小牧市の住人で小牧山を知らない人はまずいないと思う。
小牧市内ならばまず何処からでも見ることができるし、通りすがりでもすぐに目に入るはずである。
あの小牧山は由緒ある史跡でもあるし、今は立派な公園となっているので、小牧市民ならずとも知っている人は多いと思う。
あの小牧山は幼き日の私の遊び場であった。
小学生時代から、青春の時期まで、私の生涯を通じての遊び場であった。
あの山は隅から隅まで私は知っているつもりである。
小学生の頃はあそこでターザン・ゴッコをしたものである。
丁度、今の小牧市役所の辺りで、昔はあの辺りに外堀の跡があり、堀の中には水がたまって、その堀の両側から蔦がいくつも垂れ下がっていたので、その蔦につかまってはその堀の上を行き来したものである。
この堀の跡は今でもかすかに残っているようで、合瀬川の西に意味もなく窪んだところがそれである。
そして今の市役所の庁舎の真裏から頂上に向けて、当時の悪餓鬼の間では兵隊道と言った、頂上に出る一番最短の道があった。
最短なだけに一番きつかった。
道といっても両手両足を使って這って上り下りをしなければならないので、普通に歩ける状態の道ではなかった。
同じく、今の市役所のあった辺りには大きな洞窟が2、3つあって、その洞窟の中には水かがたまっており、その水溜りを越えて中に入ると、得体のわからない骨があったりして恐ろしかったものである。
小牧山の西側というのは鬱蒼とした竹やぶで、その竹やぶの中にどういうわけか畳が敷いてあり、これも不思議で成らなかった。
その上の方では「首吊りの木」というのがあり、これも不気味な印象を受けたものである。
恐らく首吊り自殺でもあったに違いないが、それを子供同士のコミニケーションで、尾ひれがついてそういう怖い話になったものと思うが、真偽の程は知らない。
今は小牧中学校もユ二―、いやアピタというべきか、そのアピタの南側に移転してしまったが、小牧中学校というのはあの小牧山の東側にあった。
しかも、その中学校は進駐軍が小牧の飛行場を拡張するのに、小牧山の土を掘ってその土で飛行場の拡張をしたわけで、その時に土を取った跡に小牧中学校が建てられたのである。
私はその中学校の卒業生ではないので、そこで青春を過ごしたわけではないが、その中学校は出来る前から知っていた。
当時、私は小牧の町中に住んでいた。
今のNTTの小牧支店、その昔は日本電信電話公社の小牧支店、その又昔は小牧警察署、またまたその昔は税務署だったと聞く。
私は小牧警察署の時から知っている。
今の建物は鉄筋コンクリートで、その東側には背の高いブロック塀が奥の方に向かって出来ているが、あそこが警察署であった頃は、あの部分が槙の木の生垣になっており、素掘りのドブがあり、一番奥で溜池になっていた。
我が家は、そのドブの東側にあった4軒長屋に住んでいたので、少し雨が降ると水の行き場がなく、すぐに床下浸水ぐらいの状態になってしまったものだ。
今のNTTの建物の前を、つまり当時の小牧警察署の前をアメリカ軍のダンプカーが何度も何度も往復して、小牧山から土を運んでいた。
今の小牧基地の一番北のゲートから出て、旧名犬国道を通り、小牧市内の絹庄のガソリン・スタンドで曲がって、小牧のお宮さんの前を通ってピストン輸送していたものである。
それを、山の麓を流れている合瀬川の土手の上から、作業現場の様子を飽かずに見ていたものである。
その時のダンプカーの威力、パワーショベルの威力というものは子供ながらに大いに驚いたものである。
昭和23、4年の頃の話である。朝鮮動乱の前の話だ。
飛行場拡張の土を取った跡には広大な空き地が出来たわけで、それは素掘りの石炭採集場のような情景で、山の裾の方は階段状の形状を成していたが、その起伏をそのまま利用して中学校の校庭になった。
だから学校の校庭としては滅法巨大な校庭ではなかったかと思う。
その頃はまだ小牧の市役所はあの位置にはなくて、あそこは私達子供のターザン・ゴッコの舞台であった。
当時あの辺りは鬱蒼と木が繁っていた。
その木がまばらになったのは、昭和34年の伊勢湾台風後の事である。
伊勢湾台風が通過した後、翌日には小牧山に行って見たが、やはり沢山の木が倒れていた。
実に無残な光景を呈していたが、それ以降というもの、山の木々に鋤きを入れたように、山全体が明るくなってしまった。
その事が良いのか悪いのか今でも判断に苦慮するが、自然界の力なるが故に、如何ともしがたかった。
この頃になると私もそろそろ子供の域を出て、いろいろな事を思い悩む年頃と成り、思索にふける時期になった。
そして、この頃我が家では犬を飼うようになり、ハリーと名づけられた中型のその犬は、私と散歩するのが大好きで、その犬を連れては小牧山に行ったものである。
このハリーという犬は、父が粉ミルクの缶一缶の持参金付きでもらってきたものだが、その時まで母の犬好きということは家族の誰も知らなかった。
母は無類の犬好きで、散歩は母の役目であったが、母に代わって私も散歩に連れ出したので、母と私が散歩係であった。
母の散歩は町内の決まったコースを一巡してくるもので、犬としては物足りなかったのではないかと思う。
ところが私との散歩は、自転車で遠くまで連れて行かれるので、犬としてはきっとこの方を喜んでいたのではないかと思う。
その犬の散歩で、この小牧山にも何度となく来たものである。
街中では紐でつないだまま自転車の脇を走らせたが、家がなくなった辺りから綱を解いてやると、喜んで喜んで一目散に駆けて行ったものである。
名前を呼んでやると又一目散に駆け戻って来て、最大限に喜びを表現していた。
そういう時に、家からボールを一つ持っていって、ボール拾いをさせてやるのだが、犬は実にそれを喜んでやっていた。
この山の中で、叢にボールを放り投げてやっても大抵は拾ってくるが、それはやはり犬の持つ本性なのであろう。
ところが飼い犬というのは飼い主に似るといわれている。
それで我が家の犬も、結構粗忽で、投げた振りをして騙してやると、ボールの落下地点を見もせずに走り出して、うろうろと探し回ったりして、その様子がいかにも滑稽であった。
大体、私がボールを投げる振りをすると、もう駆け出していって、ボールの落下の音が聞こえないと「あれ!どうしたのしたのかな!」という表情を体全体で現すものだから、滑稽で滑稽で仕方がなかった。
我が家に犬が来てからというものは、私はここに来る時は必ず犬を連れてきたが、その犬ともどもこの山の隅から隅まで知り尽くしたものである。
しかし、この山の事は何でも知っているつもりであるが、不思議なことに小牧の市役所が出来たことは定かに記憶していない。
又、小牧城が出来たのも記憶にない。
もっとも昭和35年頃、伊勢湾台風の後の年ぐらいに北外山に家を替わったので、それ以降の小牧山の変化というものには少々疎かったのかもしれない。
小牧のお城に関しては、どうも私が北海道にいたときに出来たようだ。
私が子供の頃は、まだお城などは出来ておらず、頂上の石の上からは四方八方が見渡せた。
そこから見た光景は実に不思議な気がしたものである。
なにしろ、北は犬山の向こうの山並み、東は低い丘陵地帯、南は名古屋に向けて全面的に解放されており、西側には養老山脈が見えるわけで、その間というのは実に広大な平地なわけで、まさしく尾張平野の名にふさわしく、その真ん中に小牧山だけがぽつんと屹立していたわけである。
春には黄色い菜の花と、白い卯の花のまだら模様が展開し、四季折々に季節の色を呈していたわけで、人の佇まいというのは城下町としての小牧の旧町並みしかなかったわけである。
小牧山を中心として、360度というもの皆、農地であったわけで、人々が田や畑を汗水たらして耕した結果としての美田であったわけである。
小牧山の頂上から見た濃尾平野の農業の状況というのは、まさしく名実共に美田という言葉そのものであった。
私が人生を全うしたこの50年間の間に、この小牧山を囲む地域も大きく変貌してしまった。
それは良い事なのだろうか、それとも悪い事なのであろうか。
良い悪いという言い方は、視点の在り方で、同じ事でも評価が正反対になりそうで、そういう捉え方が適切ではないかもしれない。
ならばどういう表現が適切なのであろう。
昔の美田が乱開発で、準工業地帯、準住宅地になってしまったということは、どう捉えたら良いのであろう。
本当に乱開発であったのだろうか、それとも人間の営みの自然の進展であったのだろうか。
私が物心ついてから約50年、半世紀という時の流れというものは、我々にどういう価値観を与えたのであろう。
「兎追いし彼の山、小鮒追いし彼の川」というものが無くなってしまった現状というのを我々はどう捉えたら良いのであろう。
2002.2.22