テレビにまつわる話

日本のテレビの発達というのは日本の高度経済成長と共にあったのではないかと思う。
我が家で父がテレビを購入したのは、私が高校を卒業した頃であった。
つまり昭和34年、伊勢湾台風の時には非常持ち出しの筆頭であったことを記憶している。
この年に今の天皇陛下が正田美智子さんと結婚するという事があり、それを家で見ていた記憶がある。
その時に一人の暴漢が皇太子と美智子妃の乗った馬車の走り寄ったシーンもあったように記憶している。
これがこの年の4月10日の事だったので、父はそれにあわせてテレビを購入したのかもしれない。
なにしろそれまでは電気屋の店先で人の肩越しに覗き込むしかテレビと言うものが見れなかったわけである。
この時代、プロレスが全盛で、力道山とシャープ兄弟のカードなど電気屋の店先は黒山の人だかりがしたものである。
なにしろ一般家庭ではまだテレビなど購入するゆとりはなく、電気屋の店頭に並んでいる展示用の物を覗き見するぐらいしかテレビに接する機会はなかった。
そういう時代背景ならばこそ、この頃小学校の校庭での野外映画会というものがあった。
これは小学校の校庭にサッカーのゴールのような棒を二本立て、その間にスクリーンを張って野外で映画を上映したものである。
風にスクリーンが揺れると、それにあわせて画面もゆれるわけで俳優の顔がそのたびにゆがんだものである。
この時の映画で題名がどうしても思い出せないが、映画の途中でモノクロ・フイルムがカラーに変わる映画があった。
確か片岡千恵蔵主演のギャング映画だったと思うが、あの時代には斬新な映画ではなかったかと思う。
この時代、視覚に訴えるメデイアといえば映画しかなかった。
聴覚に訴えるものとしてはラジオがあったが、このテレビというのは視覚と聴覚をを同時に満たしたわけである。
こんなわけで、我が家にはこの時からテレビが入ったわけであるが、そのテレビは一番東側の居間の隅に置かれ、父の定位置からは一番良く見える場所を陣取っていた。
これと同じ形のテレビは、今東京九段下の昭和館に展示されているので、もう既に歴史になったという事である。
前面全体がほとんどブラウン管で、下の方の両側につまみが二個在り、四本足のものである。
伊勢湾台風のときは部屋全体に雨漏りがして、部屋の中でも傘がいるぐらいであったので、てっきり屋根は吹き飛んで無いものと思っていた。
ところが翌日屋根を見てみると瓦は一枚も無くなってはいなかった。
下から吹き上げる風が瓦を押し上げ雨漏りをさせたのだが、このとき屋根裏の埃を全部くっつけて部屋の中に落ちてきたので、真っ黒の雨が部屋の中に落ちてきたわけである。
そういう雨漏りからテレビだけは何とかして守らねばならなかったので、場所を移動させ布団を被せて保護していた。
そんなことをして台風はやり過ごしたが、台風通過後、電気が復旧すると、このテレビは台風被害を克明に報じていた。
名古屋市の南の方の惨状は目にあまるものがあった。
そして後年、ある工場で臨時工として働いていた時、夜勤明けでくたくたになって家に帰り着き、朝飯を食べていた時、ケネデイー大統領暗殺のニュースが入ってきた。
昭和38年、1963年11月22日のことである。
このときは日米の初の宇宙中継が計画され、その第一報がケネデーの暗殺のニュースだったように記憶している。
このケネデイーという大統領には私は特別な思い入れがあった。
と言うのは、彼は若干43歳にして老練な、そしてアメリカの英雄であるアイゼンハアーと大統領選を戦って勝ったわけで、そこにアメリカのバイタリテイーというものを感じ、そしてキューバ危機ではこれまた老練なフルシチョフと互角に渡り合ったわけで、そういう大統領を簡単に殺してしまうアメリカというものが不可解でならなかった。
撃たれた大統領に覆い被さったジャクリーヌ婦人の後姿がまだ私の脳裡にこびりついている。
それと同時に、ケネデイーが撃たれると間髪をいれず、ジョンソン副大統領が飛行機の中で宣誓して大統領に昇格するという合理性にも大いに驚いたものである。
日本社会党の浅沼稲次郎が刺された事件もこのテレビで見た。(昭和35年1960年10月12日)
そして安保闘争、東大紛争という60年代の日本の歴史をこのテレビで見たものである。
こういう堅い話はさておいて、テレビに関する私自身の思い出となれば、やはり「夢であいましょう」という番組であろう。
このテレビ番組、中島弘子が少し首をかしげて頬笑みながら、番組の最初と最後に現れるシーンが今も瞼の奥に残っている。
日本で最初の音楽バラエテイーということで、軽いタッチのコントがあったりして非常に気に入っていた。
この時は永六介作詞と中村八大作曲というコンビで、この二人はその後この番組から沢山のヒット曲を世に出した事は周知の事実である。
そして民放の方では「ヒット・パレード」という番組で、これも「夢であいましょう」の二番煎じ的な番組であったが、やはり同じ事をしていては沽券に関わると思っていたのであろう、上品さというものが欠落しており、無理に笑いを押し付けるという感がしないでもなかった。
「夢であいましょう」の方はクスッと笑えたり、二ヤッとしたり、ユーモアに奥ゆかしさと言うものがあった。
民放の方にはこういう奥ゆかしさというものが感じられず、大口を開けた下品な笑いを無理にでも引き出そうする、強引な企画であったように思う。
笑いの押し売り的な企画であった。
この頃こういう軽妙なタッチの軽いバラエテイーも好きであったが、やはりアメリカのドラマに出てくるアメリカン・ドリームには限りなく憧れたものである。
この頃で記憶に残っているアメリカのドラマはなんといっても「サンセット77」である。
これは二人の私立探偵と一人の走り使いの若者の織り成す一話完結のものであったように記憶している。
その中でもその使い走りをする若者がクーキーと呼ばれ、いつも髪を櫛で梳かしていた。
その格好が如何にも新鮮に我々には見えたものだ。
丁度この頃、私は小さな貿易会社に就職していたが、そこの先輩に4年生大学英文科を卒業した、今で言うところのキャリアー・ウーマンが一人いて、私よりも四、五歳年上で、向こうが生意気な餓鬼をからかうには丁度手ごろだったのであろう、その彼女から「貴方、クーキーに似ているねえ!」と言われたときは内心嬉しかった。
「オヌシなかなか話がわかるなあ!」という感じでこちらもほくそ笑んだものだ。
この彼女、土建屋の娘で、職場では社長も平社員もなく、社長専用の社有車でも、空いていれば、さっさと自分で運転して自分の仕事に使ってしまうという猛者であった。
この「サンセット77」のほかに「サーフサイド6」という同じようなものもあった。
そして極めつけはステイーブ・マクイーンの「拳銃無宿」である。
それからエリオト・ネスの出る「アンタッチャブル」と、この頃のテレビ・ドラマを語りだせばきりが無い。
そしてやはり大晦日の「紅白歌合戦」である。
これは家族全員が揃って見たものである。
ところがこの「紅白歌合戦」と言うのは、あらゆる音楽ジャンヌを網羅しようとしているので、年とともにあまり見る気がしなくなってきた。
まだカラオケというものがこれほど普及する前は、演歌などとは言わず、流行歌乃至は歌謡曲といっていた。
私はこの歌謡曲というのが嫌いで、これが多いと見る気がしなくなったものだ。
この紅白歌合戦に出してもらえなかったのがロックン・ロールである。
ところがこちらはそれが見たいわけで、これは最近になってやっとオールデイーズということでNHKの市民権を得、年に一回ぐらいの割で堂々と放映されるようになった。
私はもともとテレビの好きな人間であるが、自衛隊に入ってからと言うもの、あまり見なくなった。
その後、家庭を持った最初の頃はやはり子供に付き合って子供向けのものを見た記憶があるが、「アルプスの少女ハイジ」とか、「一休さん」などいうアニメーション映画というのは大人が見てもけっこう楽しめるものである。
今はもう殆どテレビ・ドラマというのは見ないが、見るとすればNHKスペシャルである。
そしてNHK BSの映画である。
目下、我が家のテレビは最初の頃のテレビに比べると雲泥の差で良くなっているが、なにしろ多機能で、機能が多すぎて使い切れない。
何時も何時もビデオをセットするのにおおわらわで、セットが上手くいかないときは、テレビをぶち壊したくなる衝動に駆られる。
戦後、最初の民間放送局というのは中部日本放送CBCと聞いているが、民間放送というのが聴取料を取らないというのがどうしても理解できなかった。
NHKは金を取っているのに、同じ事をしているのに何故民放の方が聴取料がいらないのか不思議でならなかった。
広告でそれを賄っているといわれてもどうにも理解できなかった。
2002.3.24

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