日光見学

日光見学  平成13年5月2日

 

出掛け早々のトラブル

毎年恒例のゴールデンウイークになると、何処に出かけるのか我が家の話題になるが、ことしは私が定年になって毎日が日曜日でもあるので、そうそう心配することもなく、何時何処にでも出かけられるので、心配はしていなかったが、これはこれでまた悩みの種であった。
私は自分ではっきりとした目的がないときには、早々無駄な行動はしたくないたちで、どんなつまらない行為でも、自分の意志で動くときは勇躍するが、人から強制されて動くときはどうも心が晴れ晴れしない。
それで家内と大喧嘩の末、最後は私が妥協せざるを得ず、長男の家族に付き合う事になった。
それで4月2日、娘に勝川駅まで送ってもらって東京に出掛けることにした。
    今回はいつものがんセンターへの通院ではないので、経費を節約する意味で、「こだま」を利用した。
「こだま」というのも、途中全部の駅に止まるので、時間が掛かってしょうがないが、この場合急ぐ旅ではないので致し方ない。
天気は雨模様で幸先悪いが、いまさら悔やんでも致し方ない。
出掛けるときは傘が必要というほどでもなく、曇天であったが、これは長男の住んでいるところまでほとんど変わりがなく、その点はありがたかった。
そして東京駅で乗り換えて長男の待っている与野につくと、長男とその息子が駅で待っていてくれた。
出発の準備を全部整えて待っていてくれたので、そのまま長男の車に乗り込んで、出発という事になったが、長男の嫁さんだけは家の後始末のため、自宅前で待っているということで、そのままUターンし、自宅まで戻って彼女をピックアップして出発ということになった。
ところが、この時点ですでに昼近くになっていたので、昼食を取ってから走ろうということになり、5月1日付けで新らしい市として再出発することになった、さいたま市のビルの中で食事をする事にしたが、そこに向かう途中、運転していた長男が、右折禁止のところを右折してしまって、それをパトカーに見られてしまい、捕まってしまった。
出掛けにつまらぬトラブルにあい、さい先悪いなあと思ったが、長男も車の運転にかなり自信過剰気味で、増長している面があるので、良いお灸になったということもいえる。
交通法規というのは不合理な内容を沢山含んでおり、こんな馬鹿な話もないと思いながらも、やはり違反すれば処罰されるのは致し方ない。
交通法規というものが不合理なことは、どうも日本だけのことではなく、世界各国共通のようだ。
右折をしてはいけないといったところで、したところで何ら危険があるわけではないし、現に何事もなく右折できているにもかかわらず、違反行為になるということは、その制度のほうに不合理性があるということは重々分かっているにもかかわらず、法律に反したという行為は免れないわけである。
交通法規というものが、こういう不合理性に満ち満ちているので、人々は違反することを意に介さないわけである。
捕まれば、たまたま運が悪かった、という解釈で自己を擁護してしまうわけである。
捕まったほうには全く罪の意識が無いものだから、同じ事が何度も繰り返されるわけである。
これは車というものを使うほうも、取り締まるほうも、その不合理性を十分に知っているからこそ、順法精神のほうが麻痺してしまっているわけである。
捕まったほうは、「しまった!運が悪かった」と思うだけだし、捕まえるほうも気の毒がっているわけで、これではまるでいたちごっこをしているだけであるが、そこに警察の存在価値があるということもいえるわけである。
善良な市民のささやかな違反を取り締まるよりも、暴走族を絶滅する努力をせよ、と言いたいところであるが、パトカーに見られたということは、運が悪かったというほかない。
しかし、これも注意すれば避けられることで、その意味では高い教訓であった。
運転するときには、常に道路標識というものを注意してみておれば避けられたことで、その意味で高い授業料であったわけである。
この時、家内は右折禁止ということに気がついていたが、アドバイスのタイミングが遅すぎたようだ。
こういうことは車を運転していれば常に付きまとうことで、いわば災難のようなものである。
だから私は警察というものが大嫌いなわけである。

さいたま市の行く末

出掛けに災難に会ったが、やってしまったことはどう悔いても仕方がないことで、気を取り直して、まずは腹ごしらえをすることにして、このさいたま市の都心というのか、中心街というのか、新しいビルの地下の駐車場に車を入れて食堂街を歩いて食事をするところを探した。
歩き始めた最初の所でリーズナブルな寿司屋を見つけ、全員一致でそこに入ることに決定、ぞろぞろと総勢5人、奥のほうに座を占めた。
リーズナブルな値段というのは、外に展示してあるメニューに、ランチ・メニューとして千円以下の寿司があったからである。
孫は寿司屋に入ったのが初めてのようで、職人の威勢のいい掛け声に感動していたようだ。
もうすぐ3歳になる孫にとって、非日常のものにはなんでも感動するので、それは見ていても楽しいものである。
孫の感動とは別に、私はこの店内を見て、日本の経済というものの不思議さに驚いていた。
この真新しいビルというものに、いくらお金が掛かっているか知る由もないが、こういうお金の掛かったビルの中で商売をするということは、相当に難しいことではないかと心配している。
私が寿司屋の経営者であるとすれば、恐ろしくて手が出せないのではないかと思う。
仮に、店が賃貸だとして、職人の給料から、ウエイトレスの給料、店の賃貸料から仕入れのことを考えると、私の頭ではどう考えても、採算ラインの維持が困難なような気がしてならない。
東京にしても、この新らしい、さいたま市のビル街にしても、集客力というものは名古屋に比べれば格段にあることは理解できるが、それにしても、我々庶民の金の概念を越えた金額が飛び交っていたに違いないと想像する。
こういうことがいわゆるバブルではないのかと思う。
寿司屋の経営者といえども、採算性を無視して店を展開するわけはないだろうが、その採算性というものが果たして本当に信頼できるのかどうか、というところが問題である。
このビルの食堂街というのは、そういう危うい状況の中で店を出しているわけで、一軒だけの問題ではないわけである。
この、さいたま市というのは、5月1日に誕生したばかりで、昨日今日のことで、まだまだ物珍しさにかまけて人が集まってくるが、これがこれから10年20年の単位でこのままの状態が続くかどうかが問題である。
そういう予測の上に、新しいビル群が出来たに違いないと思うが、その予測に信頼性があるかどうかの問題である。
10年前のバブル崩壊というのは、その予測が外れたわけで、経済の先行きというものは誰にも分からないということであれば、その予測も外れる公算は大いにあるわけである。
かってのバブル経済崩壊というのは、当時の経済予測が外れたということに他ならないわけで、そのことは採算性が取れると思っていたことが、そうならなかったということである。
今、わが家族の大人4人と、赤ん坊の一人が食べている昼食の寿司が、リーズナブルと喜んでいるうちは、この採算性が本当に正しいかどうかの別れ道なわけであり、これが2年後3年後に分かってくることになろうが、このさいたま市というのはまさしく21世紀の未来都市がこの場にあるという感がする。 未来都市なるが故に、我々、門外漢には一抹の不安が付きまとう。

日光への道中

ここで食事をして、一路日光に向かうわけであるが、この日はゴールデン・ウイークの真中という所為かどうか、また天候もあまりぱっとして天気ではなかったので、道は案外すいていた。
しかし、人の車に乗っているという事は、道案内も他人任せなわけで、何処をどう走ったのか案外記憶に残らないもので、知らないうちに日光についてしまっていた。
多分、岩槻で東北自動車道に乗って鹿沼で下りたに違いない。
何しろ観光バスと違って、そういう説明が一切ないものだから、後の席で他人任せにしていると、何処をどう走ったかわからない。
鹿沼で下りて国道120号線というのを北に上っていくと、今市を通り日光につながっているので、このコースであったに違いない。
途中、右側にJRの線路を見ながら走ったが、雨模様の天気であった所為か、あまり車の数も多くなくスムースの走れた。
この道を自宅に帰ってから地図で調べてみると、例幣使街道となっているが、この例弊使というものが分からない。 
それで広辞苑を紐解いてみた。
それによると、朝廷から毎年の決まりとして神に捧げる幣帛となっていた。
そこでまたこの「幣帛」というものがわからなかった。
再び別の辞書で調べると「白い絹」ということが分かったが、要するに、この道は朝廷が毎年日光東照宮に捧げる品物を運んだ道というわけである。
しかし、考えて見るとそれは妙なことである。
だって、東照宮というのは家康を祭っているわけで、朝廷とは関係ないはずである。
幕府が奉納するというのならば理解できるが、朝廷が奉納するという事なら理屈に合わないのではないかと思えてきた。 
これは今この文章を書きながら思ったことで、その時はただただ窓の外の杉並木に驚いていた。
今市のかなり手前から杉並木があったようだ。
不思議なことに、この杉並木の付近には全く遊歩道が設けてなくて、ハイカーにとっては実に不親切な作りとなっている。
車でなければ危なくて通れないような道であった。
しかし、木のそのものは立派な木ばかりで、さぞかしスギ花粉の飛散も大きかったに違いない。
松並木というのも良いが、杉並木というのもいいものである。
松というのは樹齢が進むと案外枯れる場合があるようで、メンテナンスが必要なみたいだが、杉の場合はそういうものは必要ないのだろうか。
道路はうっそうとした雰囲気に包まれて「昼尚暗き」という感じがする。

日光東照宮

東武鉄道の日光駅の周りはいかにも観光地という風情を漂わせていたが、そこを過ぎて標識に沿って走るうちに、大きな駐車場についた。
金5百円也を納めて、そこに車を止め、いよいよ見学ということになったが、如何せん、雨降りで傘が手放せない。
この日光というのは、十数年前に裏側から挑戦した事があったが、ここまでたどり着けなかった。
当時、まだ子供達も幼なく、家族4人が志賀高原に行った折に、裏側から挑戦してみたが、時間切れで手前から折り返してしまったことがある。
この日は雨で、見学者も少なかったと見えて、一番近い駐車場まで進めたようで、下りたら直ぐに見学場所であった。
車を降りたら正面に護摩を炊く香炉があった。
これも異様に大きく、かつ黒光りする立派なものであった。
これは浅草・浅草寺の香炉と同じぐらいである。
この香炉の向こうの方、遥かなところに門があり、これが黒門と呼ばれる門で、その向こう側が正式な参道になっていた。
この香炉の右手の高いところには三仏堂という立派な堂があり、その反対側、香炉の左側には宝物殿と逍遥園という庭園があった。
車を降りたら長男の嫁さんが入場券を買ってきてくれた。
それはこの日光の5箇所の施設に入れるものを一綴りにしたもので、それでもって、最初に一番手前にある宝物殿と逍遥園に入った。
逍遥園というのは実に立派な庭園で、しゃくなげが綺麗に咲いていた。
入って右回りに一巡できるようになっており、典型的な日本庭園であった。
庭園というのも、その手入れというのが実に大変で、我々凡人ではとてもこうはいかない。
やはり専門の管理人が日夜心血を注いで管理しないことには、とても維持できるものではない。
ここを一回りして出口に向かうと、そこから宝物殿に入れたが、ここではさほど私の関心を寄せるべきものはなかった。
しかし、この宝物殿のガラス越しに見る庭園というのは実に素晴らしく、この位置から庭を見るために、この建物が出来ていたのかもしれない。
そして、ここを見終わったら、香炉の奥のほう見えた黒門に向かい、その門の外に出てみると、実に広い参道になっており、これを右手のほうに向かうと、いよいよ日光東照宮になるわけである。
広い参道には2、3、テキヤの店もあり、それぞれに商いをしていたが、何しろ雨降りで、参拝客も滅法少ないので、これでは商売になっていないのではないかと、あらぬ心配をした。
それで、この広い参道は雨にぬれて足元はぬかるんでいたが、水溜りを避けて、少し登り勾配になった道を歩んでいくと、石段があり、そこには石の鳥居があった。
鳥居というのは、たいてい木で出来ているが、ここのものは石で出来ていたわけで、両側の柱は大きな丈の長いドラム缶を二つ積み重ねたように途中に線が入っていた。
上の梁は3つの部分に分かれているようで、それぞれに線が入っていたが、これは地震になったら目も当てられないのではないかと、そんなことが心配になった。
この鳥居を潜ると、左側に5重の塔が見えた。
これはまさしく絢爛豪華というか何というか、極彩色に塗られた5重の塔で、見事というか、立派というか、甚だ形容に困る代物である。
ここの建造物一般に言えることであるが、軒の下の支えの支柱というのは一体何という呼称か知らないが、その部分が凝りに凝っている。
軒下というべきか、軒端というのか知らないが、ここの細工がまるで寄木細工のように、凝りに凝った作りになっているのがなんとも不思議だ。
しかし、5重の塔というのも各地に散見するが、これは一体どういう目的で作ったものなのであろう。
実用性ということを考えてみれば、これほど実用性のない施設も又とないわけで、全く意味のない建物ではないかと思う。
経典を保存しておくものとしても、5階建てにする必要というのは全くないわけで、それかといって火の見櫓でもないし、一体何のためにああいうものを作ったのか、全く理解に苦しむ。
山門ならば、例え形式としても、門という概念があり、庫裏ならば倉庫ということも充分頷けるが、5重の塔に関しては、その目的というものがさっぱり理解しがたい。
そして、こういう背の高い建物は、下から見上げられるという効果を十分に考えて、軒の下の部分に過剰ともいえる装飾が施されているわけである。
だいたいがこの日光の建築物というのは装飾過多である。
私の言葉で言えばオーバー・デコ、オーバー・デコレーションである。
5重の塔の前をなおも進むと、又階段になっており、それを上がると、表門ということであるが、ここでは例の仁王像があって、左右の門を固めている。
浅草寺の仁王様は埃を被っているが、ここは山の中で、埃が少ないのか、さほど埃まみれという風ではなかった。
この門というのも表側は仁王様が厳重な目で睨んでいるが、裏側というのは案外質素で、意表を突かれる。
ここを潜ると、左側に神厩舎というのがあって、建物は例によって絢爛豪華というかオーバー・デコ気味であるが、ここには馬がいるようだ。
がしかし、この馬はどうも通勤しているようで、我々の行った時間には、どうも課業終了でいなかった。
更に進むと水盤舎というのがあり、これは要するに手洗い場であるが、その建物が例によってオーバー・デコで、何とも言いようのない異形なものである。
その水盤舎の対面には三神庫という極彩色の建物があった。
そして再び階段があり、それを上ると左側に太鼓の楼、つまり鼓楼と鐘楼が対になってあった。
しかしこれも普通の寺にあるような素朴なものではなく、凝りに凝った代物で通常のイメージとかけ離れたものである。
それを過ぎるといよいよ陽明門ということになるが、この山門もその凝りようといったら筆舌に尽きるという代物で、文字では言い表し様のない代物である。
絢爛豪華を通り越しているのではないかとさえ思えてくる。
金銀財宝で凝り固めたとでも言うほかない。
しかし、この門に限っては、赤とか緑という極彩色が使われていないので、その分渋みのある輝きを発散させているようにみえた。
この門の番人が仁王様でないのはどういうことなのであろう。
ここを守っているのは百人一首に出てくる防人のような装束を着ている人で、阿吽の仁王でないというのは、どういうことなのであろう。
そして、柱の白さというのは何を表しているのであろう。不可解千万である。
それにしても、この軒下の造作というのはどう表現したら良いのであろう。
まるで寄木細工である。
陽明門の奥には拝殿と本殿があり、それを取り囲むようにめぐらした塀には、これまた異様に彫刻が施してある。
それが又極彩色に塗ってあるというのは一体どういうことなのであろう。
宮と言うからには、ここには神様が祭ってあることになるわけで、それで不思議に思って、係りの人に聞いてみたら、「ここでは家康が神様になった」ということで、宮と言う呼称を使っているとの事である。
すると、この東照宮の本殿というのは、神様になり変わった家康を祭っているという事になれば、その神様というのは、非常に破廉恥な神様に違いない。
日本古来の神様というのは、非常に質素なわけで、伊勢神宮にしても、熱田神宮にしても、出雲大社のしても、極彩色でごてごて彫刻を施した飾り物というのは一切ないわけで、それに反し、後から神様になった家康というのは、非常に美的センスに欠けた祭り方をされているわけである。
日本古来の神様とは、かけ離れた存在である、といわなければならない。
極彩色に塗りたくった建物に入りたがる神様というのも、全くセンスに欠けた神様といわなければならない。
神仏習合とか神仏混合とかいう言葉があって、昔は神様も仏様も同じところに祭られた時期があったということであるが、この建造物の作り方というのは、確かに仏様の様式を継いでいるのではないかと思う。
仏教のほうでは、こういう金ぴかのものが尊重され、仏像というのも金ぴかのものが多いが、日本古来の神様というのは、こういう金ぴかのものはないわけで、その辺りに違和感を感じずにはいれない。
私の感性からすれば、これら異様なオーバー・デコの造作が、将軍の威厳を示すためのものだとすれば、これは成り上がりものの、成金趣味という風に感じられる。
家康が神様になりたかった、というのもやはり成金趣味の延長線上にある思考ではないかと思う。
この地上におけるあらゆる物を手中に収めたが、ただ一つ神の存在だけは越えることが出来なかったわけで、それへの対抗心を表す手段として、こういう絢爛豪華を通り越して、グロテスク気味の建造物を作ることによって、その敵愾心を表したのではないかとさえ思えてくる。
侘びとか寂びの対極にある極彩色の建造物というのは、そうとでも言わなければ説明がつかない。
というわけで、今来た道をそのまま戻って、黒門のかなり手前で大きな三仏堂の手前で左に折れてみると、そこには立派な礼拝堂があり、線香や数珠を売っているところがあった。
これもやはり真っ赤に塗られていたが、これは大護摩堂といい、その真正面には妙な青銅製と思われる造形物があった。
これは相輪塔と呼ばれるもので、奇怪な様相の塔があった。
その傍にある巨大な建造物が三仏堂といわれるもので、ここには翌日入ることにして、この日は割愛した。
参道を隔てて内側がいわゆる輪王寺ということで、この部分は寺の領域になっているらしい。
実に、この日光というのは巨大な敷地を要しているようで、何処までが神社でどこから寺領なのか正確には分からない。
要するに、寺もお宮もこん然一体となっているわけである。
雨の中を大人4人と子供1人でぞろぞろと見て回ったわけであるが、確かに、世界遺産に登録されるだけの値打ちというか、貫禄というものは兼ね備えている風に見えた。

次に続く