続・Minesanの沖縄研修旅行
F4ファントムへの思い入れ
次は今回の企画のメインである那覇航空基地の大家的存在の航空自衛隊の第一戦部隊の見学であったが、この基地は色々な部隊が雑居しているという感じで、その点では非常に判りにくい。
しかし、沖縄の防空の要の部隊という事には変わりないわけで、第83航空隊302飛行隊というものであった。
ハンガーの前でマイクロバスをおりて、エプロン上に駐機してあるF4EJの説明をパイロットから受けたが、この飛行機の製造元に禄を食んでいた私にとっては、カタログ上の数値はさして興味あるものではなかった。
この機体が、ばらばらの部品から組み立てられる過程を見ているものにとっては、面白くも可笑しくもない。
しかし、現役のパイロットから、その戦法を確認しておきたかったので、その点は質問して確認を得た。
やはり、主たる戦法はフロント・スターン・アタックであるという事で、納得した。そうなると今度は要撃管制との兼ね合いで疑問が生じてきた。
F4EJにしろ、F15Jにしろ、搭載レーダーの性能はF104に比べると格段の違いで、我々のいた30数年前は、レーダーの性能が劣悪であったからこそレーダー誘導が必要であったが、その搭載レーダーの性能が向上すれば、地上からの誘導は殆ど必要ないはずで、その点がどうなっているのか疑問としては残ったが、それに気がついたのはその場を辞した後であった。
しかし、このF4という機体は世界の名機である。
全部で何機作られたかは知らないが、我々のいた30数年前は艦載機としても活躍していたはずで、我々は羨望の眼差しでこの機体について語り合ったものである。
英語で書かれたTO(テクニカル・オーダー)を見ながら、自分の得た知識を分かち合ったものである。
私が石狩当別にいた頃、この機体は日本には殆どなくて、ベトナム戦線で活躍していた。
私が自衛隊を除隊して三菱に入り、しばらくしてから三菱でライセンス生産をするようになったが、最初2機がグアム島から飛来して三菱に搬入された。
その時の格好良かった事と言ったらない。
ランウエイの南の方から侵入して、着陸態勢に入ったが、その時は増槽を3つつけていた。
胴体に1番大きなものをつけ、両翼にそれぞれ一つづつ付けて飛来した。
ランウエイの北端でUターンしてタクシー・ウエイを南に下り、三菱に入る誘導路を侵入してきた。
その時、私は北側の防音壁の上で警戒していたが、航空局の黄色の車が場周道路をやってきた。
それで防音壁から飛び降りて、航空局の車を止めて、「いまF4が入りますのでしばらく待ってください」と言ったが、この時は航空局の人間が怒って、後で問題になるかもしれないと一瞬危惧した。
しかし、彼等もF4の機体が珍しかったと見えて、素直に言う事を聞いてくれた。
三菱のエプロンに入って、きちんと駐機し、機から背の高いパイロットが4人降りてくると、そこで和服姿の女性(三菱の社員だったかどうかは知らない)から花束贈呈があった。
その時の光景はブルー・エンジェルという映画のシーンと全く同じである。
このブルー・エンジェルという映画は、アメリカ海軍のアクロバット・チームが世界各地でその妙技を披露するという映画で、航空フアンとしては見逃せない映画である。
この映画の中にもこれと同じシーンがふんだんに出てきた。
というわけで、このF4という機体には特別の思い入れがあった。
ここで面白い話を一席。
私と同じ町内にやはり三菱を退職した人が住んでいるが、その人は三菱でこのF4の組み立てをした経験がある人で、その人の言うには、「あんなガサイ機体も他にない」という。
外板と外板がきちんと合っていないという。
それで私が「そんなことを言ったって、世界で何百機と飛んでいるではないか」といっても、「あんな出鱈目な機体はない」と言い張っていた。
今回引率してくれたN1曹もやはり機体整備をしていたということで、その話をすると「あれはパネル構造になっているので、あれでいいんだ」ということである。
この二人の話から判る事は、三菱の職人にはパネル構造というものがいかなるものか、という教育がなされていないという事である。
自衛隊では常に転換教育というものが行われ、新しい機材が導入されたり、個人のレベルアップを図る時には、転換教育というもので集中的に教育が施されるが、三菱という民間企業では、そういう集中教育というものは一切ないわけである。
人員のやりくりの過程で、船を作っていたような人間に、いきなり飛行機の外板の穴あけをさせたりするわけである。
今の言葉で言えば、OJTで現場の作業長、班長クラスの現場指導に任せ切りなわけである。
当座の仕事はそれで免れても、意識の方が新しい技術に慣れていないものだから、こういう齟齬となって現れていると思う。
職人は職人として、芸術品を作るような仕事でなければ仕事をした気分になれなかったのではないかと思う。
大きな船を作るような場合ならば、誤差の許容範囲もかなり幅があるが、飛行機のような精密なものでは、その許容範囲も極めて厳密でなければならないわけで、その意識が抜けきれないものだから「F4は大雑把な作りになっている」という評価になっているに違いない。
三菱もビッグ・ビジネスとはいえ、あくまでも民間企業である以上、社員の教育には金を掛けれないわけである。
社員の教育に金を掛ければ掛けるほど、儲けが下がってしまうわけで、その点で親方日の丸の自衛隊とは異質な組織となっている。
海軍魂を見る
ここで昼食となったが、なんだか立派なBXの喫茶店のようなところだった。
食後、そのロビーでくつろいでいたが、こういう点は航空自衛隊というのは実に良い。
この昼食以降、新田原からの一行とは別れ、別行動となった。
彼等は昼からは戦跡めぐりというコースらしい。
沖縄に来た以上、戦跡めぐりも魅力あるコースに違いないが、我々の方は再び基地内の海上自衛隊のエプロンに移動した。
海上自衛隊というのは、今までにない規律正しいところで、いささか驚いた。
我々がぞろぞろと近づいていくと、機長というのが前に出てきて自己紹介をしたが、その脇に他の搭乗員4名が直立不動の姿勢で待機していた。
機長の説明の間、彼等の立ち居振舞いが実に厳粛で、如何にも旧海軍の伝統を引き継いでいるというか、旧海軍魂の亡霊を見ているような妙な気持ちになった。
機体の細部のデータは、本当に知る気になれば、図書館でもその詳細は得られる。やはり、私はこの飛行機、P3Cという機体には、F4同様の思い入れがある。
私がまだ当別にいた頃は、この機体は日本にはなくて、アメリカ軍しかもっていなかった。
日本側ではP2Vネプチューンであったが、このネプチューンも空自の飛行機とは別な意味で素晴らしいものであった。
その後継機としてのP3Cオライオンは、我々としても憧憬の眼差しで見ていたものである。
見ていたといってもレーダー上のことであるが、我々のサイトがいくら猛吹雪でも、このオライオンは網走と稚内の海上空域を何時間も何時間も哨戒していた。
それを我々はつきっきりでフォローというか、監視というか、プロッテイング・ボードに書き入れていたものである。
この日の説明でも最高17時間飛べるといっていたが、まさしくそのとおりで、アメ公もよくやるなあ、と感心しながら見守っていたものである。
この機体は昔も今も秘密物件の塊である事に変わりはないと思う。
それを若い世代が運用しているのかと思うと、日本もまだまだ捨てたものではないと思う。
この海上の哨戒飛行というのは、実に地味な仕事である。
攻撃的な派手な任務は一切ないわけで、終止、索敵という地味な任務なわけである。海上自衛隊・海軍では、船乗りの方が飛行機乗りよりも花形ではないかと思う。
ところが昨今の海上兵力というものは、航空機の方にウエイトが偏ってしまい、海軍と空軍の境界が曖昧になってしまっている。
特に米軍では、海軍も航空機による攻撃が主になってしまっているわけで、近代科学の発達は、昔の海軍というイメージを消滅させる方向に向かっている。
昔の海軍のイメージが壊れつつあるということは、海軍即ち海上自衛隊のありかたというものも、大変な時期に差し掛かっているのではないかと思う。
例えば、海軍は飛行機を使うと同時に、潜水艦というものは、海中深く潜行するわけで、いわば海の下から海面から、海面上の空中にまでカバーしなければならないわけである。
これは立体的に対応しなければならないと言うことで、言うは易いが行うは大変な事だと思う。
P3Cの場合、空の上から、海上と海中までカバーしている事になる。
それでいて自分自身は全くの無防備というわけである。
海上自衛隊が沖縄にP3Cオライオンを2飛行隊配備しているということは、如何にこの沖縄を重視しているかということだろうと思う。
航空自衛隊の場合、F4を配備しているという事は、重視の度合いがいくらか低く見積もられているということである。
空自の最新鋭の機体はF15のはずで、旧式の機体を配備しているということは、そう言う事だと思う。
それとも中国を刺激したくないという配慮かもしれない。
この海上自衛隊第5航空群第5航空隊の若い士官とその搭乗員の「軍律厳しい中なれど」の雰囲気には圧倒される思いがした。
心が洗われる思いがする。
これが同じ日本の青年かと思うとなんだか不思議な気がした。
陸自101飛行隊ハンガー
そして次が陸上自衛隊の第101飛行隊の見学となったが、ここはどういうものかバタ臭い雰囲気であった。
主力は演習に出ているということで、格納庫内にある機体について、それぞれに説明を受けたが、数値的なものは公刊された本で調べる事が出来るのでさほど興味を引くものではない。
ここで一番興味を引くのはチヌークCH-47である。
これだけは三菱では作っていない。
後のUH-60は三菱で作っているわけで、それほど興味を引くものではない。CH-47はその大きさに驚いた。
ここには三菱製のMU-2とビーチクラフトの中型連絡機があって、ここの係官は「MU-2は非常に乗りにくい」という話をしていたのが面白い。
性能は極めて優秀にもかかわらず、使い勝手が悪いということだと思う。
三菱の民需品に対する企業体質をモロに露呈している感がする。
MU-2は非常の高価な機体で、それでも国内ではこのクラスの機体としては売れた方であろうが、民需品に対するコンセプトが最初から間違っているような気がする。
「良い物さえ作れば客は買ってくれる」という発想から一歩も抜け切っていない。
「客の要望に如何に応えるか」という発想が欠落している。
三菱の民需品には、その思想が一本の筋として通っているわけで、これは客を見下した発想なわけである。
「こんなに良い物を作ってやったのに何故買わないのか」という感じである。
これが官需品ならば、官の言う通りに作れば、良かろうが悪かろうが関係ないわけで、それで通るが、民需品というのはそういうわけには行かない。
このハンガー内の見学が終わると、ビデオを見せられたが、それは離島の患者輸送を密着取材したものであった。
先の海自の広報室では、海難救助の説明の中で、海自の海難救助が如何に困難か、という事を強調していたが、そのことを思い出すと面白かった。
つまり、陸自の急患輸送はコンデションのいいときに行われるが、海自の場合は悪天候の中での救難活動で、それが如何に困難な仕事か、ということを言いたかったわけであろうが、そういうところに競争意識がチラリと見え隠れしているようだ。
砲台跡と第5高射群
これを見終わったら次の第5高射群の見学ということであったが、その途中で砲台跡というところに案内された。
海の見渡せる高台にその砲台はあったが、ここには他に4つか5つの砲台があったらしいが、一つを除いて他は全て米軍に粉砕されたと聞いた。
一つだけ残っているのは、当時この砲だけが故障しており、弾を発射できなかったので、攻撃から免れたのではないかと説明された。
トーチカの中から出ている砲身は年代を重ねたものであるが、こういうものを見るたびに、戦争のむなしさを感じずにはおれない。
傍らに碑があり、「同期の桜」と掘ってあったが、当時ここを死守して生き残った人々が建立したものであろう。
その名の通り、近くには桜の苗木が植えてあり、赤い花が咲いていた。
同じ桜でも品種が違うのであろう、赤くて時期もいささか早いが、それでも桜に間違いなかった。
この第5高射群というのは要するにペトリオットのチームである。
私にとってはこれも見慣れたもので、そう興味を引くものではなかった。
この機材一式の警備と輸送にかかわりあった人間として、左程の興味はなかったが、私が一番知りたかったことは、これがバッジ・システムとどういう風に係わり合いを持っているのかという事である。
その部分は教えてもらえなかった。無理もない話である。
この基地では私の知りたいものは別にあった。それは防空指揮所である。
いわゆる南西航空警戒管制隊本部であるが、これは見せてくれない。
一番興味があるものは一番見せられないものであった。
こんなわけでこの日は一日中引っ張りまわされたが、こういう見学は説明を聞いているときはわかったようなつもりでいるが、案外記憶には残らないものである。
本当に理解しようとすれば、自分で見て、触って、動かしてみない事には本当に理解したことにはならないが、今回の場合、そこまでの理解を求めるものではないので、これで充分である。
それでマイクロバスで再びホテルに送ってもらったら丁度5時少し前であった。
この日の夕食はホテルの地下の松尾亭というところであったが、ここでも泡盛を少し飲んで、皆軽い気持ちになり、談論風発して、意義のあるひと時を過ごせた。
それぞれに人生を謳歌して、達観した人達ばかりなので、その話を聞くだけで結構楽しいものである。
今までは見ず知らずの他人同士が、この機会を得たことによって、仲良くなり、それぞれの人生経験を語ることが何よりのご馳走であった。
旅はこうでなければならない。
翌日は朝早いフライトなので、早々に引揚げて目覚ましをセットして寝てしまった。
那覇から入間基地
夜中には雨が降ったみたいだ。
路面が濡れていたが飛行には差し障りはないみたいだ。
で、例よって、今度は新田原、福岡、入間と飛行してきたわけであるが、那覇から新田原の間でもう一度コックピットの中を見せてくれたが私はパスした。
その時の状況は雲上飛行で、きらきらと輝く雲以外何も見えなかったということだが、さもありなんという感じである。
高度は24@フイートだったと記憶している。
途中、福岡(板付)で昼食となったが、これにも恐縮してしまう。
民間人の我々の為に、特別の食膳がセットされているのかと思うと、なんだか申し訳ないみたいな気になる。
C-1というのも、外が全く見れないのでつまらないといえばこれほどつまらないものもない。
しかし、それは逆に、物を考えるのには最高の環境である。
腕を組んで考え事するにはベストな条件が揃っている。
そんなわけで、食事を済ませたら再び機上の人となり、約1時間半の飛行で、入間基地に着いた。
この飛行場も古いだけあって、それ相応に貫禄がある。
修武台記念館
着いたら早速先方の係官が案内してくれたが、最初に修武台記念館というところに案内されたが、これは元陸軍士官学校の中の航空士官学校として作られたということであった。
木造2階建てで、いかにも旧軍隊の施設という感じがする。
1階は戦後の航空関係の展示品が所狭しと並んでいたが、2階は旧軍関係の資料が展示してあった。
中でも主面玄関を左に折れて、その右側に警戒管制の資料が展示してあった。
よく見ると私がいたころの機材よりも新しいものが展示してある。
既にバッジ・システムになってからの機材である。これには驚いた。
まさに隔世の感がある。
その脇にカット・モデルの模型があったが、そのレーダーなども3Dレーダーになっており、話にならない。
コンソールの前にはボールタブがある。
我々がバッジ転換教育で教わったものが既に博物館入りしているわけである。
これには驚いた。
プロッテイング・ボードも展示してあったが、その大きさがやけに小さいところを見ると、恐らく教育用の資材であったのかもしれない。
しかし、元経験者として懐かしいし、その意味するところは全部理解できるのが嬉しかった。
UPA―35のレーダーだけは我々が使っていたものと同じであった。
他の部屋にはF104のナサールのレーダーが無造作に転がっていた。
これも当時は「防衛秘密だから」といって、神経をとがらしたものであるが、こともなげに放り出してある。
時代の変遷は恐ろしいものである。
奥のほうの展示室には旧海軍の「桜花」という特攻兵器が展示してあったが、今から思うと実に涙ぐましいというか、人命を軽視したというか、その当時の日本人というのはどうかしていたに違いない。
係官の説明によると、この「桜花」は母機に抱かれて敵の艦船に近づき、出来るだけ正確を期すため、可能な限り敵艦に近づいたので、母機共々攻撃されてあまり良い成績はあげられなかったという説明があったが、さもありなんと思う。
特攻兵器という発想がそもそも合理性に欠けている。
人間が操縦して敵艦に体当たりするといっても、その辺りにいる乞食を連れてきてそれにやらせるわけではない。
優秀な人間を何年も訓練させて、つまり金と暇を掛けて養成した人間が、それをするわけで、誰でも彼でも花と散っていたわけではない。
ある意味で、本来ならば生かしておかなければならない人間を、無駄に死なせたわけである。
その不合理さというものに、最後の最後まで気が付かなかった我々の先輩諸氏というのは一体どうなっていたのであろう。
まさに狂気の時代であったわけである。
この狂気はどこからきていたのであろう。
戦前の御前会議の場でも、日米の国力の差というものは示されていたし、山本五十六でも半年しか戦えないことは知っていたわけで、にもかかわらず3年半も戦ったわけである。
最近の例を見ると、雪印のラベル張替えの事件でも、狂牛病の農林省の対応でも、外務省の経費隠匿事件でも、組織の中でそういう不合理が横行していることを知りながら、それを是正する気運は見事に圧殺されたわけで、それと同じ事だと思う。
悪事をする者も、それを傍観した者も、それが悪事だと知りながら是正措置を何もしなかったわけである。
今回の沖縄那覇基地の研修というのは、私にとっては、現代の自衛隊を見ると同時に、過去の日本の戦争を原点から検証する旅となった。
沖縄戦、そして「桜花」という特攻兵器を見ると、50年数年前の我々の先輩諸氏は一体何を考えていたのか、とつくづく考えさせられる。
私は左翼というものとは真っ向から対立する意見の持ち主であるが、口先で反戦平和を唱えるのではなく、民族の潜在意識に遡って、反戦ということを考えなければならないと思う。
半世紀前、いや正確には60年前、我々は何故にこの無謀な戦争を始めたのであろう。
確かに、その時代は天皇制の時代であったが、昭和天皇というのは、御自身では立憲君主制を重んずる考えでおられたわけである。
しかし、それを私物化して、天皇の笠を借りる事で、自己の権勢をほしいままにした人間がいたのではないかと思う。
天皇の名を語って、日本を奈落の道に引きずり込んだ人間がいたのではないかと思う。
尚悪い事に、その本人は日本がアメリカと戦争をすればこういう結果を招く、ということを想像だにしていなかったことである。
国力の差というものは戦争をする前から判っていたにもかかわらず、戦争の勝敗はしてみなければ判らない、という甘い判断をした人たちが、天皇の名を語って反対意見を沈黙させてしまったからではないかと思う。
そのことを考えると、昭和天皇が専制君主に徹しておれば、この戦争は避けられたかもしれない。
この建物は旧軍時代の陸軍航空士官学校ということであるが、今考えれば、特攻隊員として死ぬための学校であったわけである。
この人間の死を軽んずる発想というのは一体どこからきているのであろう。
私が推測するには、これも当時の国民全部が無意識のうちに嵌りこんだ一種の風潮ではなかったかと思う。
沖縄戦でも、住民としての大日本帝国の臣民をまるで人間として見ていないし、満州や朝鮮の状況でも、当時の大日本帝国臣民というのは見事に裏切られて、軍官僚としての高級将校は臣民を放り出して自分だけさっさと逃げてしまったわけである。
昭和20年9月、サハリンの豊岡で起きた電話交換手の集団自決でも、女性の交換手を最後の最後まで業務につかせたまま、軍人、兵隊達は一体何をしていたのか、と問わなければならない。
戦国美談で終わらせるべき事ではないと思う。
戦後の極東国際軍事法廷で東条英機をはじめとする6人に、戦争の責任を全部背負わせて、我々はそれで禊を、そしてけじめをつけたつもりになって、死者を冒涜する事を控えているが、この死者を冒涜しないという我々の倫理を根本から考え直さなければ成らないのではないかと思う。
A級戦犯というのは確かに巣鴨プリズンで裁かれた。
そしてB,C級戦犯というのは、それぞれに現地で裁かれたが、このB,C級戦犯の裁判は果たして整合性があったかどうかは大いに疑問があるわけで、戦後の我々はそのことをもう一度検証する必要があるのではないかと思う。
そして今回の研修旅行で、第一線の現在の防人たち、21世紀に生きる防人の姿をみたが、その凛々しさは、この修武台の資料として展示してあるセピア色に変色した太平洋戦争の防人の姿とまったく同じであった。
防人としての、前線の青年達の立ち居振舞いは、先の太平洋戦争当時の凛々しい若者の姿と同じであるが、その後に控えている政治の状況というのは全く違っているわけで、我々はこの政治の状況というものをよくよく注視していなければならない。
前線の若者を無駄な死、無意味な死に追いやる事のないよう、シビリアン・コントロールという意味を充分に噛み締めて政治を見ていなければならない。
戦後の自衛隊に対する世の中の批判というのも、実に上滑りの現象で、海外とかアジア周辺の状況というものを全く無視した、独り善がりな政治的パフォーマンスであったわけである。
上滑りの国民感情を深く考察する事なく、政治的パフォーマンスに安易に騙された結果が、戦時中の軍国主義とつながっていたわけである。
天皇の名を語って「鬼畜米英」「撃てし止まん」というスローガンを声高に叫び、それを国民の側が盲信したが故に、我々は奈落の底に転がり落ちたわけである。
当時の状況を考えると、我々国民の側、臣民の側というのは、天皇の名を出されると、水戸黄門の印籠ように、身動きが出来なかったわけである。
それを利用して軍官僚というのが間違った政策、政治の延長としての戦争をしていたわけである。
この修武台の博物館は、1階は戦後の防空に関する資料が展示してあったが、2階は旧軍の資料が所狭しと展示してあった。
その2階の一番奥に「便殿の間」という特別室があって、赤絨毯が敷いてあった。昭和天皇が御休憩されたところとなっているが、そのわりには案外質素なものであった。
一通り見学をして、玄関ホールで改めてこの建物を見てみると、やはり立派な建物である。
半世紀以上を経過した建築物としては堂々たる建物であるが、ここで私は又意地悪な思考に陥った。
というのは、日本を負かしたアメリカ軍は、あの物量の豊富な国であるにもかかわらず、建築物というものには殆ど金を掛けない。
この入間基地も、米軍に接収されていたとはいうものの、アメリカ軍はここを第5空軍基地としながら、彼等自身が作った記念碑的な建造物というのは全くないようだ。
占領した国から接収したから、その必要がなかったというのは一理ある。
しかし、これは建物に対する民族性の違いではないかと思う。
我々の先輩諸氏はかって支配した朝鮮でも、台湾でも、満州でも、支配の記念碑的な大日本帝国の象徴のような建造物を残してきている。
この修武台も、旧陸軍航空隊の象徴のような建物であるわけで、それが立派に半世紀以上たった今でも機能しているということであるが、アメリカ軍は一切そういう記念碑的な建造物というのは残していない。
あのB-29を何千機と作った豊な国が、占領地に一切記念碑的な建造物を作っていない。
これは金というものに対する使い方の発想の違いではないかと思う。
建造物を作る金があったら、飛行機や戦車や、機関銃を作る方にまわせということを示しているのではなかろうか。
我々の発想では、歩兵の鉄砲を作る金を節約してでも、建造物を作る方にまわせという発想の違いではないかと思う。
戦争末期、沖縄戦で敗北を帰した日本では、本土決戦ということが叫ばれた。
本土で決戦するならば、国民、当時の言葉で言えば大日本帝国臣民の一人残らずに銃を配布しなければ本土決戦が出来ないはずであるが、そういう発想は全くなかったようだ。
これ即ち、金の使い方の発想の違いではなかろうか。
小牧基地でもアメリカ軍が進駐していた時、彼らの宿舎は全てバラック建てであった。
ところが今の日本では、これらが全て鉄筋コンクリートのマンションに匹敵するものになっている。
ここに発想の違いが現れているのではなかろうか。
帰投の機中で思ったこと
ここを見終わったら正面ゲートまで車で送ってくれたが、ここでタクシーに乗り換えて、この日の宿舎まで移動した。
この正面ゲートでタクシーを待っている間、ゲートの周辺を観察していたら、やはりここでも警備員に女性隊員が就いていたので驚いたが、きちんと指差呼称をしながら警棒を振っていたので感心した。
ゲートの出入りというのは確かに厳重になっている。
そしてゲートの脇には壊れかかった物置のような建物があったが、あれはいただけない。
宿の部屋に入り、テレビを見てくつろいでいたら、K夫妻の奥さんの方が「こちらでお茶を飲みませんか?」と誘われたので、そのままついていったが、なにしろビジネス・ホテルなものだから一人分のスペースしかないわけで、そこに同行5人が入るとさすがに狭かった。
奥さんがかいがいしくお茶を入れてくださったが、世が世ならば、私がしなければならないところである。
しかし、30数年も前の事であるので、今回は奥さんに甘えてしまった。
この場でも、その後の夕食の場でも、同世代の者が5人、6人と集まれば、面白い話が聞けて楽しいひと時を過ごせた。
翌日はスケジュールどおりに行動して、入間の空輸ターミナルで、エプロン上の飛行機を眺めて時を過ごし、スケジュールどおりに小牧に帰着し、解散さんとなった。
小牧の基地に着いて飛行機を降りた時、ターミナル前に大勢の隊員が整列して誰かを待っていた。
私たちの乗った飛行機にもVIPが一人乗っていたので、その人を出迎えているのかなと思ったが、どうもそうではなさそうであった。
聞くところによると、射撃大会で、この基地のチームが優勝したので、その凱旋を出迎えているということであった。
私たちが着いたときにV107バートルも着いていたようで、そちらの方に乗っていたのかもしれない。
自衛隊でも、旧の軍隊でも、VIPの扱いというのは独特のものがあるのが不思議だ。これは万国共通のことであろうか。
アメリカの戦争映画などを見ていると、司令官というのは率先して前線にでてくるシーンがある。
「頭上の敵機」という、ヨーロッパ戦線の爆撃機B-17の司令官も、率先して機に乗り込み、前線で指揮と取っているが、我々の旧軍ではそういうことがなかったみたいだ。
今回の旅行でも「VIPが乗るから席を一つ移動してくれ」ということをよく言われたが、席を譲る事はいささかもやぶさかではないが、VIPだからと言って特別に気をつかっているところが不思議でならなかった。
戦後急成長した民間企業のトップは、下の者の中に率先して入っていって、下の者がどう言う事を考えいるのか、自分で確認する事を怠らなかった。
ナショナルでも、ホンダでも、トヨタでも、そういう企業体質だからこそ、あれだけ成長したのではないかと思う。
本田聡一郎などは、社員食堂で工員と一緒になって昼飯を食ったというではないか。ところが旧軍でも、今の自衛隊でも、下士官と幹部は厳然と分け隔てられているではないか。
組織のトップともなれば、運転手つきの官有車を与えられ、自分では運転をしようともしない。
民間企業のトップなどは、自分で車を運転してさっさと用を済ましているではないか。
この「自分は偉いから下っ端の仕事には手を出さない」という最悪のケースが、日米開戦の宣戦布告の文書が、真珠湾攻撃の後になったという失態である。
戦争責任を考えるとき、この一事を忘れてはならないと思う。
あれは1946年12月8日、アメリカは確かに日曜日であった。
駐米大使館員は、奥村勝三、寺崎英成、井口貞夫、この3人は当日、極秘電報を受け取っていながら、部下がいなかったからと訳すのを遅滞し、タイピストがいなかったから清書できなかった、と言っている。
こんな馬鹿な外務省職員を我々は税金で飼っている訳である。
昨今の外務省の不祥事も、これの延長線上にあるものと思っていい。
こういう官僚主義というのは何も自衛隊だけの事ではなく、業績が停滞しているビッグ・ビジネスの中にもある。
例えば三菱では、客先や、納入業者や、下請けよりも、自分ところの大幹部を大事にしている。
東海銀行は、年間いくらも使わない応接間に莫大な経費を掛けている。
これ即ち官僚主義の成せる業である。
VIPが乗るからと言って、それをわれわれに告げる係員の心中を察すると、気の毒に思えてならない。
旧大日本帝国軍人としてのVIPが、陛下の赤子としての若人を、特攻隊員とおだてて、死地に追いやったのではなかろうか。
しかし、自衛隊員というのはよく頑張っている。
特に女性隊員というのはよく頑張っている。
21世紀の防人達が命を捨てるような事にないように、我々は政治の方に目を光らせなければならないと思った。
C-1の薄暗い貨物室で、ジェットの爆音をバックグラウンド・ミュージックとして、腕を組みつつ思索に耽った沖縄研修であった。
航空自衛隊員の皆さん有難う御座いました。
平成14年2月4日から7日 2月10日 記
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