車について・私の車遍歴

私はどういうものか子供の頃から車が大好きであった。
本当は車だけではなく、動くものにはなんにでも興味を持っていた。
ところが車が一番身近で、汽車や電車では駅まで行かなければ見る事が出来なかったからである。
車ならば向こうからやってくるわけだから、居ながらにして見る事ができる。
幼少の頃は日本がまだ占領中で、日本製の車そのものが少なかった。
その中で特に目についたのがアメリカ占領軍のトラックである。
戦争が終わったのが1945年。
私が物心ついて世間というものを自分の目で確認し、その見た事で頭脳が刺激を受けるようになったのはやはり1950年代からではないかと想う。
この頃のアメリカの軍用トラックというのは未だに私の脳裡から離れていない。
あのボンネットの丸みを帯びたカーブ、屋根の幌、扉の紐(ドアは無くて紐一本渡っているだけ)、あの10輪と称する車輪の配置、あの色、あのエキゾースト・パイプなどなど、一つも記憶から薄れたものは無い。
不思議な事だ。
この頃、やはりアメリカ軍においても、こういうものの新旧交代というかモデル・チェンジのようなものがあって、トラックにしろ、ジープにしろ2種類のモデルがあったように記憶している。
私にとってはそのちらも好きなデザインであった。
名古屋に通学していた頃、東区山口町の曲がり角、上飯田から出た市電が赤塚の方に曲がる角で、この軍用トラックが電信棒にぶつかっていた。
トラックのバンパーは何もへこみは無かったが、電信棒の方は見事に折れていた。かように頑丈であったわけである。
同じ頃、小牧山に遊びにいったとき、今の小牧市役所の西側に、頂上に向けて登る道がある。
あの登り口というのはその頃、木で土留めをした階段になっていた。
そこにジープで乗りつけたGIが、あの坂をジープで登っていってしまったのを見て驚いたものである。
この当時、米軍の車と日本の車では何から何まで比較にならなったわけである。
終戦直後の日本のトラックとかバスというのは木炭車であった。
ドラム缶を2本つないだぐらいの釜を運転席の後に取り付けて、白煙をもうもうと出したものの、殆ど使い物にならなかったのではないかと思う。
この当時アメリカ人の乗る乗用車を「3万ダイ」と称していたが、この意味というか語源というか、それが未だに良くわからない。
登録番号が5桁で、その最初に3が来ていたのでそう呼ばれたという説があるが、案外そうなのかもしれない。
この乗用車にラジオが付いていたのを見て、これも幼心に大きなカルチャー・ショックであった。
アンテナ(空中を引っ張るアンテナ)もアースも無いのに、何故ラジオが鳴るのか不思議で不思議でならなかった。
こういうアメリカ占領軍の軍用車輌、その軍属、軍人の乗る乗用車を横目で見ながら灰色の青春時代を過ごしていたわけであるが、この時まさか自分が車を持てる身になるとは思っても見なかった。
この時代の私は、10年も20年も先のことを考えていなかった事は確かであるが、日本がこれほどの車社会になるとは想像も出来なかった。
そう思っていたので、免許を取得したのは案外遅かった。
これも自衛隊にいるとき取得したが、私の自衛隊での職種は民間ではなんとも仕方のない職種で、自衛隊にいるうちに何とか世に出て役に立つ免許を取らなければ、と思って札幌近くの自動車学校に通ってとったものである。
その免許証は更新の時、更新日を忘れており2、3日切らしてしまったので、再発行を受けたことで愛知県発行のものに変わってしまった。
それから幾星霜すぎて、私も人並みに結婚して妻を娶った。
その時点で三菱重工に就職もしていたので、ささやかながら新婚生活が始まったわけである。
昭和44年のことである。
この時の三菱重工というのはまだ自動車が分離しておらず、車そのものが自社製品であったわけである。
そこで自社製品の拡販という意味で、当時従業員販売という制度があった。
価格はそれほど値引きはされていないが、3年とか4年という長期月賦で買えたので、社員の大勢が利用していた。
その頃、工場では駐車場を3面持っていて、かなりの人が工場の脇の駐車場に車を止めていた。
日本のモータリーゼーションの初期の頃である。
トヨタのカローラと日産のサニーが一世を風靡していた頃の話である。
私の父親と言うのは60を過ぎてから自動車学校に通い、2年越しで免許を取得し、その頃初代カローラ愛用していた。
私は家内と見合いして最初のデートの時、この親父のカローラを借り、出来たばかりの東名高速に乗って、三ケ日までドライブしたが、そのときワイパー・ブレードを風で飛ばしてしまい、早速JAFの世話になった。
結婚後半年ばかりは自転車で通勤していたが、だんだんと車が普通の乗り物として普及してくると、どうしても自分の自動車が欲しくなってきた。
それで家内も買ってもいいというものだから、近所の中古車屋で物色していると、家内が「男が最初からそんな中古車ではいけない、新車にすべきだ」とのたまった。
まるで山内一豊の妻のような事を言うので、金も出してくれるのかと想ったが、こちらの方は現実的で私の給料からの天引きになった。
それで会社の制度を利用して新車にしたが、最初はミニカから始まった。
この頃のミニカは空冷二気筒エンジンで、エンジンはすこぶる良いのだがそのデザインたるや見れたものではなかった。
野暮を通り越して不細工であった。
しかし、この頃デザインを一新したミニカ70というのがでた。
70と言うのは1970年、昭和45年という事であろう。
これは洗練されたスマートなデザインであリ、空冷の今までのエンジンと水冷四気筒の新エンジンとが平行してデビューしてきた。
私はエンジンに関しては実績のあるほうを選び、デザインは斬新なものを選んだ。この車、実によく活躍してくれた。
軽自動車とはいうものの燃費はあまりよくなく、スピードもあまり出なかったが、粘り強く走りつづけ、全くの故障知らずであった。
この頃、長男の出産があったが、その出産に関連しての病院通いや、家内の実家の往復とか、長男が少し大きくなってからは家族旅行などに大いに活躍したものである。
長男が少し大きくなって、会社の保養施設を利用して伊豆に出掛けた時、東名高速を走っている最中に、非常に激しい豪雨に見舞われ、視界は雨で閉ざされ、普通の車は皆路肩によって止まってしまったが、川のような中を私のミニカだけが、とぼとぼ、びしゃびしゃと70kmぐらいのスピードで結局は一度も止まることなく走り抜けてしまった。
この車は私の長男と長女のゆりかごの役目も果たしていたので、窓には幼児向けのシールを一杯貼り付けていた。
結局この車はどこも悪くは無く、故障知らずで五年ぐらい乗っていたが、子供がだんだんと大きくなると共に、グレード・アップを図り、次がギャランFTOになった。
この1970年代、三菱ではギャラン・シリーズをデビューさせた。
今までのコルトのシリーズからそのスタイルを一新して、直線を多用したスマートなデザインに衣替えをした。
ギャランA1、AUというシリーズをデビューさせて、エンジンにも愛称をつけ、サターン・エンジンと呼んでいた。
ギャラン・シリーズが市場で認知された頃、同じようにギャランの名称を冠した完全なるスポーツカーを投入してきた。
それはギャランGTOとギャランFTOというシリーズで、GTOの方は排気量1800から2000ccで、如何にも高級感のあるスポーツカーであった。
トヨタではセリカからソアラに匹敵するシリーズであろうが、このGTOというのはダック・テールと称して、後のトランクの処理が独特で、少し跳ね上がったデザインであった。
そして今では当たり前になってしまっているが、そのエンジンはDOHCで、ダブル・オーバーヘッド・カムであった。
エンジンの給排気をするバルブが一つのシリンダーに4本あり、それを二本のカムシャフトで駆動するという画期的なものであった。
この時点ではモーター・スポーツのレース用にしかなかったものを市販車に乗せたという事で当時話題を浚ったものである。
値段もそれなりに高かった。
当時の金で、200万を越えていたと想う。
この頃、三菱はラリーに力を入れており、そのラリー車としてギャランも、その後でデビューしてきたランサーも非常に活躍したが、そういう車は同じ名前を冠していても中身はまるで違うと思わなければならない。
我々、サラリーマンはある限られた収入の中から買わなければならないわけで、良い車だからとか、欲しいからだとか、気に入ったからと言う単純な気持ちで買うわけには行かない。
やはり収入と比べ、家計の許す範囲で、家族の使い勝手と言う事も考慮に入れないことには、後でどこかにしわ寄せがいくわけで、そうそう安易に選択できるものではない。
ギャランGTOに比べFTOの方は完全なる廉価版で、排気量も1400と1600となっていた。
こちらの方はギャラン・シリーズでありながら、曲線を多用しており、ある意味で特異なデザインであった。
前後のオーバー・ハングが少なく、ホイール・ベースは左程変わらないのに見た目に非常に小さく見えたものだ。
それでミニカの後はこのギャランFTO1400という車になった。
この車はスポーツカーで、2ドアであったので、家族での日常の使い勝手というのは決して良くはなかった。
ドアは大きくて狭いところに停めると乗り降りにも事欠いた。
しかし、家族を家において、自分一人でドライブを楽しむ時には本来のスポーツカーの威力を如何なく発揮させる事ができた。
排気量がいささか小さいので、スポーツカーのマニアにとっては少々物足りないかもしれないが、スポーツカーの雰囲気を楽しむ程度の、我々レベルのものにとっては眞に良き車であった。
この頃になると長男も長女もそれなりに成長し、そろそろアウト・ドアの遊びにも連れ出す事ができるようになったので、会社の保養所を利用して志賀高原にスキーにも出かけたものである。
4輪ともスパイク・タイヤを履き、屋根にはスキーのキャリアーを取り付け、スキーを4台それに載せ、はるばる志賀高原まで出かけたものである。
まだ中央道は完成しておらず、中津川、木曽福島、塩尻、松本、長野と19号線を上り、18号線に出て、一日がかりの行程であったように記憶している。
この車、曲線を多用しているので、後部座席に家内と子供二人を乗せると非常に安全な気がした。
しかしそれは逆に、閉じ込められると出にくい、という欠点と表裏一体となっていたが先ず安全であった。
だから雪道でもスパイク・タイヤであの辺りまで遠征できたわけである。
色はネイビー・ブルーで、アメリカ海軍のアクロバット・チーム、ブルーインパルスの機体、F4の色と殆ど同じである。
この色が又特別に気に入っていた。
ある時、伊吹山にスキーに行った帰り、チェンをはずそうとほんの少しバックしたところ、真後ろにくっつけて停車していた人がいて、その車についていた注連縄のみかんを潰してしまった事がある。
潰れたのがみかんだけなら良かったが、結局はラジェータ・グリルまで破損しており、保険で事なきをえた事がある。
三菱の車はエンジンはすこぶる調子がいいが、外装の細かい点では今一である。
この車に関してはパンクで大事故になりかけたことがある。
やはり家族で名神高速を西に向かって走っていた時、「なんだかバタバタ音がするなあ、ヘリコプターでも飛んでいるか」思っていたところ、自分の車の後ろから白い煙が立ち昇っているではないか。
早速、停めようと思ってもそこは工事中で一車線になっており、その工事区間を出ないことには停められないので、徐々にスピードを緩めながら安全な場所まで行き、そこで車を止めて見てみるとタイヤがバーストしており、溶けてしまっていた。
それには思い当たる節あった。
というのはあの当時チューブレス・タイヤのパンク修理というのは、タイヤの表側から細い靴紐のよういなものを差し込んで終わりであった。
中に空気を入れると空気圧でそれが塞がり、それで充分であるということであったが、どうもそれが原因ではなかったかと思った。
それで家族をガード・レールの外側に移し、三角標識を立て、早速タイヤ交換である。
タイヤ交換は慣れていた。
車の維持管理でタイヤのローテーションというのは自分でやっていたので、タイヤ交換はなれていた。
この車は基本的にスポーツカーであったので、自分一人で走らせる時は最高であった。
山の中のつづら折れの坂道の上り下りなど実に楽しかった。
この頃、まだ安全ベルトの装着はそう厳しくなかったが、私はきちんとベルトを締めて、山道を走ったものである。
これも3回目の車検の頃になると、あちらこちらに不具合が出てきそうになったので、又乗り換えることになったが、今度は徹底的にファミリー向けのセダンにした。
そのかわり排気量だけはグレードアップして1600ccとなった。
ミラージュ1600GTという車である。
今までの車はFR、つまりフロントエンジン、リアドライブであった。
従来の古典的なエンジンと駆動軸の配置であった。
ところが今度はFFである。
フロントエンジン、フロントドライブであった。
このFFというのはFRよりも優れているといわれていたが、左程の事はなかった。
つまり、作るメーカーの側の合理化の都合で、部品点数や工作の手間の都合で、FFが自動車業界全般の流れになって来たわけで、FFのメリットというのは普通の利用者には顕著な効果としてはわからないものであった。
しかし、今度の車は正真正銘の4ドアセダンであリ、エアコン付であったので、その分家族のためには貢献しているわけである。
この頃になると長男も長女もそれぞれに小学校なり中学校に行くようになり、家族ぐるみの行楽というのは減ってきてしまった。
だから特別な思い出というのはあまりない。
強いて言えば、この車では新川の堤防上で、追突されて、そのまま廃車になり、その時の補償金で、少し新しい同じシリーズの中古車にしばらく乗っていたということぐらいである。
その後に乗り換えたのが正真正銘のギャラン1800。
100%完全なるセダンであったが、この頃になってようやく私も人並みの車を持てるようになったわけである。
この車は排気量は1800でしかないが、車の横幅が少し大きいという事で、三ナンバーであった。
そしてトランクの上にはスポイラーがついていた。
見かけは如何にも早そうであるが、そう飛ばした事はない。
この車を手にしてから1年ぐらいで私が出向して、職場が名古屋市の中心地になったので、もう車通勤しなくても済んだ。
そうこうしているうちに長男が大学を卒業して就職し、私の車があいているなら「交換してくれ」と言い出したので、就職したのだから「差額の金を払うのならを交換してやる」といって、そこで送金する事を約束させて車を交換した。
長男は大學にストレートで入学してくれたし、運転免許も取ったので、その褒美としても、又一浪したと思えばその経費も浮いたことだからという思いもあって、車の一台ぐらい買ってやらねばと思っていたが、その分は私の父親が褒美として出してくれた。
それで在学中から車を持って、それでアルバイトなどもしていたようだ。
車で30分も走って家庭教師をしていたというのだから、もう完全に日本のありようというのは我々の子供の時とは変わってしまっていたわけである。
そういうわけで、この車を交換したのはいいが、約束の方は全く履行されず、そこでとうとう親子で大喧嘩になった。
この時の私の心境というのは、車などはどうでも良かったが、ただ20歳を過ぎた男が約束を守れないようではいけないと思い、その点を厳しく諭したつもりだが、とにかく大喧嘩になってしまったものだから、最後は売り言葉に買い言葉で、「お前など勘当だ、もう家に来るな」と言う按配であった。
その日、長男は泣き泣き一人でギャランを転がして帰ったらしい。
その後しばらくしたら、この車を返しに来た。
私も約束が守られていないのだから当然のように受け取ってしばらくは乗っていた。
ところがこの間に、長男は自分の好みに私の車を変えてしまっており、ステレオもタイヤも若者好みのものになっていた。
こういうものは私は大嫌いであったが、ついているものは仕方がないので、そのままにしておいた。
長男はその後自分で自分の好みの車を買ってそれでしばらく我慢していたようだ。長男と車の事で大喧嘩をしたのが、平成9年の正月で、その年の春に私がガンで入院した。
家内に言わせると、あの長男との大喧嘩が祟ったと言っていたが、やはり祟りだったのかもしれない。
このギャランは可もなく不可もなく極めて乗りやすい良い車であった。
特にエンジンが気に入っていた。
V6エンジンでありながら、DOHCではなく、カムシャフトの一本のもので非常に静かに回っていた。
しかし、この車もまだ十分に乗れる状態であったが、車検の時期と私の退職の時期が同じ頃になって、家内が「退職の記念に買い替えたら」というものだから又同じ車種で、排気量だけグレード・アップしたギャランを購入した。
今度の車は排気量は多いが、直列四気筒でV6エンジンとはいささか違うが、それでも技術革新が進んでいるので、不安は何もない。
今のところノー・トラブルで来ている。
私の車遍歴も360ccのミニカから始まり、最後は2000ccギャランで終わっているわけである。
この間、欲しい車、乗って見たい車というのは数限りなくあったが、欲しいからと言って、乗ってみたいからと言って、そう右から左に買えるものではない。
やはり生活者として家計とのバランスを考えながら、その枠の中で一番ベストの選択をしなければならなかったわけで、そういう意味からすると、やはりパジェロに乗ってみたかった。
しかしパジェロとかランドクルーザーという車は、まさしく荒野向きに出来ているわけで、日本の町中で乗り回す車ではない。
メーカーというのは金儲けだから、消費者が欲しがるものは何でも市場に提供して、金儲けに専念するが、基本的にああいう類の車は日本では不要である。
私も喉から手が出るほど欲しかったが、果たして一年で何日あの車でなければならない状況があるのか、と考えた場合どうしても購入する決心がつかなかった。
定年になって、会社の特典が効かなくなったら他者製品でもと思って考えた事もあったが、そういう車の一つにトヨタのハイラックスのスポーツ・ピックアップというトラックで気に入ったのがあった。
あれにサーフボ−ドでも無造作に乗せて走れば、カリフォルニアの雰囲気がそのまま出ると思うのだが、60を過ぎた人間のすることではないと思い返して、これもあきらめた。
結局、ミニカから始まってFTO、ミラージュ2台、ギャラン2台と自分の車だけで、6台乗り継いだ事になるが、その間に長男の車と長女にそれぞれ買ったので、だいぶ自動車会社には貢献した事になる。
尤も、長男の車は父が金を出してくれたし、長女は自分の金で購入したので、全部私の給料で払ったわけではない。
昨年、三菱自動車はクレーム隠しで世間から非難を浴びたが、三菱という会社の体質というのは中々変わるものではない。
そのサービスの悪さというのは、昔も今もさっぱり変わらないものの一つである。同じ日本人が作っている組織でありながら、どうしてこうも違うのであろう。
三菱に長年身を置いてみて、社内の幹部をお客よりも大事に扱う会社ではさもありなんと思うことが多々ある。
三菱というのは基本的に官需品の会社で、官需品というのは官の側から言われたとおりに作れば良いわけであるが、民需品というのは消費者のニーズを自ら探って、それに合わせなければならないわけで、その辺りの発想の元点が違っているのであろう。
自分の車に乗るようになって約30年間、三菱の車を愛用してきたわけであるが、その間一度もエンジン・トラブルで路上に立ち往生した記憶はない。
パンクを路上で直したと言うことは何度かあるが、これは致し方ない。
日本の車も良くなったものだ。
あの白煙だけもくもくと出していた木炭車のことを思うと隔世の感がする。
2002.3.14

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