私の父は明治41年生まれ、西暦でいうと1908年である。
没したのが平成11年、西暦1999年で、91年間生きていたわけである。
生家は春日井市牛山町というところであるが、父が生まれた時代は、戸籍謄本で見ると、愛知県東春日井郡鷹来村牛山となっている。
そこの農家の三男として生まれ、上に兄が二人居り、父のこの兄に対する敬愛の情というのは結局死ぬまで変わらなかった。
一番上の兄、私から見れば、叔父さんであるが、この兄は海軍兵学校に進学したので、そのことを父は自分の事のように誇りに思っていた。
父、本人は海軍兵学校に入れるほど頭が良くなくて、当時の東海中学に進んだ。
当時の東海中学というのはいわば三流校で、愛知一中、明倫の後塵を拝していたわけであるが、それでもあの田舎の牛山から名古屋の学校に進学していたということは、私のお祖父さんというのはかなり教育熱心な人であったに違いない。
それと同時に経済的なゆとりもあったということだと思う。
父の話によると、自転車で学校まで通ったということであったが、あの大正時代にこの田舎で自転車で通学するということは、今ならば自家用車で通学するに等しい事ではないかと思う。
その時代背景を考えれば、相当の金持でなければ自分の子供に自転車を買い与えて私学に入れるということは出来なかったに違いない。
父は戦後教職についたが、自分の職を得た学校がまさしく私学の三流校で、名門校の東海には何かにつけて差を感じ、やるせない気持ちと同時に、自分の母校が名門になった事を自分の事のように喜んでいた。
同窓会の世話を晩年までしていた。
そういう経緯で私も東海に進み、一応は卒業したが、入ってから出るまでまさに低空飛行であったので、私は自分の母校に嫌悪感こそあるが誇りなどは微塵も感じたことはない。
この学園生活で得たものといえば、コンプレックスのみである。
父が終生持っていた海軍兵学校に進んだ兄貴に対する敬愛の情、そして自分が卒業した学校に対する敬愛の情というのは一体何であったのだろう?
父はその後東京に出て、武蔵工業大学、当時は専門学校であったに違いないが、そこを出て安立という計器のメーカーに職を得たらしい。
この会社が軍需品を作る会社で、その会社の技術者というわけで兵役を免れている。同世代の人たちは2度も3度も招集されているのに、我が家の父だけは兵役の経験がないのも不思議だ。
体が小さかったので、「兵役免除だったのだろう?」と、聞いてみると「俺はこれでも甲種合格だった」と威張っていた。
そこは航空機のメーターを作っており、それが空襲でやられ、工場も壊滅したらしい。
それで故郷に舞い戻ってきたわけである。
この頃は名古屋も同じように空襲でやられており、日本中に安住の地などなかった時代である。
だから名古屋近郊の守山にも疎開し、その後祖父母の隠居屋にも居候し、最終的に小牧の中町に居を構えたわけである。
ここに居を構え、まだ先生の口にありつけなかった頃、父はラジオの修理の出前のような事をして糊塗を凌いでいた。
自転車の荷台にラジオの修理工具一式を積んで回っていたようだ。
今流に言えば、ラジオ修理のデリバリー・サービスというところか。
この頃、我が家には父の手つくりの電蓄が二つも三つもあった。
家の前が警察署で(この頃、警察制度の改革があり民警と国警に分かれていた)家にある古いレコードを掛けると叱られるのではないかという事で、ボリュウムを一杯下げて聞いたものである。
というのも当時の我が家のレコードというのは、軍歌しかなかったわけで、とても右翼のように勇ましく掛けるわけに行かなかった。
父にとってはこの家で先妻をなくし、後妻を迎えたはいいが、私が私学の中学に行っていたので、家計は当然火の車でよくアルバイトの家庭教師に奔走していた。
その家庭教師の延長線上で塾の経営もしていた。
今の中区新栄で、同僚の先生らと三人でやっていたが、それがどうして解散したかは私は知らない。
父の教育に対する考え方というのは、どう考えても可笑しいところがあった。
と言うのは、人の評判に非常に左右されたというか、名声とか、ステータスに非常に弱いというか、自分の考えというものが無かったような気がしてならない。
目の前にある他人の評価に、自分や自分の息子を当てはめようというところがあり、本人の意思という事を全く無視して事を推し進めていたようだ。
絵に書いた理想に如何に近づくか、という努力をしていたような気がしてならない。
三人兄弟の中で私一人を私立に入れて、後の二人はそれこそ公立で済ませてしまった。
下の弟は確かに虚弱体質であったので、「無理に勉強させなくても!」という気持ちはあったかもしれないが、三番目の弟などは全くのほったらかしのようなものであった。
そのほったらかしの一番下だけが、父の念願の大学に進学したのも皮肉な事である。私に言わせれば、彼はほったらかしだったが故に、一番ストレスがなかったわけで、何をしても許されていたわけである。
その点私は「勉強せよ!」と、常に言われ続けたものだ。
「やれば出来るからやれ!」と言うわけであるが、思うようにやれないから低空飛行しているわけで、素直に勉強に打ち込めれば悩む事もなかった。
そこのところはついに理解されずじまいのままで終わった。
そのジレンマを父は判ろうとしなかった。
もうこの頃になると私も自我に目覚め、父の言うことばかりを聞いていたわけではなく、大いに反抗もしたわけであるが、とにかく高校を卒業して、自分で金を稼げるようになった時は嬉しかった。
とにかく父の金で生かさせてもらっている事が嫌で嫌で仕方がなかった。
父が一生懸命働いて、金を稼ごうとしているのを見ながら、私の方は思うように勉強が捗らず、悶々とした状態から抜け出す事が出来たのが嬉しくてたまらなかった。
父は情緒という事を解する能力がなかったようだ。
とにかく文学とか音楽というのは全く駄目で、物理系の参考書のようなものは必要に迫られて読んでいたが、小説などは一切読んだ事がなかったみたいだ。
そして音楽といえば軍歌か東京行進曲ぐらいしか知らなかったのではないかと思う。それで敬愛する兄貴、私の叔父さんのいうことには簡単に感化されてしまい、同じ兄弟で何故あれほど慕うのか不思議でならなかった。
父は結構新しい物好きで、テレビの購入もその延長線上のことではなかったかと思う。
新しい物好きの父は、ある時ホンダのスーパーカブというバイクを買い込んできた。
父はやはり昔の人間で、こういうものを実に大事に扱っていた。
しかし、父にバイクの乗り方を教えたのは私である。
左足のクラッチの操作と、右手のアクセルの操作を教えたものであるが、あれは考えてみると実に簡単な事であった。
そういえば私もオートバイの乗り方というのは会社の先輩から一言二言教えてもらっただけで、後は自由に乗り回していたわけだ。
当然、無免許だった。
私はこの頃貿易会社の250ccのホンダドリームを乗りまわしていたので、こういう軽量のバイクというのを少々馬鹿にしたところがあった。
オートバイの快感を味わったら、もうスーパーカブなど乗れたものではない。
当時、オートバイの免許はスクーターで行われていたが、この両足をきちんとそろえておとなしく乗るスクーターはオートバイのような爽快感がなく、試験コースのお山のてっぺんで足をついて失格してしまった。
それ以来無免許であった。
父は車の免許を取るのも遅くて、60を過ぎてから教習所に通ってとったらしいが、一年では拉致が開かず、二年がかりでとったという事だ。
そしてとったならば早速トヨタのカローラを買い込んで来た。
私の記憶では確か初代カローラだったと思う。
これも大事に大事に使っていたが、なにしろ60を過ぎてからのオーナーなわけで、動作に機敏さがなく、かえって危なっかしかった。
こういう点では父は確かに頑張り屋であった。
先妻に先立たれ、息子を金の掛かる私学に入れ、家を作る金も作らねばならず、それこそ身を粉にして働いたという感じである。
テレビ、スーパーカブ、カローラと来れば、これはもう日本の高度経済成長の路線を忠実にトレースしたようなものである。
そしてその最後の締めくくりがマイホームであった。
父がマイホームを作る動機となったのは、伊勢湾台風ではなかったかと思う。
この台風の後、祖父母の持っていた土地で、使用していない畑を借りて、そこに家を作ったのではないかと思う。
父は家をこしらえるについて、普通の木造住宅を選択しなかったことには大いに驚いた。
その当時、市場に出てきたばかりの鉄骨系プレハブ住宅であった。
昭和36年頃の話である。
今の東海ゴム工業の北側の大山川の歌津橋のたもとにそれを建てたわけであるが、当時あの辺りは一面畑で、西風がもろに当たったものだ。
まだ桑畑があちらこちらに残っていた。
広い野原、あの辺りは水田と畑が混在しており、見通しは極めてよかった。
そういう環境の中にモダンなプレハブ住宅だったので道行く人に注目されたものだ。
屋根はブルーのトタンで、壁は薄いピンク色、窓枠は茶色で、南側は広い窓が燦々と太陽を受け入れるという具合であった。
まだ生垣の木が貧弱で、道路から丸見えであったが、そういう開放感のあるところが好きであった。
明治生まれの人間が、こういう建物を選択するということは、かなりの新しい物好きではないかと思う。
但しこの家は屋根の高さが低いので、見た目が貧相に見えたのが欠点であったが、使い勝手は結構良かった。
今まで住んでいた小牧の家に比べれば雲泥の差で、これで人並みの家に住む事が出来たわけである。
しかし、周囲に工場や家屋が立ち並んでくるようになると、ただでさえ屋根が低いので、町並みの中に埋没してしまったようだ。
今では車の渋滞で出入さえ不自由な有り様である。
父は死ぬまで人間というものを理解しようという意識はなかったみたいだ。
自分の兄貴に対する敬愛と、自分の母校に対する敬愛の情というものは変わらなかったが、これは思い出に浸って生きていたということではなかろうか。
確かに頑張り屋で、自分の努力で何事も解決できる、という思い込みに浸っていたことは確かである。
逆に言うと、その思い込みがゆるぎないものであったが故に、人のアドバイスを受けず頑固一点張りで、頭の柔軟性に欠けているということも言える。
しかし、父が生涯を閉じ、私もその後を追う時期に差し掛かってよくよく考えてみると、やはり親子というのはどこかで似た部分があるようだ。
父にしてみると自分の三人の子供の中で、やはり長男である私に一番期待を掛けていたようだが、その分私が一番父の血を引き継いでいるような気がしてならない。
父は情緒に欠けていると記したが、確かに小説の類は全く読まなかったが、あれで案外文章は書いており、自分の受け持ちのクラスの文集等を作ったりしていた。
そして自分の感じた事を文章にしたりして、それを他人に無理にでも読ませようとしたものだから人様の顰蹙を買っていた。
そういうところを私も引き継いでいるようだ。
2002.3.30