有事3法案を考える

2002年、平成14年4月17日の中日新聞の報ずるところによると、「有事3法案を閣議決定」と報じられている。
「首相と自衛隊の権限拡大、私権制限、罰則も盛る」と大見出しが出ている。
記事を要約すると、政府は16日夜、首相官邸で安全保障会議と臨時閣議を開き、日本が武力攻撃を受けた場合の対処手続きを定めた有事法制関連3法案を決定した。と冒頭の部分で記されている。
この報道は恣意的に、報道のテクニックとして、政府を罠に嵌める策略が隠されている。
これは衆院議員会議に立法措置として提出する事を決めたというだけで、この場で有事3法案が成立したわけではない。
法案として、政府提案として、衆議院に提案する事が決まっただけである。
こういう表現の報道の仕方をするということからして、マスコミというのは自国の政府の悪印象を、自国民に植え付けようという意図が汲み取れる。
法案提出することを閣議で決めただけで、衆議院での審議の過程で、成立するかどうかはまだわからないわけである。
にも関わらず、政府がさも独断で決めてしまった、かのような印象を国民に植え付けよう、という意図のもとで記事が書かれている。
普通に常識があれば、政府が閣議決定しても、それがそのまま法案になるとは限らないわけで、そのために野党の存在というものがあるわけである。
与党と野党が真剣に意見交換しあって、はじめて意義のある民主主義的議会制度というものが成り立つわけである。
法案を成立させるには、その中身をきちんと議論しない事には俎上にも載せられないわけで、現実の問題として、この法案に限らず、あらゆる法案の細部に至っては一人一人の国会議員が納得しうるものではないと思う。
民主主義の政治というのは、全員の納得を得るものではないわけで、一つの法案に対して違った角度、視野からそれを検討すれば、当然、それは万人の大衆を納得させるものではない。
全ての人の納得という事は論理的にありえないわけで、それだからこそ多数決原理というものが採用されているわけである。
戦後のアメリカ占領軍による日本民族の民主化の運動の中で、我々は「全ての人が納得するものでなければ駄目だ」という理想論を信条としてきたが、理想は何処までいっても理想に過ぎず、現実というものを直視しなければ、最大多数の最大幸福というのはありえない。
有事3法というのは主権国家としてミニマムの規制である。
自分の国を自分で守るということについて、そのとき国民はどうすべきかということを決めておく事は、主権国家としてのミニマムの宿命で、それを否定するということは、他の国の奴隷になるということに他ならない。
日本は戦後半世紀以上完全にアメリカの奴隷になっている。
日本が自主防衛権を持っていないから、叩けばいくらでも凹むからといって、日本を古代ローマや古代ギリシャのような奴隷のようにする、という発想はこの20世紀において、何のメリットも持たないわけである。
それを相手は知っているからこそ、生かさぬよう殺さぬよう、真綿で首を締めつつ泳がせているわけである。
そして戦後50年間、日本民族と言うのは、自分達が真綿の首輪をはめられているということに気がつかなかったわけである。
アメリカは日本を東アジアの不沈空母として位置付け、乃至は共産主義の防波堤という位置付けで管理してきたが、食うや食わずの我々は、ただただ生きんがためにそんなことを省みる暇はなかった。
そんな日本が50年後にアメリカと肩を並べる経済大国になってみると、日本の周辺国家にしてみれば、こんなありがたい打ち出の小槌のような国はないわけである。20世紀以降にこの地球上に存在する主権国家というのは、主権国家たるが故に自国の国益というのものを最優先にするわけである。
日本からの輸出で自国経済が狂ってくると、日本に対して「何とかせよ!」といってくる。当然である。
すると日本はそれを受けて、相手の要望に応えるべく何とかするわけである。
これはいわゆる外交交渉で行われるので、武力衝突には至らない。
眞に結構な事である。
これこそ政治の要諦であり、統治者たるものすべからくこのように対処すべきであり、これこそ最良の戦略である。
経済の問題ならばそれも致し方ない。
しかし、これが民族の名誉の問題になると、そうそう相手の言う事ばかりを聞いておれなくなるのではないかと思う。
例えば、1973年、昭和48年今の韓国の大統領、金大中氏が東京のホテルから韓国の官憲によって、拉致されてしまう事件があり、その延長線上に北朝鮮の日本人拉致事件があるわけである。
これらは明らかに日本の主権が犯されているわけである。
戦後の日本人は、民族の名誉とか、自尊心というものを最初から持ち合わせていないので、相手から民族の名誉や自尊心を傷つけられてもそれを守ろうということがわからないのである。
中国が日本の首相の靖国神社参詣を非難する、韓国が日本の歴史教科書に文句をつける、ということは日本民族の誇りと名誉と自尊心に関わる問題なわけである。
戦後の日本人は、民族の名誉や誇りや自尊心を守るような事で、血を見る抗争などするのは嫌だ、という現実的な発想に立っている。
人間の生存にとって、こういう生き方をする民族がいても不思議ではない。
名誉や誇りや自存心で、飯が食えるわけではないことは充分理解できる。
しかし、人間がこれを捨てたらもう人間ではないのではなかろうか?
古代ローマ、古代ギリシャ、南北戦争前のアメリカの黒人奴隷というのは、同じような人間の形をしていても、こういう人達は人間のうちに入れてもらえなかった。
同じ人間の形をしていても、市民として、社会人として、社会の、国家の構成員として認められてはいなかったわけである。
同じ人間として、形は同じであっても国民たりえていなかったわけである。
戦後の日本というのはこれと同じなわけで、この地球上で、この小さな4つの島に住む人間は、アメリカから見て、大韓民国から見て、中華人民共和国から見て、朝鮮民主主義人民共和国から見て、普通の国家ではないわけである。
主権国家の国民ではなく、ネイテイブ・アメリカンの一部族か、アイヌの部族か、アポリジニのような烏合の衆以外のなにものでもないわけである。
古代ローマの奴隷、古代ギリシャの奴隷、南北戦争前の黒人奴隷と同じで、人間の形をした奴婢であり、奴隷であり、生かさぬよう殺さぬよう、ぎりぎりのレベルで生産だけに従事させるべき単なる労働者であったわけである。
そして必要なときにだけ、一言命令すれば金だけは捻出してくれる、眞に都合の良い打ち出の小槌であったわけである。
今回の有事3法案というのは、相手が直接的に武力、鉄砲やミサイルをぶち込んで来たときの対応の仕方を決めたものである。
今時こんなおめでたい主権国家もありえないと思う。
湾岸戦争の時のイラクのサダム・フセインが20世紀最後の古典的な侵略者であったわけで、20世紀も終わり、21世紀になった今、直接、武力つまり鉄砲やミサイル、爆弾などという古典的な戦争の武器で正面から他の主権国家に攻め入ろうとする国家首脳というのも存在しないと思う。
だからこの有事3法案は要らないというわけではない。
要らないと言うよりも、作るのがあまりにも遅すぎたという点を憂慮すべきである。
昨年のアメリカで起きた同時多発テロでも、鉄砲を撃ったわけではない。
巨大な旅客機そのものが武器となったわけで、鉄砲を撃ち合ったわけでもなく、ミサイルが飛び交ったわけでもない。
しかしあれが新しい形の戦争であることには代わりはない。
20世紀の後半から21世紀に掛けての主権の侵害というのは、何も武器によるものとは限らないわけで、主権国家の首脳が自国の戦没者を参詣するのに干渉したり、他国の教科書に干渉したりすることが明らかに主権の侵害に当たっているにもかかわらず、これらの場合は銃弾が飛び交ったわけではないので、そのことに我々、日本人が非常に無関心になっているところが問題なわけである。
逆にそれを容認する同胞さえいるわけで、こうなると自分の国の主権そのものを内側から否定しているわけである。
中華人民共和国が日本の首相の靖国神社参詣を非難しても、大韓民国が日本の教科書にイチャモンをつけても、我々の生活が一気に逼迫するわけではない。
巷では若い女のヘソ出しルックが闊歩しており、文明の利器のインターネットでは淫らな画像が行き交っているわけで、中国がどう言おうと、韓国がどう言おうと、我々の日常生活には何ら影響がない。
我々の側では主権が侵害されているという事すら認識されていない。
なにしろ銃弾が飛び交ったわけではないので、国家主権が侵されたなどとは思っていないわけである。
これが即ち平和ボケというものである。
そして日米安保反対という声は今でも残っているが、これはもう思想のシーラカンス以外の何物でもない。
最初、日本の独立と共に日米安保、日米安全保障条約というのが締結された。
時の総理大臣は吉田茂であったが、この吉田茂は当然日本が独立したからには、自分の国は自分で守るということは認識していた。
ところが独立したての日本に、自国の軍隊を維持するだけの経済的余裕のないことも知っていたので、その部分をアメリカに肩代わりさせたわけである。
ここのところを我々はよくよく考えなければならない。
我々は第2次世界大戦で敗北したとき、つまりアメリカに破れたとき、見事に何もなかった。
全く何もなかったことを知るべきである。
とにかく国会議事堂の前を畑にしてイモを作っていたぐらいである。
今の東京都庁のあるところは全面バラック建てのどや街であった。
今の名古屋駅の西側も同じようにトタンぶきのどや街で第3国人の巣窟であり、一度逃げ込んだら決して出てこれないというような暗黒街であった。
国を守るも守らないも、守るべきものがないという状況であった事を忘れてはならない。
そういう状況下にアメリカ軍が進駐してきて、その後約6年半アメリカの庇護の下我々は生き長らえたのである。
我々はアメリカと戦争して、そしてアメリカに負けた。
勝ったアメリカは負けた日本国民の命を救ってくれた。
1945年、昭和20年8月以降の日本国民というのはまさしく餓死寸前であった。
この窮状を中華人民共和国が救ってくれたか?
大韓民国が救ってくれたか?
朝鮮民主主義共和国が救ってくれたか?
尤もこれらの国はその頃誕生もしていなかった。
ソビエット連邦共和国が救ってくれたか?
ソ連が我々に食糧の一つも送ってくれたか?
約6年半のアメリカ占領を解かれ、「さあ独立を回復したのだから、自分の国を自分で守らなければならない」となっても、その国防費の捻出のしようがない。
ただでさえ生きているだけで精一杯の当時の日本で、国防に金を割く余裕など全くなかったわけで、必然的にアメリカの傘の下にもぐりこむしか方法がなかったわけである。
この時でも「戦後の日本を救ってくれたアメリカと同盟を結ぶと、ソビエットから反発をうけるから駄目だ、日本は何時までも占領中のままの方が良い」という大学の先生方の反対意見があったわけで、これを今どう理解したらいいのであろう。
こういう国立大学の教授連中の間違った未来予測を押し切って進められたサンフランシスコ講和会議と日米安全保障条約というものは、当時の日本の国防費というものを限りなくゼロに近い形で押さえる事が出来たわけ、その分経済発展に回す金が生まれたわけである。
そしてアメリカが日本の国防を肩代わりしている間に、国力の増強を計ろうと考えたわけである。
戦後の日本の発展というのは、概ねその線に沿って発展してきた事は周知の事実である。
日本が経済成長に失敗し、第2次世界大戦後の終戦の時の姿、戦後のままの有り様、つまり大八車と、リヤカー、モッコを担いで商いをしているような国ならば、中華人民共和国も、大韓民国も、朝鮮民主主義人民共和国も、日本に対する主権侵害を、言葉によるものではなく直接的な行動で行うに違いない。
ところがその50年後、日本というのは世界でアメリカに次ぐ経済大国になったわけで、金を稼ぐ奴隷は大事に扱わねばならないわけである。
言葉で少し恫喝すれば金が出てくるとなれば、彼らにとってこれ以上に慶賀なことはないわけである。
何も世界中から非難される直接行動、武力行使をする必要はないわけである。
このことに関連して識者のコメントの中には相も変わらず、「東西冷戦が崩壊した今、直接的に日本を攻撃する意図を持った国は存在しない」という議論を展開する有識者と称する馬鹿がいる。
「我が国はあの国に攻め入ります」と公言して憚らない主権国家があると思っているのであろうか。
仮に、20世紀初頭までの古典的な戦争であっても、その意図は最後の最後まで隠し、意図がばれてもそれを否定し続けるのが主権国家の国益というものである。
戦後の日本人の有識者という人々が、こういう発言をするということは、全く人間というもの本質を知らないという事に他ならない。
人間の本質を知れば、物事を黒と白の二者択一では計れないという事は自明な事で、この二つの間には限りなく黒に近い灰色と、限りなく白に近い灰色があるわけで、その間には無限ともいえる切り口がある、ということを故意に無視した議論である。
この無限ともいえる切り口、問題の捉え方、解釈の仕方というものを、どちらかの一方に収斂しなければならないところに民主主義の最大の問題があるわけで、「民主的手法で決まった事だからそれは正しいのだ」、というのは人間の傲慢な思い込みに他ならない。
人のする事、成す事を「正義」とか「善悪」とか、という倫理では裁き切れないわけである。
法を忠実に遵守しても、それが結果として「悪」につながる事もあるわけで、法に反しても結果的にそれが「善」となる事もある。
法律と言うものは、人間が知恵を出し合って作り上げたもの故に、絶対に正しいと言うことはないわけで、法そのものの不備もあれば、法を守らせる側の人間がその法を如何に解釈するかでも結果は逆転してしまうわけである。
一つの法律の条項でも、弁護士によっては解釈が正反対になる事もあるわけで、ならばその法は一体何なのかという事になる。
法を作る側と、法を実施する側と、その法によって守られる側がその法の解釈が自分に都合の良いように勝手に解釈するとなれば、その法というのは一体何であったのかということになる。
この法に対する矛盾と言うのは、例の憲法第9条に具体的に現れているわけで、今日、自衛隊がアジアにおける尤も優秀な武力集団でありながら、これが国軍ではないという矛盾は、法とは一体何なのかということを如実に現している。
憲法など有っても無くても、我々は日常生活ができているわけで、これで法治国と言えているのであろうか?
それでいて、この憲法を変えようとすると、日本全国民からブーイングがおきるわけである。
自分達の憲法を自分達で作ろうとさえしないものだから、これでは民族の誇りも、名誉も、自尊心も最初から問題にならない。
戦後50年間、自衛隊の増強に努めてきたが、あれは一体何であったのかといわなければならない。
この有事3法の無いので、若し何かがあった場合、自衛隊が国内で動こうとすれば、それを規制する法律というものが存在しない以上、必然的に超法規的措置でしか動けないにもかかわらず、それは罷りならぬという。
ならば何のために自衛隊に金を出してきたのかといえば、ただ主権国家の面子を維持するためとしか言えないのである。
面子を維持するため、という理由は理解できるが、それならばこそ本来ならば国軍としなければならないわけである。
Self defense forceならば自警団でしかない。
しかし国内では自警団でも海外から見れば立派な国軍に見えるわけである。
だから昨今、地球規模でPKOとかPKFの出動要請がある場合、日本以外の国は、自衛隊を立派な日本の国軍として見ているわけである。
だから国軍に相応しい行動を求められているが、日本では我々はあれを自警団としか認識していないので、そこに認識のずれがあるわけである。
この認識のずれというものを、日本の知識人というのは素直に認めようとしないわけで、この認識のずれというのは、あの第2次世界大戦の前に日本がドイツを見誤ったのと同様の認識のずれと同じである。
それは自分の思い込みから抜け切れないということである。
自分の思い込みから自分自身が抜け出せないということは、人間というものを理解していないということに他ならない。
戦前、松岡洋右が国際連盟を脱退した時の態度と言うのは実に堂々としていた。
世界を敵に回して尚且つ堂々と振舞っていた。
これと同じ事なわけで、「日本は戦争を放棄した憲法を持っているので地球規模で武力行使に反対する」と胸を張って堂々と主張しているのと同じ構図なわけである。
しかし、いくら胸を張って堂々と理想を主張しても、それで世界各地の紛争が解決されるわけではない。
第2次世界大戦後、世界各地で起きた紛争を解決したのは突き詰めれば武力でしかなかったわけである。
アメリカのベトナム戦争もジャングルに張り巡らされた地下経路による武器の移動であり、ソビエットのアフガン侵攻もアメリカの隠れた武器支援であったわけで、湾岸戦争では言うまでもなく近代兵器が事の解決をしたわけである。
理念や理想を声高に叫んだので、紛争が解決されたわけではない。
このことを理解しようとしない日本の知識階級というのは、この認識のずれというものを何時まで経っても判ろうとしない。
今回の有事3法案の政府提案というのは50年遅れている。
半世紀前に解決しておくべき問題であった。
2002.4.17

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