平成14年3月10日、日曜日、朝起きて何気なく新聞(朝日新聞)を読んでいた。
すると有事法制を問うコラムの欄で、石原慎太郎東京都知事のコメントが載っていた。
そのコラムは今小泉内閣が取り組もうとしている有事法制について、各界の意向を探るという主旨のものらしいが、その中で石原東京都知事は映画の題名を出してコメントに応えていた。
つまりそれは「風とライオン」という映画で、20世紀の初頭、モロッコでアラビア人に浚われてしまったアメリカ国籍の婦人とその子供の救出をするのに、セオドア・ルーズベルト大統領は軍艦を派遣したという事例を出して、国家というものの本質を説こうとしていた。
これはまさしく正論だと思う。
この映画は私の好きなものの一つであるが、ショーン・コネリー扮するアラビアの部族の首領が、アメリカ商人の夫を殺害、その妻子を浚って逃げ、その親子を人質として自分達の主張を通そうとするものである。
その人質を救出するのに、軍艦を差し向けるわけであるが、その本音のところには人質よりも国威の誇示という部分があることは否めないが、この本音と建前の部分に国家主権の本当の意味が潜んでいると思う。
自国民が危機に晒された場合、如何なる犠牲を払っても国家が国民の生命財産を守るというところに、本当の意味の国家主権というものが存在すると思う。
この話は20世紀初頭の話で、100年も前の事ではあるが、今は早々単純に実力でもって自国民の保護ということがかなわない時代ではある。
たった一人の自国民を救うのに、何千何万という自国民が新たな損害をこうむるような状況になると、そこに損得勘定というものが働くわけで、理念だけでは自国民の保護ということがママならない時代になっていることは理解できる。
ところが戦後の我々の場合、自国民がああいう状況に陥った時、その救出ということを最初から放棄している感がある。
あらゆる場面で、金の問題が先に立ち、我々の側の汗と血で同胞を救おうという発想に至らない。
先ず第一に金で解決できないかという発想になる。
石原都知事の憂いもそこにあるわけで、日本人がああいう状況に陥った時は、もっともっと正論を吐き、相手が不合理な事をしたのならば、すぐにでも軍艦を派遣するぐらいの気力でもって事に当たりなさいという事を言っているわけである。
それは「すぐに戦争をおっぱじめよ」という意味ではない。
日本の反対勢力、つまり反政府勢力というのは、そういう言葉尻を捕まえて、主旨を故意に曲解するのが常であるが、自国民が外国において基本的人権が侵害された場合、主権国家たるもの毅然とした態度で相手の国と交渉を行うというのは極めて常識的なことであり、当たり前の事である。
「風とライオン」の映画のように、はたまたサッチャー首相のようにイギリスから南極に近いアルゼンチンまで軍艦を派遣するということは主権国家の当然の行為である。
昨年9月11日のアメリカにおける同時多発テロに対して、報復行動を取るのは当然の行為である。
それこそ国家の国家たる当然の在り方である。
それをしない国家、それを逃げている国家、それをためらう国家というのは国家足り得ていない。
戦後の日本というのは、極東の4つの小さな小島に閉じ込められてしまったので、我々には国境線という概念がない。
海が自然の国境線となっているが、そのことは逆に国境線がないも同然である。
太古の人々と同じで、ある意味で行き来自由である。
船で海岸線に着けば、出入自由である。
国境というものを目に見ることなく概念でしか知らない我々は、意識的にネイション国家なる概念に固執しなくても、この4つの島の中では何となく擬似的な国家というものを形作って、それに満足し切っているわけである。
社会的インフラ整備というのも、異民族や他国の土地への影響という事を一切考えなくても、自分達の生活している領域が自然と確定しているので、事は簡単である。
自国民さえ説得すればそれで終わりである。
あらゆるものが自分達の生活圏内で自然と固定され、海の向こうのことまでは考えなくても済んでいるわけである。
だから我々は改めて国家というものを意識しないでも生きて居れるわけである。
そのことは、自分達の国家と言うものを敢えて意識しなくても、自分達の住む周囲、エリアが自然に国家を成しているわけで、意識して自分自身が日本国の国民である、という事を肝に命じ、自覚する必要がないわけである。
困った事があれば誰かが何とかしてくれるわけである。
日本海側の沿岸から誰かが浚われても、自分にはまったく関係がないわけである。
ニューヨークのテロで日本人が24名も殺されても自分には関係がないわけである。
湾岸戦争で、日本の石油の供給元で戦争が起きても、誰かが何とかするわけである。
日本人が海外で何らかの事件に巻き込まれても、誰かが何とかするわけで、自分には関係ないわけである。
我々には主権国家の国民という意識はないが、日本という小さな島の住人として、この島に住む誰かが何とかするわけである。
自分が血を流して誰かのために働くというのことはすべきではないし、してはならないわけである。
すれば損をするだけと思い込んでいるわけである。
日本という、国家としての枠のない烏合の衆の中で、人のためにすることは全部「悪」で、人々という大勢の対象のために働こうとする人間は皆「悪人」である、という概念が出来上がっているわけである。
主権国家の主権と言うものを否定した烏合の衆というのは、中心点を何も持たないわけで、その中心点を形成しそうなものは、全て反民主的という概念で一括りにしようとしているわけである。
だから、人々の意見を一括りに収斂しようとする方向性を持った力には限りなく抵抗するわけで、その人達からしてみれば、日本が集団として一つの塊となって何処に行こうが全く関係ないわけで、自分さえ苦労したり、血を流したり、余分な出費をしなくて済めばそれでいいわけである。
日本の領土・領域から人が浚われようと、北朝鮮がミサイルを持とうが、中国が不審船で麻薬を持ち込もうが、自分には全く関係がないわけで、自分に全く関係がないから、日本の政府に罵詈雑言を浴びせているわけである。
主権という概念、国家主権というものを認めていないので、我々の同胞がこの生き馬の目を抜く国際社会で苦境に立たされると、同胞である自分達の政府の足を引っ張り、悪態を付き、相手の立場にのみ理解を示し、悪いのは自分達日本人の方である、という陳腐な議論になるわけである。
湾岸戦争で150億ドルという金を出しておいて、クエートの謝意を示す広告に日本の国名がなかったとき、自分達が散々自衛隊の派遣に反対しておきながら、日本政府の対応がアホだったという言い分である。
あの状況下で、どういう手の打ち様があったのかと言いたい。
自衛隊は派遣してならない、金は出してならない、アメリカに追従してはならない、けれども油だけは確保せよでは、誰が日本の統治者であったとしても、日本という国の舵取りは困難である。
日本は主権国家ではなく、国家という枠組みのない、人間の形をした動物、烏合の衆の生息地だとすれば、国の行く末という事も考えなくてもいい。
川の水の流れと同じで、あっちの岩にあたり、こっちの岩に跳ね返り、形のないまま、とうとうと流れるだけで、流れた先では海という茫洋とした世界に消滅していくわけである。
まさしく「日本沈没」である。
人の生き様というのは案外こういうものなのかもしれない。
この日の新聞にはもう一件映画の題名が登場していた。
読書の欄の「私が出会ったこの一冊」というコラムに、手塚眞というビジュアリストと妙な肩書きの人が「激突」という映画のことを書いていた。
この映画がスチィ−ブン・スピルバーグの作品という事は知らなかったが、デニス・ウイーバーが出演していた事は知っていた。
というのもこのデニス・ウイ−バーが他のテレビ・ドラマに出演していたのを見たとき、彼が非常に格好よく映っていたので記憶にあったわけである。
この「激突」という映画、この手塚氏も言っているように、全くストーリーと言うものがないに等しい。
しがないセールスマンのウイ−バーが乗用車を駆って田舎道を走っていると、意味もなく巨大トレーラーに追われるというもので、このトレーラーのドライバーというのが一切画面に出てこないので、ウイ−バーも何故自分が追われているのか判らないわけである。
その意味も無くわからないという部分が非常にミステリアスで、見るものをドキドキさせるわけである。
最後は、そのトレーラーを巻いて、谷底に落として終わりとなっていたが、自分には何も思い当たる節がないのに、意味も無く追われるという不条理が非常に面白かったわけで、そのことをこの手塚氏も言っている。
それはそれでいいのだが、一日に同じ新聞で二度も映画の話が出ることは珍しいのではないかと思った。
映画というのも一種の情報伝達の手段なわけで、特に最近人気のこのスチーブン・スピルバーグ監督の作品というのはリアリズムに忠実たらんと、徹底的にリアルな写真の撮りかたをしているが、映画というものにもやはり形式美というものが必要ではないかと思う。
歌舞伎というのは形式の美であり、オペラなどもそうではないかと思う。
ある特定の仕草をすれば、それはこういう行為を指し示しているという約束事が生きている世界ではないかと思う。
見る側は、その約束事から、真の意味を自分の頭で臆測するところにその面白さが沸いて来るのではないかと思う。
小さなピストルでパンと撃たれて、そのまま全く動かないというのは、やはり約束事の世界だからそうなっているのであって、実際には心臓にまともに弾が命中しないことにはそんなことはありえない。
刀で切られても同じなわけで、刀で切られた瞬間に人間一人が完全に死んでしまうという事はありえない。
そういう映画の撮りかたというのは、やはりその映画の形式美、演劇の形式美に則っているからそうなるのだと思う。
それをあまりリアルに、実際の通りに表現したとしたら、非常に醜く、汚く、それに加えて残酷な表現になってしまうと思う。
ところが世の中の芸術家というのは、そういう今までの価値観の皮を一枚一枚剥がすことに生きがいを感じているわけで、それを止めて、旧い価値観に価値を置こうとすれば、見る側がそういうものに拒否反応を起さなければならない。
ところがである、映画と言うのは文化の担い手であると同時に、金儲けの手段でもあるわけで、映画で金を儲けようとすれば、ドンドン宣伝して、「そういう旧い価値観を捨て去る事が新しい生き方ですよ」、「今後はこういう新しい生き方が世の中を風靡しますよ」、「旧い価値観に何時までもしがみついていると時代遅れになりますよ」と宣伝するものだから、その宣伝に吊られて、映画会社の宣伝の方が正しいに違いないと思い込んでしまうわけである。
大衆の方は、こういう斬新な考え方に躊躇し、最初は抵抗をしようとするのだが、そこに評論家と称する人々が、旧い価値観に何時までもとらわれているのは馬鹿だとかアホだとか言うものだから、人々は迷うわけである。
映画会社というのは究極的には儲かる映画を作らねばならないわけである。
会社にとっては文化もモラルも、新しかろうが古かろうが価値観などどうでもいいわけである。
ただ儲かりさえすればいいわけである。
それで儲けるためには、人々の評判になって、人がドンと入ってくれる映画にしなければならないわけである。
そのためには10人の人が10人とも納得するような無難な作品ではだめなわけで、二、三人の人が顰蹙を示すような作品にしておいて、その部分を宣伝でカバーするわけである。
この二、三人の顰蹙が逆に話題を提供するわけである。
そして、その二、三人の顰蹙が七、八人のものに変われば、今度は文化のほうが後退するわけである。
つまり、旧い価値観という皮が一皮むけてしまうわけである。
顰蹙が常態化してしまうわけである。
昔はキス・シーンでさえ猥褻であった。
キス・シーンがあるだけで、人々の顰蹙をかった。
ところが今ではそれが顰蹙になってはおらず、常態化してしまって、そんなことは当たり前になっている。
つまり旧い価値観というのが一枚も二枚も剥けてしまって、その価値観そのものが陳腐化している。
最初にそういう映画を作った人は勇気がいったに違いない。
そして最初にそれを見た観客は、恐らく卑猥に思っていたに違いない。
日本語には非常に奥ゆかしい表現があり、映画のラブ・シーンなどを「濡れ場」と言うことがある。
この「濡れ場」でも、そうそうあからさまに画面に出さなくても、それとなく見る人にわからせるテクニックと言うものがあるはずである。
それを延々と画面で見せるというのは、作る側のイメージの欠乏を表しているにもかかわらず、そういう批評をする人はいない。
この「濡れ場」のシーンでも、早々リアルに延々と見せなくても良さそうに思うが、それをリアリズムという言葉で評すると、そういうことが正しくて良い事のような印象を受ける。
ここでも旧い価値観の皮が一枚も二枚も剥がれてしまっているわけで、それのお先棒を担いでいるのが、進歩的と称する知識人である。
進歩的な知識人が、金儲け主義の映画会社の提灯持ちをするものだから、見る側のアホな大衆は、そういう事が良い事だと思い違いをするわけである。
価値観の皮を一枚二枚と剥がす事が良い事か悪い事かは定かに判らない、という事は言うまでもない。
しかし、そうだとすると最後はらっきょの皮と同じで、無になってしまう。
剥く物が何もなくなってしまう、ということはどう言う事なのであろう。
そう!世紀末といわなければならない。
既に日本はその領域に入っていると思う。
風俗で言えば、日本人はもう人前でキスぐらいは平気である。
もう接吻という古式ゆかしき日本的な表現も死滅してしまって、しかもそれを人前でも平気でする時代になっている。
人前で「濡れ場」を演じるのに、普通の人はまだ心の抵抗を保っているようだけれど、映画の出演者という類の人では、既にそれが恒常化しており、そういう画面はマスメデイアで、日常茶飯事にあふれているので、見る側では既にマンネリ化して不感症気味で、見る側の羞恥心というのも麻痺してしまっている。
そこに以ってきて、精神の荒廃が殊のほか恐ろしいわけであるが、既にこれも価値観の皮を剥ぐなんてものではなく、完全にその根が腐ってしまっている。
だからこそ、自分の国の主権ということを少しも意に介さず、他所の国の国益を助長して平気でいるわけである。
自分の国という概念がないものだから、他所の国の国益も自分の国の国益も一切関係ないわけである。
どうせ日本が他所の国に金を払ったとしても、それは自分の金ではないわけで、そのために消費税が上れば、自分達が選んだ自分達の代表をこき下ろしていれば済む事なわけである。
どうなったところで、自分さえ損をしなければそれで良いわけで、人が死のうが生きようが、よそ事なわけである。
こういうアメーバ−的な無秩序、無定形な烏合の衆の集まりとして、この極東の4つの小島に住む我々、日本民族というのは自分の祖国という概念がないものだから、恥というものも持たないわけである。
かって日本は礼節の国、礼節を重んじる民族であったが、これは旧い概念であったわけで、古いものは何でもかんでも悪いというわけで、皮を剥き剥き、もう剥く物がない状態にまでなってしまったわけである。
人間は誇りや名誉では生きていけないわけで、それと同時に恥じも持っていないので、犬や猫、牛や馬と同じになってしまったわけである。
世界から見て、日本人には物作りのみをさせておいて、少し金がたまりかけたら、それを毟り採れば良いわけである。
毟り取るなどと下品な表現を使わなくても、ちょっと「謝罪が足らない」とか、「教科書が不適当だ」とか、「ちょっと支援してくれ」といえば、日本は言われた通りに手形を切るわけで、何も脅したり、武力を使わなくても、言葉で、つまり話し合いで金を出させる事ができるわけである。
こんなありがたい国、いや国ではなく大和民族というアイヌやイヌイットと同じ民族、はたまたPLOと同じで国を持たない人間の集団、人間の形をした家畜を、使役用の動物を、殺すなどとはあまりにももったいない話だと思っているに違いない。
2002.3.10