ニュルンベルグ裁判

ニュルンベルグ裁判という映画がある。
例の第2次世界大戦後のナチス・ドイツを裁いたニュルンベルグ裁判を主題とした裁判劇であるが、ナチスの親玉を裁いたものではなく、ナチスに協力した第3帝国の司法関係者4名を裁いた裁判がテーマとなっている。
元裁判官を裁判するという非常に遠大なテーマだと思う。
もともとこういう政治をテーマにした映画は作りにくいのではないかと思うが、内容的には手に汗を握る重厚な作品になっている。
これは映画である。
裁判を主題とした映画である。
映画である以上、ところどころに見せ場を配し、その見せ場をエピソードでつないで、ある一定の物語としなければならない。
その見せ場の部分に、裁判としての検察側と弁護側の丁々発止とした駆け引きがあり、それをつなぐエピソードとして、老裁判官の周りの出来事を配している。
しかし、全体の主題が戦争を告発するというものである以上、うわべだけを見ているわけには行かない。
言葉の裏や、言葉の真意を深く考察して見なければならない。
問題は、この裁判は裁判官を裁いているわけで、法の番人が裁かれるということをどう見たらいいのかという事である。
国家の決めた法律を真面目に施行した事が「悪」であった、ということを我々はどう考えたらいいのかという事である。
こういう事は、ドイツと同盟関係を結んでいた我々にもあるわけで、自分の国の法律を純粋な気持ちで遵守していたら、戦争に負けた途端それが「悪い事」だったというわけである。
このことは戦争に勝った側と負けた側では、価値観が逆転しているという事なのであろうか。
近代の戦争と言うのは、聖戦という言葉が安易に使われているが、人間の倫理観にもとづき正しいから勝てるというものでもないはずである。
20世紀の国家総力戦というのは、イデオロギーの衝突では語れないわけで、テクノロジーの差異で勝負が決まると言い直すべきである。
ヒットラーの君臨していたドイツ第3帝國でも、ドイツ親衛隊というのは、かって気ままにユダヤ人を浚ってきて殺害していたわけではない。
その時点で新しい法律を作り、その法律に準拠して蛮行が行われたわけで、問題はその蛮行を容認する法律を誰が作ったかということである。
その部分はこの映画でも争点になっている。
かって気ままに人を浚ってきて殺したとなれば、シカゴのギャング、マフィア、中国の蛇頭、北朝鮮の人攫いと何ら変わらない。
むしろこの方が単純明快で、その背景を斟酌する必要はないが、問題はある主権国家が、主権の延長としてそれをしたわけで、その法に従って施行した人物を、後になって、つまり戦争が終わった時点で「悪人」だったと言えるかどうかという事である。
あの第2次世界大戦が起きた背景は、そういう法律を容認した国民が後にいたから、ヒットラーの台頭を許し、ヒットラーに忠実たらんとしたから、ジェノサイトが起きたわけである。
この映画でもそれが伏線になっているが、ナチズム、国家社会主義にドイツ国民が嬉々として従ったわけではない。
しぶしぶ、乃至は強制されて致し方なく、という場面が多々あるが、まさしくあの時代、ドイツ国民の側ではそうであったろうと想像できる。
生んがためには、心の中では不本意であったとしても、国民の選択としては協力、乃至は協力する振りをしないことには自分自身生きておれなかったに違いない。
この映画の中でもバート・ランカスター扮するヤニング博士というのは、ドイツきっての法律家という設定で、その苦悩をぶちまける場面があるが、こういう状況に置かれた人々を部外者、つまり戦勝者が裁くということもある意味では大きな矛盾である。
ヒットラーという怪物が日の出の勢いで人気を得、当時のドイツ国民が熱病に浮かれたように彼に傾倒しているときに、それに水を指すような生き方をしなかったから「お前は悪人だ!」と言うに等しいわけで、「お前はその時点で死んで居ればよかった!」と言うのと同じである。
そこでもう一つ突っ込んで考えなければならないことは、ヒットラーの台頭を許した、ということはある意味で西洋列強が、ドイツの人々をそういう方向に追い込んだ、という側面がある。
つまりは第1次世界大戦の後のベルサイユ体制というものが、必然的にドイツ国民に屈辱感を与え、その屈辱感の払拭という面で、ヒットラーの人気というものが乗っかっていたわけである。
この映画の中で、リチャード・ウイドマーク扮するところの検察側の証拠として、連合軍として強制収容所を解放するフイルムの上映という場面があるが、この強制収容所の存在を一般のドイツ国民が知っていたかどうか、という問題提起があった。
あれだけの人が強制的に移動させられたのだから知らないはずがない、という論法が使われていたが、ああいう事も、同じドイツ人でも知っていた人もいるが知らなかった人もいたに違いない。
住んでいる場所によって、知っていた人もいるに違いないが、知っていたとしても、一般ドイツ国民にとっては如何ともし難かったに違いない。
この映画にも出てくるが、ジェノサイトの犠牲者は600万人とも言われている。何故これだけの人々が無為に殺されたかといえば、彼らは自分の国というものを持っていなかったからである。
ユダヤ人というのは、主権国家というものを持たずに、他の国に寄生しながら生きていた民族だから、彼らはこういう迫害を受ける嵌めに至ったわけである。
それで第2次世界大戦後イスラエルという国家を作ったわけであるが、作れば作ったで、そこでまたまたアラブ諸民族とトラブルを起しているわけである。
2002年(平成14年)4月11日現在において、イスラエルという国の行動というのはあまりにもひどすぎると思う。
この日の新聞報道によると、アメリカ、ロシア、EU、国連、と世界中から集中非難を浴びている。
第2次世界大戦のジェノサイトの裏返しでもなかろうが、これでは第2次世界大戦前のドイツや日本の立場と同じではないか。
ユダヤ人というのは20世紀の後半にいたるまで自分の国、国家を持たず他民族、他の主権国家に寄生していたわけで、寄生しているだけならばトラブルにはならなかったに違いないが、その中で自己の主張が強いものだから周囲との軋轢が生まれ、何処でも迫害を受ける嵌めに至ったものと推測する。
その迫害の集大成として、ナチス・ドイツにおける劣等民族との性的交渉の禁止というものであったり、劣等民族の淘汰としてのジェノサイトだと思う。
ナチス・ドイツがユダヤ人を劣等民族と認識するのにも、やはり彼らの行動から見てそういう認識に至ったものと想像する。
ナチス・ドイツから見て、イギリス人というのは優等民族に見えたようで、ヒットラーの頭の中ではイギリス人の女性にドイツ人の精子を送り込んで優秀な人間を作らねば、というアイデアがあったということを何かの本で読んだ記憶がある。
ナチス・ドイツがある民族を「優秀だ」とか「劣等だ」と思い込むということは、既にそれだけで大きな思い上がりであり、神に対する不遜な思考であり、人としての倫理に反しているが、当時のドイツ人にはそれが見えていなかったにわけだ。
というのも、こういう問題は政治の問題の中に埋没してしまっているわけで、政治と倫理とは相容れない関係のはずである。
倫理的に潔白な人ならば、政治家たりえないし、人を統治するという事はありえない。
倫理的に高潔な人ならば、人の上に立って人を統治するという事こそ、自己矛盾に突き当たるわけで、それは論理的にありえない。
倫理的に不純だから政治家たりえるわけで、ヒットラーはジェノサイトでユダヤ人を600万に殺したといわれているが、旧ソビエット連邦のスターリンは、彼らの同胞を「血の粛清」で何人殺したのであろう。
中華人民共和国の毛沢東は文化大革命で中国人の同胞を何人殺したのであろう。
カンボジアのポルポト政権は、彼らの同胞を何人粛清したのであろう。
第2次世界大戦後の世界では、ジェノサイトというのは度々起きているわけで、これを我々、21世紀に生きる我々はどう裁けば良いのであろう。
この映画では、被告の4人には皆同じように終身刑が言い渡されたが、戦争に勝った側が負けた側を裁くということは、基本的に倫理的な矛盾があると思う。
だからと言って、勝った側が負けた側に何も懲罰を与えないとなれば、戦争そのものが何のための戦いであったのか分からなくなってしまう。
第2次世界大戦というのは民族独立戦争とは違うわけで、主権国家と主権国家が主権を賭けて戦ったわけで、これが昔の戦争ならば負けたほうは勝ったほうの奴隷にならなければならない。
戦争に負けた国民を奴隷にするわけには行かない近代国家では、戦争に勝ったという具体的な証を自国民の示さなければならないわけで、その意味では戦犯の処罰という事は避けて通れない事だと思う。
勝った側としても、主権国家として主権者の多大な犠牲の上に勝利があったわけで、その自国民へのPRとしても、相手国の誰かを戦犯に仕立てなければならないわけである。
この映画でも、法律に基づいて施行された行為が犯罪足りうるかどうか、が大きな争点になっているが、これは人類に突きつけられた大きな課題だと思う。
前にも述べたように、いくら悪の帝國、第3帝國といえども、法律の制定にはヒットラ一一人が自分の思いつきで作ったものではないと思う。
取り巻き連中が大勢いて、その取り巻きという言葉も、表現は悪いがある意味では国民の総意を具現化したものとみなすべきだと思う。
ユダヤ人を殺すというのも、劣等民族を淘汰せよ、というのもその時点のドイツ人の総意の具現化ではなかったかと思う。
そういうドイツ人の隠れた総意をヒットラーは汲み取っただけの事で、だから人気を得、国家社会主義というものが政権を得たわけで、この時点で共産主義なり自由主義というものをドイツ人が支援していたとすれば、ナチズムが政権を取る事もなかったに違いない。
ナチズム、国家社会主義者たちが政権をとったということは、当時のドイツ国民の総意の具現であったと思わなければならない。
そういう中で、その国民の総意に沿った施政をしたものが、世の中が逆転したら一夜にして「悪人」になるというのも、人間の英知の浅はかなところだと思う。
その根底にあるのは、やはり民族主義だと思う。
自分の属する民族、つまり自分を中心にして周囲を見るから、周囲にいる他民族が劣等民族に見えたり、優秀民族に見えたりしたのだろうと思う。
この映画の中でも、戦争に負けたにもかかわらず、ゲルマン民族の誇りを云々する場面があったが、こうなると人間そのものを否定しなければならなくなる。
私自身、日本民族の誇りということが念頭からはなれないが、民族の誇りを潜在意識として持つ事が、大きな紛争の根底に潜んでいるに違いない。
名誉や誇りで人間は生きて居れないのも事実であるが、社会の底辺を成す一般大衆というものが、国家の指針に迎合するということも、ある意味で名誉と誇りの喪失ではないかと思う。
国家の名誉という事は、他国と対峙した時にはじめて浮かび上がってくるが、それに対して個人の名誉というのは、自分の属する国家と対峙してはじめて浮上するものではなかろうか。
生きんがために今ある自分の政府に迎合し、統治者の言う事を素直に聞くということは、ある時には自己の名誉と心の中で格闘しなければならないことが多々あるように思う。
2002年、平成14年4月11日の中日新聞に「譲れぬ言論の自由」という見出しで城山三郎の事が記されているが、これは彼がメデイア3法、個人情報保護法案、人権擁護法案、青少年有害社会環境対策基本法案に反対する立場で意思表明をしたことを記している。
政府提案の法案に作家が反対するという事は、極めて健全な民主主義のルールである。
ところが何故こういう法案を政府の側が提案してきたのか、という事を考えた場合、そこにはマスコミ側の行過ぎた取材と称する人権侵害があったからこそ、そうあってはならないというわけで政府提案と言う形で現れてきたわけである。
そういう弊害が全くないにも関わらず、政府が唐突と、こういう法案を立案してきたわけではない。
そこのところを我々はもう一度考えるべきである。
人の顔に泥を塗るような、人の家に土足で上がりこむような、取材と称するマスコミ側の行動に問題点はないのか?という反省がないまま、政府の立案した法案に反対するというのは作家としてのノブレスオ・ブリッジの喪失ではなかろうか。
マスコミの側に情報の送り手としてのノブレス・オブリッジ、つまり誇りというものがあるとすれば、こういう法案そのものが出てくる余地がないのではなかろうか。自分達はしたい放題好き勝手な事をしておいて、それが法律で規制されると、言論の自由を侵す、という伝統の宝刀を振り回している図ではなかろうか。
取材と称する人権侵害が横行しているからこそ、こういう法案が考え出されるわけで、マスコミ側にきちんとしたモラルがあれば、こういう法案そのものが立案されずに済むということを忘れているのではなかろうか。
法の規制というのは、そこには必ず常軌を逸した行き過ぎがあるから、規制しようという動きが出てくるわけである。
ナチス・ドイツのユダヤ人の虐殺を容認した法律、劣等民族を淘汰するための法律というのも、そこにはドイツ国民の隠れた総意として、そういうものがあったといわなければならない。
そのことはドイツ人全部を戦犯としなければならないということである。
検察側のリチャード・ウイドマークが映画を使ってジェノサイトを説明した中で、ほとんどのヨーロッパから、ギリシャ、オランダ、オーストリア、フランス等のヨーロッパ全域からユダヤ人が集められて虐殺されたという事は、逆説的に言うと、ヨーロッパ全域でユダヤ人は嫌われていたということを表している。
ヨーロッパのあらゆる地域をドイツが席捲したので、それは全部ドイツ人の所為にされているが、他の国は自分で手を汚さずジェノサイトに手を貸したわけである。ドイツ人がすることをこれ幸いと故意に傍観していたわけである。
今のイスラエルとアラブ諸国の確執を見ると、21世紀においてもイスラエル、ユダヤ人というのは世界から迫害されるに違いないと思う。
彼らにはアラブ人から土地を分けてもらった、という感謝の気持ちが全く無いわけで、イスラエルの建国と言うのはアラブの土地にいきなりユダヤ人が国を作ったわけで、イスラエルにこの独善がある限り、あの確執は解消される事は無いであろう。
ニュルンベルグ裁判でも、国の法律の施行を忠実に行った人が「悪人」になり、ドイツから逃れて手を汚さなかった人が「善人」になるというのは、人類の抱えた大きな矛盾であることに変わりはない。
この裁判は非常に難しい裁判で、その恣意的な解釈は、21世紀においても引き続き考えるべき事ではないかと思う。
2002.4.11

Minesanの辛口評論に戻る