私の生涯を通じてこの電車との付き合いも実に長くなった。
小牧という地方都市で育ったものとして名古屋とのかかわりの中で、この鉄道の存在というのは抜きには語れない。
日本で発行されている大きな時刻表の後ろの方に、ほんのちょっぴり記載されている小さな小さな路線である。
この路線が何時頃出来たものかは知らないが、とにかく私が物心つく頃にはもうあった。
(インターネット、Hiro’sHomepage牛山の歴史によると昭和12年には名岐鉄道間内停留所、牛山停留所という記述があるということで、既にもうその頃にはあったわけである。)
最初の記憶は一番下の弟が生まれ、母親の母乳が出なくて、父親の実家のある牛山までヤギの乳をもらいに通った時に利用したのが最初のかかわりであったように覚えている。
その時の話は既に記しているが、父の出勤について、往復10円の運賃を握りしめて、間内という駅で乗り降りしたものである。
当時の小牧駅の様子というのは、木造の駅舎で、出入り口は西向きにあった。
駅前から東を向いて右側に出札所があり、切符をきちんとはめ込んだ棚から硬い切符を渡してくれたものだ。
改札を通ると少し左に振って奥に進むと上飯田行きのホームがあった。
その線路の向こう側は素掘りの溝があり、田園が広がっていた。
その田んぼの向こうには、塚原紡績ののこぎり型の屋根をした工場が、黒いタールを塗ったままで聳えていた。
駅の構内を過ぎた辺りに踏み切りがあり、そこには電車の車庫があって、修理中の車輌が2、3置いたあった。
間内という駅は、今は再び無人駅になっているが当時も無人駅で、今は浅井長政の像が聳えているが、あの辺りは雑草の生い茂った小山があった。
そして大きな木が繁っていた。
あの当時、小牧からは岩倉に通じる岩倉線というのもあった。
この岩倉線というのは架線の電圧の関係であろう、小牧線よりも大型の車輌が投入されていた。
この岩倉線というのは、もともとは私の住んでいた中町の近くが発着場であったらしいが、当時の私もそういう話を人から聞いて知ったわけで、私の知る限りにおいては小牧駅が基点であった。
確かにそこにプラット・ホームの跡があったので、以前はそこが基点になっていたに違いないが、当時でも既にレールも撤去されており、ホームの残骸でしかそれはわからないかった。
中学生になり名古屋に通学するようになってからは一段とこの電車に世話になったわけであるが、当時は緑色、ダーク・グリーンの色で、今のような派手なものではなかった。
そして例の架線の電圧の関係であろう、車輌も岩倉線のものよりは一回り小さく、ドアも手動であった。
今から思えば危険極まりない代物であった。
走行中であろうがなかろうが、開けようと思えばいつでも開けられるものであった。
そして小牧を出ると次が間内であった。
今の小牧口というのは当時は停車していなかった。
ホームは出来ていたが、いつも素通りであった。
その他の駅は50年前と少しも変わらない。
しかし、味美の駅というのは、ここで中央線の勝川との連絡駅となっていたのであろうか、大きな車庫があって、それが迷彩色にタールを塗りたくっていた上、ガラスも破れ放題になっていたので、如何にも戦後の悲哀を醸し出していた。
上飯田の駅というのは今のパチンコ屋のあたりに車止めがあり、やはり駅舎は西向きに立っていた。
線路の東側は小牧駅と同じようの田や畑があった。
改札口を出ると道路の真ん中に市電の乗り場があり、電車を降りた人は一目散にそれに乗り移ったものである。
この上飯田から出ていた市電は、堀田行き、尾頭橋行き、浄心行き、もう一つ何かあったような気がするがそれは忘れてしまった。
学校は山口町にあったものだから我々は何処行きに乗っても良かった。
この当時でもかなり古い車両が走っており、文字通り本当のチンチン電車もあった。
高校を卒業して、社会の荒波にもまれているうちに、この小牧線の変革もわからなくなってしまって、何時頃からあの赤い車輌になったのか定かに記憶していない。
社会に出てから、あちらこちらをうろうろして再び地元に落ち着いてみると、世はモーター・リゼーションの波で、私でさえも自分の車を所有する身になっていた。
給料の多寡に応じて、それにふさわしい車であったとはいえ、一度車社会に身を置いてみると、もう公共交通機関には縁遠くなってしまった。
何処に行くにも車に依存する習性が身についてしまって、酒を飲む時しか電車に乗らない生活になってしまった。
会社の宴会がある時しか電車やバスを利用する事が無くなってしまった。
だから利用する度に料金が値上がりしており、その度毎に料金徴収システムが進化しているので、毎度毎度おのぼりさんの状態であった。
そして、車がこうも普及すれば必然的に渋滞になるわけで、最近はその渋滞が煩わしく公共交通機関を利用したいと思ってはいるが、今度はその料金が案外馬鹿にならない金額で、ついついまたまた車で行ってしまうというわけである。
三菱の定年前5年間、出向させられて上前津まで通勤したが、電車通勤というのも案外良いものである。
なんといっても会社帰りに一杯引っ掛けても、安心して家路につけることである。
車の通勤ではそうは行かない。
この名鉄小牧線というのは私の生涯を通じて、約半世紀付き合ったわけであるが、考えてみると、この間変わったことといえば、大いにあるようで案外無いようにも見える。
少なくとも、相変わらず単線という事では変化がないし、その上駅の数も小牧口が出来た以外全く変化が無い。
しかし、駅舎の変化というのは目覚しいものがあるわけで、間内駅などは北外山住宅が出来た頃は有人駅になったにもかかわらず、又再び昔の無人駅に舞い戻りしてしまった。
駅の数はほとんど変わっていないが、駅舎とその周辺の開発というのは大いに変わってしまった。
小牧駅など地下になってしまったが、その前に上飯田駅が高架になったことのほうが驚きとしては大きい。
そして中間の春日井駅というのも、昔は大勢の人が乗り降りして、大きな駅であったが今は寂れて無人駅になってしまった。
平成14年度中には、この路線が名古屋の平安通りまで延びるといわれて、工事も最終段階に入っているようであろうが、そうなればこの辺りの生活も大いに変わるに違いない。
小牧に住む住民としては、名古屋とのかかわり無しでは済まされないわけで、その意味からしても、この路線が平安通りで連結するということの意義は大きいと思う。
私がまだ中学生であった頃、小牧山まで市電が通る、という事が話題になったことがある。
今から思うと、それが今の国道41号線であったに違いない。
車社会というのも便利な事ではあるが、車がこうも増えると、やはりその弊害というのも現れるわけで、その弊害の一番顕著な例が渋滞である。
考えてみればこれは必然的な成り行きである。
猫も杓子も車に乗れば道路が混むのも当たり前である。
名鉄小牧線の約半世紀にも及ぶ係わり合いの中で、交通事故というものには幸いにしてあまり遭遇した事が無い。
一度だけ、電車が人を轢いたらしいと言う事で、途中で止まって運転手が降りていったことがあったが、私は血を見るのが嫌で、ついていかなかった。
そして、これは事故ではないが、出向で上前津に通勤していた時、台風で不通になり全く動かず、何時運転再開かわからないというものだから、家までを雨の中を歩いて帰ったことがある。
上飯田から我が家まで歩いて2時間半掛かった。
この路線というのは、名鉄としてはあまり金ヅルの路線ではないように思う。
犬山、美濃加茂、八百津辺りの客を全部犬山本線で名古屋に運んでいるが、距離から考えれば、犬山から小牧を通って上飯田に運んだ方が利用者のメリットとしては大きいはずである。
ところが今までは名古屋市内のアクセスが悪いので、それが実現していなかったが、平安通りでアクセスが可能になれば、時間も料金もこちらの方のメリットの方が大きいと思う。
しかし、客が喜ぶということは、名鉄の企業としては利益があまり期待できないということになるわけで、痛し痒しの状況ではないかと思う。
この小牧線が平安通りで連結して、名古屋市とのアクセスがよくなるといっても、小牧から北の部分はそこまでの配慮がなされていないように感じられる。
それもある程度は無理もないと思う。
第一この辺りはやはり田舎である。
人口の密度が違い、人口の数が違っているわけで、当然それは利用者の数に比例しているわけで、急激な変化と言うのは期待できないに違いない。
それにしても、この名鉄電車との付き合いも、随分長くなったもので、半世紀にも及んでいることになる。
2002・2・23
平成14年3月26日
本日、名鉄小牧線が名古屋市の地下鉄城北線の平安通りまで乗り入れるに関し、その投入車輌の試乗会が催された。
この小牧線が平安通りまで乗り入れる事は我々、沿線住民にとって悲願であった。
先のほうでこの小牧線は戦後50年間何も変わらなかったと記したが、考えてみると細部ではかなり変わっていた事に本人が気がつかなかっただけ、という面もあったようだ。
というのは、我々がまだ名古屋に通っていた頃は、牛山と春日井の間ですれ違いの待避場所があったが、その待避用の線路がだんだん延長されて、かなりの部分複線になっていた。
そして小牧駅は地下になり、その一つ手前の小牧口も半地下になり、小牧から北の方もかなりの部分が高架になっている事を考えると、こういう変化を私は見落としていたようだ。
上飯田の駅も高架になり二階から電車が出るようになっていたわけであるが、これが何時こうなったかという記憶が全くないのが不思議だ。
ダーク・グリーンの車体が何時赤い色の車体になったのかも全く記憶にない。
そういう意味で、名古屋市の市電が撤去されたのも定かに記憶にない。
ただ名鉄の小牧・岩倉線が撤去されたときには、撤去した後を名鉄バスが走っていた事は記憶している。
日常生活に追われ、そうそう関心も無い事に気を引く事も無かった所為か、この身近な身の回りの変化に全く気がつかなかった。
そして本日の試乗会となったわけであるが、身の回り、つまり小牧・春日井周辺の名鉄電車の設備投資というのは、名鉄の営業方針の中で、きっとプライオリテイーが低かったに違いない。
以前、やはり名鉄電車の企画で、沿線のスタンプ・ラリーに参加して、名鉄電車に乗りまくった事があったが、そのときの印象では知多半島や岐阜・豊橋という幹線は立派に整備されていた。
名鉄電車というのもやはり民間企業なわけで、収益の事を第一に考えているとすれば、儲かるところに投資をし、儲からないところは後回しにするというのはある程度は致し方ない。
この日、私にとっては半世紀ぶりに名鉄電車が平安通りまで乗り入れるという近代化にふれることになったわけである。
この新型車両、往年の車輌に比べると雲泥の差である。
考えてみると、あの満員電車に乗っていた頃、こういう電車が投入されるなどとは思っても見なかった。
試乗会では、この新型車両に対するアンケートを求められたが、既に車輌に関しては、あの赤い車輌はかなりの程度優れたもので、それと比較するにおいては顕著な差異は感じられなかった。
このアンケートは優れもので、設問の前に設計のコンセプトを示し、そのコンセプトと現物のギャップを問うという形になっていたが、これは優れた発想だと思う。試乗会そのものは小牧から上飯田を往復するというだけのもの、半世紀も利用している私にとっては沿線風景も珍しいものではなく、旧型車輌の比較と言ってもその差異は殆ど無いので、特に感激したというわけではない。
しかも実際に平安通りまで延びるのは来年の春ということで、目下工事中なわけである。
一刻も早くこれが実際に乗り入れを実現してもらいたいものだ。
2002.3.27