航空自衛隊のこと

第1教育隊・防府の初年兵教育

自衛隊に入るについて、特に勢い込んだとか、使命感に駆られてということは全くなかった。
小牧の中町に住んでいた時、昭和39年頃、先に陸上自衛隊に入って愛知地連に派遣勤務していた友人がジープで乗り付けて、「試験を受けてくれんか?!」というものだから、「ジープに乗せてくれたら試験を受けてやる」という約束で、試験を受けただけのことである。
東京上野で、自衛隊が浮浪者を駆り集めて入隊させている、という報道があったころで、隊員募集にノルマがあったに違いない。
その時点では入隊する気などさらさらなかった。
その後、そんなことも忘れていた頃、地連の係官が来て「どうするんだ!!」と言うものだから、「日本碍子でこのまま工員をしていても先は知れている、一つ未知の世界に飛び込んでみるか!」というわけで、入隊する気になっただけのことである。
最初、岐阜の基地に連れて行かれた。
この基地も米軍に接収されていたので、基地の中の施設は綺麗に維持管理されていた。
ところがここで驚いた事はトイレである。
完全にアメリカナイズされており、我々には大きなカルチャー・ショックであった。
通路から階段で2段ぐらい上がったところに便座があり、扉は便座に座って顔が隠れる程度しかなく、上も下もアッパパアで、真ん中しかないわけである。
当然、ズボンを下げた足は丸見えで、これでは出るものも出ないのではないかと思ったが、不思議なもので、慣れてしまえばどうということはない。
この時はカルチャー・ショックであったが、後年アメリカを旅行したら、アメリカでは空港の公衆便所でもみなこのスタイルで、自分さえ気にならなければどうということはない。
この岐阜基地では2、3日留め置かれたような気がするが、とにかく回りの者は皆自衛隊については白紙のものばかりで、ただ無為な時間をもて余していただけのことであった。
それから山口県の防府の教育隊に移動する事になって、本格的な基礎訓練に入った。
きちんとした入隊の日は忘れたが、とにかく6月入隊で、本格的な夏の時期を山口県防府で過ごしたわけであるが、この地は海に近かった所為か、蒸し暑さは感じず夕方などは非常に快適であった。
この防府の第1教育隊というところは、新兵教育の専門施設で、隊舎というのは鉄筋コンクリートの学校のような作りになっていた。
普通の学校の教室を2つ3つぶち抜いたような部屋で、そこに鉄製の2段ベッドが2列に見事に並んでいた。
ここでは官給品の支給を受け、まさしくGI(government issue)になりきったわけである。
ここで特に記しておかなければならないことは、毛布の支給とその管理である。
最初、毛布を7枚支給された。
毛布7枚とシーツ2枚、そして枕と枕カバー1枚が支給されたが、この毛布を上手に畳むと、それこそ羊羹の切り口のようにきちんと畳めるという事である。
最初に「そういう風にせよ!」と基幹隊員、つまり内務班長から言われたときは、「そんな事が出来るか?」と思ったものであるが、やってみればそれが出来るのである。
特別にくたびれたものや、特に新しいものが混じっていると、しにくいということはあるが、普通に支給されたものならば、それこそ羊羹の切り口のようにきちんと積み重ねる事ができる。
そして、ここで教わったベッド・メーキングというのは万国共通のベッドの作り方で、この時はそんなことはつゆ知らずに過ごしたが、後年色々なホテルやアメリカに行ったとき、ホテルのベッド・メーキングを注意して見ると、まさしく自衛隊の初年兵教育で受けた通りに出来ているではないか。
ところがその後の人生でも、毛布の畳んである姿というのは見たことが無いわけで、何処に行ってもベッド・メーキングした後のベッドしかお目にかかれない。
ここでの訓練は筆舌に尽くしがたい、と言いたいところであるが、そう書くと如何にも悲惨な状況に映ってしまうが、案外合理的に管理されていたようだ。
しかし、そんなことは被訓練者の我々は知る由も無い。
基礎訓練である以上、汗をかかないとか、苦しくない訓練というのはありえないわけで、そういう意味では修行の場で、そう思えば何とかなるものである。
私は娑婆にいるときから日本碍子で汗みどろの労働では鍛えられていたので、こういう試練は左程苦にはならなかったが、とにかく自分の運動神経の鈍さにはほとほと嫌になった。
とにかく50kgの土嚢運搬競技では、その土嚢そのものが持ち上がらなかった。
仲間の中には、それを軽々と持ち上げ50m走ってなお悠々としているものがいるわけで、これには参った。
ここの3ヶ月間というのは、朝から晩まで体を鍛える事に費やされているわけで、これが私にとっては地獄の苦しみであった。
基本的な体育系のものよりも、まだ戦闘訓練の方が柔軟性があった。
ここでの訓練の総仕上げは10kmだか15kmの行軍であったが、これが私は体力不足で普通の人と共に参加させてもらえず、トラックで移動してテントを設営する設営班に入れられてしまった。
これはある意味で非常に屈辱的なことと言わなければならない。
しかし、ここでの3ヶ月にわたるしごきを経た後では、なんだか自分が一回りも二回りも大きくなったように感じれたものだ。

第5術科学校・再び小牧

ここでの基礎訓練が終わると、またまた小牧に舞い戻ってしまった。
というのは私の職種が航空警戒管制というものに決り、それの術科学校が小牧の基地にあったからである。
航空自衛隊といわず、戦後の自衛隊のこういう教育システムというのは非常に優れていると思う。
昔の日本の軍隊の事は知らないが、有象無象、玉石混交で駆り集めてきた人間を、その適性に沿って術科学校で教育をし、部隊に配置するというシステムは、限られた人間を有効に使う最も優れた手法だと思う。
特に現代の社会というのは、科学技術無しではありえないわけで、その為には効率よくその技術を使いこなす人間を養成しなければならないわけである。
それに沿った最も効果的な手法だと思う。
昔の陸軍のように、鉄砲さえ撃てればそれで事足りる時代ではないわけで、人材養成にも合理化が求められる時代なわけである。
この小牧の第5術科学校では、防府のように絞られることは無かった。
一応、初年兵教育を済ませた者という扱いで、そうそう手取り足取りというわけではなかった。
ところがここで教わる事は、私にとっては新鮮であるばかりではなく、実に興味ある事ばかりで、これは良い所に来たと心から思った。
航空警戒管制といわれても、実体を知らないときは何が何だかわからないわけで、それがだんだん判るに従い、これは面白そうだと思うようになってきたわけである。
職種の選択については、男子たるもの一度はパイロットに憧れるのは不思議ではないが、これは目が悪かったので、最初から列外であった。
次に航空管制、つまりタワーの管制官を希望したが、これは先の4月入隊の新卒高校生の優秀なものが枠をふさいでしまっており、これが駄目で、同じような管制という字がついていたが、こちらの方はその実体を全く知らなかった。
この第5術科学校というのは、それこそ占領軍が飛行場を拡張したところにあり、まだ米軍の施設をそのまま使っていた。
木造のバラックそのものであった。
しかし教育施設のほうは立派なものが出来ており、ここでは電話ボックスのようなブースに入って英語のテープを聞くという授業から始まった。
そしてタイプライターの授業もあった。
そして後の方になるとレーダー・サイトの要員としての本格的な教育に移ったが、ここでは逆さ文字を書く練習があった。
逆さ文字と言ってもアルファベットと算用数字だけであるが、これを反対向きに書くわけである。
というのはガラス板の向こう側で、こちらにいる人のために書くわけで、こちらにいる人が読めるように書くわけである。
これも慣れてしまえばどうということはない。

北海道・石狩当別

この小牧の第5術科学校を卒業したのが昭和40年の2月で、卒業と同時に北海道の石狩当別に赴任した。
北海道、石狩当別、阿蘇岩山、第45警戒群というレーダー・サイト。
これは私の青春のシンボルである。
自衛隊生活5年間、正味4年にわたる此処での生活で私の青春は昇華した。
飲んで、食って、スキー三昧に耽り、カメラを弄くり、振って振られて、青春は終わった。
そもそも石狩当別を選択したのは、此処ならば札幌に近いだろう、という事と仕事が監視業務と管制業務の両方があるので、それだけやり甲斐があるに違いないと思ったからであるが、これは正解であった。
部隊は全員で150名ぐらいのこじんまりとした部隊であったが、それだけに家族的で皆な仲良く勤務についていた。
最初の赴任は、まず米原まで下って、そこから北陸本線で青森まで行く特急「白鳥」で行ったわけであるが、途中大阪から網走に赴任する同期と一緒になり心強かった。
青函連絡船を乗り継ぐ時には、あの石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の情景そのままであった。
尤も、この歌の方が後から出来たと思うが、まさしくあの歌の歌詞の通りである。
札幌にはその翌日の朝十時頃の到着だったと記憶している。
列車から降りてホームに立ったとき、鼻の穴がなんだかもぞもぞとしてクシャミが出そうで出ないような妙な気分になったが、それは空気が乾燥して張り詰めていたので、そう感じたに違いない。
その日は網走に赴任する同期と札幌市内を散策して、駅前の宿に入ったが、二階に通されて、その部屋の畳の上にストーブがあったのにはびっくりした。
そのストーブではオガライトという燃料を焚いていたが、その当時はこのオガライトというものの名前もわからなかった。
その翌日、この同期とは別れ、私は石狩当別に向かった。
ここでも列車から降りて駅の外に出て驚いた。
駅前に馬橇がいるではないか。
馬橇と来れば、私の脳裡にはあのシベリアで愛人と共に雪の中に消えていった岡田嘉子のことが浮かび上がってくる。
この関連は如何なる因果関係なのであろう。
馬橇とくれば岡田嘉子と連鎖反応が起きる。
この石狩当別というのは札幌から札沼線というローカル線で20分ばかり北に行ったところで、線路の左側は防雪林が延々と続いていた。
  右側も又何処までも田園が広がっていたが、このときは冬で雪以外は何も見えなかった。
駅のホームを降りて、橇の走る道を少し進むと、隊外クラブというものがあった。
ここは我々の部隊の皆が利用するサロンのようなものであったが、サロンという言い方はあまりにも上品過ぎる。
いわば一種の溜まり場である、と同時に宿泊施設であり、食堂でもあり、着替え室であった。
ここで同じサイトに赴任する同期が三人集まって、皆で一塊になって部隊に上がった。
我々の勤務するサイトというのは、ここからまだ車で30分ぐらい奥地であった。
その後の石狩当別の生活では、この隊外クラブにもいろいろお世話になったが、外出して、夜、酔っ払って、最終の定期便で部隊に上がるときなど、駅前から定期便に乗るわけだが、この定期便というのが完全なる軍用トラックで、荷物と一緒にその荷台に乗って、パーカーという防寒衣を頭から被って車の震動に身を任せていると、車輪が舞い上げる粉雪が幌の隙間から入り込んで、部隊の玄関につく頃は全員雪ダルマになっていたものである。
この石狩当別というところは、日本海に面しているだけあって、実に雪深いところであった。
毎日、雪の降った朝は、陸上自衛隊の除雪の隊員が暗いうちから除雪をして、その後我々がオペレーション・ルームに入って監視業務をするわけである。
夜勤明けで勤務交代の前に、このオペレーション・ルームの天窓を開けて外に出てみると、雪の石狩平野が一望のもとに見渡せて、それはそれは神々しい光景を呈していた。
くろがね色に輝く日本海と、朝日に輝く雪を被った山々を見ると心が洗われる。
我々は除雪という作業はしなくても済んだが、この作業がないことには、日本の空に穴があくわけで、世の中というのは「駕籠に乗る人、担ぐ人、その又草鞋を作る人」とはよく言ったものである。
  世の中の仕事を一つ一つ細分すると、その一つ一つの仕事は全く意味のないように見えるが、それらの仕事は全体が一つとなって社会的に機能しているわけで、朝早くから除雪をしている陸上自衛隊員も大変だなあと感心しながら見ていたものだ。
私がこの地を選んだのは、言うまでもなく、スキーというものがしたくて選んだわけである。
だからここでは十分すぎるほどスキーをさせてもらった。
部隊の玄関を出ればもうスキーが出来るわけで、その意味からすれば、非常に恵まれたところであった。
部隊の隊舎の裏が丁度よいゲレンデになっており、暇を見つけては、又外で飲む金のないときは、そこで滑ったものであるが、如何せん自然の野山で、リフトと言うものが整備されていない。
程々に上達して、そのゲレンデを滑り降りると、今度上がってくるのに非常に苦労する。
階段歩行で下から上まで自分の足で登らねばならず、そんなことばかりしていたものだから、足の大腿部が異常に発達して、腿が太くなってしまった。
入隊した時は52kgしかなかった体がここではゆうに60kgをオーバーしていた。
この北海道にいたときは酒もよく飲んだ。
大体、自衛隊の給料というのが全部スキー代と飲み代になってしまった。
三階建ての隊舎の一階にBXがあり、そこのおばさんというのが気の良い人で、何もかも全部ツケで飲ませてくれたものだ。
給料が出ると袋を持ったその足で、BXのおばさんに払いに行かねばならず、払えば後には殆ど残らず、又新たなツケがたまるわけである。
非番の日に朝から晩までスキーをして、くたくたに疲れた体を、隊舎の中の風呂でほぐして、その後BXに行って野菜炒めをつまみながら飲むビールの味は特別であった。
ここでの生活は何もスキーをしていただけではない。
仕事の方も実に一生懸命していた。
仕事そのものが私にとって興味もあり、面白くもあり、よく勉強もした。
仲間同士で勉強しあって、判らないことは知識を分け合い、お互いに切磋琢磨したものである。
惜しむらくは、この仕事を事細かく書けない事である。
我々、防衛秘密に携わったものは守秘義務というものが除隊後も付いて回り、そうそう洗いざらい事を明らかには出来ないのである。
この自衛隊の5年間の生活というのは、私の人生で一番輝いた時期であり、充実した青春であり、それ以降の私の人生はいわば付録の人生であった。
しかし、長男の私が北海道に行ってしまってので、父が私の上司に鳴きの手紙を入れたものだから、またまた地元の小牧に転勤になってしまった。
私が北海道でスキー三昧に耽れたのは僅か4年間だけだった。
スキーをもうあと1シーズン出来たならば、私は心から納得するのだったけれど、どうにもそれをし残した事が残念でならなかった。
ここでも私は父の犠牲になったようなものだ。

再び第5術科学校・内務班長

私が小牧に転勤になった時、まだ任期は半年残っていた。
小牧では第5術科学校の教官ということであるが、実質は学生隊の内務班長であった。
今時は軍隊経験のある人が少なくなったので、内務班長というものの権威を知らない人が多いが、これは世が世ならば大変なことである。
旧軍隊では新兵苛めということがあったが、これはどうも世界各国共通のようで、日本だけのことではなさそうである。
私も体験して初めてわかったことであるが、要するに新兵というのは、軍隊のことについて何もしらないわけである。
それに反し、古参兵というのは軍隊の裏表が全部わかっているわけで、あらゆる面でそれが如実に現れるわけである。
それで、ああいう組織の中で、若い連中を引っ張っていくには、張ったりを噛ませて、有無を言わせず事をしなければならない時があるわけで、古参兵にはそれをするだけの知識と経験が備わっているわけである。
そのため新兵の前では大きな態度が取れるわけである。
そして、厳然と階級制度が目の前に存在するわけで、ああいう環境の中で、血気盛んな若者を一定の方向に仕向けてリードするためには、やはり相手と同等の立場に立っていては、それが不可能なわけである。
綺麗事で、相手とおなじ目線に立っていては、それが出来ないわけである。
やはり一段と高い位置から下を見下ろすポーズをとらないことには、事が先に進まないわけである。
生徒と教官という立場の違いはきちんと理解してもらわない事には困るわけである。
しかし、私はこういうポーズをとるのが嫌でしかたがなかったが、嫌でも職務上致し方なかった。
よくしたもので、学生の方もこちらの雰囲気をすぐに察知して、お互いに芝居をしていたようなものである。
私はそれで良いと思う。
お互いに立派な社会人の筈で、中学生の餓鬼ではないのだから、そうそう無闇に威張る必要はないわけで、自分の知っていることは、知らないものに全部分け与えれば良いと思っていた。
だからそういう教育をしてきた。
学生は夜2時間ぐらい自習の時間が与えられ、教科書で勉強するように仕向けられていたが、私はそんな退屈な自習は止めさせて、航空警戒管制に関する自分の知りえた事を全部語って聞かせてきた。
無味乾燥な教科書を自分で読んで知識を習得するという事は、自分自身の経験から、効果がうすく無意味だと思っていたが、それがカリキュラムになっている以上、頭から無視するわけにもいかず、多少の真似事をしてお茶を濁さねばならなかった。
内務班長をしていて困った事は、コース待ちであった。
それはカリキュラムがスムースに進行せず、どこかで滞ってしまうと、学生を無為徒食のままコースが空くまで待たせなければならないわけで、これには困った。
大の大人の学生(年齢的には18歳から23歳まで)を、無為徒食のまま置いていくわけにもいかないので、何処かで何かをさせなければならないわけであるが、それを若干28歳の、階級も最低の士長(下から3番目)の者が、一人で管理しなければならなかった。
結局、警備隊員としてガードの応援や、KP作業と称する食堂の食器洗いの臨時作業でもさせて暇を潰す他なかった。
それを一人で交渉して、自分一人で推し進めなければならなかった。
今思うと、私のような者をよくもあんな責任の重い任務につけたなあと思う。
自衛隊というところも実に鷹揚というか、無責任というか、放任主義というか、自由というか、とにかく無茶な事である。
これが三菱ならば、課長、係長その他諸々が、ああでもないこでもないと鳩首会談するような事を私一人に任せっきりであった。
ある時、こういう事件があった。
当時はまだ安保闘争華やかな時期で、デモ隊が正面ゲートの来るというので、私と私の班員20数名が、ゲートの正面に布陣するということがあった。
事はこれだけの事であるが、これは実に大変な事である。
フェンス一枚向こう側は、「わっしょい、わっしょい」と無頼のデモ隊がシュプレヒコールを叫んで気勢を上げているわけで、そのこちら側では右も左も分からない新隊員が、新米の内務班長と共に2列横隊、整列休めの姿勢で対峙していたわけである。
この時、デモ隊の投げた鉄のアングルで、報道関係者が怪我をするということがあったが、これが隊員に当たったら、どうなることかと私は内心冷や冷やであった。
報道関係者というのは元々が無頼の輩だから、彼らに「指示に従え、言うことを聞け!」といっても素直に聞く連中ではないので、これは怪我をしても致し方ない。
しかし、組織の命令で行動している隊員が怪我をしたら、これは由々しき問題といわなければならない。
幸いにしてこのときは事なきを得たが、そのことを考えると、心が締め付けられる思いがしたものである。
この時、我々に警備を命じた基地の幹部は一体何を考えているのか大いに訝ったものである。
この班員とは、岡崎公園に花見にも連れて行ったし、名古屋のゴーゴー喫茶を借り切ってのゴーゴー大会も行った。
これもみな石狩当別にいたときに習得した遊びのレパートリーであった。
しかし、これは大学生のダンス・パーテーとは違うわけで、25、6名からなる自衛官を、制服のままで参加させねばならず、その上、節度ある行動をさせねばならないので、案外気を使うことではあった。
それでも彼等は私の言う枠の中で、それぞれに楽しんでくれたようで、そういうことが私の心の中の勲章でもあった。
第5術科学校の教官の印というのは、黄色のコマ紐のようなものが教官章で、それを左腕に通し肩章としたものであったが、私はその一見つまらなさそうな黄色の紐に命を掛けた。
そしてその黄色の紐が私の誇りでもあった。
ここでの生活は僅か半年でしかなかったが、非常に貴重な経験をさせてもらった。
総じて自衛隊の5年間の生活というのは、その後の私の人生にとって非常に価値ある青春の輝きであったことは間違いない。
2002.4.5

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