Minesanの沖縄研修旅行

ゲートの厳しさに驚く

正月気分もかなり落ち着いて、人々が正常に仕事をしかけた頃、K 氏がひょっこり玄関に現れ、「沖縄に行きませんか?」と言う。
この第一声を聞いて「ハハーン…C―1の体験搭乗があるのだな」と察しはついたが、如何せん、暮れから正月に掛けて長男夫婦が帰省しており、少々物入りが続いたので、大蔵省がどういう顔をするかわからなかった為、その場では答えを保留してみたが、家内は案外素直にOKを出してくれたので早速承諾の返事をした。
今回は「2人の枠しかない」と言われたが、家内は最初から「輸送機など乗りたくない」というものだから、他に誰か探さねばならなかった。
去年町内の役員を引き受けて、その関係で知り合ったI氏は無類の飛行機好きということを思い出し、早速電話してみると、二つ返事でOKがもらえた。
それで、その場で搭乗手続きの書類をコピーして、それをI氏に手渡して、署名捺印をもらわねばならなかった。
その後一度K氏のはからいで、1月29日に先方の担当者とも面通しを行ったので、後は飛行機に乗る日を待つのみであった。
この日、I氏と共に航空自衛隊小牧基地の渉外課というところにお邪魔に上がった。そのことについては左程の事はなかったが、小牧基地の正面ゲートの様変わりにはいささか驚かされた。
この正門前の道はしばしば通っているにもかかわらず、今まで気が付かなかったが、その警戒の厳しさには少々驚かされた。
正面ゲートがきちんと閉ざされたままで、車が近づくと中から一人の係官が出てきて、金網越しに来意を告げると、奥の係官に告げ、それで始めて入れてもらえるようだ。
それから受け付け手続きをし、始めて要務先に行けるというシステムになっていた。昔から、警衛詰め所は小高い岡にあったが、ゲートを通過しても車では奥に直進できないように、信玄堤のようにバリケードが置かれ、その物々しさは並大抵ないではなかった。
恐らく、昨年の9月11日のアメリカの同時多発テロの影響がこういうところにも及んでいるに違いない。
目下、沖縄の観光客が減っているというのも、このアメリカの同時多発テロの影響といわれているが、飛行機に乗ること自体が危険視されているようである。
ある意味では無理もない話で、あの事件は旅客機そのものを凶器としてしまったわけで、その旅客機を凶器とする過程で、手荷物の中に忍ばせた小さな凶器が、飛行機という大きな凶器を抱え込んでしまったわけである。
それを防ぐには、飛行機に関係するあらゆる人々を徹底的に調べるという方法しか防ぎようがないに違いない。
30数年前、安保闘争華やかりし頃、このゲートでデモ隊と対峙した頃の悠長さとは隔世の感がする。
昭和44年頃、当時の私は空士長でありながら新隊員25名ぐらいの班員を引き連れて、このゲートで門扉を挟んでデモ隊と対峙していた。
その時の事を考えると今でも不思議でならない。
当時、小牧の基地は第3航空団が厳然と存在し、そこには立派な基幹隊員が掃いて捨てるほど居たに違いないし、第5術科学校の方には幹部学生や3曹教育で入校中の学生もが居たに違いないが、何故に、よりによって着任早々の、しかも階級とて一番下に近い空士長と、初等教育を終えたばかりの新隊員の学生を、こういうフロントに配置したのか不思議でならない。
その時の門扉はまだ自動にはなっておらず、今から思えば形ばかりの門扉であった。門扉の向こう側からは、拡声器のシュピレヒコールと共に、鉄のアングルが飛んできて、マスコミ関係者が怪我をするというおまけまで付いた。
そんな思い出のある門が、いまは自動になっており、そのいかめしさは実に堂々たる物であったが、そこに女性の隊員が配置についているのをみて更に驚いた。
警備小隊に女性がつくなどということは信じられない。
これは後日、入間基地においてもゲートの警備に女性隊員が付いていたので、まさしく驚天動地の思いがする。

搭乗前に考えた事

当日は9時少し前に歩いてI氏の家に行き、二人連れ立って徒歩で基地に向かった。
例によって、あのいかめしい門に行き、来意を告げるとすぐに開けてくれたが、この日は我々の来意が事前に正門に入れてあったと見えて、受付もパスして渉外室まで行くことが出来た。
案内されるまま入り口に一番近い部屋に通されると、そこにはすでにご夫婦で参加されるK夫妻が待っておられた。
他にもう一人のメンバーのM氏も定刻に姿を現し、そこで全員揃ったわけである。
ここで深々としたソファーに座っていると、女性隊員がお茶を入れてくれたが、元下級兵士としては、女性のサージャンからお茶を戴くなどという事は、どうにも心の収まりがつかない。
申し訳ないような意識が先走ってしまって、気持ちが動揺してしまう。
こういう広報関係に携わっている女性隊員というのは、なんとなく心の中で納得がいくが、女性の警備隊員とか、女性の機上搭載員というような職種ついている女性というのは、どうにも意識の方が納得しない。
この部屋から搭乗待合室までは、かなり距離があるので、この女性隊員が私有車で送ってくれたが、車内で聞いたところによると、この車で通勤しているという事で更に驚いた。
女性隊員というのは全員営内居住かと思ったら大間違いでした。
そして、その途中で輸送航空団本部の前の隊舎には、でかでかと女性隊員隊舎と看板が掲げてあった。
こんな看板が仰々しく出ているものだから、この基地で任務についている女性隊員は、全部あそこに居住しているものと思い込んでいたので、その意識の落差が尚大きかった。
この待合室は何度も来ているのでさほど珍しい物ではないが、飛行場のエプロンというのは何時見ても気持ちのいいものである。
あの広々とした空間がなんとも気持ちをゆったりとさせる。
騒音は致し方ないが、騒音のない飛行場と言うのも様にならない。
航空自衛隊空輸班というのは自衛隊関係の移動に飛行機を使っているわけであるが、我々と同じ飛行機に乗る人々の中には、陸上自衛隊の人達も大勢いた。
航空自衛隊が、陸上自衛隊の隊員を運ぶということは、明らかに民間の航空会社と競合しているわけで、民間の航空会社としては面白くない事ではないかと勝手に想像している。
大雑把に計算して、一人の人間が飛行機で移動するとなれば、片道1万円は掛かるだろうと思うが、その1万円分の収入をゼロにしてしまっているわけで、民間航空会社としては面白くない存在ではないかと思う。
自衛隊側にしてみれば、それだけ安上がりになっているに違いない。
しかし、安い分だけサービスが悪いのは致し方ない。
何と言っても所詮は軍用なわけで、戦う事を前提に出来ている飛行機であるので、その点は致し方ないが、日本国中を大勢の自衛隊員がこの輸送機で移動している事を考えると、民間企業にしてみれば大きな脅威である事に間違いはない。
戦前のことは私の世代では人から聞く以外知りえないが、戦前に比べると今の自衛隊というのは民間人に非常に気を使ってくれている。
主権在民の戦後の民主国家では、当然と言えば当然であるが、その当然の事が当然として通らないところに、今日の日本の世相の乱れがあるわけで、その意味からすると、明らかに戦前の軍と、今の自衛隊は、意識の面で大いに違ってきている。
自衛隊と言うものを軍と呼べないところに非常にジレンマを感じるのは私だけであろうか。
実質は軍隊にもかかわらず、未だに軍隊と呼べないところは、実に不可解な現象である。
まさしく当然のことが当然でないわけである。
Self defense forceでは沿岸警備隊でしかない。
常識的に考えて、こんな馬鹿な話もないはずであるが、未だにSelf defense force自衛隊のままの呼称である。
そしてほんの些細な事であるが、基本教練をほんの少し習うのと習わないのとでは、非常に差が出る。
例えば、「ここに一列に並んでください」と言われたとき、ほんの少しでも基本教練を知っている人は、自然に一列に並べるが、全く知らない人だと、これだけの事ができない。
だから学校の教育現場でも、生徒を並ばせるのに、先生が声をからかして同じ事を何度も叫ばねばならないのではないかと思う。
それは先生に余分な労力を課している事であるが、先生も生徒も「整列」の一声で、余分な労力を使わなくても済む、という合理性を全く知らないまま日常生活をしているということである。
今回更に驚いたのが、搭乗手続きの祭に、荷物検査があったことである。
そして身元確認の証明書の掲示を求められたことである。
これも昨年のアメリカの同時多発テロの影響であろうが、この飛行機の搭乗というのは、民間とは違っていわば身内同士であるにもかかわらず、そういう検査をするということは、それだけ警戒しているという事である。
民間人を優遇するという意味で、我々は1番最初に飛行機に乗せてもらえたが、このC−1という飛行機はあくまでも「空飛ぶトラック」以外の何物でもない。
ロングシートに腰掛けて、安全ベルトを締めたら、もうまな板の上の鯉と一緒で、じっと我慢の子でいる以外何もしようがない。
我が家の家内が乗りたがらないのも無理ない話である。
K夫妻の奥さんは立派である。
「一度は体験してみよう」という好奇心は素晴らしいものだと思う。
確かに、こういう機会は金を積んだからといって買えるものではない。
宝クジを当てるようなもので、チャンスに巡り会わなければ、こういう体験はありえない。

小牧から那覇へ

我々が乗り込み、後のハッチが閉まると、いよいよ築城基地に向けて出発となったが、この飛行機もやはりジェット機だけあって、上昇角度というのは素晴らしいものである。
体が横になってしまいそうな角度で高度を稼いでいる。
ロングシートはこの点は確かに不都合である。
民間機のように前向きのクロスシートならば、前が上がっても背中で支えることができるが、ロングシートでは体が斜めになってしまって、体を支えるのに力が要る。
機内放送で築城までは高度25@フイートと言っていたが約7500mである。
小牧をテイク・オフして1時間ぐらい過ぎた時、付き添いのN1曹が機上搭載員に掛け合ってくれて、コックピッドを見せてもらったが、私が見せてもらった時は、丁度神戸の上空辺りであった。
というのは、その時コックピッドで見たGPSの映像が、その辺りを示していたのでそれとわかった。
そして対地速度が320ノットを指していた。
窓の外は完全なる有視界飛行日和で、燦々と太陽が輝いていた。
このスピードだと普通の旅客機のスピードと同じである。
天気が良好であったので、定刻に築城についた。
築城の8空団はやはり実戦部隊だけあって活気に満ちている。
ここで食事をし、次の新田原に向かったが、ここの5空団もやはり実戦部隊である。
活気に満ちている。
やはり空軍基地というのはこうでなければならない。
小牧基地というのはどうしても後背地に都市があるので、眺望が良いとはいえないが、この築城にしろ、新田原にしろ、ランウエイの向こうは松ノ木があったりして実に開放感にあふれている。
築城に着いたとき、駐機している機数が妙に少ないなあと思っていたら、丁度昼時で、午前中のミッションを終えたと見えて、次々とRTB(帰投)してきた。
F−15がノーズ・アップしてランウエイに入ってくる姿というのは独特のものがある。
そして背中のエヤー・ブレーキを精一杯つきたてて、徐々にノーズを地面につける姿というのは、エリマキトカゲが慌てて走り去る姿に似ている。
しかし、これが一旦空中に舞い上がれば、その力は想像に余りあるものがある。
現代の科学の粋が凝縮されているはずである。
築城も新田原も私の知る限りにおいて、九州の第一線基地で、最新鋭の機種が配置されている。
私のいた30数年前はF104が就役していたが、今はそれがF−15に代わっている。
途中F−4の時代があったはずだから、思えば遠くに来たもんだと言う感がする。新田原を定刻の出ると1時間40分の飛行で那覇基地についた。
この那覇基地というのはやはり内地には無い雰囲気が漂っていた。
というのは基地の中が非常に起伏に富んでおり、小山が沢山あって、それが綺麗に刈り込んであり、小牧の飛行場が米軍に接収されていた時のような佇まいが漂っていた。
何しろ米軍から完全に引き継いだのが昭和57年というから、私が除隊してから13年も後の事である。
私の自衛隊生活も本当に遠い昔になったわけである。
あの頃はまだ高射群というのも無く、この沖縄の警戒管制も移管されていなかったわけであるが、今はそれが全部移管されて、女子隊員までがそれの運用に携わっているのだから隔世の感がするのも無理ない話である。

那覇の夜

新田原からは、この地域の人たちが、やはり我々と同行するようになった。
その人たちとは行動が同じ部分もあったが、企画の段階から別々に計画が進んでいたみたいで、全く一緒と言うわけではなかった。
飛行機を降りてホテルまでは一緒であったが、食事になるともう別行動であった。
しかし、那覇に着いた時点では同じホテルであったので、同じ車輌で運ばれたが、車の窓から見る那覇の町というのも内地の町と殆ど変わりはない。
しかし、この日のホテルというのは、坂道の途中にあったりして、その通りというのが「消防署通り」というのだから面白い。
確かにホテルの前には消防署があり、消防車が2台待機していたが、そのものずばりの命名が面白いと思った。
今振り返ってみると、この那覇の町というのは非常に坂が多いが、坂が多いはずである。
下の平らなところは基地になっているわけで、ランウエイの作れないところが町になっているわけである。
左翼的な言い方をすれば、基地に抑圧された人々が急な坂に居を構えた、という表現になろうかと思う。
ホテルは完全なるビジネス・ホテルで、可もなく不可もなしというところであるが、このビジネス・ホテルというのは結構使う側としては便利なもののような気がする。
我々は、庶民が旅に出て、そうそう立派なホテルに泊まる必要は無いわけで、あくまでも一宿一飯のミニマムの要件さえ満たしていれば、それで良いわけである。
観光旅行にしたところで、そうそう立派なところに泊まる必要は無いわけで、ホテルに金を落とすぐらいなら、サイト・シーングに金を使いたい人が多いのではないかと思う。
そのことを思うと、高級ホテルでなければならない、ということにはならない。
ホテルの部屋で一休みしてから、皆で連れ立って町に出て、ほんの少し歩いた土産物屋の2階にあった「四つ竹」という店に上がって、そこで琉球の伝統的な踊りを見ながら食事をする事になった。
我々の席は舞台の一番左手の一番前であったが、この食事というのがやはり沖縄独特のもので、ウエイトレスが色々説明してくれたが、その場では覚えているつもりが、いざ文章にしようと思うと綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
ただ一つ紅イモというのが「紅も」ときこえ、その「も」というのが海草の「藻」と思いこんでいたのに、イモとわかって非常の驚いた。
内容は赤い色の「きんとん」であった。
ここで食前酒を何にするかという事になったが、沖縄まできて地酒を飲まない手はないということで、泡盛ということになり、泡盛を6人で2合という事になった。
今回のメンバーも非常に紳士的な方々で、この2合をそれぞれに湯で割ったり水で割ったりして堪能した。
これで可もなく不可もなし、という按配で綺麗に収まったみたいだ。
泡盛というのは、やはり人様の言うとおり、淡白で口当たりがよく、飲みやすいものであった。
ところがその入れ物がかなりユニークなスタイルをしていた。
よく西部劇でカウボーイが携行してキャンプをしながら飲むウイスキーの入れ物に似たもので、あれの陶器製のものに注ぎ口をつけたようなものであった。
この踊りを見ていたら非常に緩やかなテンポである。
リズムも全般的に緩やかで、どこかハワイアンに似ている。
どうして熱帯地方というのはこういう緩やかなテンポやリズムになるのであろう。
あまり暑いので、過激なテンポでは体がついていけないのであろうか。
そして衣装には原色が多く、やはり内地の人の感覚とは一味も二味も違っている。
恐らく中国大陸からの影響だろうと思う。
客室のスペースはそう大きくはないが、我々の入った頃は18:00を少し過ぎた頃と思ったが、客はまばらにしかいなかったのに、踊りが開演する頃になると、席は満席になっていた。
沖縄は観光客が激減していると聞いていたが、結構いるものである。
最後の出し物は、琉球の伝統的な舞踊ということであったが、赤い花の笠を被って黄色を基調とした着物を着て、緩やかな舞であった。
この赤い花の笠を私は椿ではないかと思ったが、ハイビスカスという声もあった。
ああいう風に、赤とか黄色という色を大胆に使う発想というのは、我々にはないものだと思う。
この踊りの時、舞妓が両手にカスタネットを持って踊っていた。
そのカスタネットがフラメンコのカスタネット違って、竹を4つに切っただけで、それを赤く塗った素朴なものであるが、それを両手に持って「四つ竹」と称して、この店の屋号になっていたようだ。
舞が終わったら、踊り子達が舞台で記念撮影のモデルになってくれ、観光客がわれ先に踊り子を挟んで記念撮影をしていた。
我々もそのお相伴に預かって、最後に記念撮影をして店を出た。
そして下の土産物屋をひやかして、その後その近辺を散策して適当なところで切り上げ宿舎に帰った。

沖縄戦を考える

次の日は左程慌てるほどでもなかったが、それでも8:20にはホテルを出て、最初の研修となった。
  ここでは最初に沖縄駐在の陸上自衛隊第1混成団の資料館に案内された。
資料館は確かに資料館であったが、どうも第101不発弾処理隊というのが併設されているな感じがした。
こういう研修というものは、先方のお膳立てで、先方の言うなりになって移動していると、どうにも印象が薄く、記憶が曖昧になりがちである。
この資料館も不発弾処理に関する資料が多かったみたいだ。
太平洋戦争当時の爆弾や、魚雷が展示してあったが、アメリカの爆弾は金属の表面はつるつるしているが、日本製のものはざらざらしているなどという説明は興味あるものである。
その差は恐らく工業力の差を物語っているのではないかと勝手に想像する。
様々な爆弾などを見て、最後の方になると日本が沖縄戦で使ったであろうところの陶器製の手榴弾や陶器製の地雷などを見たときには涙が出そうになった。
先日、図書館で沖縄戦について資料を調べ、当時の写真などを見てみると、この沖縄戦では物量に関して言えば大人と子供の違いぐらいの大きな格差があったわけで、その中で、日本側は陶器の手榴弾や陶器の地雷で、そのアメリカと戦っていたのかと思うと、感無量というか言葉も出ないくらいのショックである。
「窮すれば通ずる」という言葉があるが、あの当時、我々の先輩諸氏は、徹底的に窮した挙句、陶器で手榴弾や地雷を作る事を考えたのであろう。
この発想というのはB-29に竹槍で対抗しようとした発想と全く同じなわけで、その無意味さというものを、当時の大人は理解していなかったのであろうか。
私の推測によれば、当時の大人でも、その無意味さはきっと理解していたに違いないが、それが「無意味だよ」ということが言えなかったのではないかと思う。
それが言えないものだから、上から言われた事に従わざるを得なかったのではないかと思う。
馬鹿馬鹿しいと思いつつ、従わざるを得なかったのではないかと思う。
この「無意味だよ」ということが言えない雰囲気というのは、我々の民族が潜在的に抱え込んでいる深層心理が大きく影響しているのではなかろうか。
つまり、我々の概念であるところの「和」を乱すと言う事に、非常に大きな心理的プレッシャーを感じ、一億総火の玉となって、奈落の底に突き進んだのではなかろうか。
この資料館のとなりが戦史模型室となっており、沖縄の南部地域の立体的な模型を展示し、それでアメリカ軍の沖縄侵攻の様子、日本側の抵抗の様子というものが立体的に見て取れるような装置があった。
そして、米軍側の沖縄上陸作戦が時系列にそって解説されていた。
昭和20年4月1日、最初、嘉手納近くに上陸した米軍は2,3日のうちに島の反対側にまで進出して、日本軍を2分してしまった。
その後、米軍は南下して沖縄の陥落とつながったわけであるが、こういう状況になれば現地の司令官、牛島満第32軍司令官も、長勇参謀長も、如何とも仕方がなかったに違いない。
米軍16万、日本軍10万の決戦である。
兵力の多寡で決戦が決まるわけではないが、日本軍の兵力というのは極限まで消耗していたわけで、中学生や女学生まで駆り集めての兵力である。
沖縄は落ちるべくして落ちたわけである。
悪く言えば、大日本帝国の捨石になったわけである。
この大東亜戦争の敗因を色々考察してみると、大事な局面で、日本側の方針が転換している事がわかる。
ミッドウエイ海戦の爆弾の付け替え、レイテ沖海戦の栗田艦隊の謎のUターン、沖縄戦の第9師団の台湾への移駐、等々の事例は最初の方針が途中で転換した結果である。
戦争というものを遂行する立場としては、状況を見ながら逐次状況に応じた対応を迫られるという事は常にあろうかと思うが、結果論からすれば大きな失敗といわなければならない。
極端な例でいえば、大東亜戦争に踏み切ったことそのものが大失敗であったわけで、これも途中で方針が変わっていれば又違った状況になっていたのかもしれない。
沖縄戦では日本側は負けるべくして負けた、という感が強い。
しかし、アメリカ側からすれば日本はよく戦ったという事になる。
戦力的に優勢な事は向こうも承知しているわけで、それでいて良く抵抗したという意味で、彼等も日本軍への賞賛を惜しまないだろうが、問題は我々の内側、同胞の中にある。
日本軍は大戦中を通じて基本的には非戦闘員を避難させた。
児童を内地に疎開させるための措置が裏目に出て、「対馬丸事件」というものもあるが、基本的には非戦闘員を正規の軍人と区別していた。
ところが沖縄のように事態が切迫してくると、そういう奇麗事では済まされなくなってしまって、中学生や女子生徒まで、軍に協力させるようになった。
そして空襲があったとはいえ、地上が戦場ではなかったにもかかわらず、そこに敵が上陸してくるとなれば、居住民と兵隊をきちんと区分け出来なくなって、双方が同じように生き延びようとするものだから、味方同士の確執となってくるわけである。
日本兵は兵站が十分でないので、勢い住民の食い物を横取りしたり、隠れているところで住民の赤ん坊が泣き声を上げれば、「どうにかせよ」という事になるわけである。
まさしく地上は修羅場と化したわけである。
その修羅場では真実の人間性が問われる。
南京大虐殺の例でもわかるように、被害者の数はともかくとして、それを行ったのは言うまでもなく日本の下級兵士である。
いわば当時の日本の大衆、民衆、草の根の人々の父や、お祖父さん達であった。
沖縄で、住民の食糧を横取りしたり、赤ん坊を虐待したのは、召集で集められた我々の父やお祖父さんたちであった。
日本軍は兵站が不十分であった。
その事実は高級将校も十分知っている筈であるが、それを承知の上で、下級兵士が徴発して来たものの上にあぐらをかいていたわけである。
沖縄戦で出撃した特攻機の数は1900機となっており、艦船33隻を沈めたと資料にはなっているが、こうして散っていった若人と、地上で住民の食糧を横取りする同胞をどう考えたらいいのであろう。

次に続く