入鹿池・この思索の場所

名古屋の北区上飯田から三階橋で矢田川を越え、水分橋で庄内川を越え、もっと北まで来ると小牧に入り、小牧を抜けてもっともっと北に進むと犬山に行く事ができる。
この小牧から犬山に抜ける途中にある羽黒というところで東に折れると、入鹿池に行く事ができる。
この入鹿池というのは私にとっては小牧山同様、幼少の頃からの遊びの舞台であった。
今は明治村が出来て、入鹿池というよりも明治村といった方が判りやすいかもしれない。
明治村も出来た端は名鉄電車の羽黒駅からバスが出ていたが、今は犬山駅が整備され、犬山駅からバスが出るようになった。
電車の駅名も一事は明治村口駅といわれたように記憶しているが、はっきりとは記憶にない。
しかし、ここは小牧の住人にとってはかなり遠いところで、子供の自転車でも1時間はかかるので、そうそう度々は来れないが、来れば一日目一杯時を過ごすので、そういう意味で懐かしくもあり、青春を懐古する場でもある。
ここに最初に来たのは小学校を卒業して、中学に上がるまでの春休みだったと思う。
学童仲間5、6人で固まって自転車を漕いで来たものだ。
今は名犬県道になっているが、当時は国道だったように記憶している。
この道を戦時中、三菱の大江工場から牛に引かせてゼロ戦を各務ヶ原まで運んだということを後日知ったが、なんだか素直には信じられない気持ちだ。
国道41号線が出来て格落ちしたのではないかと思うが、当時は今の名犬県道しか道がなかったわけであの道を羽黒まで来て、羽黒の名鉄電車の駅の傍で右折して砂利道をえっちらこっちらと自転車を漕いで入鹿池までたどり着いた記憶がある。
その途中採石場があり、山を削っていたが、これは今でも続いているのが不思議でならない。
この採石場の傍で愛知用水が空中を走っているが、昔はあれはなかった。
羽黒まではなんとか舗装がしてあったが、あとは砂利道である。
この砂利道というのは、今は日本でも殆ど見かけなくなってしまったが、自転車にとっては非常に走りにくい道である。
道路の脇の方は細かい砂利で、中央には粗い石が集まっており、細かい砂利のところを選んで走らなければならない。
そして車が通る度に砂埃が舞い上がり、前も後も見えなくなってしまう。
そんな道を5人も6人も連なって遠征したものである。
この池は農業用の溜池として人造湖である。
今でも信じられない気がするが、そう碑に記されている以上信じるほかない。
それだから下の低地から堰堤までは緩いスロープになっているが、昔の自転車ではこの坂を登るのが非常にきつかった。
それは今でも変わらないはずであるが、今は自転車ではなく自動車で登るので実感が伴わない。
尤も、私に限って言えば、健康のために再び自転車(MTB)を愛用しているので、図らずも昔の苦労を忍んでいる。
このスロープの登り口のところに昔から小学校があったが、このスロープを登りきるとそこに大きな池が見えたものである。
この光景は今でも変わらないが、昔は一面木立しかなかったが、今は湖面の向こうは明治村になっている。
この池は人造湖でいきなり深くなっている。
特にこの斜面を登りきった辺りは、堰堤になっているわけで、この辺りが一番深そうである。
それでこの堰堤の南側には水量調節の堰があって、ここで水量を調節しているが、季節によって水量がかなり違う。
春先から入梅になるまでの辺りが一番水量が多いのではないかと思うが、正確には知らない。
私がここに遊びに来るようになった当初から、この堰堤には貸しボート屋が2、3軒あった。
今では10軒程度に増えているが、いづれも観光地化しようと一生懸命のようで、地元の人間としては観光地などになって欲しくない。
そうは言うものの、相手も生きていかねばならないので、生きんが為の方策を探れば、ボートでも貸して、日銭を得なければならないのであろう。
その後、中学、高校、そして社会人になってからもこの入鹿池には足繁く通ったものである。
あるときは友達と、あるときは一人で、夢多き青春時代に、考え事するときにはよくここまで足を伸ばしたものだ。
ここに来たとて悩みが消えるわけではいが、一時的にしろ忘れる事はできた。
「下手な考え休むに似たり」という戯れ言葉があるが、正しくそれで、悩みを考え抜くつもりで来ても、体を動かす事に心が行ってしまって、沈思黙考することがお留守になってしまうわけである。
結局は遊び呆けたという結果だけしか残らなかった。
大体、自分の悩みを考え抜いたところで、事態が改善できるわけがない。
昔はここのボート屋も鷹揚なもので、一日200円でボートが乗り放題であった。
だから200円払ってこの池の隅から隅まで探検したものである。
一日中ボートを漕いでいたものだから掌がマメまるけになった事もある。
今の明治村のある下辺りは特に入り江が複雑で、その辺りに行くと元の水田が水の中に放置してあったり、松ノ木が水面まで垂れ下がっていたりして、実に面白かったものである。
羽黒から来た道をもっと奥まで進むと、奥入鹿という集落がある。
そこには五条川という川が流れ込んでおり、この川までボートで来て、この川を遡り、いよいよ川幅も狭く、岩がごつごつして流れがなくなりそうになると、ボートを降りて手で引っ張り揚げては行ける所まで遡ったものである。
池の中の入り江という入り江を隈なく探検した事もある。
そのとき廃線の跡の古びた鉄橋を見つけたりしたが、その線がどこからどこまで敷かれていたのか未だにわからない。
水が湖面一杯にあるときは実に楽しい探検ゴッコのフィールドであった。
水面まで松ノ木がたれ下がっていたり、低木が水没して水面に笹や葦が生えていたりして、その中をボートで漕ぎ入って行く時はなんとも言えないスリルがあった。
この辺りは堰堤の対面にあたり、自然の地形が緩く下がっていたのであろう、遠浅になっている。
そして水量のない時期になると干上がってしまう。
はるか遠い昔、やはり一人でここに来たとき、恐らく中学生の時見た光景であったと思うが、多分岐阜の各務ヶ原の飛行場に進駐していた米軍の家族であろう、アメリカ人が本国の生活をそのまま再現しているのを目撃した事がある。
というのは、あのフルサイズの乗用車にトレーラーを付け、そのトレーラーにはモーター・ボートを積み、この辺りつまり奥入鹿の浅瀬で、水上スキーをはじめた。
始めモーター・ボートのエンジンをアイドルで保ち、岸辺の浅瀬にスキーをつけた人がロープを掴んでしゃがんで待機していると、モーター・ボートが勢いよく疾走するにしたがい、ロープがぴんと張り渡りスキーをつけてしゃがんでいた人は徐々に浮上して水しぶきを上げ湖上を舞っていた。
まさしく映画で見る光景そのものである。
その時は、この米軍の家族5、6人がこの入鹿池そのものを独占していたようなものだ。
その後、日を改めて同じ場所に行ってみたら、日本語で書かれた看板が立ち、水上スキーは危険につき禁止となっていた。
ここに日米の発想の違いを垣間見た気がした。
こういう大自然を相手の遊びを危険と思うところに日米の発想の違いがあると思う。
その後の日本は高度経済成長を経験し、テレビ等も各家庭に浸透したので、日本人は皆共通の認識を持つようになったかというと案外そうでもなく、我々の民族の根源的な発想というのは、テレビの情報などでは変わるものではないようだ。
というのは、ここに大自然の作った一つのロケーションがあるとする。
例えば入鹿池であったり、東尋坊であったり、グランド・キャニオンであったりで、その景観を人々は見て楽しんだり、アウト・ドア・ライフで楽しもうとすると、我々日本人の発想は、「そこは危険だから入ってはならない、立ち入り禁止」という措置を取って、それが行政なり、統治する側の市民に対する安全措置だと思いがちである。
ところがアメリカ人の発想では、その場所が危険な事は一目見れば判る事で、その事を承知で、こういう危険なところで如何に安全に楽しむか、という発想になるわけである。
我々は「あれはしてイカン、これもしてはイカン、そこは危ないから入ってはイカン、あれもイカン、これもイカン」という発想から一歩も抜けきれないわけである。
アメリカ人にしてみれば「危ないことは始めからわかっている、危ないからスリルがあって楽しいのではなか?」という論法になるわけである。
ここで日米の気質の違いを掘り下げて論ずるつもりはないが、アメリカ人が本国の生活をそのまま日本に持ち込むと、我々の側ではただちにアレルギー反応を起こしたわけである。
水上スキーをしたのはアメリカ人であって、そのアメリカ人に日本語の立て看板を立てたところで、通じないのではないかとも思った。
この立て看板の効果があったのかどうか知らないが、その後はここで水上スキーをしている人を見た事はない。
この奥入鹿から奥は当時道があったかどうか定かに知らない。
私が子供の頃とはすっかり変わってしまっており、あの当時これから先に自転車で行く事には躊躇したものである。
その後、成人して車に乗るようになってから、少々奥まで進んでみた事もあったが、あの当時はこの奥入鹿までが限界であった。
明治村が出来た辺りからこの辺りの整備も進んだようで、特に中央高速の小牧東インターが出来て、この辺りも見違えるように開発されてしまった。
中央高速を降りて導入路を下って来て、三叉路の信号を右に行くと入鹿池を通り可児の方に抜けることができる。
左に行くと春日井方面に抜けれるが、この道は以前はなかった。
入鹿池の堰堤から奥入鹿を通って可児に抜ける道は以前から有るにはあった。
しかし、その頃はやはり自動車の通れるような道ではなく、せいぜいリヤカーの道でしかなかった。
この辺りになると流石の私も自転車では遠征し切れなかった。
しかし、車に乗るような生活になると、やはりそれなりに探究心を発揮して踏破しておいた。
車でもいささか不安になりそうな秘境のようなところである。
つづら折れの上に道幅は狭く、片一方は崖が迫っており、対向車が来たらどうしようという心配をしながら通り抜けたものであるが、その頃はこんな奥に入ってくる車もなかった。
舗装もしてあったりしてなかったりで、道幅も狭くなったり広くなったり、落石があったり倒木あったりで、面白いといえば面白いが恐ろしくもあった。
この道はそれなりの覚悟をして入っていけば、最終的には多治見に出ることが最近わかった。
まさしく林道そのものであるが、つい5、6年前、息子の使っていたお古のMTBでそのコースを踏破した。
奥の方に入ると東海自然歩道というハイキング・コースに合流し、それを伝っていくと内津峠に出た。
ここまで来るともう「自転車に乗って」ということは出来ず手で押していかねばならない。
しかし、林道は例外として、今はこういう道も全て新道ができて完全舗装の立派な道になってしまっている。
そうなれば当然人も来るわけで、俗化したというか、自然破壊、ごみ公害というのも必然的に出てくる事は致し方ない。
不思議なもので、明治村に来た人は案外こちらに流れては来ないようだ。
あの明治村も以前、友人が家族連れで来た時に同伴する形で一度行った事はあるが、近くにありながらまだゆっくりと回った事がない。
昔はこの辺りはマツタケの出る赤松の林で、土が赤土なものだから作物の栽培には適さず放置されていた土地である。
そして、その下に広がる低地を最大限利用するつもりで、ここに池を作り、水田耕作をする目的で此処に池が出来たものと思う。
この池が過去に決壊したことがあるというのだから驚く。
その時には今の羽黒あたりまで石が流れてきたということだ。
そして羽黒からこの池に来る途中にある採石場というのも私の子供の頃からあそこで石を取っていたが、それが半世紀も続くということが不思議でならない。
奥入鹿の五条川というのは、この砕石場辺りの水量調節の堰から再び流れ出して、羽黒の町を桜並木で賑わし、岩倉を通り新川まで続いている。
この五条川の堤防の桜並木というのは近年特に綺麗になった。
花見のシーズンももうすぐだ。
子供の頃、自転車で遠征したこの辺りを今は再び自転車で徘徊しているが、同じ自転車でも半世紀経過するとMTBに変わった。
自転車で徘徊する故郷は、車で駆け抜ける故郷とはまた別の顔が見れる。
2002.3.16

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