ム・む・無題・・・いくさ

太平洋戦争というのは1941年12月8日から1945年8月15日まで戦われた事はオールド・日本人ならば誰でもが知っている。
私が生まれたのは昭和15年で、西暦に直せば1940年、太平洋戦争の一年前という事になる。
戦いが終わったのは5歳の時という事になるが、私の周りには戦争体験者、兵隊の体験者というのが何故か少なかった。
第一、父親は明治41年生まれであったから、普通ならば2度も3度も召集を受けても不思議でない年齢にもかかわらず、一度も召集されず、兵役も勤めていない。
父親の兄、私の叔父さんというのはれっきとした海軍将校、海軍軍人であったが、いつも家にいないので戦いにまつわる話というのは聞いた事がない。
父の一番下の弟、これも私から見ればやはり叔父さんであるが、この人は招集されたが任地にいく前に終戦になってしまい、実戦経験は全くない。
子供心にも自分の父親が兵隊に行っていないのが不思議でならなかった。
父の弁によると、「俺は軍需工場の技師だったから兵役に行かなくてもよかったのだ」と、自慢げに話していたが、それでも素直には受け取れず、不思議でならなかった。
父は体が小さかったので、「体が小さいから兵隊検査に通らなったのだろう」と聞いても、「俺はこれでも甲種合格であった」と、これもさも自慢そうに語ったものだ。
父が戦前、戦中、軍需工場の技師として働いていた事は色あせた写真などが残っているので理解しえたが、後年さる航空機メーカーの禄を食むようになって、先輩等の話を聞いてみると、軍需工場そのもの、飛行機を作っていた工場でも、工員等は召集を受けて出征していったという事を知った。
実戦体験者は身の回りに少なかったが、引揚げ体験を持っている人は数多くいた。
生母が小学校6年生の時死んで、父の後添えとしてきた継母は、台湾からの引揚げ者であった。
しかも本人の弁によると、従軍看護婦であったということで、その関係で父と一緒になるまで医療施設で働いていたという事をいっていた。
私の妻は昭和21年生まれであったが、生後3ヶ月ぐらいで台湾から引揚げてきている。
そして我々夫婦の仲人をしてくれた夫妻は満州からの引揚げ者であった。
話は飛躍するが、東京の千鳥が淵墓苑に行って見ると、ここには大きな世界地図に、かって日本が版図を広げた範囲が一目瞭然と理解できるように示してある。
これは海外から同胞の遺骨を収集した地図であるが、それははからずも過去の日本の栄華を誇示しているかのように見える。
それを見ると、日本は全地球の3分の1ちかくを勢力圏に入れたように見えるが、このことは人類史上稀に見る大変な事ではないかと思う。
モンゴルのジンギスカンが西のほうに移動してゲルマン民族を圧迫して、ヨーロッパが大混乱に陥ったのと同じで、日本人と言うものが全地球の3分の1を勢力圏に収めたということは西洋人、ヨーロッパ系の白人にとっては驚天動地のことではなかったかと思う。
これが偉業かどうかは難しい判断を迫られるが、非ヨーロッパ系の民族でこういう大それた行動を起した民族は他になかったのではないかと思う。
その結果として引揚者の問題があり、遺骨収拾の問題があったわけで、あの戦争というのは大きな民族のうねりとか、歴史のうねりとして捉えるべきではないかと思う。
確かに、日中戦争から、太平洋戦争の経緯を政治史的に分析する事は可能であろうが、それは大きな歴史のうねりの襞をこすっているようなもので、あまり意味のあることではないように見える。
戦後の平和教育では、「戦争は何が何でもすべきではない」という言い方が普遍化しているが、それはよくよく考えると、人間の本質を知らない者の発言のように思える。
目下、アフガニスタンへのアメリカ軍の空爆が問題視されているが、タリバンだかアルカイダだか知らないが、オサマ・ビン・ラデインを捕縛して突き出せば、それで空爆は終わるわけである。
そもそもが、オサマ・ビン・ラデインがニューヨークのビルに旅客機を突っ込ませるような事をしなければ、アメリカ軍のアフガン空爆というのもなかったわけである。
アメリカ軍がアフガンを空爆しているので、難民がパキスタンに逃げていると報道されている。
1945年、我々は連合国に戦争で負けた。
これは完全なノック・アウトであった。
日本の大都市というのは、その大部分が焼け野原になっていた。
東京空襲、名古屋空襲、大阪、広島、長崎、そして海外では何十万人という同胞が取り残されていた。
その人達を我々は引揚者といった。
満州からの引揚者、朝鮮からの引揚者、台湾からの引揚者と呼んでいた。
これを今の言葉で言えば、難民ではなかろうか。
我々の終戦のときの事を思い浮かべると、我々はこの難民というものを我々同胞の力で日本の国に帰還させたではないか。
そのときの船舶は確かに戦勝国の船であったかもしれないが、その他もろもろのことは皆同胞の力で行なった。
ただ命運尽きて、現地で命を落としてしまった人に対しても、後日遺骨の収集という形で、それと同じ事をしたと見るべきではなかろうか。
今も世界各地で紛争が起き、その紛争毎に難民の問題が浮上しているが、これを我々はどう見たら良いのであろう。
「自分達の事は自分達で解決せよ」というのは酷過ぎるだろうか。
話を元に戻すと、1960年代、日本の社会は荒れに荒れていた。
私は思春期の真っ最中である。
世間では全共闘世代というのが安保闘争から、成田闘争、そしてその後、よど号ハイジャック事件から、浅間山荘事件、等々の騒乱状態が続いたが、これらの主体は私とほとんど同世代の若者達であった。
私は自分の稼いだ金を自分の事に注ぎ込んでいたので悔いはないが、それでも仕事をしていた。
この時期の全共闘世代というのは、どういう経済的な基盤であれだけの事がなしえたのであろう。
しかし、あの様子を見ていると、あの世代の日本の若者というのは実に好戦的であった。
ただし彼らの敵は同胞としての警察官や、政府や、自民党、保守陣営という既存の体制であったわけで、宣戦布告をした交戦国の敵ではなかったわけである。
戦後、日本は戦争を放棄したので、交戦国としての敵というのは存在し得ないので、その代替物として存在したのが、体制の敵としての同胞であったわけである。
これを我々はどう解釈したら良いのであろう。
他民族を敵とすることはいけないが、同胞ならば敵としても良かったのだろうか。
あの全共闘世代の行動というのは一体何であったのだろう。
あの好戦的なエネルギーは一体何であったのだろう。
あの頃、私は薄暗いジャズ喫茶のなかでモダン・ジャズに聞き入っていた。
しかし、今ごろになってあの全共闘世代というものに無性に腹が立ってきた。
あの全共闘世代が人の子の親になれば、その子が良くなるはずがない。
今それが現実化しつつあるのではなかろうか。
2002・1・12

Minesanの自己紹介に戻る