熟年5人男・空飛ぶトラックに乗る

ま え が き

私にとって旅というのは旅行記を書き終らない事には終わったと言えない。
その意味で、今回のC−1輸送機の体験搭乗も、たった1泊2日の小さな旅であったけれども私にとっては意義の深い旅であった。
旅の紀行文を書くということは、あくまでも大人の遊びの一環で、遊び以外の何物でもない
いわば精神的な思考の自慰行為でしかない。
人が何と言おうと、自分一人だけの自慰行為に過ぎず、全く自己満足以外の何物でもない。
大人の趣味というのは本来こういうものでなければならないと思う。
「趣味と実益を兼ねる」という生き方があるが、これでは遊びにならないわけで、好きな事をして金が得られるという意味で、そういう人を羨ましいと思うが、私にはそういう器用な芸当は出来ない。
そしてそれは遊びではなく生業になってしまうわけで、そうなればきっと欲との二人連れになり、物事を楽しむという境地からは遠のいてしまうに違いない。
私がいくら旅行文を書いたところで、これは毒にも薬にもならないわけで、あくまでも私の遊びの延長でしかない。
今回はC−1輸送機に乗るということが主目的であったが、終わった後の感想として、この貨物機の搭乗というのはあまり楽しいものではなかった。
本文にも書いておいたが、まさしく「空とぶトラック」以外の何物でもなく、どうせ乗るなら私の願望としてはC‐130の方に乗りたかった。
かって若かりし頃、警戒管制員として航空自衛隊に奉職し、その後三菱の禄を食んで30年を経た私にとって、三菱製の飛行機には左程興味は沸かないが、触った事もない機体には興味津々であり、尚且つその運用については知りたいことは山々であるが、如何せんそれは防衛秘密に抵触する事も重々承知しているので致し方ない。
又何かの折にこういう機会があれば是非とも参加したいと思っています。
御同行の皆さんと、関係各位の皆様のご配慮を深く感謝する次第であります。

事のはじまり

そもそもの事の起こりは私の友人の谷秀太郎との電話から始まった。
彼と電話で時候の挨拶をしていた時、彼から「一度、C‐1に乗ってみないか?」という誘いの声があった。
家内と相談してからと思ったものだから、その時には即答は避けておいたが、家内が言うには「いいじゃない!」という返事だったので、翌日、そう返事をした。
そうしたら、「日下部に電話せよ」と言って、電話番号を教えてくれた。
最初、谷の話では費用が1万8千円もかかるというものだから、これを私一人で決断したら家庭内で血の雨が降るような事になってもいけないと思って、少し用心して、山の神の承諾を得てから返事したわけである。
で、日下部氏に電話したら、彼がすぐに飛んできて、「お宅の家は何処ですか?」と携帯電話で話をしながら、我が家の横を通り過ぎようとしていた。
その時電話がコンピューターの下にあり、私がコンピューターを触っていたので、2階の窓から彼の車が見えた。
それで彼とは無事コンタクトが取れ、その時には大雑把な話を聞き、一旦は分れたが、すぐその翌日に彼は「搭乗申請書」なる書類を持って我が家に現れた。
この時は家内も家に居り、我々の話に加わっていたが、申請書に記入捺印してもまだ彼がもじもじしていたので少々訝っていると、「もうどなたか同伴者がいないですか?」と切り出してきた。
これは後日わかったことであるが、日下部氏は5人の参加者を集めたかったわけである。
ところが私の方は彼の事情を知らなかったものだから、私一人が参加すれば、当然、残りの方は既に集まっているものと思っていたわけである。
ところが家内は日下部氏の前で「あんな自衛隊の貨物機など乗りたくない」と言うものだから、それならば「諏訪さんならどうであろう」と言うわけで、諏訪家に連絡すると二つ返事でOKがもらえた。
が、「まだ一人枠がある」と日下部氏が言うものだから、「諏訪さんの友人のフランクさんはどうであろう」ということで、話がとんとん拍子に進み、「ついでに搭乗申請書も一緒に書いてもらおう」、と言う事になって、日も暮れてから両方の家に出向いて、手続きを終えたわけである。
その翌日、再度、日下部氏の来訪を受け、「11月29日に自衛隊側と打ち合わせをしたいから都合はどうか?」と言われたが、この日は私が通院する日で、「どうしても都合が付かない」というようなことを話していた。
その際に、「もう二人余裕があり、隊友会のほうを当てって見ようと思うが、もう二人同伴者を探せないか?」ということになった。
それでフランクさんの友人と、松園哲さんに声を掛けたら、これも二つ返事で賛意が得られ、日下部氏も自分の実績が確保できたわけである。
役所仕事で、搭乗申請書は期日前に提出しなければならないので、電話で聞いてわかる範囲の事は記入して、後は捺印するだけにして、書類を整え、28日の日の午後も遅く、定時少し前、自衛隊の国旗降下の直前に、日下部氏とゲート前で待ち合わせ、航空自衛隊広報室なる部屋を訪れた。
小牧基地が第3航空団から第1輸送航空団になってからというもの、隊舎が全部建て変わってしまったという感じで、今までは座学の講堂になっていたあたりに、新しい建物が出来ていた。
入り口も前のものと違って、全く新しいコンセプトで建てられているので、いくら古い事を知っていたところで何の足しにもならない。
第3航空団という実戦部隊と、輸送を主任務とする後方支援部隊の、部隊の性格の違いか、コンセプトの違いか、とにかく古いイメージを一掃する事に躍起になっている、という感じで施設が更新されている。
新しい広報室というのはゲートを入り、左に折れた一番近いところにあった。
部外者が訪ねるには最適な所である。
ここでは広報室長という偉い人にも紹介され、広報業務を行なっている神谷という事務官にも紹介され、当日我々を引率してくれる信田2等空尉にも紹介された。
これで一応準備万端整ったわけで、早速、同行メンバーに手紙を書いて、今回の企画の趣旨説明をしておいた。

空飛ぶトラックはタイム・トンネル

当日、私は通常どうりに起床して、松園哲さんの到着を持った。
他の3人は直接自衛隊のゲートの方に行ってもらうよう段取りしておいたので、私の方が少し早めに行って待っておれば良かろうと思っていたが、結果として我々の方が遅くなってしまった。
最初に応接室に通されて、先方の係官の紹介があったり、書類不備の是正があったりして、お茶をよばれているうちに日下部氏が顔を出した。
彼にしてみれば、自分が集めたメンバーを、最後までフォローするという意味合いがあったに違いない。
そこからランウエ―(滑走路)に近い搭乗者待合室に移動した。
ここでは大勢の隊員が屯していたが、彼らはそれぞれに飛行機で他の基地に移動する隊員であった。
私が在職していた35年前も、こういう雰囲気に変わりはなかったに違いないが、何せ山奥のレーダー・サイト勤務の我々には縁遠いものであった。
同じ航空自衛隊でも、こういう広々とした基地、エアー・ベースで勤務するものと、我々のような山奥で、しかも地下の暗室で勤務する者では、労働条件が雲泥の差である。
世間一般では、こういうエヤー・ベース、基地で仕事をする人の姿は垣間見る事が出来るので、自衛隊に対する感情がどうであろうとも、近親感というか、存在感というか、目にするか、耳にするという機会はある。
ところが同じ制服を着ていてもレーダー・サイトで勤務する者のことなど、一般の人々はその存在さえも知らないに違いない。
国を守る、特に、空から国を守るという事では、人々は戦闘機さえあればそれで事足りると思っているかもしれないが、実際はレーダー・サイト無しでは、日本の空を守るということはありえないわけである。
今回の広報活動の研修でも、基地とそこに所属する戦闘機は見せてくれたが、レーダー・サイトはそのカリキュラムに入れていない。
実情を知っている者にすれば当然の事である。
又、知らないも者は知らないまま過ぎてしまう。
レーダー・サイトの存在というのは、出来れば国の内外共に伏せておきたい事項なわけで、情報開示を一番したくない要綱なわけである。
それがレーダー・サイトの持つ宿命でもある。
で、この待合室の喫茶店でコーヒーを飲んでいたら、前方に迷彩色に塗られたC‐1が入ってきた。
後方の荷物出し入れ口が大きく開いて、そこにはタラップのコロの上に、パレットに乗った荷物が、ネットに覆われておいてあった。
今回のフライトでは不思議な事に荷物がわりと少なかった。
在職中、千歳から乗ったC‐46では、機体の真中を大きな木箱が占領して、我々人間が壁に押しつけられる感じで乗せられたものであるが、最近は荷物よりも人間が優先になっているのかもしれない。
そうこうしている内に信田2尉が搭乗者認識票を配った。
これも民間機にはない特別なものである。
細いくさりにぶら下がった認識票であるが、これは昔から変わっていない。
で、いよいよ搭乗という事になったわけであるが、不思議な事に待合室にいた隊員たちが自然と4列縦隊に整列して、我々、部外者はその左側に整列したが、これを誰かが号令を掛けるまでもなく自然にそうなって行ったのが不思議でならない。
日々の業務の中で、自然にそういうマナーが定着して行ったのかもしれない。
それで我々部外者が一番最初に機内にはいって、操縦席の後ろに陣取ったわけであるが、こういう輸送機というのは民間の旅客機と違って、前向きの椅子ではなく、昔の電車やバスのように横に並ぶ方式で、しかも重量軽減の為、アルミのパイプにベルトを編んだ代物で、とても民間機と比較出来るものではない。
如何にも軍用そのものである。
その事は、逆に表現をすると、最も合理的にこの機体の持つコンセプトを追求しているということでもある。
物を運ぶ、機体を軽くする、あらゆる過酷な仕様条件を満たす、それでいて人間も運ぶことが可能な、というあらゆるコンセプトを突き詰めると、こういう形状と素材になるということでもある。
軍用の物資というものは、究極的な合理性が追求されるものと思う。
敵と対峙した時に、あるいはいかなる緊急事態にも即応する、と言った場合、如何に費用対効果をあらしめるか、という事を追求していくと、それは究極の合理化に行きつくのではないかと思う。
よって、機内の内装もキャンバス地がモロに露出して、ワイヤーやら、パイプやら、ダクトが剥き出しで、如何にも空飛ぶトラックという感を免れない。
我々の対面に座った人々は階級章から察するところ、そうとうな偉い人であったようだ。
まさしくVIPであったに違いない。
その人達は機体の左前方のタラップから乗り込んできたからには、並の隊員ではなかったに違いない。
後部のハッチが閉まり、前のタラップが引揚げられ、いよいよ離陸という段になると、これはもうトラック以外のなにものでもない。
エンジン音がうるさくて話も出来ず、それかといって外を見ようにも、窓は高い位置に全体で4つしかなく、幌を被ったトラックの荷台に乗せられたようなものである。
腕を組んで寝たふりをする以外に何もする事がない。
その時考えた。
これはタイム・トンネルではないかと!.
我々はこれから築城基地に行くわけであるが、九州の築城に行くには、車ならば恐らく10時間以上、JRで行っても恐らくそれぐらいに時間がかかるわけで、それをこの薄暗い貨物室で腕を組んでじっとしていると、1時間と20分近くで行ってしまうわけである。
小牧・築城間、距離で恐らく500km、時間で約10時間というものを、薄暗い場所でじっと腕組みするだけで1:20という短時間で通り抜けてしまう、と考えるとこれはタイム・トンネルではないかと思った。
こういう薄暗い場所で、人々がものも言わずじっとしている光景は、私にとっては、かっての青春時代にいざなう風景であった。
35年前、1960年代の後半、私が北海道石狩当別のレーダー・サイトで勤務していた頃、丁度今頃の季節、非番で下の町で酒を飲んで部隊に帰るとき、21:30頃の最終の定期便に乗って帰ってきたものであるが、これが幌のトラックで、真っ暗な荷台の真ん中に荷物を置き、両側の椅子に、椅子といっても煽りをおろしただけのもので、パーカーという防寒衣のフードを深深と被って、真っ暗な中で話をする事もなくじっと腕を組んでうつらうつとしていると、車輪に巻いたチェンの音がサンタクロースの乗るトナカイの鈴の音のようにシャンシャンと聞こえ、エンジンの音とこのチェンの音のみが、この世の音のような気がしたものである。
部隊に帰りついて見ると、まるで雪だるまのようになっていたものである。
車輪が巻き上げるパウダー・スノウが幌の隙間から侵入して、我々のパーカーの上に積もっていたわけである。

C−1輸送機誕生秘話と蛇足

このC‐1という輸送機、この胴体は三菱重工・名航・小牧南工場製である。
C−1は普通川崎重工製といわれているが、航空機というものは一社で何から何まで全部作るということはほとんどないわけで、それは戦闘機にもいえることであるが、このC‐1の場合、胴体は三菱で、主翼と最終組み立てが川崎であったように記憶している。
この出来あがった胴体を、小牧南工場から川崎のある各務ヶ原まで移動するのがこれまた大変な作業であった。
胴体というのは、見れば一目瞭然であるが、要するに中身はガランドウだが、とにかく嵩が大きい。
重量はないが図体が大きい。
それで、これを各務ヶ原まで輸送するのに、三菱名航専属の輸送業者、橋本工業という会社が請け負っていた。
胴体の前と後ろにそれぞれに車輪をセットして、それをトラクターで牽引したわけであるが、出来あがったものを空港の広いエプロンで見るとあまりその大きさというものを感じないが、あれを一般の道路において見ると、非常に巨大なもので、通れる道路が無いという事になってしまう。
そのほかにも他の部品や治具等、こまごまとした物を積むと、大型トラックが合計10台ぐらいのコンボイになっていた。
それで、それを輸送する時は、工場のフェンスを開放し、名古屋空港の場周道路を通り、空港前の大通りを41号線に向かい、そこの交差点で左折して、黒川に向かい、黒川を西に折れて名岐バイパスに出、岐南町で右折し、21号線にのって各務ヶ原に来るというコースであった。
その当時、41号線は小牧インターから先は出来上がっておらず、同じように岐南町の名岐バイパスと21号線の立体交差も出来ていなかった。
これが出来た今ならば恐らく通れなかったに違いない。
その上、このコンボイの前を、警察のパトカーが先導していた。
そして県境の木曽川でその引継ぎまであった。
岐南町で各務ヶ原に向かって進んでいく時も、21号線はまだ狭く、対向車を遮断して通ったものである。
止めた対抗車には、橋本工業の担当者が一つ一つにタバコを配ったりして気を使っていた事を覚えている。
私はその頃、三菱の保安課要員として、この輸送の警備に随行した事が度々あるのでそれを記憶している。
しかし、この困難な輸送も、回を重ねるに従い、作業員ともども経験を積んできて、要領を会得し、最後の頃はかなりスムースにことが運ぶようになってきた。
自衛隊から渡された資料によると、C−1は27機あるということで、その回数だけ行なわれたに違いない。
蛇足であるが、出来あがった飛行機を地上で搬送するということについて少々薀蓄を傾けると、かって大戦中、三菱でゼロ戦を作っていたことは周知の事実であるが、これを任地まで空輸する際に、各務ヶ原から出発させたそうである。
製造元の工場には滑走路がなかったので、それで各務ヶ原まで持っていったわけである。
機体は今の三菱、正確には今の三菱自動車の工場で組み立てられた。
つまり今の三菱自動車大江工場である。
そこで出来あがった機体を、牛車に引かせて、やはり夜中に、今の小牧基地の前の道、いわゆる昔の名犬国道、正確に言うと県道102号線名古屋犬山線を通って各務ヶ原まで運んだということがものの本に記されている。
馬は暴れる事があるので牛が使われたということである。
世界に名だたるゼロ戦が、牛に引かれてとことこと旧の町並み、恐らく今の小牧基地の前といっても草原か田んぼであったに違いないし、旧の小牧の街中を抜け、旧の犬山橋を渡って、ゆらりゆらりと運ばれる姿というのは何となくユーモラスな感じがする.
蛇足の屋上屋を架すと、ゼロ戦を作っていた当時の三菱というのは今では考えられないほどの巨大な企業であったようだ。
戦後世代の私がいくら30年三菱に籍を置いたといっても、その全貌はわからない。
.生き残りの先輩から話を聞いても、実際にいたわけではないので理解しがたい部分がある。
大江工場には勤務した事が無いので、まことに不案内であるが、大幸工場に関して言えば、今のJR大曽根駅から東は千代田橋のユニーの辺りまで、北は矢田川、南はバスレーンのある通りまであった、と言うのだから驚きである。
今、地図を広げてその地域を見ると、唖然とするぐらい大きな工場であったが、ここでは主に航空機エンジンを作っていたということで、エンジンだけでこれだけの土地を使っていたということである。
機体に関しても、それと同程度の土地を大江地区に確保していた、と見なしていいと思う。
そして私の知る限りにおいては、大江においては、今の自動車工場のあるあたりが海軍機の製造で、今の航空機のある辺りで陸軍機を作っていたと聞いている。
それほど巨大な企業であったようだ。
マッカアサーが財閥解体と言うのも納得出来る。

築城基地の沿革から回想に耽る

1:20のタイム・トンネルを抜けると、そこは築城基地であった。
来る前に図書館の道路地図で調べてみると、ここは海に面した基地であった。
着いたのが丁度昼で、我々は直ちに食堂に案内され、昼食をご馳走になったが、これが幹部食堂による特別メニューであった。
ホテルの料理のようなわけにはいかなかったが、我々が席に着く前に特別にセット・アップされており、我々は座って食べるだけに用意が成されていた。
自衛隊の食堂というのは基本的にセルフ・サービスであるが、我々には特別な配慮がなされていたわけで、文字通り上げ膳据え膳であった。
先方の担当官の氏名は失念してしまったが、食後BXのキャラクター・グッズを見てリラックスしたりした。
この前の広場には退役した機体、F86F、F86D、F104J、T33等々展示してあったが元AC&W(エアー・コントロール&ワーニング 警戒管制員)の私にはさほど興味ある代物ではなかった。
13:00になったらオリエンテーション・ルームに案内され、そこでOHPをつかって築城基地の概要説明があった。
この基地のそもそもの発端が昭和17年ということでは、おおよそ小牧基地と同じ頃である。
恐らく当時の国策に則って作られたに違いない。
築城の事はいざしらず、小牧基地に関しては、本日の引率者の信田2尉よりも私の方がその沿革には詳しいに違いない。
小牧基地も名古屋を守るという意味で旧日本軍によって作られた。
築城にしろ小牧にしろ、この当時において、基地の建設には近郷近在の老若男女がそれこそ勤労奉仕で狩り出されて、弁当自分持ちで、鋤と鍬で文字通り人海戦術で丘陵地を平らにしたに違いない。
小牧の場合、そういう苦労の末、出来上がったと思ったら終戦で米軍に接収され、残ったのはコンクリートで出来た掩体、今の言葉でいえばシェルター、カモフラージュの為、この掩体には草が植えられ一見墓場のようなありさまであった。
これが私の子供の頃、今の国際線のターミナルの辺りに2つ3つ残っていた。
米軍がこの飛行場を接収すると、しばらくして朝鮮戦争が勃発し、基地の重要性が増し、拡張工事となった。
我々の先輩諸氏は鋤と鍬と人力で滑走路を作ったが、米軍はブルトーザーとパワーシャベルとダンプカーという土木工事の三種の神器で、しかも安い敗戦国の労働者を使って、難なく拡張してしまった。
その時に米軍は大山川を暗渠にして、今の第5術科学校の方(基地の北の部分)にランウエイを拡張して、大山川の堤防に高射砲陣地を構築していた。
当時、悪餓鬼であった私は、自転車を担いで柵を越え、その陣地やランウエイまで偲び込み、離発着する飛行の脚に頭をぶつけそうな位置まで侵入して工事の模様や飛行機を見ていた。
ちなみに埋めたてに使った土は、小牧山から持ってきて、土を取った跡が小牧中学校の校庭になったわけである。
時代が変わって、つい最近その中学校も少し南の方に移転した。
当時の日本人は、この拡張には一言も難癖を付けることが出来なかった。
難癖を付ける勇気がなかったに違いない。
その後におきた内灘とか、成田闘争にような反権力闘争というのは、日本人が自分達の統治者に対して申し立てただけで、占領軍としての米軍に対しては、一言もものを言う勇気を持っていなかった。
戦後の反体制というのは、米軍に対して言うのではなく、日本政府に対して声高に、しかも衆を頼んでパフォーマンスする事が、革新系の人々の運動パターンであったが、あれはまさしく知性の自慰行為で、実のあるものではなかったという事を歴史が証明していると思う。
食うものもなく、着るものもなく、住む所さえなかった敗戦直後の我々から見た米軍というのは、当時の餓鬼から見ても、まさしくアメリカン・ドリームそのものであった。
私は育ち盛りをこの小牧の町とともに歩んできたが、敗戦というものを実感したのは、進駐してきたアメリカのジープのヘッドライトの明るさであった。
当時、小牧の町には木炭自動車が2,3台あるのみで、この木炭自動車なるものは煙を出すだけで、全く使いものにならない代物であった。
そういう木炭自動車のヘッドライトといえば提灯か行灯程度しかない。
この格差は子供でも実感出来るわけで、それから推して「負けても仕方が無い」という観念に結びつく。
あのジープという乗り物の合理性、そしてヘッド・ライトの明るさというものは、そのままカルチャーの違いであり、科学技術の格差そのものであり、物質文化違いであったわけである。
幼子にも、当時、私は小学校に上がる前であったが、これでは戦争に勝てないと心からそう思ったものである。
敗戦後の我々日本人というのは、占領軍に対して実に卑屈になっていた。
1960年代のベトナム反戦運動など、日本政府に対する嫌がらせ以外の何物でもないわけで、米軍に対しては何一つ物が言えなかったわけである。
安保闘争の時、当時の岸首相がアメリカ大統領であったアイゼンハワーを招聘しようとしたということがあり、その露払いとしてハガチー氏が来た折、彼の車を反体制グループの面々が取り囲んで、彼はヘリコプターで脱出するという事態が起きた。
結果的には、日本の政情不安が心配で、岸首相はアイゼンハワーの来日を断ったことがある。
この事件など、革新系の人々は、大衆の側の民主化の成果として、首相の施策に変更をもたらした、という捉え方で評価しているが、実は民主化を受け入れる柔軟性を示したのは、統治する側の岸首相の方であったと思う。
大衆というのは何処まで行っても「烏合の衆」に過ぎない。
戦後の日本人は、自分達は民主化を達成したつもりでいるが、武力という力の前では、実に軟弱である。
彼ら西洋人、特にアメリカ人というのは、我々の根源的な民族的性癖をとことん研究して、日本人に対しては「強く出れば支配出来る」という事を知り尽くしている。
それをしないのは、民主化という事を身をもって知っているからであって、力の行使の損得を秤に掛けて計算し尽くしているからである。
反対反対の掛け声だけで、平和念仏を唱えていれば事が済むと考えている、ということは、かって鬼畜米英のスローガンを声高に叫べば、戦争に勝てると思っていた過去の我々の軌跡と全く同じ精神構造である。
そこには自分の目と、耳と、5感で、知的に且つ論理的に物事を探求するという発想が抜け落ちている。
拡張工事の機械化もさる事ながら、彼ら進駐軍の起居した隊舎、兵舎というのも、ジープと同様、合理的そのものであった。
雨露を防ぐのに最小にして最適、必要不可欠のものは備えているが、余分なものは一切合財排除され尽くした合理的そのものである。
私が第5術科学校を除隊するまで、それは存在していたが、今は跡形もなく恒久的な鉄筋コンクリートの隊舎に代わってしまっている。
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次に続く