父の老いから安楽死を考える

父が平成10年(1998年)11月14日に倒れた。
私が春日井シンポジュウムで講演を聞いた時、休憩時間に呼び出しが掛かって、急遽父のもとに駆けつけた。
外傷は何も無いが、前日に庭仕事で体を酷使したらしい。
体中に痛みが走り体を少しでも動かすと耐えがたい痛みを感じるらしい。
よって、救急車で小牧市民病院へ搬送され、応急処置をしてもらったが、身体に痛みはあるが他にどこも悪いところが無いというわけで、入院を拒否されてしまった。
こういう病院の扱いというのも実に不親切で、慈悲に欠けた扱いである。
官僚的というか、事務的というか、あまりにもマニュアル的で、病人をもの扱にしているという感を拭い切れない。
今、福祉の充実が社会問題化している中で、その末端では痛がっている病人を前にして入院させない、という処置は言語道断と思うが、病人を抱えた家族の側としては入院できないものは一刻も早く自宅につれて帰らなければならず、実に暗澹たる気持ちにさせられた。
どうにか痛み止めの効いている間に自宅まで運び入れては見たものの、今度どう処置をすべきか皆目わからない状態であった。
その後、周囲の人の気配りで何とか引き取ってくれる病院を探し当て、16日の月曜日には小牧第一病院へ入院することが出来た。
家族としては一応やれやれという感であるが、老人問題というのはこれからの難問である。
人は皆老いるが、その老い方が問題である。
我が父のように、どこにも悪いところが無いにもかかわらず、痛くて痛くて身体を動かすことが出来ないというのは本当に困る。
文字通り、寝たきり老人そのものであり、身体を動かすことが出来ないということは、下の世話も人任せにしなければならないということである。
ベットのうえで放心状態の父親の姿を見ていると、年は取りたくないということが実感としてひしひしと身に沁みて来る。
自分の父親ながら実に老醜であり、醜い姿である。
人はこれほどまでして生きる必要はさらさら無いと思うし、自分で身の回りの世話の出来るうちに寿命を迎えておくべきであると思う。
しかし、それが出来るのも運の良い人のみで、人は自ら好んで老いるのではないわけで、死ぬ時機を逸してしまった人が老醜を晒さなければならないことになる。
年老いた親に、早く死んでくれないか、と願う事は人でなしのような印象を受けるが、老醜を晒した親を介護する身になってみれば、そんな奇麗事は言ってはおれないというのが現実であろうと思う。
親から離れ、奥さんに自分の親の面倒を見さして、自分は職場で自分の親の介護から免れている人には分からないであろうが、自分で自分の親の下の世話をしてみれば、奇麗事では済まされない、ということが身にしみて理解できる。
それにつけても看護婦さんの仕事というのは実に大変な仕事である。
自らもガンで入院の際、看護婦さんの世話にはなったので、彼女たちの苦労のいくらかは理解できるが、我が家の父親のような、老人の下の世話をするということは看護婦さんといえども嫌な仕事に違いない。
看護婦さんともなれば、嫌だ嫌だといって逃げるわけにもいかず、職業として割り切ってはいるものの、嫌なものは誰がやっても嫌な仕事に違いないと思う。
赤ん坊のオムツを交換するのとはわけが違う。
「二度わらし(童)」という言葉があり、まさしく老人というのは赤ん坊に近づいている感があるが、それでも何十年という人生を潜り抜けてきた人間であるからこそ、赤ん坊の穢れのない存在とは比較にならない。
老醜とは実に醜いもので、自分の親ながら、如何にも醜いと思う。
私の個人的な考え方としては、こういう老醜を晒す前に天寿をまっとうしたいものであるが、そこはそう簡単に問屋がおろさないわけで、だからこそ、福祉の問題にすりかわってしまうわけである。
年老いた寝たきり老人を介護するということは個人ではもう不可能なことである。昔は長男の嫁がこの役目を負わされていたが、今から思えば、実に気の毒な役目であり、長男の嫁というのはよく辛抱していると思う。
戦後、封建制度が否定され、親の財産は子供たちで平等に分配するように定められたが、これは間違っている。
やはり、親の面倒を最後まで見た家族には、それ相応の財産分与は行われてしかるべきである。
親の面倒も見ないものが新憲法で定められた規定によって親の財産を平等に分けるという法律は間違っている。
年老いた親の介護が公共の施設で行われ、老人福祉が充実して、家族が介護しなくてもいい状況が出来あがれば、そういうことも可能であろうが、寝たきり老人の介護が長男の嫁の双肩にかかっている限り、介護をした者もしなかった者も皆平等に分けるというのは不合理である。
日本が戦争に負ける前の我々の制度というのは、封建制度そのままで、財産分与は長男に優先権があった。
ところがこれを日本に進駐してきたアメリカは、日本の古臭い旧習と断定して、親の財産はすべからくその子供で平等に分配すべきであると決め付けてしまった。
これほど民主的な法律もないように思えるが、自分の親が寝たきり老人になってまで生きる、ということが考慮の中に入っていなかったからこそ、こういう理想的な民主的思考が成り立ったわけである。
ところが現実に、老人の介護というのは、実質、長男の嫁の双肩にかかっているわけで 、家を出た他の兄弟は口先だけの感謝で済んでしまっているわけである。
昔、「楢山節考」という小説があって、年老いた母を姨捨山に捨てに行くという話であったが、今老人問題を考えるとき、この「楢山節考」のことを思わざるを得ない。
年老いた母親は、自分がこれから先、生き長らえて後の者に迷惑がかからないように、長男の背に負われて姨捨山につれていってもらうという話であったが、まさしく私の心境とおなじで、私も常々老醜を晒してまで生きたくないと思っている。
さりとて、都合よくお迎えがくるわけでもなく、そこのところが一番心配なわけであり、だから私は安楽死を願望しているが、これがなかなか合法化の見通しも立っていない。
介護の問題を云々するよりも、安楽死の問題を先に解決すべきではなかろうか。
人が死ぬこと推薦するような言い方をすると、世間では,その事自体に嫌悪感を示すが、自分の親が老醜を晒しているのを見れば、そんな奇麗事は言っていられないと思う。
自分の年老いた親のおしめを変え、尿瓶でおしっこをとってみれば、これは人間性をかなぐり捨てた老醜以外の何物でもないわけで、こういう人間の尊厳の微塵も見当らない生活を何時まで継続すれば開放されるのか判らない、という不安は経験したものでないと理解できないと思う。
自分の親だと思うからこそ、いやいやながらでも尿瓶でおしっこが取れるわけで、他人の世話だと思えば出来るものではない。
勿論、看護婦さんだとて喜んですべき仕事ではないはずで、仕事だと割り切っていればこそ、せざるを得ないだけのことであり、誰が喜んで老人のおしっこやおむつの交換など出来るものかと言いたい。
昔の日本は封建主義で、親の財産は長男が継ぐのが当たり前であったが、その背景には、こういう年老いた親の面倒を見る見返りの部分もあったに違いない。
ところが戦後の民主主義の世の中になると、親の財産は子供同志で平等に分けなければならなくなったわけであるが、それでは年老いた親の面倒を見た人は割が合わないわけである。
それで、こういう年寄りの面倒は社会で共同で見たらどうか、という発想が今日の福祉の問題だと思う。
親の面倒は社会全体でみさしておいて、その財産は子供同志で平等に分配するというのは、如何にも現代らしいものの発想である。
自分の年老いた親の面倒を社会全体で見たら、その人の財産もすべからく社会に還元してしかるべきである。
親の面倒も見なかった子供達が、それを等分に取るというのは理屈に合わない。
私の父の姿を見ていると、もう既に餓鬼に近いようで、いささか閉口する。
病院で出される食事を貪り食っている姿というのは、まさしく餓鬼の姿で、理性ある、知性あふれた人間の姿ではない。
明治生まれの頑固者で、食物に対して人一倍もったいないという気持ちを捨てきれなかった人間として、食べ残すということは一つの罪悪に等しいわけで、そういう人間だからこそ、身体は何一つ動かすことが出来ないでも、食べ物に対する執着は執ようで、出されたものを残すのは損だ、といわんばかりに食う姿というのはまさしく餓鬼の姿である。
「二度童(わらし)」とはよく言ったもので、まさしく赤ん坊に近い体をしている。それでいて、意識のほうはいっぱしの大人であるので、何時までたっても子供に説教したがるというところが赤ん坊と大いに違うところである。
赤ん坊のオムツを取り替える時は何も汚いとか臭いという事が気にならないが、年寄りのオムツというのは、そういう嫌悪感が先に立ってしまう。
自分の親にしてそう思えるのだから、他人の世話をしなければならない看護婦さんの仕事というのは実に大変な苦労だとつくづく思う。
そのうえ困ったことに、我が家の父親というのは、非常に我侭で、看護婦さんの扱いが乱暴だとか、食事が薄味過ぎるという文句をいうわけで、自分ではトイレにも行けず、一人で、つまり看護婦さんの世話にならずには下の世話も出来ないのに、文句だけはいっぱしに言うものだから、自分の親とはいえ非常に腹立たしく思えてならない。
年を取るということはこういうことだとつくづく思わざるを得ないが、こういう風にはなりたくないと肝に銘じている。
が、こればかりはその場になってみない事にはどうなることか不安でならない。
この地球上に人類が現れて何億年たっているのか正確にはしらないが、人類はあらゆる民族を超えて不老長寿を願望していたことに変わりはない。
しかし、昔の人は不老長寿といったところで70歳か80歳が限度で、90、100まで人間が生きれるなどとは思ってもいなかったに違いない。
人が科学の力に頼って、寝たきりになりながらも寿命を全うしようというのは、どこか間違っているようの思える。
大体、不自然であり、自然の摂理に反しているわけで、自然の節理に素直に順応しているとすれば、せいぜい60か70で寿命を全うしなければならない。
科学の進歩、特に医学の進歩というのは、従来の人間の思考を超越してしまっており、昔では考えられないことが今起きつつあるわけである。
ところが人間の意識のほうは従来の思考からさっぱり進化していないわけで、親が死ぬことを願望することは不道徳である、という2千年も昔の思考から脱却できないでいるわけである。
昔は人間の寿命が短かったので、人が寝たきりになってまで生きているということがなかった。
また、医学の進歩もそれほどでもなかったので、人はちょっとした病気ですぐ死んでいた。
だから人生50年でよかったわけである。
ところが近頃では食料は豊かにあり、医学は進歩し、福祉は充実し、住環境も数段と向上しているので人がなかなか死ななくなった。
死ぬか生きるかのぎりぎりの線上に、数多の老人の介護の問題がぶら下がっているわけである。
このぶら下がっている老人をあっさりと切り捨てよ、と人前で声高に叫べば、人はあれは人でなし、人非人と呼ぶに違いなく、それが世間の常識であった。
人が人の形をしている限り、その命を尊重しないかのような発言は、人々の顰蹙を買うことが必定で、人はそれが人の生きる道であり、生きることの尊さであると信じてきた。
確かに、人の命は尊重されてしかるべきである。
生きとし生ける者はその天寿を全うすべきであり、生あるうちは精一杯生きぬくことが人としての勤めでもあろう。
ならば、寝たきりの老人というのは本当に人として認めていいのか、と反論したくなる。
人の理性というのは、なかなか従来の基本的倫理観から脱却できないでいる。
年寄りは人ではない、と言うものならそれこそ顰蹙を買うわけであるが、本当に介護を要するような老人を、青年とか壮年とおなじ人間としてみなしていいのかという疑問が起きる。
老人といえども現役のときは人のため、社会のために大いに仕事をし、人類全体に貢献してきた、という実績は認めるにしても、おしっこやうんこが自分で出来ない人間というのは既に人間ではないように思えて仕方がない。
人間の思考とか慣習というのは時代とともに変化するのが当然である。
思考とか慣習ばかりではなく、倫理観とか人生観というのも、それと同じように時代とともに変化し、変化することによって、人類の進化があったように思う。
だとすれば人間が月に行き、宇宙に飛び出す時代ともなれば、人間の思考というのも大昔の思考とおなじではならないと思う。
けれども人命尊重という美名のもとに、死というものを忌み嫌う風潮というのは、大昔のものと何ら変わることなく、進化することもなく、今まで継続されているわけである。
人が若死にしていた時代ならば、死を恐れ、忌み嫌う風潮も理解できるが、今日においては、大昔の寿命とは雲泥の差で長生きする時代となった今、生きる意味を失った生というのは、どこかで断ち切らねばならないのではないかと思う。
こういう考えは不遜な考えとして従来は忌み嫌われ、口にさえ出来なかったが、目の前にオムツをして、完全なる垂れ流しの老人を目にすれば、そういう従来の考え方を再考しなければならないことは必定である。
日本の封建制度というのは、長男に家督を譲ることで、次男,三男というのはいわば極つぶしという扱いを長いことして来たが、今、人が宇宙に飛び出すような時代になると、その極潰しであるべき次男、三男というのは、老親の介護、老人の介護という地獄を味合わなくてもすむ優雅な立場になっている。
そのうえ戦後の民主的憲法では、親の財産は子供同志で等分に分割されることが保障されているわけで、親の介護からは開放され、財産は等分に分与される、ということはまさしく現代においては天国である。
親の財産が等分に分与されるとなれば、親の介護も同じように等分になされてしかるべきであるが、現実の問題として、これは不可能なわけで、実現性がありえない。
親を施設に放り込んで、その費用を等分に負担するということも理論的には可能であるが、これがなかなかうまく機能しないのが現実である。
親が耄碌してしまって、自分の意思というものが無いとしたらそれも可能かもしれないが、現実にはそううまい具合に物事が運んでくれない。
親というのは、自分の住みなれた家に対して相当執着が激しく、少なくとも意識がしっかりしている間は、施設などに自分から入るということはありえない。
意識はしっかりしているが、自分で自分の五体が動かせないというのが一番厄介で、我が家の親父が丁度それに当てはまる。
意識がしっかりしているので我侭は言いたい放題であるが、自分自身で下の世話も出来ないのに口だけはいっぱしのことを言うものだから、介護するほうとしてみたらまるでやるせない気持ちに追いやられる。
寝たきりで、運動をしないものだから身体の筋肉が萎縮してしまって、まるで骸骨のような有様であるが、意識がしっかりしているので、看護婦の悪口を言ったり、食事の不満を言ったりするわけで、これにはほとほと困る。
こういう親父の姿を見ていると、自分もこうなってはならないと肝に銘じているが、いざ自分もこういう年まで生きたとしたら、果たしてこういう醜い年寄りにならないという自信はありえない。
これは私個人の基本的考えであるが、人間が月にまで行ける時代になれば、安楽死というものを公的に認めなければならないと思う。
不老長寿というのは、生きたいと言う願望の強い人にとっては生きる希望であったろうが、自分の人生に大いに納得した人にとっては、ただの不老長寿というのは地獄に他ならない。
人はなかなか自分の人生に納得できるものではない。
自分の人生に未練がましい願望を持っているのが人間の習いに違いないが,醜態を晒してまで生きたくないと思う人も多々あるように思う。
そういう人にとっては、他人の介護がなければ生きられない、というのは地獄そのもので、そういう人々を地獄の苦しみから解放する施策も考えなければならないのではないかと思う。
それも人間の基本的人権の一つだと思う。
死ぬ権利、自分で自分の人生に幕を引く権利というものも、もうそろそろ考えてもいい時代ではないかと思う。
こういう状況で問題となってくるのが安楽死の問題である。
現在のところ日本では安楽死というものが法律で許容されておらず、善意で生命維持装置を取り外すとそれが犯罪となってしまう。
生命維持装置をしなければならない状況というのは、既に死んでいるということに他ならないと思う。
生物学的には、心臓が鼓動し心拍がある以上それは生きている、という考え方が、太古からの人間の認識で、それを今もそのまま引き継いでいるわけである。
ところが今、人が宇宙に飛び出す時代になって、科学技術が日進月歩の勢いで向上しているとき、太古の認識をそのまま現代社会に通用させようと思うほうが時代錯誤していると思う。
科学技術が日進月歩で進めば、人間の思考のほうもそれに追従して新しい考えを取り入れなければ人類の発展はありえないと思う。
最近の科学の進歩というのは10年1日という発達の仕方で、昔10年かかっていたことがたった一日で成就できてしまうわけで、人間の考えというのも、こういう科学技術の進化と同じ速度で追従してしかるべきである。
ところが人間というのは、自分の考えというものに大きな変化をきたす事が大いに不安なわけで、自分が革新的な発想をすると先祖に対して申し訳ない、という自己嫌悪に陥ってしまうわけである。
先祖からの呪縛から解き明かされることに大きな不安を抱いているので、なかなか革新的な思考を確立できないでいる。
例えば、親が死ぬ事を願望する、ということは人にあるまじき恥ずかしい思考だというのは、人間の太古からの常識であり、親はいかなる状態であろうとも息をしている限り子として親の面倒は見るべきである、という考えは洋の東西を問わず普遍的な考えだと思う。
ところが、今の医学というのは植物人間でさえも生命維持装置で何年も生き長らえる事が可能なわけで、これでは人の寿命というのをどこで決めるかという事が判らなくなってしまった。
以前は、人は寿命がくれば老いて死んでいったものが、今では老いても死ななくなってしまった訳で、オムツを着けた状態でも生き長らえているので、本人はまだしも、周囲で介護するほうの人が大変である。
本人は意識がないので恥も外聞もないが、介護する方にしてみれば、自分の身近な人間のオムツを交換したり、取りかえたりする作業をしなければならないとしたら、本人の尊厳、つまりは人間の尊厳というものが一体なんであったのか、という懐疑に陥る。
人間が年老いて、自分で自分の人生の幕をおろせない状態になってしまったときが最大の悲劇である。
しかし、人類の歴史において、自分の人生に自分で幕を引く事が出来た人間というのは非常に限られた人間しかいなかったように思う。
川端康成とか、太宰治、三島由起夫などという小説家は自分の人生の幕を自分で引いた人達であるが、こういうことはそう誰でも彼でも出来るわけではない。
人は自分の生理現象も自分で始末が出来ないような状況に陥ったならば、安楽死を選択する自由を認めるべきで、社会も安楽死というものを暖かく容認すべきだと思う。
人の命に生産性を考慮にいれる、ということは神を冒涜するものと思われるかもしれないが、本人の希望という事を考えると、一概に神を冒涜するとは云えないのではないかと思う。
本人が死を希望している場合、その希望をかなえる事は、本人のために非常に建設的、なおかつ好意的なことではないかと思う。
死にたくない人間を殺すのとはわけが違う。
人間が、年老いた人間が、人の手でオシメをあてがってまで生きるということは、人間の尊厳を真っ向から否定する事に他ならない。
その人に、人としての意識があれば、とてもではないが自尊心が許さないと思う。人間の尊厳も,人としての自尊心も、全くわからないほど耄碌してしまった人間ならいざ知らず、人が人としてきちんとした意識がある間は、そういう生き方に自分自身納得する事は出来ないと思う。
人の命は尊重すべきだ、という説は人間が人間としての尊厳を持ち合わせている間の事で、人としての意識も失い、自分自身を喪失し、ただ生物として、自然界の動物としてのみ息をしているに等しい人間に対して、安楽死もままならないと云う事は、ある意味で健康な人間の不遜な発想だと思うし、大きな人間のエゴだと思う。
人はこの地球上に存在して以来というもの、死を恐れ、出来うれば長生きする事を願って生きてきたに違いない。
長生きを願ってはいたものの、今日以前の人々は、人生50年でその大部分の人生の幕が落とされたわけである。
ところが今日、20世紀の科学技術の進歩というのは、人生の幕をなかなか落とそうとしないわけで、幕が上がっていれば、その分人は長生きしたと思い込んでいたわけである。
ところが、それは人生の幕が途中で何かにひっかかって落ちてこなかっただけのことで、その中途半端な時間というのは、まことに始末におえない時間、空間であったわけである。
下りるべきものが素直に下りないばかりに、その役者も、見物人も、途方にくれてしまうわけで、現実の問題として、寝たきりの人間を介護すると云うことは、介護の専門家であっても大変な労働だと思う。
ましてや介護の訓練を受けていない人にとっては、とても一人で出来る事ではない。
植物人間を一刻も早く天国に行かせる、ということは本人にとっても介護する側にとってもまことに有り難い事と言わなければならないが、今日それが許されていない。
人命尊重という大義名分で、安楽死を認めない、という考え方は健康な人の思い上がりで、身内にそういう介護をする必要が全くなかったか、その事を誰か人にさせたかの人で、自分で介護をし、自分で年寄りを看取った人ならば、きっと安楽死の必要性は理解し得ると思う。
死にかけの老人を何でもかんでも死なせてしまうというのではない。
あくまでも本人の意思で安楽死を選択するわけで、本人がそれを選択しない限り、当然の事として安楽死を強制するというわけではない。
不幸にして意識のあるうちにそういう選択をしていなかった人は当然の事として今までどおりの介護を受け、無意識のうちに生かされつづけるということに変わりはない。
安楽死の選択といったところで、あくまで意識がしっかりしている間の本人の希望によるものでなければならない事はいうまでもない。
当然、その意思表示には、遺言状に匹敵するぐらいの厳密な審査というか、けじめというか、査定というか、そういう証拠が必要なことはいうまでもない。
2002.3.30

Minesanの自己紹介に戻る