北海道への片道切符

生涯で一番印象に残る旅といえば、やはり自衛隊に入隊して最初に赴任した北海道への旅であろう。
あれは昭和40年、1965年の2月の事であった。
小牧の第五術科学校の警戒管制初級コースを終了して、任地に向かったわけであるが、この尾張地方で生を受けた人間が北海道に行くなどということは我々の周りにはありえない事である。
私の同級生などでも、進学のために東京に出ることはあっても、卒業と同時に又故郷に舞い戻って、故郷で生涯を全うしている。
私の育った地域では「何故わざわざ北海道くんだりまで行くのか?」というのが普通の感覚であった。
私の親もその中の一人であった。
その空気を私は「保守的な雰囲気」と称しているわけで、小学校、中学校、高校と見ても、ただの旅行で北海道に行った人間はいたとしても、そこに就職する人間というのは考えられない存在であった。
ところが、私は第1希望で北海道を選択した。
私の選んだ職種では日本全国で24箇所、北海道においては網走、釧路、稚内、石狩当別、奥尻と選択する場があった。
仕事の内容を勘案して、私は石狩当別を選択したが、これは正解であった。
他の場所に比べて札幌という都会に比較的近かく、僻地に居ながら都会の雰囲気も味わうことが出来た。
コースを終了して、1、2日は余裕があったように記憶しているが、米原経由北陸線、奥羽本線を乗り継いで、青森に着き、当時の青函連絡船で函館に渡り、また特急列車で札幌入りをした。
大阪から来た特急「はつかり」は青森に真夜中についたように記憶している。
青函連絡船に乗り換えるときはどういうわけか皆小走りに走った。
あのホームというのか、桟橋というのか、連絡通路は実にだだっ広く閑散としており、元気なのは担ぎ屋のおばさんたちだけであったように記憶している。
この乗り換えも、そう慌てる事はなさそうなのに、皆が小走りに走るというのは、船の中でいい席を取りたいからであった。
このときの情景はまさしく石川さゆりの「津軽海峡冬景色」そのものである。
しかも、それが夜となれば、言いようの無い寂しさが募る。
特急「はつかり」の中では、大阪出身で網走に赴任する同期の仲間が探しに来てくれた。
同じ方向に赴任するものだから、特に約束していたわけではないが、同じ列車に乗るのではなかろうか、とあてづっぽうに探したらしいが、お陰で道中退屈しなかった。
そしてこの車中で、前の席のおばさんが、その風采から見てどう見ても水商売か、番屋の飯炊き女という風の、あまり気品のあるおばさんではなかったが、「自衛隊さんこれをどうぞ!」とコップで水を渡してくれた。
こちらも「有難う!」と言って素直に受けて飲んでみたら、これが冷酒で、北の方の人はこういう飲み方のをするかと、北海道につく前から大いに驚いたものである。
函館からは当時「おおぞら」という特急だったと思う。
札幌には確か10時頃についたように記憶しているが、網走に赴任する同期の彼も、この札幌で一日遊んでから行くという事で札幌駅に二人で降り立った。
列車からホームに足を一歩差し出したとたん、鼻毛が引きつったようになって、逆にもぞもぞと変な感じがした。
くしゃみが出そうで出ない時のような妙な感じがしたものである。
そして空気がピーンと張り詰めているような、如何にも極寒の地に来たという感じがしたものである。
二人で駅の周辺を適当にうろついてから、木賃宿に入り、二階に通されて驚いた。
二階の畳の間にストーブが置いてあるではないか。
マージャン台ぐらいの板の上に、ブリキで天板を張って保護してあるが、その上にストーブが置いてあり、それに火が燃えているのを見て驚いた。
あの当時、部屋の中のストーブではオガライトというものを燃料にしていたらしい。
ところがこのオガライトというものも私は今まで目にした事がなかった。
大きな竹輪のようなもので、これはどうもオガ粉を圧縮して固めたもののようだ。
しかし、その後4年間の北海道の生活では、その時以来これに出会ったことは無かった。
このとき以来オガライトを見ていないという事は、その後は暖房設備の整った場所にいたということである。
この日は畳の上のストーブに驚きながらも此処で一泊して、翌日彼とは別れ、私は任地の石狩当別に出向いた。
そこは札幌から北に向かって延びている札沼線で、5つ目か6つ目の駅であったが、デイーゼル2両のひなびた路線であった。
そのデイーゼルが石狩川を越えると線路の両側は一面の雪景色であった。
線路の左側は防雪林で被われていたが、右側は雪以外なにも視界に入らなかった。
駅でおりて構外に出てみると駅前広場というのはさほど広というわけではなかったが、馬橇が居るではないか。
馬橇とくれば、我々の世代では、岡田嘉子の逃亡劇が頭をよぎる。
岡田嘉子とその間男は、あれに乗って祖国を捨て、雪の平原に消えていったのか思うと不思議な気がしたものである。
橇を引く馬も、どさん子といわれる足が太く毛並みの長い馬で、如何にも北海道の農耕馬というたくましさ感じられた。
石狩当別についたら隊外クラブに行け、と言われていたので、そこに行ってみると、その入り口が階段で4,5段おりなければならなかった。
頭を低めてその階段をおりた。 この階段が雪の階段で、後日雪の無いときに行ったら普通に出入りできた。
人や車の通るところが雪で1mあまり上になっていたわけである。
中に入ると石油ストーブが赤々と燃えていた。
同じ任地に赴任する同期は他に二人いたが、彼らは東北出身で、此処で集合して、いよいよ部隊に行くわけであるが、部隊はまだこの先、車で30分ほどの奥地にあった。
隊外クラブというのは、我々の部隊の町での集合場所になっていたわけで、非番でこれから勤務につく先輩達も三々五々集まってきて、同じ車両で部隊に戻らねばならなかった。
その先輩達に教えられながら車に乗り込んだわけであるが、これが例の軍用トラックである。
我々は10輪と言っていた。要するに一台に車輪が10ついていたのでこう呼ばれたに違いないが、アメリカ風に気障に言えばテン・ウイールとでもいうのだろうか。
とにかく幌付きの軍用トラックで、荷物との混載で、我々人間は煽りを倒した長いすに座るわけであるが、その30分間のドライブがこれまた大変なドライブであった。
車輪に巻いたチェンがシャンシャンと鳴るのはクリスマスにサンタ・クロースが子供達にプレゼントを配るような響きがしたものであるが、それの巻き上げる雪が、これまたパウダー・スノウで、それが幌の間から入ってきて部隊に着いて降りたときには全員動く雪ダルマのような有り様であった。
しかし、雪の北海道というのは実にいいものである。
出来れば永住したかったが、親孝行と自分の我侭を秤に架けて、親孝行の方が勝ってしまったので、今は羨望の眼差しで眺めているだけである。
北海道で過ごした4年間は酒とスキーと仕事の日々で、我が生涯におけるばら色の青春時代であった。
何しろ自衛隊というものに入隊して、最初の任地が厳寒の北海道で、しかもこの石狩当別というのは日本海に沿った沿岸部で、一番雪の多いところであったが、好きで来たきた場所で、好きなスキーが出来、好きな仕事にであえたからである。
これが私の生涯で一番印象の深い、片道切符の旅であった。
因みに元ロックン・ローラー、今落語家のミッキー亭・カーチスのレパートリーに「恋の片道切符」というのがある。
以前テレビを見ていたら、彼が言っていた言葉に、「男が旅に出るとき往復切符を買っちゃいけませんよ、片道切符でなければ男でありませんよ・・・」というのがあった。

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