父の死そして葬儀

父は平成11年(1999年)2月18日朝の8時50分に病院で息を引き取った。
正確には40分頃にもう呼吸が止まっていたが、医師の確定がこの時間であったので、死亡時刻は50分となった。
10分や20分の時間のずれというのは父の90年の人生に比べれば取るに足らない些細なことではあるが、正確という意味ではこだわりがある。
この時の成り行きは次のようなものであった。
弟、N生の言うところを総合すると、朝の4時半に病院から連絡が入り、N生はすぐ父のベッドに駆け付けたらしい。
私がN生から連絡を受けたのは、丁度5時半頃であって、いつもの生活パターンで朝食を取っていた。
「こんな時間の電話はろくな用件ではなかろう」と思いながら受話器を取ったら、案の定、N生は既に病院におり、「親父が危ない」と言うものだからすぐに駆け付けた次第である。
私の通常の生活パターンでは、この時間には食事を済ませ、朝の身だしなみをしている時間であったので、その意味ではグッド・タイミングであった。
病院に駆け付けた時点で6時であった。
病院に着いた時には既にN生が父の手を握っていた。
この時のN生の弁では、「俺が来たときはまだ意識があった」と言っていたが、私が着いたときにはもう意識が無いというか、朦朧としているというか、誰が来たのかも本人は解っていなかったに違いない。
この時の父の姿というのは、体から電気のコードが2、3本出て、それが廊下に置かれたコンピューター、集中監視装置につながれており、大きなデイスプレーがまだサイン・カーブを示していたが最後にはこのサイン・カーブが水平になってしまった。
この機械の名前は知らないが表示されている数値を見ていると、なんとなくこれは呼吸数だなとか、これは血圧だなということがわかってくる。
で、廊下を歩いて来る途中からこの機械が見えたので、これはいよいよダメかなと思った。
私はこの時の来るのがもう少し前ではないかと思ってそれを心配していた。
と言うのは、その時にはN生がインフルエンザに懸かっており、その上、東京に出張することになっていたので、2月の13、14の土日と、15、16の月火に父が危篤になると困ったなあと内心思っていた。
それが少しずれ込んだわけだが、宣生のインフルエンザも心配で、病院でもマスクをしていた。
実のところ、前日17日の夜、父の様子を見に病院に行ったところ、N生の来た様子がないので、おかしいなあと思いながら洗濯物をセットしようと家に寄ったところ、やはりN生はインフルエンザが完治しておらずベットで寝ていた。
その時はN生の部屋で、父の様子を話し合って帰ってきたが、まさか次ぎの日の早朝にN生から電話が入るとは思ってもみなかった。
13、14の土日にはA生夫妻が見舞いを兼ねて看病に来た時、こういう場面を想定して、連絡先のリストを病院側に渡しておいたのが功を奏したようである。
父がいよいよ危ないと感じた時点で、私は入院の際に家族への連絡先をN生の方にしておいたのか自分の方にしておいたのか定かに覚えていないので、留守の場合も想定し、優先順位を考慮し、連絡表を病院側に渡しておいたのが良かったようだ。
そのコードを避けるようにしてN生が父のベッドの脇に座り父の手を握っていた。わたしが来たので、N生が父に「兄(にい)がきたよ!」と呼びかけ、私も声をかけたが一向に反応する様子も無かった。
この時はまだ計器のグラフは正常な波動を描いていたが、父のベッドの脇にいた間に、この波形は徐々に乱れ、その間に看護婦さんが2、3度父の体を見、当直の先生も見に来てくれたが、その甲裴はなかった。
最後にはグラフの動きが水平になってしまった。
8時頃、世間が朝の活動を開始する頃になると、院長先生らしき人も父の様子を見に来てくれたが、如何ともしがたく、ただ見ているのみで処置の方法も無かったようである。
まさしく「薬石効なく」と言う常套句そのものであった。
父の体に連結された計器は看護婦詰め所でもモニターできているらしく、こういう文明の利器というのは実に合理的である。
しかし、いくら文明の利器といえども、人の命を延ばすことは今世紀中には間に合わなかったわけで、又人間というのは寿命を全うした時点で消え去るのが自然の法則であり、自然に逆らう文明の利器というのは逆に不自然である。
父が病院で臥すようになった時点で、私は父は既に充分生きたと思っていたので特別な延命措置はしないでくれと病院側に言っておいたが、これで良かったと思っている。
父がいよいよ息を引き取る段階で、2人の息子に見守られ、安らかにいったので、これほどの大往生はないのではないかとさえ思えた。
A生は物理的に離れた場所にいたので臨終に間に合わないのは致した方ないが、3人の息子のうち2人までがその臨終を見届けたので、これ以上望むべきことではないように思う。
この間にN生はA生にも電話連絡をしたが、A生も大事な仕事を抱えていたらしいと言っていた。
こういう事態が何時かは来ることが当然我々には解っていたので、N生ともA生とも事前に話をしていたため、その後の処置はかなりスムースに運んだ。
医師から8時50分と死亡の時刻が確定されてからの我々2人の行動は実に的確な行動だったと思っている。
N生はすぐに「不老会」の方に連絡し、同時に「アイ・バンク」にも連絡した。
「アイ・バンク」の方はすぐに眼球の摘発に向うということを確認し、こちらへの到着時刻も掌握した。
私の方は病室に残って遺体の番をしていた。
N生は「不老会」と「アイ・バンク」に電話連絡をした後、葬儀屋に走って、それなりの話をつけてきた。
同時に一度北外山の家に戻って親戚や父の関係者に連絡をした。
こまごまとした連絡先の電話番号は父の居た部屋でしかわからない部分があったのでこれは当然の措置であった。
一方、病院のほうでは医師が死亡を確定したらすぐに、看護婦さんが父の着ていた寝巻きを新しいものに着替えさせて、今まで体に巻きついて計器に繋がっていたコードを取り払い、オムツなども取り、導尿の管などもきれいに取り払い、人間らしい体に取り繕ってくれた。
この間、私は廊下で待っていた。
自分の父が看護婦さんにあしらわれるのを自分の目で見るということはどうしても出来なかった。
父親としての尊厳がその場で壊されてしまっているような気がして、それを直視するということはどうしても私の心が許さなかった。
よって、看護婦さんがその作業をしている間は廊下に出て待っていた。
その作業が終わった後の父は、なにかすがすがしい顔に見えた。
その後,父の病室の整理をした。
わずか三ヶ月の入院であったけれども、この間にも病室内には不要な品物でいっぱいになっており、生きていれば入用なものも、死んでしまえば不要なものばかりで、病室内の大部分の品物はほとんど捨てた。
病室内にあった父の持ち物の中で一番大事な品物といえば、住所録と腕時計と筆記具ぐらいしかなかった。
あとは衣類とか古新聞とか醤油のビンとか、大事なものは全く無く、黒いごみ袋2つに収まってしまった。
父は末期において院内感染によりMRBAに汚染されており、病院側の対応も慎重をきしていたが、この期に及んではもう後の祭にすぎなかった。
それ故に、その拡散には気を配らなければならないわけで、その意味からして、父の持ち物の処分は慎重をきした。
そうこうしているうちにN生が一旦連絡のために病室に来た。
そして経過を私に説明し、11時頃には「アイ・バンク」から人が来、葬儀屋「プレア小牧」からSという人が来る旨、連絡を受けた。
病室を整理し、室内で所在なげに待っていたら定刻に「アイ・バンク」から若い二人の担当者が来た。
名前をその場で名乗ったが失念してしまった。
手術、右目の摘出は30分ぐらい懸かっていたが、私はやはりその場に居合わすことが出来ず、その間、廊下で待機していた。
彼らが到着した時点で、院長先生が父の経過を彼らに説明していた。
彼らはお礼にと言うわけでもなかろうが、小さな品物と礼状を持参して来たが、内容は極ありふれた礼文がしたためてあった。
小さな品物の方は霊前に供えるローソクであった。
彼らが手術をして帰った後の父の顔には何か異変があるのではないかと思ったが、そんな心配は全くの取り越し苦労であった。
父は穏やかな顔をしていた。
そしてしばらくしたら「プレア小牧」のSという人と、もう一人の人間が来て、父の遺体を式場のほうに移動すると言ってきた。
「プレア小牧」のSという人は名乗ってきたのですぐに分ったが、もう一人の人は運転手に違いない。
だから、N生に言われた通り、彼には封筒に入れたチップを早速渡しておいた。
彼らはやはりプロフェッショナルで、父の遺体を上手に取り扱い、持参の担架に移し、ストレッチャーで廊下を移動し、エレべーターで下におり、通用口から父の遺体を搬出して式場に運んだ。
院長と看護婦さんが一人、父の遺体を見送ってくれた。
病院で死んだものは通用口から出る、ということは理性では理解していたが、いざ我が身に降りかかってみると、一抹のむなしさと言うか、悔しさと言うか、情けなさが身に染みる一瞬であった。
「プレア小牧」に着いた父の遺体は、一階の休憩室、入り口を入った正面の奥、左側の休憩室に安置された。
この時点で昼を廻っていたに違いないが、私もN生も腹の減ったことなどさっぱり覚えておらず、N生が病み上がりなので、体の方が大丈夫か少々気がかりであったが、この時はそんなことを考えている暇はなかった。
ここに到着した時、父の遺体は布団に寝かされていたが、この部屋にいる間、少々手持ち無沙汰だなあと思った矢先、女性の係員が現れ、これより「湯灌の儀を執り行います」と言った。
私としては湯灌ということは知っていたが実際にどういうことをするのか定かには理解していないので「どうぞよろしくお願いします」という他ない。
で、彼ら専門家のやることを見ているほかなかったが、彼等は和室の休憩室に大きなプラスチックの湯船を持ちこんで来た。
その湯船の上に担架のようなものを乗せ、そこに父の遺体を乗せ、上からガーゼで覆った段階で、「これより湯灌の儀を行いますので喪主様からどうぞ」と言われた。
果たしてどうするものか心配していたら、係員が説明してくれて、結局のところガーゼの上から水、お湯だったかもしれないが、それを遺体の上から掛けるだけのことだった。
喪主としてN生が先に掛け、その後私が同じ事をしたわけであるが、するとその後から2人の係員が父の体を実に木目細かく洗ってくれた。
まさしく湯灌そのものである。
その後、担架の上から床に遺体を移し、一人は父の体に死化粧を施し、他の一人はきれいに湯船の後始末をした。
その間1時間ばかりであったろうか。死化粧というのも実に入念にしてくれていた。
若い女性が、それが職業とはいえ、こういう作業をするという事自体に私は驚かざるを得なかった。
風呂を浴び、化粧をしてもらった父は、白い装束をつけてもらい、最期の白い足袋を履く段階で「これは遺族の方でお願いします」と言われ、私がそれをした段階で、棺に入れることになった。
私が頭の方を持ち、N生が足の方を持って棺に入れたが、その後も係りの女性は棺の中の仕上げ、飾り付けの仕上げをしてくれた。
棺の中の遺体というのは、ただ単に入れられているだけではなく、綺麗に飾り付けが成されていたわけである。
今までの生涯で何度も葬儀には出たことがあるが、こういうところまでは気がつかなかった。
この頃、A生が来た。
湯灌の儀が始まるときであったか何かのときに、N生がA生を迎えに行こうとしたとき、「今から始ますので喪主様は居て下さい」といわれた記憶があるが、それが何の時であったか忘れてしまった。
こういうドサクサの時は時系列に沿ってメモをしておくべきであったが、その時には頭が混乱してしまって、とてもそう云うところまでは気が廻らなかった。
だからA生が我々と合流できたのがどの時点であったのか定かに覚えていない。
父が棺に納まった後か先かであるが、A生が着替えもせずに棺の周りをうろついている記憶があるので、多分棺に納まった後ではなかったかと思う。
この棺桶というのが又立派なもので、材質までは詳しく吟味したわけではないが、如何にも上等な桐という感じがしていたが、果たしてこういう物に桐を使っているかどうかは定かに分らない。
葬儀に関してはN生が「プレア小牧」の責任者と大方の話は取り決めておいてくれたので、その線でいくことに三兄弟の意見はすぐにまとまった。
しかし、細部に関してはそれぞれが自分の関係方面に連絡しなければならず、FAXを打ってもらったり、電話連絡したりした。
N生もA生も現役のバリバリのビジネス・マンなので、こういうことは手馴れたもので、そつなくこなしていた。
葬式に限らず、こういう式典をプロに任せるということは、主催者にとっては非常に安易で便利、なおかつスムースに進んでしまうが、その分、自分で執り行うわけではないので印象が薄い。
気がついたら敷かれたレールの上を無意識のうちに走っているという感が拭えない。「プレア小牧」のSという人の名刺を見ると、セレモニー部チーフ・デイレクターとなっているが、彼の言う事を素直に聞いていると、あれよあれよという間に事が流れていってしまった。
有り難いと言うべきか、味気ないと言うべきか、それぞれに感じ方があるように思える。
遅れて到着したA生は、父の棺の廻りをぐるぐる廻りながら涙を流している様子であった。
不思議なことに、私もN生も、今まで父の死に直面したにもかかわらず不思議と涙は出なかった。
息を引き取るまでその成り行きを目の前で見ていたせいかもしれないが、これから葬式を挙行しなければならないという使命感からか、自分でも分からないが不思議と涙は出なかった。
三人で今までの成り行き、これからのことを話し合う間もなく、棺は2階の式場に移動してしまった。
我々の家族が三々五々式場に集合しだしたのはお通夜の始まる時刻であった。
祭壇の正面には父の紋付姿の写真が飾られていたが、どう考えても父が紋付を着た写真というのは見たことがないので不思議に思っていたら、案の定、合成写真で、式場の方でこの場にふさわしいように小細工を施したものであった。
しかし、祭壇は立派なもので、神々しい雰囲気さえ醸し出していた。
今まで、前の母のときも、登美子母さんの時も、通夜の記憶は定かでなく、したかしなかったか定かに覚えていない。
しかし、埋葬するのに、死亡時刻の関係で、通夜もしないということはあり得ないので、したにはちがいないが、その時はまだ父が存命で、父が仕切っていたため我々の記憶に薄いのかもしれない。
定刻になり、通夜が執り行われたが、どうもこのころのことは頭の中にはっきりと残っていない。
弔問に来てくれた人に挨拶をしたりして訳のわからないうちに時が流れていったような気がする。
私の会社の人も2、3顔を見たので、礼を言おうと思ったが間に合わなかったりして、訳のわからないうちに通夜も済んでしまった。
通夜には日ごろご無沙汰していた親戚が、一同に集まって旧交を暖めるという雰囲気があったが、夜もふけるに従いそれらの人も自宅に帰ってしまうと本当の意味での3兄弟の身内のみになってしまった。
この時には式場の方で簡単な寿司を夜食として準備してくれ、休憩室の台所からビールを出して飲んだり食ったりしていたが、この時刻になると私も疲れが出たと見えて、弟の嫁さんのうちの一人が敷いてくれた布団にもぐりこんで眠ってしまった。
夜が明け、時間が経つにつれて人が集まってきて、親族として挨拶もせねばならず、右往左往しているうちに時間は経過していった。
告別式と言っても式場のチーフ・デイレクターの言う通りにしていれば万時つつがなく進行した。
先の通夜の際,「柏手は音のしないように」と言われていたにもかかわらず、私だけ音を出してしまって大失敗をしでかした。
こう云う失敗は私だけではなく、告別式のときは神主さんが水差しの蓋を取る際、ロウソクを倒してしまうというハプニングがあった。
こう云う失敗も愛嬌といえば愛嬌である。
有り難いことに、父の存在でその最期には大勢の人が見送りに来てくれた。
こう云う機会でなければ親戚中が一堂に集まるということはなかなかあり得ない。
通夜の前に、式場の人から「玉串を作るのを手伝ってもらえませんか」と申し出があり、その場に居合わせたメンバーで内職ならぬ玉串作りをした。
式に参列する人の数は我々には皆目見当もつかなかったが、式場の人は200人程度と目星をつけていたようだ。
告別式のときも私たちは肉親という立場上、前方の方に居たので、全体の雰囲気を感ずることは出来なかった。
それでもかなり大勢の人に来ていただいたようで有り難い事だと思っている。
最後にN生が喪主として挨拶をする事になっていたので「案文を考えておけ」と言っておいたが「その場の即興でする」と言っていたが、まあそつなくこなした。
献体をするからという部分で、「本人の意思で献体をする」と云う、本人の意思を強調する事を忘れていたように思うが、まあそんな事は些細な事であろう。
本人の意思を無視して遺族が勝手に献体をするような事はあり得ない事であろうが、「不老会」と献体を受ける側の愛知学院大学からの弔辞の申し入れにはいささか面食らった。
弔辞など読む雰囲気ではないのに、堂々と弔辞を読み上げるという場面は、結構な宣伝の場と化していた。
告別式が終わり、棺の蓋をする段階で、私は会社の人にお礼を言おうとして、下の階まで下りてしまったので、棺の中に花を入れるのに遅刻しそうになった。
棺を霊柩車に載せる段階で、身内の人に2,3人手伝ってほしい、ということを云われており、父の孫達にそれぞれに割り振っていたが、いざその場になったらメンバーが足りないような気がした。
しかしこれは私の勘違いで、割り振ったメンバーは皆その役目を果たしていた。
棺を支える場所がかたまってしまっていたので数が足りないように見えただけで、それぞれに役目を果たしていた。
棺が出てしまったら一般参列者は三々五々散会して、残るのは親族のみになった。
残った親族で精進落しが行なわれたが、これは膳は立派な会席料理であったが、味の方を吟味する余裕は全くなかった。
父の入院中(1月23日)逗子のT子さんに見舞いに来ていただいたが、そのとき彼女の言うところでは、叔父さん、つまり我が父は非常に頑張り屋であった、と云う事を強調された。
確かに明治生まれの父の一生は頑張りの連続であったに違いない。
我々、3人の子供の育ち盛りにその伴侶を失い、生活の糧を得る事と、子供の養育との二本立てが親父の双肩にかかってきたわけで、その前から寿美江母さんの闘病生活というものもあり、その後は後妻と子供、特に私との確執の事を考えると、父の生涯はまさしく頑張りの連続であった筈である。
逗子のT子さんはそういう事実を知っているが故に、親父が頑張りやであったと言っていたにわけで、今、父の立場、父と同じ境遇に我が身を置き換えてみると、身の毛もよだつような戦慄を覚える。
如何に今の私が幸せな立場に安住しているのか、と云う事を改めて認識せざるを得ない。
父の闘病生活というのは、結局三ヶ月で幕を閉じたわけであるが、父の人生の幕引としては立派なものであったと思う。
親子の間といえども成人してしまえばそれぞれに個別の人格を持つわけで、意見の衝突というのは日常茶飯事であったが、人の道としての有り方としては、我々家族は人後に落ちるものではなかったと思う。
父の最後のついても、今はやりの団子三兄弟ではないが、それぞれの持ち場立場で十分に尽くしたように思うので、父の頑張り人生も報われるものではなかったかと思う。
2002.3.30

Minesanの自己紹介に戻る