飛行場にまつわる話

今の名古屋空港、あと4年後には常滑に移るといわれている名古屋空港というのは我々、小牧市に育った人間としては飛行場という呼称の方が馴染みやすい。
名古屋空港ではなんだかとってつけたような印象を受ける。
我々は子供の頃から飛行場と呼び慣わしてきた。
この飛行場というロケーションも、私の子供の頃の思い出としては欠かせないものである。
この飛行場の滑走路の拡張に小牧山の土が使われたことは再三これまでも記してきたが、飛行場にまつわる話というのはただそれだけではない。
小牧の町中に住んでいて、この飛行場にまで足が伸ばせるようになるということは、自転車に乗ることを覚え、行動半径が広くなってからの事で、やはり小学校の3、4年頃の事ではないかと思う。
朝鮮動乱が昭和25年の事で、西暦で言えば1950年の事である。
この頃はまだまだ食糧難の時代が続いており、父が勤め人であった我が家もその例にもれず、配給物資だけでは糊塗を凌げず、あれやこれやの代用食を併用していた。
それである日この飛行場の北側を流れている大山川にシジミ取りに行った。
ところがどういうわけか採れるは、採れるは、滅法沢山採れた。
この辺りは当時まだ民家もなく、近くの百姓屋というのは自分のところで野菜を作っているので、川の中のシジミなど誰も見向きもせず、全く採らなかったに違いない。
それで味を占めて2、3度通ってシジミを採ったものである。
ところがそれを持って帰るのに、バケツに水を入れたまま、それを自転車の荷台に括りつけて家まで運ぶのが大変であった。
バケツに水を入れたまま運ぶということは非常に重くなるわけで、子供の体では少々危なっかしかったわけである。
あまり採れたものだから、向こう3軒両隣りにもおすそ分けしたものである。
そして一週間ほど貝汁ばかりの日が続いた。
その後朝鮮動乱が始まると、この滑走路の拡張工事が始まったわけであるが、その頃に飛来した飛行機ではアメリカ軍のグローブマスターという輸送機がとてつもなく大きく見えたものである。
そして朝鮮動乱の時は、双胴で、真ん中にカーゴ・スペースを持った飛行機が後ろの扉を開けたまま、そこに軍用車輌を積み込み、あっぱっぱーのまま飛んでいくのを見たものである。
この機体の名前がその当時からわからなかったが、最近になってあれはC−117である、ということを人から教えてもらった。
このグローブマスターやC−117の飛び交っていた頃は、まだまだ大山川の堤防でそれらを見ていたので、滑走路の拡張工事というのは始まっていなかったのであろう。
この工事が始まって、大山側が暗渠で塞がれ、飛行場の敷地も北側に大きく張り出してくると、その暗渠の西側に、土嚢を円形に積み上げた真ん中に機関銃が据えられた。
いわゆる高射砲陣地が築かれたわけである。
小さなパラボラ・アンテナがくるくると回転し、目標を補足すると銃座が自動的にそちらを向くという仕掛けだったようで、それを黒人のGIが操作していた。
飛行場そのものがアメリカ軍に接収されていたわけで、今の自衛隊のゲートは昔米軍に接収されていた時と同じ位置にある。
この基地の沿革は定かには知らないが、基本的には旧軍時代の末期に名古屋を防衛する意味から陸軍の要撃基地としてこの地に帝国臣民の勤労奉仕で出来たものと聞く。
私が自衛隊在職中の30年数年前まで、小牧市無番地となっていたように記憶しているので、恐らく誰の所有地でもない荒地を飛行場に転用したものと想像する。
そして出来上がったところで終戦となり、そこに米軍が進駐してきたのであろう。
だから今の自衛隊の基地としての基礎は、米軍が築いたものと考えても差し支えないのではないかと思う。
この辺りまで行動範囲を広げていた私にとって、小学生から中学生と成長するに従い、その関心はシジミよりも男と女の関係に向くのは致し方ない。
この昭和20年代から30年代の小牧基地のゲート前というのは、これはもう日本ではないような感がしたものである。
オンリーとパンパンの町だ。
バーとキャバレー以外何もなかった。
あるのは質屋だけだ。
英語の不得意な私が最初に覚えたのはPAWNという言葉だ。
オンリーとパンパン、そしてバーとキャバレー、そしてPAWNというのは幼心にも日本のものと全く違う雰囲気を漂わせていた。
内容的には日本の女郎屋、飲み屋、そして質屋と同じにもかかわらず、その醸し出す雰囲気というのは全く違っていた。
この違和感というのは一体何であったのだろう。
異文化であったのだろうか。
文明の衝突であったのだろうか。
日本で売春防止法というものが出来たのが、私が高校を卒業した年の昭和33年だったと思うが、この売春防止法を制定するきっかけというのは、案外こういう基地の存在と関係があったのかもしれない。
基地周辺の雰囲気が、戦後の日本の進歩的と自負する人々の神経を逆撫でしたからではなかろうか。
だが基本的に、兵隊という若い男の集まっている周囲に、女が群る現象というのは、人間の本質なわけで、そこで双方でセックスを介して金銭のやり取りが生まれるというのは、人間としての本当に人間らしい在り方ではないかと思う。
人間の原始の姿ではないかと思う。
それを不道徳と決め付ける事は、知的人間の奢りではないかと思う。
米軍、ハワイに本拠を置くアメリカ太平洋空軍、第5空軍の小牧基地の正門前の光景というのは、日本でありながら日本ではなかった。
それでいて異国情緒という程情緒のあるものでもなかった。
つまり、日本という国が戦争に負けた現実の姿であったわけで、心有る日本人ならば、実に嘆かわしい光景と思っていたに違いない。
制服のままパンパンと戯れているGIを、日本刀で切りつける日本人が現れない事の方が不思議だ。
敗戦の屈辱を勝った相手にぶつけるのではなく、自らの内側に向けてしまったわけである。
そういう意識が、戦後の進歩的な人々の心を自虐的に内側に向かわしめ、それで我が同胞に「セックスを金儲けの手段にしてならない」という売春防止法の成立となったのではないかと思う。
怒りの対象を勝った側のアメリカのぶつけるのではなく、負けた側の同朋の方にその矛先を向けたわけである。
昼の日向からパンパンと戯れているGIを見て、アメリカのGIに説教するのではなく、同胞のパンパンの方に「そんなことをしていれば牢屋に入れるよ」と脅しているわけである。
これって!戦後の日本人に連綿と続いてきた進歩的知識人の生き様ではなかろうか。
戦勝国のアメリカには物を言うことを憚り、その言えない悔しさを同胞の方に向けて、鬱憤を晴らしているのが戦後の我々の生き様になっていたのではなかろうか。
あの当時、小牧基地の正門前の光景というのは、まさにアメリカでもなければ日本でもなく、戦後の混乱、混沌そのものであった。
朝早くその前を通ると、アメリカ兵の宴の跡始末をする日本のボーイ達が、店のドアを開けっ放しにして掃除をしていた。
子供ながらに見てはならないものを見たような気分になったものだ。
そして当時、米の買出しで父の実家に行き、米を受け取ってそれを自転車の荷台に括りつけて走っていると、竹藪の中から当時「3万台」といっていたアメリカの乗用車が、やけに傾いたままゆっくりとこちらに来る。
よくよく見ると、GIが日本の女性を自分の体に引き寄せたまま運転していたわけで、その光景を見てアメリカの車のクッションのよさに驚いたものである。
そんな基地に、自分が身を寄せるはめになるとはこの時には思いもしなかった。
私が航空自衛隊に入ったのは昭和39年の事で、最初は岐阜基地に連れて行かれたが、そこから防府に移動し、ここで初等教育を受け、職種の振り分けで又地元に戻ってきてしまった。
その頃はまだ木造のバラックの兵舎であったが、かまぼこ兵舎ではなかった。
何故この基地だけがかまぼこ兵舎でなかったのか今でも不思議だ。
ここでの教育が終わったら待望の北海道に赴任できたが、またまた地元に戻されてしまった。
で、結局のところ、地元で除隊という事になった。
除隊前の半年ぐらいの間、ここで新隊員を25、6名受け持って、内務班長をしていた時には、学生を引き連れて何度飛行場を駆け足で回ったか判らない。
自衛隊用語では持久走といっていたが、この持久走で飛行場全体を、名古屋空港のターミナルの前を横切って、何週したか判らないし、小牧山までも何度往復したかわからない。
思えば私も若かったものだ。
この頃はまだ名古屋空港の方も未整備のところが多く、旧陸軍時代の飛行機を入れるコンクリートの掩体がいくつも残っていた。
米軍が接収していた時は安い日本の労働者を使って綺麗に芝生を刈り込んでいたが、自衛隊になってからというもの、そこまでは金が回らないのであろう、一様に手入れががさつになってきた。
2002.2.23

Minesanの自己紹介に戻る