日光見学

翌日(4月3日)の見学

見所はまだあったが、明日という日もあることで、この日はこの辺りで切り上げて、この日の宿に向かった。
宿といってもほんの少し離れただけで、直ぐに見つかった。
こじんまりとした小さなペンションであった。
あまりこじんまり過ぎて、トイレと洗面所が共同使用となっていたのはいささか意表を突かれた。
最近はこういうシステムのところがめっきり少なくなって、珍しい存在である。
私は旅に出て宿に泊まると、ただただ寝てしまうほうで、その代わり、朝になると一番に起きて、その辺りを徘徊する性質である。
今回も、夜は早くから寝てしまい、朝おきてから散歩がてら前の日に見た境内まで足を伸ばした。
宿から徒歩15分ぐらいで着けたが、誰もいない境内を散策するのもまた楽しいひと時である。
宿を出て、坂道に沿って下りていくと、下で大きな川に出、その橋を渡って、道なりに進むと、日光の駅からきている幹線道路にぶつかって、そこは信号機のある大きな交叉点になっていた。
下のほうからこの東照宮に向かってきている道は、この交叉点で左右に分かれ、正面から直接本堂のほうに上がることは出来ない仕組みになっている。
交叉点の少し左のほうに寄ったところに上り口がある。
そして、陽明門に通じる表参道というのは、なおも左の方に寄ったところにあり、その入り口というのはなかなか複雑になっている。
それで私は信号機にあるところの階段を登ってみると、昨日は気がつかなかったが、ここにこの日光を最初に開山した勝道上人像という大きな銅像あった。
この勝道上人という人物が、766年にこの地に初めて開山したという主旨の説明版が、台座の裏に記されていたが、とにかく読みにくく、ガイドブックで読んだほうがよほどましである。
この像は、後の三仏堂を背にして立っているわけで、この三仏堂とその他もろもろの施設を含めて輪王寺と言うものらしい。
ガイドブックをよく見てみると、東照宮の表参道の脇に輪王寺というものがあり、昨日車を止めて黒門から参道に出た、ということは輪王寺の境内に車を止めたわけで、香炉というのもその境内だからこそそこにあったわけである。
お寺とお宮さんが一緒にあるものだからどうもややこしい。
しかし、ここの杉の木というのは実に大きく見事なものである。
そして、この辺りをぶらぶらしてから宿に戻って食事をし、再びここの境内に車を止め、見残したところを再度見学した。
昨日はこの三仏堂に入っていなかったので、この日はここから見ようと、中に入ってみた。
入り口の正面にはいきなり格子があり、内部の仏様とは直接対面できない仕組みになっていた。
仏様の顔を拝もうとすると、どうしても右のほうから格子を回り込んで、中に進まなければならない。
中に入ってみると、確かに三仏堂というだけあって、大きな仏像が三体安置してあった。
向かって右から千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音と、金ぴかの巨大な坐像が三体安置してあった。
そして、どういうわけか出口の傍にもう一つ、真っ赤な漆塗りの坐像があり、その傍に来たとき、参拝者の中の人が、「これはおさすり阿弥陀といって、自分の痛いところと、この坐像のその部位を、交互にさすればそれが治る、といわれている」と説明していた。
近くには、そういう主旨の案内板も全く見当たらなかったが、どうせ迷信とは思いつつも、お遊びで、言われたとおりにしてみた。
迷信と思いつつするところが我ながらしらけているし、可愛げが無い。
それでここを出て裏口に行き、大護摩堂の前を通り、表参道に出、それを石の鳥居付近まで行き、そこから斜めに入って、二荒山神社まで行った。
この二荒山というのが読めなくて、どう読むのか一人で悩んでいたが、その辺りにある看板を見て「ふたらさん」と 読むということが分かった。
ものによっては「ふたあらさん」と書いてあるものもあった。
日本語は実に難しい。
分かってしまえばなんでもないが、分からない時には、まさしく自己嫌悪に陥る。
ここは神社であるせいか、さほど絢爛豪華というわけではなく質素であるが、それでも朱の色というのは強烈である。
そして次の大猷院というのは、先の東照宮にも劣らぬ絢爛豪華の一語に尽きる。
ここは門が多く、陽明門のように凝りに凝ったというわけではないが、やたらと鬼の門番が多い。
最初の門は、仁王門といわれるだけあって、仁王様が両脇を固めており、それこそ赤鬼が門を見張っているという感がする。
次の門が二天門と言い、表側は持国天と広目天、裏側は風神と雷神である。
そして次が夜叉門といわれ、4つの鬼が固めていることになっている。
この間、階段ばかりで、足の弱いものにとってはかなり苦渋を強いられる。
長男は息子を背負いごにいれておぶっているので、気をつけるように注意したが、何しろ若いので、この程度の階段はものともしていない。
しかし、考えてみると、この山門というのも実に不思議なものである。
正面を仁王様で固めるというのは多少理解できるが、その裏側の空間というのは、そこに像があったりなかったりして、必ずしもそれにふさわしい像があるわけではない。
あればあったで何ゆえにあるのか不思議でならない。
というのも、この門というのは完全なる家の形をしているわけで、真中を人が通るとしても、その両脇には裏と表と、それぞれに別の空間が出来ているので、そこに何かを置かないことには、空間を埋めることが出来ない。
しかし浅草寺の場合、裏側には何もなかったように記憶しているので、なくても不思議ではないが、なまじあったりなかったりするものだから余計違和感がある。
それで本堂に入り込んで、係員の説明を聞いたが、これがなかなか面白くて、ついつい聞きほれてしまった。
そして、そのセールス・トークにだまされて線香をかってしまった。
この線香というのが馬鹿高かくて、「まんまと罠に嵌ったか?」と切歯扼腕したが、これも後の祭りであった。
こちらは、先の東照宮が家康を祭っているのに対し、三代将軍家光を祭っているということであった。
徳川という、日本では最高の地位にまで上った人間とはいうものの、死後までも人から崇め奉りたい、という願望を持っていたということは、やはり人間という生き物の「業」に違いない。
死後の自分の居場所に、これほどの贅を尽くすということは、やはり並以上の権勢欲の表れというほかない。
私にとっては、この日光のもろもろの建造物は、その極彩色というものが気に入らないし、あまりにもごてごてとした装飾には、嫌悪感がさきにたってしまうが、その細工の緻密さというか、技巧というか、造形の美と言うか、そういうものを考えると、やはり世界遺産としての値打ちは否定しきれない。
伊勢神宮や熱田神宮のような素朴さとは対極にある建造物ではあるが、ここに日本の建築の粋が集まっている、ということは確かである。
あるのは美意識の違いのみで、素朴な美を好むか、こうしたごてごての造形美を好むかの違いで、建築の技巧としては確かに素晴らしいものがある。
これでこの日光東照宮を一渡り見たということになるが、一つ一つを丁寧に見ようとすれば、とても一日や二日では仕切れない。
ここだけで一冊の本が出来てしまいそうである。
この日も天気が悪く、観光客の出足も悪く、境内は閑散としていた。
それでも、ここは世界の文化遺産であるので、境内の所々に置いてあるパンフレットの説明が各国語で用意されているのには驚いた。

老神温泉郷への道中

というわけで、2日に渡って、東照宮というものを見たわけであるが、ここから再び長男の運転する車で次の場所に移動した。
車上の人となると車は「華厳の滝」に向かったが、この日光から「華厳の滝」の間が、いわゆる「いろは坂」といわれる坂道であった。
私は今まで下のほうから「いろは坂」を上り詰めたところに、日光東照宮があると思っていたが、事実は逆であった。
それで、この「いろは坂」なるものはもっともっと狭い道で、片側一車線のものかと思っていたが、21世紀の今日では、道も大いに改良されたと見えて、片側二車線で、上りと下りが完全に分離されており、力のある車はどんどん追い越してをして登れる道であった。
窓外は、残雪もあるが新緑も同時に堪能できる素晴らしい景色であった。
上り詰めたところに「華厳の滝」があり、ここは完全に観光地化されていた。
広い駐車場が用意されていたが、この日はあまり天候がよくなかったので、空いていたため、どうにか駐車場には入れたが、恐らく天気がよければ駐車場にたどり着くだけでも大変な難渋を強いられる場所に違いない。
「華厳の滝」というのは話に聞いた以上のものではないが、何せ雨模様の天気で、霧にかすんでしまい、周囲の風景はあまりよく分からなかった。
それでも滝だけはとうとうと水しぶきを上げていた。
落差も大きく、その音には圧倒されるが、この霧と水しぶきがこん然と一体化した風景というのは、水墨画の世界である。
見学する場所には展望台のような施設があり、そこは滝の真正面に当たるので、三々五々、人々が写真をとっていた。
その傍らには下のほうに降りるエレベーターがあったが今回はパスした。
左手のほうには中禅寺湖が広がっており、少し移動して、この中禅寺湖の湖畔の食堂に入って昼食を食した。
中禅寺湖では遊覧船やボートがあったが、この雨では利用する人もなく、折角の行楽地も、最大の稼ぎ時を雨にたたられて気の毒である。
ここで昼食を取った後、もう少し先のほうに行ってみたら、「竜頭の滝」というのがあった。
ここでも車を下りて、ぞろぞろとほんの少し歩くと、茶屋があり、その店先に入ると、小さな滝を見る事ができた。
ここでは滝よりもその茶屋のほうが面白かった。
小さな店であったが、この天気にもかかわらず、店は人であふれ、ごったがえしていた。
ここでは面白半分に、団子とぜんざいを食したが、それなりに面白いものであった。
そして、ひょいと店の鴨居辺りを見ると、一種の壁掛けであろうか、額の中に昔の風俗を作りこんだ掛け物があった。
もちろん売り物であるが、その掛け物の内容が、まさしく昔の田舎の農家の台所を再現したもので、実にリアルに出来ており、小物一つ一つが懐かしさを催す代物であった。
しかし、家内に説明しても全く関心を示さず、拍子抜けであった。
そして、ここからほんのしばらく移動すると、今度は「湯滝」という滝に出会った。
この滝はせせらぎの滝のようで、幅の広い斜面を、その斜面に沿って水が流れ落ちるというもので、斜面の凹凸を水が流れる際に波立っので、今までのように垂直に落ちる滝とは少々趣が変わっていた。
そして、流れ落ちた水がせせらぎとなって川になっていたので、フライ・フィシングを楽しんでいる人がいた。
この滝の周辺は平坦な湿原で、雑木林の中には散策路もあったりして、綺麗な水と新鮮な空気を楽しむには最適な場所に違いない。
後で車に乗ってから分かったことであるが、この川は直ぐに「湯の湖」と言う湖になり、そこでは大勢の人がフライ・フィッシングをしていた。
この「竜頭の滝」と「湯滝」の間が、いわゆる「戦場が原」といわれる湿原地帯で、自然観察にはもってこいのフィールドのようだ。
ここからは一目散に次の宿のある老神温泉郷まで走るといっていたが、その道中は、これまた実に素朴な田舎の光景で、山の深さといったら、完全なる僻地といってもいいぐらいである。
しかし、考えてみれば恐らく都内には2時間ぐらいで出られる場所に違いない。
高速道路を利用すれば、そのぐらいの距離にもかかわらず、完全なる田舎が首都圏の近くにある、ということを考えると日本も広いといわなけれならない。
途中、金精トンネルというのを抜けたが、この字も読めなかった。
「こんじょう」と読むのか、「きんじょう」と読むのか迷っていたら「きんせい」と、仮名で書いてあるのを見て、やっと安心した。
これを越えると群馬県にはいるわけで道路は120号線となっていた。
途中、片品というところであろうが、そこで右折をして、しばらく走ると水芭蕉の群生地に行き着き、その先では車がふんつまりになっていたので、ここでUターンして、もと来た道を帰ってきた。
この場所は大清水というところらしいが、窓からでも充分に水芭蕉の群生というものは見ることが出来た。
湿原の中には木の道がこしらえてあり、大勢の観光客が、その道をぞろぞろと歩いていた。
そして何台もの観光バスが入り込んでいたが、如何せん、ここは道が狭く、観光バスはすれ違うのに苦労していた。
しかし、一見したところ、この湿原には水が少なかったように見えたが、腐葉土の層はきっと厚いに違いない。
水芭蕉とか白樺という木は、旅情をそそるには格好の素材であるが、こういう植物というのは、地味のやせた土地でなければ育たない、ということを都会の人は知っているのであろうか。
地球上の生物というのは実に不思議なもので、こういう地味のやせた土地でしか生きられない植物というのも、立派に生命を営んでいるわけで、それを愛でるということは、ある意味で人間の傲慢にも通じるものと思う。
都会から1日か2日程度やってきて、水芭蕉や白樺が綺麗だからこれを守らなければならない、などという人は、本当の自然というものを知らない人で、人間の傲慢以外のなにものでもないはずである。
人間の生存に欠かすことの出来ない作物が、何も出来ないから、水芭蕉や白樺が生えているわけで、作物のできる土地ならば、とうの昔に開墾され尽くしている。
20世紀においては、こういう不毛の土地も、人間の発明した科学の力で克服することは可能であるが、それをすれば究極の自然破壊になってしまうわけである。
人が生きるということは、必然的に大自然の破壊を伴うわけで、それを綺麗事だけを並べて否定することは、人間の生存そのものを否定する事になってしまう。
それはさておき、ここでUターンして再び120号線に乗り、老神温泉郷に向かった。

老神温泉の夜

この温泉郷というのは山郷の中のひなびた温泉郷で、たどり着くまで、この温泉郷の中で、2,3迷ったが、人に聞いたらすぐに分かった。
今度の宿は先の宿よりも少々異質であった。
昨夜泊まったペンションは、いかにも若い女性好みのペンションであったが、今回のペンションは、その作りが超モダンで、外見は周囲の環境が整備されてなくて、なんだか貧乏臭い感じがしたが、建物の中は実に近代的で、こんな田舎の建物にはそぐわない感がした。
しかし、中に入って、一言二言そこのマスターというか、主人というか、オーナーというか、そういう立場の人と話をしたら十分に納得のいく感じがした。
このオーナーというのは相当な遊び人のようで、時代感覚に優れ、アメリカ等にも出かけ、時代感覚に磨きをかけている、という感じがしたのは驚きである。
というのも、入ったすぐのところに、ビクターレコードのトレッドマークになっている蓄音機の実物が展示してあるのを見て、これは只者ではないと直感した。
それで、言われるままについたテーブルには、ジャズ・マンの図が下に引いてあるのを見て、自然とそういう風に話が進んでいったわけであるが、そういうセンスが建物全体ににじみ出ているという感がした。
建物の素材は鉄と木が主で、廊下などもメッシュになっており、金属の冷たさが伝わってきそうであるが、それはロビーの隅に置いてある暖炉の熱を有効に全体に伝わらせるための工夫ではないか、と勝手に想像したりした。
その暖炉というのは、本人の話によると、日本で普通に買えば100万円ぐらいするものらしいが、自分で個人輸入したから30万円ぐらいで買えた、ということを言っていた。
そういう話から想像すると、普通の田舎の若者ではないように見受けられた。
私は旅に出て、旅館に入ったあとはあまり動きたくないので、中二階のロビーで、備え付けの本をぱらぱらとめくっていると、その中に小林よしのりの漫画があった。
この小林よしのりという人物は、テレビ等で見て、少々興味を持っていたので、その漫画を読んでみた。
この人物の言っていることは正論だと思うが、彼の言っているゴーマニズムという造語がよく分からなかったが、よくよく考えてみると、彼は傲慢主義という意味で、ゴーマニズムという言葉を使っているのかもしれない。
彼の攻撃するゴーマニズムというのは、自分自身の傲慢さではなく、他の知識人が、世論という隠れ蓑の下に、知識人としての傲慢さを追求しているのかもしれない。
しかし、こういう硬派の意見を、漫画という媒体で、世に問うというのは、新しい文化なのかもしれない。
今時の漫画というのも、実に不思議な媒体で、私たちの世代で漫画といえば、「サザエさん」のようなものを想像するが、今は漫画とはいわず劇画と称しているようだ。
これを今の若者は電車の中といわず、あらゆる場所で読みふけっているが、これも不思議な現象である。
私も今回、小林よしのり氏の漫画なるものを読んでみたが、実に読みにくいもので、これならば活字だけの本のほうがよほど読みやすいと思ったものである。
しかし、内容はかなり辛らつなもので、今の知識人というものに、正面から鉄槌を打ち下ろそうとしていることはよく理解できる。
とはいうものの、何しろ読みにくいものである。
私が部屋でこれを読みふけっている時に、長男一家は外に買い物に出たらしい。
それで、この老神地区のお祭りに遭遇して、餅投げならぬ、銭投げに遭遇し、孫にまでその銭が飛び込んできて、嫁さんが大喜びで帰ってきた。
このお祭りは、蛇のお祭りで、大きな蛇が地区内を練りまわったらしい。
私がベットで漫画を読みふけっていたときに、太鼓の音が外から聞こえていたが、それがそのお祭りであったらしい。
翌朝、宿の周辺を散歩していたら、その時の大きな大蛇が地区内の駐車場に台車の上に載せられて安置してあった。
確かに大きな蛇で、これを担ぐには、大の大人が100人はいるのではないかと思われるほど大きなものであった。
この宿の風呂は温泉ということで、一風呂浴びたが、日本人はどうしてこうも風呂好きなのであろう。
家内などは何処に行っても風呂だけは入ってくるようだが、私はそう風呂にこだわる性質ではないので、何が何でも入らなければならないとは思わない。
この風呂好きというのも、一種の思い込みに過ぎず、入らなければならない、と自分勝手に思い込んでいるにすぎないと思うが、こういう思い込みというのは、案外が恐ろしいもので、理性を失ってしまいがちである。
やはり、人間というのは、理性でもって合理的にものを判断しなければならいわけで、思い込みで行動していては道を踏みはずすに違いない。
大蛇から授かった賽銭は大事に保管しなければならないと思う。
後になって何か良いことがあるかもしれない。
私たち家族がまだ若かったころ、散歩の途中で、家の新築の餅投げに遭遇して、その餅を2,3拾ったことがあった。
その事を人に話したら、「家の餅投げの餅を拾うと、自分も家を作る事になる」と聞き、後世、その通りになったことを思うと、このとき与えられた銭も、後世になって大きな幸せを得ることになるかもしれない。
迷信なら迷信でもいいわけで、そういう明るい希望をもって生きていれば、後になって良い事があるに違いない。
この夜の蛇祭りというのは、私たちは知らなかったが、相当前から宣伝していたらしい。
それらしきポスターは宿の中にも貼ってあったが、日にちのことまで無頓着であった。
この祭りを見逃したのは失敗であった。
祭囃子が聞こえた時点で、出て行けばよかったが、もうそれこそ後の祭りであった。

SLで水上に行く

それで、翌日はSLに乗るというプランを長男夫婦は考えていたらしい。
彼らの話によると、この企画は、子供の日の孫へのプレゼントということらしいが、我々はそのお相伴に預かるということらしい。
このSLというのは、JRの客寄せの企画らしいが、上越線も新幹線が出来て、従来の路線が人気を失ってしまったので、その人気挽回のために、こういう企画が浮上してきたものと、勝手に想像している。
長男は、何処をどういう風に走ったのか皆目分からないが、とにかくその沿線にたどり着き、さてここからそれに乗れるのかと思ったら、これが通過駅で、再び走って列車に間に合うように大急ぎの移動であった。
途中、田舎の町にもかかわらず渋滞しており、カーナビで抜け道を探し、それを通ってやっと駅にたどり着いたと思ったら、大きな跨線橋の向こうに列車が止まっており、なまじ姿が見えているものだから、我々のほうは慌てに慌て、嫁は息子を背負って、一目散に跨線橋を駆け上り、駆け下りてやっとそれに間に合った。
間に合ってみると、まだ出発まで10分もあるということが分かり、急に疲労が出てしまった。
それでも嫁さんは若いので回復も早いが、我々はそうは行かない。
この臨時列車は、確かにD51が牽引する昔の汽車という感じがするが、客車のほうがブルー・トレインのもので、そこに少々違和感がある。
昔、蒸気機関車が引いた客車というのは、チョコレート色のものでなければ、我々の世代の追憶にはつながらないわけで、ブルー・トレインでは、その牽引は電気機関車でなければイメージが一致しない。
ここで長男は私たちを下ろし、自分は車を運転して水上まで行くということで、これに乗ったのは孫を含めて4人であるが、孫は何度もSLを見にきているようで、慣れたものである。
長男も、孫を出汁にして、自分がSLを見たいものだから、何度も連れ出しているようだ。
しかし、この客車というのは、色はブルー・トレインであるが、内容は昔の客車と同じで、窓の開閉などは昔のままであった。
昔は日本全国何処に行ってもこの蒸気機関車であったが、今、この蒸気機関車を動かす人々の仕事ぶりを見ていると、やはり合理化の必要性というものを痛感せざるを得ない。
こうして懐かしがっている分には可愛げがあるが、これが日常の仕事で、採算性ということを考えると、電車化せざるをえないということがよく理解できる。
我々の乗り込んだ駅は渋川にという駅で、だだぴろい駅であった。
それだからこそ跨線橋も長かったわけであるが、往年には、ここが上越の山を越えるための大きな基地になっていたのではないかと思う。
我々、東海地方に住む人間にとって、この上越というところは案外疎いわけで、考えてみれば、この後背地が日本海と太平洋の分水嶺となっているわけで、日本の背骨の山を越すには、この辺りで充分に力を蓄えてから、山越えに掛かったのではないかと想像する。
渋川を出た列車は、右に左に川のせせらぎに沿って走ったが、この辺りの川はかなり深く、ずっと下のほうに川が見えた。
途中、10分間停車のときに、機関車を見に行ったが、確かに蒸気機関車を動かすということは、合理化という観点からすると不合理極まりない。
石炭をくべるという仕事は、今でいうところの3Kそのものである。
熱いし、汚いし、きついし、今の若い人では恐らくしえないに違いない。
そんじょそこらのなまやさしい仕事ではないはずで、電車の運転とはわけが違う。
しかし、この列車、実にサービス精神旺盛で、めったやたらと汽笛を鳴らしてサービスしてくれた。
この汽笛の音も実に懐かしい響きをしていた。
1時間足らずで列車は水上に着いたが、ここも例に漏れず、温泉町で、駅前の繁華街を馬車が行き交っていた。
長男は車を運転してこちらに向かっているとはいえ、まだまだ着く事はないだろうと思っていたら、もうこの水上についており、少しはなれた場所に車を止めていた。
遠方の山々は皆雪をかぶり、如何にも登山基地の町という感がした。

帰りの道中

この日は、我々は帰らなければならないので、帰りの新幹線の時間が決められおり、ここからJRで東京まで出ようかとも思ったが、もう少し様子を見ようということで、少し離なれた場所で食事をすることになった。
そういうわけで、再び車上の人となり、帰りの方向に向かってしばらく走り、食事の場所を探しながら移動し、途中、適当な蕎麦屋に入って、それぞれ好きなものを取って食した。
この辺りは恐らく利根川の上流に当たるのではないかと思うが、地形は河川段丘になっており、ひな壇の形のように、段々と川面の方に下りていっている。
道路は当然一番上にあるわけで、川の下のほうに向かって、段々と、畑や田んぼが広がっていた。
当然、対岸も同じような地形になっていた。
それで、ここからは帰りの時間的制約のことも考えて、高速道路に乗ることになったが、今度は関越道に乗ることになった。
これを1時間ぐらい走ったら、もう東村山市に入り、首都圏まで来たことになるが、長男はここから又さいたま市の新しい駅まで我々を送ってくれた。
途中、抜け道の抜け道を走り、だいぶ時間の余裕を持って届けてくれたが、長男の運転にはいささか驚いた。
カーナビを備えているとはいえ、抜け道の抜け道を通り、めったやたらと曲がりながら、所定の位置に出るというのは、まさに神業に近いのでは、とさえ思えてくる。
私には真似の出来ないことである。
さいたま市からは京浜東北ではなく高崎線で上野まで出たので、ここでもだいぶ時間が節約できた。
東京駅に着いたら2時間ぐらい余裕があったが、家内は早速大丸デパートの探検に出かけた。
私はそんなことには興味がないので一人で待っていたが、女はどうしてウインドウ・ショッピングのような事が好きなのであろう。
買いもしないものを見てもしょうがないような気がするが、男には理解しがたい女性の心理である。
まあ、それやこれやで、定刻の列車で帰ってきたわけであるが、車内でビールを飲んだら急に眠くなってしまい、車中眠ってしまった。

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