母の事・生みの母と育ての母

私には母が二人いる。
生みの母親と育ての母親という二人の母親がいる。
しかし、生みの母親というのは小学校の6年生になった時に逝去しているので、そろそろ記憶が薄れかかっている。
正確には昭和27年5月27日死亡と戸籍上はなっている。
記憶が薄れかかったものほど残さねばならないわけであるが、生みの母親、寿美江母さんは一言でいえば薄幸であった。
本人の生年月日は大正元年11月28日で、昭和12年に父と結婚したことになっている。
本人の年で25歳というわけであるが、あの時代においては少々晩婚であったに違いない。
そして昭和27年に死亡という事は40歳で没した事になる。
この時、父は44歳ということになる。
寿美江母さんが薄幸であったという事は、長男としての私の思い過ごしかもしれないが、寿美江母さんと父は今でいうところのラブラブの関係ではなかったように見えた。
女性の幸・不幸は大いに連れ添った男性に左右されるというのは、人種を越え、国を越え、人類に課せられた普遍的なことであろうが、この世に生まれてきたからには、誰でも自分の意思で生きたい、自分の思う通りに生きたい、と願うのもこれまた人類の限りない願望である事に違いない。
ところがそうならないのがこれまた世の常で、人間の織り成す社会というのは、皆が見果てぬ夢を追っているようなものである。
その意味では普通の主婦という事が出来たかもしれないが、父と寿美江母さんとはやはり何か溝があったように見えた。
生母の記憶というのは既におぼろげになりつつあるが、その中でも印象に残っていることは、母がガラス戸の縁側に腰を下ろしてギターを抱えている写真である。
独身の時のものか新婚間もない頃のものだと思うが、黒い台紙のアルバムに張ってあるセピア色に変色した写真を眺めては、自分の母親というのはハイカラだったんだなあ、と子供心にも思ったものである。
密かに他所の子に比べて優越感に浸ったものである。
この母は文学も好きであったようで、私の幼い頃には蔵書もそれなりにあった。
しかし、それらも転居の度に数が少なくなった。
両親は昭和12年に結婚して私が昭和15年に生まれているので、ある意味では新婚生活というのは当時においてはかなり恵まれていたに違いない。
なんといっても太平洋戦争の前で、シナ事変は始まっていたとしてもこの頃はまだ対岸の火事という雰囲気でなかったかと思う。
父は電気関係の技師で、この時代はやはりある意味で技術革新の盛んな時期ではなかったかと思う。
特に機械、電気関係の技術者と言うのは花形職業ではなかったかと思う。
この頃の父の写真というは満面に誇りがあふれ、自信に満ちていた。
一人の人間の生涯として一番充実していた時代ではないかと思う。
私の生まれたのが東京の中野で、この頃両親は此処に住んでいたわけである。
すぐ下の弟も同じ番地で生まれているので、彼もこの地で生まれたわけである。
それから太平洋戦争が昭和16年に始まり、一家で守山に疎開してきた事はかすかな記憶に残っている。
家の前を瀬戸電が走っていた事をかすかに記憶している。
その後、父の在所、春日井の牛山の祖父母の家の隠居部屋に居候していた時期もあったようだ。
その後、私がいっぱしの餓鬼として生育した小牧の中町に転居してきたわけである。この生母、寿美江母さんは下手な横好きというのであろう、様々な趣味を持っていたようだ。
その中で特に印象に残っているのは、日本画というか、浮世絵というか、錦絵というべきか、ああいう類の絵を書く事が得意であったようだ。
それから刺繍も得意で、それらの道具が一式揃っていた。
音楽も得意だったようで、オルガンもあったが一度も母が弾いている姿というのは、見たことも聞いたことも無かった。
生母の事で特に印象に残っているのは、小学校の2年か3年ぐらいの時、学校で用便をして、そのとき紙が無かったので、ノートを破いて使ったという話をしたとき、字の書いた方を使ったのか、それとも字の書いてない白い方を使ったのか、と問われて、字の書いた方を使ったと答えたら、字の書いた方は大事だから字の書いてない白い方を使いなさい、と諭されたことがある。
このときも自分の母親はなんと思慮深い人かと内心驚いたものだ。
それともう一つ、やはりその頃大きな地震があった。(昭和22年、南海地震)
すると母親は料理中で、火の入った七輪を両手で持って閑所を通り抜け表通りまで走ったのを見て、ああ地震の時はああするのかと悟ったものである。
この母が肺病に冒されたのは何時頃のことであったのだろう。
私には思い当たる節が無い。
町中の医者に掛かったところが風邪だといわれて、それで用心しなかったのが原因だとは父の弁であるが、あの時代は日本全国が大混乱の時期であったので、やはりこれも運命であったに違いない。
それで結核と判ってからは小牧病院で入退院を繰り返していた。
この辺りの事情は先の「小牧病院」の項に記してある。
こういう経緯で、三人の育ち盛りの子供を残された父は必然的に後添えをすぐにでももらわなければならなかったわけである。
その間、一時的ではあるが小学校六年生の私が母親の役も勤めなければならなかった時もあったわけで、一番下の弟を背負って授業の引けた後の小学校で遊んだ事もある。
そして一番下の弟は、そういう環境下で、すぐ近くの幼稚園に入れられて三人兄弟のうちで彼だけが幼稚園に入れてもらった。
そして年が明けるやいなや、育ての親として登美子母さんが来た。
登美子母さんはまさに気の強い肝っ玉母さんであった。
そもそも彼女の生い立ちがそういう性格を作り上げたに違いない。
継母が来た時、そのことを事前に知っていたわけではないが、生活を共にするうちにだんだんと彼女の性格が理解されてきた。
その理解が進むと、それは同時に私との軋轢ともなっていったわけである。
登美子母さんは、本人が話したところによると、生後まもなく貰われて、貰われた先で一人娘として我侭一杯に育てられたということである。
その上勝気と来ているので、長男の私とも大いに衝突したわけである。
それに輪をかけて、看護婦、当然、従軍看護婦として、荒くれ男達を手玉に取ってきたに違いなく、自分の生んだ子ではない故、対等に私と渡り合ったわけである。
こういう様子を他人から見るとどうも継子苛めに映っていたらしい。
確かにそういう面もあるにはあったが、私にとっては親子喧嘩だと思っていた。
継母が最初に我が家に来て、私達家族は全幅の信頼をこの登美子母さんに預けたわけで、そこには生みの親、育ての親という区別はなかった。
だから常に我々家族は本音でものを言っていたわけで、本音と本音がぶつかり合ったものだから、当然それは喧嘩になってしまったわけである。
この母親はとにかく本が好きだった。
特に「主婦の友」は欠かさず取り寄せて読んでいたが、あのころ回覧雑誌というのがあった。
月いくらで契約しておくと、毎週定期的に雑誌を持ってきてくれるという商売があった。
それを随分利用していたようだ。
母が「主婦の友」を読んでいるので、当然私もそれを読むわけで、知らず知らずのうちに性教育がなされていたわけである。
又、犬が好きだった事は先にのべたが、小牧の中町にいる頃は、東側の一番陽があたる場所に座り込んで、鳴海絞りの内職をしていた。
どうしてあんな内職をする気になったのか知らないが、とにかく鳴海絞りの内職をしていた。
母のしていた作業を見ると、この絞りというのは大変な作業の結果として、あのような美しい絞りの模様が出来上がるのである。
あらかじめデザインされた模様に添って一つ一つ絞り込んでは糸で結び、それを結んだまま染めるわけで、内職をしている本人はその結果を見ることがない。
母がしていた作品は一度も見たことはないが、後年東海道53次を回っていたとき、鳴海の宿で、「鳴海絞り会館」というところに立ち寄った際初めて鳴海絞りというものの完成品を見た。
母がしていたことはあれだったのかと約半世紀ぶりに納得をしたものである。
この母とはよく衝突をしたものである。
何が原因だったかはわからないが、とにかく寄ると触ると喧嘩していたような気がしてならない。
後年、私が家を出たりしたが、帰ってくれば又喧嘩をしていたような気がする。
とにかく喧嘩ばかりしていたような気がするが、何が原因でそうそう喧嘩していたのか今になってみるとさっぱり思い出せない。
思い出せないという事はそう大した理由がなかったのだろうか?
お互いのコミニケーションが下手だったのだろうか?
彼女も最後はガンに冒されていた。
本人は前々からガンという事を知っていたに違いないが、決して病院に行くということをしなかった。
恐らくこういう事が喧嘩の原因ではなかったかと思う。
人の言う事を聞かないというか、人のアドバイスを受けないという点が彼女の最大の欠点で、自分自身その悪弊を承知しながら、本人自身もなんともならなかったに違いない。
最後は本人自身が万策尽きて、医者に見せるほかない、というところまで我慢しながら、やっとその気になった時は手遅れで、既に風前の灯となっていた。
それでも最後は父に見取られて安らかに眠った。
登美子母さんの時は、父が喪主で全ての事を取り仕切ったので、あまり記憶に残っていないが、このときは斎場を借りずに自宅で葬儀を行ったので、大変であった。
2002.3.29

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