メデイア3法を考える

先に書いた有事法制の事と順序が逆になってしまったが、今年、2002年、平成14年4月11日の中日新聞の15面に城山三郎氏が、「メデイア3法案に反対する」という全面記事が載っていた。
このメデイア規制3法案とは、個人情報保護法案、人権擁護法案、青少年有害社会環境対策基本法案の3つを指すものであるが、これを今政府が法案成立を目指して国会に提出しようとしている。
それを成立させてはならぬ、と城山三郎氏が反対意見を述べているわけである。
城山氏の作家としての立場からすれば、こういうものが出来れば、取材に支障をきたす事は目に見えている。
城山氏の弁によると、取材に行くときは菓子折りを持って、先方にお百度を踏んで話を聞かせてもらっている、という主旨の事を述べているが、世の中のマスコミ関係者が全て城山氏のような人ばかりならば、こういう法案を作らねばならないという声が出てくるわけがない。
マスコミ関係者がすべて城山氏のように節度ある取材をする人ばかりならば、こういう法案も最初から不用である。
しかし現実にはそうでないから、こういう法案を作って、取材される側の人権を守ろうという事だと思う。
この法案に関連して、4月18日に日本の民放各社のニュース・キャスターが徒党を組んで、参議院会館で記者会見をして反対声明を出している。
これはテレビでも放映され、19日の新聞にも記事として掲載されている。
この中で、彼らの言う「国民の知る権利に奉仕する言論・報道の自由が不当に制限され、政治や行政のあり方を監視するマス・メデイアの役割が果たせなくなる」と述べている。
このことはマスコミ関係者のはなはだ思い上がった考え方である。
「知る権利に奉仕する」という美名のもとに、取材と称する人権蹂躙がまかり通っているわけで、それを規制する法案だとすれば、我々国民は大歓迎である。
「言論の自由」というのは、「自分で考えた事ならばどんな媒体を使って鼓舞宣伝してもいいですよ」、ということを担保しているわけで、「不合理で非合法と合法のすれすれの取材をしてもいいですよ」ということを補償しているわけではない。
マスコミ業界がこういう規制を受けるようになった背景には、情報を出す事よりも、その情報を出す過程における取材の仕方が問題にされているわけである。
マス・メデイアにとってニュースというのはいわゆる商品なわけである。
その意味で、18日のニュース・キャスターの声明文を読み上げたときの鳥越氏の「情報という名の商品は欠陥商品」というコメントは的を得たものである。
人間の作りだす商品というのは、完璧を目指しても不本意に欠陥商品を作ってしまうことはまま有る。
それはそれで致し方ない。
問題は、出来上がった商品ではなく、それを作る過程の取材という行為に問題があるわけである。
冒頭に述べた城山氏のように、しゃべりたくない人のところにお百度を踏んで、菓子折りを持って日参して話を聞くというのならば、取材される方もそうそう恨みとか、不快感とか、人権を蹂躙されたなどとは思わないに違いない。
ところが芸能人などがよく被害にあっているように、無断で写真を撮られ、推測で記事を書かれ、それが何百万部と巷に出回るとなれば、そういう被害に遭った人からすれば、「そういう取材を何とかしてくれ」という気持ちになるのも当然だと思う。
「国民の知る権利」というのもおかしなものだ。
我々、市井の一般人からすれば、「知る権利」など返上したいくらいである。
昼間の民間テレビ局の放送している内容、新聞の広告など、我々にとっては全く不用なものである。
新聞など4頁あれば充分である。
テレビなど朝晩3時間放送してくれればそれで充分である。
民間放送というのは、視聴量が無料だとしても、普通の人は昼間から見ている人はいない。
よって民間テレビというのはニュースという商品を手にしようとしまいと視聴者側に主導権が有る。
ところが新聞というのは、購読料が無料ではないわけで、月3千円も払わされて、広告を読まされたのではたまったものではない。
朝刊なども4頁で充分だから、新聞代も月千円にして欲しい。
この現実からして、ニュース・キャスターなどという人種が、国民の知る権利に奉仕しているなどと奢り高ぶってもらっては困る。
我々、一般大衆の側からすれば、ニュースの押し売り、乃至は押し付けと同じである。
新聞に至っては、上げ底の菓子箱と同じで、我々はニュースとしての記事に対して金を払っているにもかかわらず、送られてくるのは企業の広告ばかりではないか。
新聞紙面に企業から広告料をとっているからには、民間テレビと同じように無料で配るべきだ。
法による規制というのも、不思議な事に、需要があって考え出されるわけである。かって、ねずみ講というのが流行って、被害者が日本全国であちらでもこちらでも出てくると、ねずみ講を取り締まる法律が出来た。
スーパー・マーケットがあちらにもこちらに出来て、普通の小売店が立ち行かなくなると、スーパーを規制する法律が出来た。
イギリスのダイアナ妃がパパラッチの執拗な取材攻勢から逃げようとしてスピードを出しすぎて交通事故で死亡した。
事ほど左様に法案の成立には、それに対する需要、つまり現状のままでは甚だ困るから何とかしてくれ、と言う要望があるわけである。
今、日本の政府がメデイアを規制すべく法案を考えるに至ったのも、こういう背景が裏に潜んでいるわけである。
マスコミ関係者が皆城山三郎氏のように、丁寧な取材の要請をする者ばかりであれば、こういう法案というのも考え出される余地は最初からなかったわけである。
ところが現実のマスコミの取材合戦というのは、城山氏のような悠長で誠意のこもった要請などしておれないわけで、そこに取材を受ける側の人権蹂躙の問題が潜んでいるわけである。
民放のニュース・キャスターというのは自分では取材という事をせず、そういう汚い仕事は下の者や下請けの企業がしているわけで、上澄みだけを掬ってもっともらしい事を言っておれるが、一般大衆、一般国民の取材を受ける側というのは、マスコミの横暴にほとほと嫌気がさしているわけである。
マスコミの側に「知る権利に貢献する言論と報道の自由が有る」ならば、取材を受ける側にはプライバシーと言うものがあるわけで、マスコミにプライバシーを侵害された時にはどうすればいいのか、と言はなければならない。
芸能人が不倫の現場を写真に撮られて、それが理由で離婚にでもなったらマスコミというのはどう対応するのだ。
大人の不倫も不道徳ではあるけれど、それは責任ある個人の問題であって、不道徳だからといって、マスコミが個人の私生活まで糾弾することはないわけである。
ほんの遊びでラブ・ホテルに入ったところを週刊誌の写真で公にされたとしたら、これは明らかに人権蹂躙ということになる。
こういう事が度重なったから、こういう法案を作ろうという、需要が喚起されたわけである。
マスコミ業界があまりにも金儲け主義に陥り、人のスキャンダル漁りに熱中しすぎたから、こういう法律を作ろうということになったわけである。
そこに至るまでの過程で、マスコミ業界の自浄作用が全く働かなかったわけである。それを鳥越氏は欠陥商品と言っているのであろう。
記事が意図せぬ単純ミスで日にちが間違ったとか、人の名前が間違ったとかいう欠陥ならばゆるせるが、人のプライバシーを侵害してまでも記事を作ろうとする根性は、既に人としてのモラルを欠いているわけである。
マスコミ全体がそういう風潮に染まっているから、何とかしなければならないというわけで、こういう案が出てきたわけである。
城山氏のように真面目に取材する人にとっては実に迷惑な話に違いないが、マスコミ業界全体が城山氏のような人ばかりならば、こういう法案を作ろうという機運は出てこないはずである。
ところが社会的に立派に活躍し、地位を築き、富みを得た人は、おうおうにしてマスコミの取材と称する人権蹂躙に辟易した経験を持っているにちがいない。
それと社会の中では公にしたくないという事柄はあらゆる場所に転がっているはずである。
市役所、学校、銀行、警察、自衛隊、あらゆる民間企業、つまり会社、農協、社会のあらゆる組織の中には大なり小なり公にしたくない事柄というのは有ると思う。
出来れば内々で処理して、なかった事にしたい事柄というのは大なり小なり、一つや二つは有ると思う。
新聞の3面記事というのは内容的にはその類の記事である。
先生が生徒を殴ったとか、警官が落し物を猫ばばしたとか、何所どこの病院で手術ミスがあったとか、この類のニュースというのは、知る権利を振り回すほどのものでもない。
我々、一般国民としては、知っていても知らなくても一向に生活に差し障りがあるわけではない。
ニュースとして押し付けられるからたまたま知るだけで、ニュースとして報道されなければ、知らないで済んでしまう。
例えば、学校で先生が生徒を殴ったとして、その先生は上司から説諭され、それなりの処分を受け、反省している以上、これを暴き立て、事細かに詳細を報道して、誰がどれだけ得するのか?誰にどれだけメリットがあるのか?
逆に、生徒が先生を殴ると、加害者の生徒のプライバシーを尊重して、生徒の名前は伏せて報道されるわけで、こんな馬鹿な話があるかと言いたい。
生徒の名を伏せるについては、「生徒の将来を勘案して」という奇麗事を並べて、自主規制をしているわけである。
ならば我々、第3者の観点に立てば、「先生を殴るような悪い生徒は誰なんだ?」という知る権利はどうなるのだといいたい。
この例に見るように、自分の都合に合わせて、つまりマスコミ側の良かれという思い込みから、勝手に悪い生徒、加害者としての不良生徒の将来の事を心配して自主規制しておき、片一方では国民の知る権利を振り舞わしているわけである。
ニュースを押し付けられている我々にしてみれば、先生を殴るような生徒は金輪際付き合いたくないわけで、その為にも、その生徒の名前を知りたいわけである。
その知る権利は踏みにじっておいて、報道の自由も糞もあるものかといいたい。
先生を殴るような生徒とは、将来に当たって付き合いたくない、というのは普通の人の普遍的な気持ちだろうと思う。
こういう差別を助長するから名前を伏せるのであろうけれど、それならば最初からこの事件を報道しなければ、差別を助長する事もないわけである。
我々は頼んで報道してもらっているわけではない。
マスコミが勝手にニュースの押し売りをしておいて、差別を助長するからという名目で名前を伏せ、国民の知る権利を踏みにじっているわけである。
その意味からしても、今日のマス・メデイアが日々送り届けているニュースという商品は欠陥商品である。
このメデイア規制3法案といういのは、マス・メデイアの殺生与奪を握っているわけで、その意味からしてもニュースを送り出す側としては容認できない法案だろうと思う。
つまり彼らの食い扶持に直接かかわりをもっているわけで、彼らが食いはぐれる可能性を秘めているから、マスコミの側としては反対せざるをえない。
しかし、こういうことはマスコミ業界が自ら招いた事態なわけで、日本の経済発展の中では他の産業界においても往々にしてあった出来事である。
既存の小売店保護の名目で、スーパーが規制された例でも分かるように、旧国鉄の累積赤字解消のためのJRに移管した事でも、米が取れすぎて米作農家に対する減反政策でも、既存の既成事実に対する大きな締め付けであったわけである。
世の中の移り変わりで、既存の既得権益が大幅に圧迫される事は、マスコミ業界だけの事ではないはずである。
マスコミ業界のあまりにも傍若無人的な取材攻勢に対する大きな締め付けなわけで、「国民の知る権利」などという事をマスコミ業界の側からは言って欲しくない。
情報公開さえきちんと実施されていれば、それ以上に知る権利を声高に叫んでもらいたくない。
情報公開さえきちんと生きておれば、知りたい人は自ら足を運んで自分で調べればいいわけで、マスコミの側から「国民の知る権利」などと、如何にも恩着せがましく言って欲しくはない。
国民の側からマスコミに期待する事は、新聞ならば、ページ数を4ページぐらいに圧縮し、その分値段も3分の1ぐらいにしてもらいたいし、広告など一つも入れてもらいたくない。
我々、新聞購読者と言うのは記事に金を払っているわけで、広告を見るために金を払っているわけではない。
テレビに関しては民放に限って言えば、これはただで見ているわけだから文句の言いようがないが、あまりにも下劣な番組というのは大いに自主規制してもらいたい。
そう朝から晩までくだらない放送をしてもらわなくても、朝昼晩と2時間ぐらいづつ電波を出してもらうだけで充分である。
後は情報の押し売りにすぎない。
ただだからといって押し売りはよくないと思う。
品の良い番組ならばまだしも、くだらない番組みならば、いくらただでも押し売りされてはたまったものではない。
第一あの番組を作る人間というのは果たして日本人か?と言いたい。
本当に日本の教育を受けたまともな日本人か?と言いたい。
あれを作らせる局の幹部というのも果たして教養というものがあるのか?きちんとした日本の義務教育を受けた人間か?と疑いたい。
公共の電波を使って、大衆に知らしめる価値があると思っているのであろうか?
その価値がないとしたら、割り当てられた電波を取り上げるぐらいの措置が必要である。
この民間テレビ局のくだらない番組作りが、メデイア全体の企業体質を具現化させているわけである。
メデイアに従事している人たちが、良い作品を視聴者に提供しようという意識があるとすれば、あれほどくだらない番組にはなりえないと思う。
彼らにはその良心と言うものが欠けているわけで、金儲け主義に良心とか知性が埋没してしまっているわけである。
とにかくスポンサーがつきやすく視聴率を稼げる番組を目指しているわけである。民放テレビの下品さというのは、テレビ局だけの責任ではない事は言うまでもない。
当然、その番組を買うスポンサーにも大いに責任がある。
スポンサーも、もっともっと良心的な番組を作るように圧力を掛ければ、番組の低俗さもいくらかは防げると思うが、スポンサーも局と一緒になって低俗さに拍車を掛けているわけで、これではマスコミ全体がますます低俗化の方向に向かう事が避けられない。
この低俗化の延長線上に、仁義なき取材合戦があるわけで、マスコミ全体として、仁義を見失い、モラルを喪失しているから、取材される側のことを忘れてしまっているわけである。
「言論の自由」というのは、自分の考えた事はいくらでも報道することは勝手であるが、ニュースとして報道するについては、勝手に自由気ままに何をやっても許されるというわけではない。
取材される側の人権はなんびとも侵すことが出来ないわけで、そこを履き違えているから、こういう法案が必要となってくるわけである。
このニュース・キャスターたちが声明文を読み上げたときこういうコメントがあった。
「これが成立すると内部告発がしにくくなる」という発言である。
確かに昨今、内部告発で、ビッグ・ニュースが暴露されている。
最近では代議士の秘書の給料を天引きする名義貸しの問題とか、秘書が代議士に代わって利便を提供したなどという事件は内部告発で明るみに出た。
マスコミが内部告発で記事を書くということは、そもそもおかしな事で、ならば「マスコミとしての企業努力というのはどうなっているのだ」といわなければならない。
内部告発をフォローするという意味では、ある程度の企業努力ということもしているであろうが、内部告発を待っている姿というのは、密告者を待っているのとおなじで、非常にアンフェアーな事だ。
内部告発というのは、組織の側からすれば裏切りに当たるわけで、組織の裏切り者は、当然それだけの処遇を受けることはマフィアの世界と何ら代わるものではない。組織というものは、どんな組織でも、何でもかんでも公に出来ない部分というのはあるわけである。
公に出来ない部分というのは、当然その組織にとって不利な事であり、不名誉な事であり、悪事であったりするわけである。
それを内側から暴いてしまえば、当然それにふさわしい見返りというか、制裁というか、処遇は覚悟しなければならない。
一編の隠し事のない組織ならば、それはそれで立派な事であるが、人間の織り成す社会、つまり組織でも、他の社会には知らせたくない事、知られたくない事というの一つや二つは持っているものである。
人間というものが、皆立派な倫理観を持った人たちばかりであるとすれば、基本的に警察も軍隊もいらないわけである。
ところが社会を作っている人間というのは、皆が皆立派な紳士淑女ばかりではないので、警察とか軍隊というマイナスの社会的基盤というものが必要なわけである。
そういう倫理的に欠陥のある人間が作る会社なり、団体という組織においては、その集約として、やはり隠し事というものの一つや二つは必然的に抱え込むようになるわけである。
世間一般には、事件のもみ消しという事が言われているわけで、それは当然マスコミ業界の中にもあると思う。
ところがマスコミというのは、他の業界の事件のもみ消しは血眼になって追いまわすが、自分達のしていることに対してはやはり隠し通すわけである。
ある記者が不正の事実を掴んだとして、それを金で握りつぶすという事もあるに違いない。
これを誰がどう追いかけていけるのだろう。
他社のマスコミ業者、いわゆる同業者しか、これを掘り下げることができない。
するとお互いの同業社としてのよしみで、なあなあになってしまうわけである。
建築業界の言葉でいえば談合という事になり、裏取引にあたるわけである。
しかし、これをマスコミ以外の業界から告発できるかといえば、それは出来ない。
マス・メデイアというのは、マスコミの業界が握っているわけで、弱みを握られた銀行や建築業界の側から一般大衆に向けてマスコミ業界を告発する術はない。
基本的に、自らの業界の恥じを積極的に公表する馬鹿はいないわけで、内部告発というのはそれをすることである。
マスコミ業界と言うのは、他業界の暗部、恥部を暴く事で飯を食っているわけで、そういう行為に整合性を持たせるために「国民の知る権利」だとか、「言論の自由」だとか、「表現の自由」というもっともらしい事を並べているわけである。
あらゆる法というものは、「法を作って規制しなければならない」という需要があるわけである。
マスメデイはこのメデイア3法案に反対する前に、自らの姿を鏡に映して、自省する必要がある。
2002.4.19

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