが、口喧嘩では右にでるものはいない。
それはまさしく契約とか法と言う概念が無いからである。
枝葉末節的な些細な事を、庶民レベルで延々と喧嘩しているわけで、口で喧嘩している限り、それはスポーツと化しているわけである。
それでストレスの解消をしているわけである。
その延長線上に、日本の首相が同胞の戦没者慰霊碑に参詣する事にさえイチャモンを付けて来るわけである。
軍事的な誇示を控えると、すぐに苛めに掛かるというのは、人間としての本質そのものであるが、それは人間としての理性が本質を押さえきれないという事で、我々の側は本質を理性で押さえ、奇麗事ばかりを並べるので、中々相手に理解してもらえないわけである。
この奇麗事を並べて本質を押さえることを「善」とする発想がある限り、我々は世界の政治的なリーダーにはなりきれない。
物作りではトップ足り得ても、政治的には三流のままとならざるを得ない。
まさしく金持喧嘩せずという俚諺の通りである。

文明論の行き着く先

今日の文明論の行き着く先は、近代科学は人間の生活を複雑怪奇にして、人間はテクノロジーに振り回され、心のゆとりを失うというものである。
だから原始生活ほど豊な生活で、真の幸せであると説いているが、これはある意味で正論だと思う。
だからアフリカのマサイ族や、ポリネシアのアポリジニの生活が真の幸福に一番近いと述べている。もっともな事である。
彼らのように広汎な知識を持たず、豊な情報にも接することなく、小さな世界だけしか知らない人たちならば、その世界だけで生きている限り、それは究極の幸せに違いない。
ところが我々はそうではないわけで、近代のテクノロジーに首まで漬かっているわけであり、今更石器時代に戻れるわけが無い。
ならばどうするかという選択のときに、個人を束縛する価値観が多様であればあるほど選択肢が多くなるわけで、そのことは同時に国家の拘束力が弱い方向に向かうという事である。
国家としての枠組みからはみ出そうとする人が大勢出てくるわけで、そのことは同時に国家というものの意味も変わってくることを指し示している。
もう昔のようにアメリカ人だとか、イギリス人だとか、カナダ人とか、日本人という主権国家の象徴としての国家という概念が喪失する方向に向かうと思う。
世界は好むと好まざるとグローバル化しているわけで、その風潮というのは国家の概念そのものが通用しなくなってしまったわけで、その中で人々が自らの幸せの追求ということを考えるとき、それは自らの欲望を如何に科学技術を使って獲得するかという問題に転嫁されてしまう。
未開の地に住む人々の欲望は、食って糞して寝るだけで済むが、ニューヨークや東京という都市に住む人々にとっての幸せというのは、それでは済まないわけである。因みに私の欲望というのは、自分の考えた事を文字の形で残したいというもので、その為にコンピューターを酷使して、その作業をしているわけであるが、これこそ21世紀の生活であり、僅か50年前では想像もつかないことを今私自身がしているわけである。
江戸時代の日本の知識人、貝原益軒や吉田松蔭、はたまた近松門左衛門以上の文章を全くの無学な私が今こなしているわけである。
無学な私がやっているという事は、有学な、つまり学問を極めた知識人というのは私以上に様々な手法とテクノロジーを酷使してやっているわけである。
これから先、21世紀の近代社会に生きる人々というのは、テクノロジーに埋もれて生きなければならないわけで、それについていくだけでも並みの人間では大変な苦行を強いられる事になりそうである。
アフリカのマサイ族や南洋のアポリジニの生活が羨ましいというのは、近代文化にどっぷりと首まで漬かった人間にはまさしく天国であるが、不思議な事にこういう文化の落差があると、必ず低い方から高い方に這い上がろうという動きが湧き上がってくる。
日本の明治維新もその一つであったわけであるが、文明の落差の解消ということは、人間の生存には不可欠の事で、そのこと自体が天与のものだといえる。
文化と文明の落差を自らの内なる力で克服しようとしたのが日本の明治維新であったわけで、その落差を素直に受け入れ、あくまでも民族の独自性を保持しつづけたのがネイテイブ・アメリカンであり、アフリカのマサイ族であり、南洋諸島のアポリジニであったわけである。
アジアでも20世紀の後半から、西洋列強に一歩でも近づこうと、躍起になっているが、日本ほど上手く対応しきれていないのが現実の姿だと思う。
西洋が、それから派生したアメリカを含めてヨーロッパ系の白人が、テクノロジーの面で世界をリードしたのは、過去の歴史を断ち切って、新たな変革に挑戦することを良しとする価値観を持っていたからだと思う。
日本も、戦後、1945年以降と言うのは、全く新しい価値観が生まれ、古い価値観、儒教思想から倫理観、新しい教育理念、新しい個人主義等々、古い価値観を根底から屈がくえすような価値観を持つようになったので、21世紀においては新しい日本象というものが生まれるかもしれない。
我々の民族が持つ付和雷同的な思考が払拭されるとすれば、日本は大きく変わるものと思う。
今、日本では大学を出てもふらふらとフリーターなど称して定職につかずにしている若者が大勢いるが、これは就職口がないという面と同時に、世の中そのものが多様化してきた所為でもある。
あくせく働かなくても、自分一人ぐらいは食うことが出来るという証拠である。
これは別の視点に立つと実にもったいない現象といわなければならない。
平和であると同時に、理性の浪費というか、理念の浪費というか、生存する事の浪費なわけで、1945年以前の日本ならば考えられないことである。
日本の社会がそこまで成熟したということで、成熟の先は熟れて落ちるしか道はないわけである。
我々、日本の内部にいるものからすれば、こういう風にしか見れないが、日本の外から日本を見ると、冒頭のハドソン研究所のような見方になるわけである。
確かに、フリーターとしてふらふらしている人達の潜在能力というものは優れたものが有ると思うが、そういう優れた能力も、社会生活がまともに出来ない、組織の一員として機能しきれない人間だとすれば、いくら潜在能力があったとしても社会的に無に等しいわけである。
生きた人間としての価値は見出せないと思う。
昨今の日本では、人間の形さえしておれば一様に人格が有り、人権があるという認識が普遍化しているが、人間として他に貢献し切れない人間というのは、生ける屍と同じで、価値ある存在とは認められないと思う。
誰にも迷惑を掛けずに、自分一人で生きている以上、何をやっても許されるというのは確かに一理はある。
それこそ人権の自由であり、生存権は国家から保証されているわけであるが、自分以外の他者に何一つ貢献することなく生きると言う事は、命の浪費だと思う。
辛い仕事を我慢して、家族のために働くというのは、健気な心意気であるが、それを否定するという事は、この世に生を受けた値打ちを最初から否定しているようなものである。
世捨て人と同じで、若い美空で世捨て人と同じ発想に立つという事は、いくら潜在能力があったとしても、若者の生き方として実に嘆かわしいものといわなければならない。
そんな生き方というのは、定年退職者が年金生活の中で自分の潜在能力を再開発するのと同じで、若者の生き方ではない。若年寄りである。
定年退職者というのは、長年企業なり組織の一員として職を勤め上げたというだけで立派な社会的貢献をしているわけで、組織に中では一向にうだつが上がらなかったとしても、勤めを継続したというだけで、立派に社会的な貢献をしたという事になると思う。
立身出世だけが社会に貢献することではない。
庶民が普通に生活し、普通に子供を育て、普通に勤め上げる事が一番の社会的貢献なわけで、そういう人々が集まって国の発展というものが有るわけである。
マスコミに踊らされて、華やかに報道される事だけが社会的貢献ではない。
普通の庶民が、名も無く貧しく美しく、金も名誉も得ずしまいで人生を全うする事が、一番の世の為人の為になるわけである。
その事を人は誤解して、「そんな人生はつまらない」と言い勝ちであるが、そこが間違っていると思う。
若い人が皆、名も無く貧しく美しき生きるつもりならば、社会的な不祥事も極少なくなるはずであるが、組織の一員として、企業の一員として年月を重ねるうちに、それを忘れてしまうから世の中がおかしくなる訳である。
銀行の不良債権の問題でも、狂牛病の問題でも、政策秘書の給料横流しの問題でも、その根底に潜んでいる事は、名も無く貧しき美しく生きる事を否定し、自分だけが何とかして便宜を得たい、という欲望に負けるからこういう不祥事が後を絶たないわけである。
若者が最初から名も無く貧しく美しくではあまりにも夢が無い。
夢は大きく持ってもいいが、その夢の実現の過程では誠実であらねばならないと思う。
2002.4.29

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