熟年5人男・空飛ぶトラックに乗る

機体を前にして思った事

このオリエンテーション・ルームの後ろが参考資料館となっており、いろいろな資料が展示してあったが、中でも異様なものはF86の実物を輪切りにしてその操縦席を見れるようにセットしたものであった。
その他にも歴史的に価値のあるものが展示してあったが、建物が老朽化している上に、管理も行き届いていない風に見えた。
ここを見終わったら自動車でエプロンに案内された。

エプロンにはF‐1とF−15が、我々5人の為に引き出されており、それぞれにパイロットが説明をしてくれた。
しかし、これらの機体も私に限っては、三菱にいた限りにおいて、毎日目にし、製作の段階から見ていたので、左程興味あるものではなかった。
私が一番興味のある事は、これらの機体がどういう戦法をとっているのか、という事であった。
で、その事を彼らにぶつけてみたら、背の高い如何にも若鷹という感じのパイロットが答えてくれた。
いきなり部外者の者から「この機体の戦法は何ですか?」と聞かれても、相手も戸惑うであろうと思って、昔AC&Wにいたという事を述べたら、「これらの戦闘は基本的にはフロント・スターン・アタックである」と教えられて妙に納得した。
ここで現代の空中戦の概要に関して薀蓄を傾けなければ、航空自衛隊の広報にはならないのではないかと思う。
30数年前、1960年代、私が在籍していた頃の主力戦闘機はF−104とF−86が主力であった。
このF−104という機体は、採用当時、「最後の有人戦闘機」と言われたものである。
その時期、主に行なわれていた戦法は、F‐86の場合、速度が遅かったので対抗してくる仮想敵機に対して横から、即ち相手の飛行機の側面に対して角度を持って接近してアタックを掛けるという物で、これをビーム・アタックと称していた。
一番普遍的なものが90度、つまり真横からロケットで攻撃するというものであった。
F−104に関しては、これはスピードが俊足であったので、対抗してくる仮想敵機に対して相手の後ろに回り込んで、後ろからミサイルで攻撃するというスターン・アタックという戦法を取っていた。
ところがその後F‐4という機体が登場してくると、これは機体も頑丈ならば出力も優れており、その上レーダーの性能も一段と向上しているので、前から第一撃を加えておいて、離脱すると同時に後ろに廻り込んでスターン・アタックをするという風に教わった。
F−104以降の機体が、その戦法をフロント・スターン・アタックにしているということは、昔のAC&W員を充分に納得させるものである。
飛行機、特に戦闘機というのは、その機種毎にそれぞれに開発のコンセプトが違うわけで、そのコンセプトにあった運用が成されているに違いないと思うが、日本民族というのは根っからの貧乏性が抜けきれず、一つの機体にいろいろな仕事、任務を課そうとするものだから、個々の機体の本来の性能を出し切らなくなってしまう恐れがある。
F‐15の説明を聞いているとき、この機体のレーダー・カバレッジを聞いてみたら、「それは教えられない」と答えたが、このパイロットは立派である。
守秘義務を立派に果たした事になる。
私の経験から察すれば、恐らくF‐4と同等か、それ以上かと思うが、それ以上はその気になって調べれば全く解らないということはない。
現場サイドでいくら立派に守秘義務を履行しても、ザルで水を掬うようなもので、肝心な事は漏れてしまっている。
ここにいた二人のパイロットの内の一人に年を聞いたところ、26歳と答えた。
こういう若者がF−1やF−15を駆って、日本の空を守っていると思うと、大いに安心する反面、日本の都会に生息する茶髪、ロン毛、ルーズ・ソックス、鼻環や耳輪を付けた若者が片一方にはいる事を思うと、なんだか不思議な気がする。
ここにいる若者も、国を守るとか、国難に殉ずる、と言うような大層な意識をもってここにいるのではないように思う。
大体が、私自身そういう謙虚な気持ちで自衛隊に入ったわけではなく、入隊の動機と言えば、非常に不純なもので、例の谷秀太郎が先に陸自に入っていて、地方連絡部の募集係に一時勤務した時、ノルマ達成の為に「ジープに乗せてやるから試験だけ受けてくれんか」言うものだから、ジープに乗りたさに試験を受けたわけである。
自衛隊入隊の動機は非常に不純であったが、その中の5年間は非常に充実した青春を謳歌したつもりである。
悔いは全くないし、自分の息子にも勧めたが、彼は違う道を選んでしまった。
今、こうして基地の中に身をおいて見ると、今度生まれ変われたとしたら、再度こういう組織に身を置いてみたいと思う。
世間一般の認識では、自衛隊というとすぐに「戦争をする」という方向に結び付けて考えがちであるが、「戦争を阻止している」という現実が全く世間に広がっていない事が嘆かわしい。

タワーとRAPCON

機体の説明が終わったら今度はタワーに案内された。
このタワーも私にとってはそう珍しいものではない。
AC&Wの教育機関中にも、OJTの一環として登った事はあるし、その後何かの機会にタワーも見学した事も有り、その業務も充分に理解している。
同行者の面々はそういう機会に恵まれている筈もなく、それなりに興味があったに違いない。
その後でRAPCON(レーダー・アプローチ・コントロール)に案内されたが、ここも前と同様、私にとっては左程驚くべき所ではなかった。
私はそれよりもアラート・ハンガー(緊急発進待機所)を見たかったが、ここには案内されなかった。
RAPCONの説明を受けたとき、このレーダーでは60マイル以内の飛行機をコントロールする旨説明があった。
しかし、「それから先どうなるのか?」という質問もなかった。
これも無理のない話で、ここで再び私の薀蓄を傾けると、タワーとかターミナルのレーダー誘導を離れた飛行機は、次の管制を受けるわけで、この築城基地の第8航空団の飛行機ならば紛れもなく背振山にある管制下にはいって、訓練空域に行く筈である。
仮に北朝鮮の飛行機に対してスクランブルを掛けた時でも、その目標までの誘導は背振山の管制で行なわれる筈である。
築城基地というのは第8航空団という実戦部隊であるが、この実戦部隊の裏には、背振山の管制があるという事を強調しておかなければならない。
いわゆる実戦部隊、飛行基地、戦闘機部隊というのは、空軍としての、防空の華である。
誰も彼もが、その戦闘機の雄大さ、勇ましさ、猛々しさに感嘆する。
しかし、空の守りというのは、この戦闘機部隊のみで行なわれているのではない。
前にも述べたが、防空というのは、目となり、耳となって索敵するレーダーがあればこそ成り立っているわけで、戦闘機が目標がわからないまま飛び立って自分達で敵を探す、というものではない。
太平洋戦争の日本軍の真珠湾攻撃の時代というのは、こういう戦法であって、レーダーというものがない時代には、それも致し方なかった。
その後、技術革新をしたレーダーというものが存在する今日、そういう戦法は化石化している。
防空のシーラカンスである。
しかしアメリカ空軍には、エアボーン・アラートと称して、予め空中待機しておいて、スクランブルが掛かると、そのまま目標に急行するという戦法があった事も事実である。
これも富める国の緊急対処の戦法で、日本ではそいう事はありえない。
我々が知っているのは5分待機と15分待機である。
5分待機というのは5分で出撃するということで、15分待機というのは15分で出撃可能な状態で待機するとういうものである。
このスクランブルというのは警戒管制員もパイロットも共に緊張するものである。
実際問題として、これは実戦である。
演習というのはどこまで行っても演習であるが、ホット・スクランブルというのは実戦そのもので、一歩間違えばそのまま戦争状態に行ってしまう可能性を含んでいるからである。(スクランブルにもいろいろある)
慣れてくると発見された敵味方不明機がどういうものか、大体想像出来るようになる。
地域の特性がわかってくると、敵味方不明機が何であるかは、おおよその見当はつくものであるが、空の守りという事に関して言えば、飛行部隊というのは国防の華であるが、警戒管制員というのは隠花植物のようなものである。
飛行部隊は華々しく広報に載せてもらえるが、レーダー・サイトというのは極力広報から遠いところに身を置かないことには、その意義が失われてしまう。
広報しようにも、その事が国益をそこなう方向に向いてしまうので、実に気の毒な存在である。
それでいて、いなければ国防そのものが成り立たないわけで、まことに微妙な立場である。
レーダーで24時間、監視業務をするということは、そのまま実戦配備についているということでもある。

博多の朝・寺見学

そんなわけで、タワーとRAPCONを見学させてもらってから、又車で築城の駅まで送ってもらった。
築城の駅というのは、これまたローカルな駅で、私がいた石狩当別の町と大して変わらない。
私が新隊員の頃、町で革靴をはいているのは自衛隊員と警察と、学校の先生ぐらいしたいないぞ、といって何も無い町のことを揶揄していたものであるが、そんな表現が今でも生き付いているような町である。
ここから普通電車で行橋というところに出て、そこからJRの特急「にちりん」に乗り換えて博多に行くというスケジュールであったが、この「にちりん」という特急電車もド派手な塗装で、それこそド胆を抜かれた。
名鉄電車の「赤」は見なれて、慢性化していたので、そういう奇異な感じはしないが、その名鉄のとも少し違って、もっともっと鮮やかで、嫌味を感じた。
お客の方はあまり乗っていなくてガラガラであった。
これに1時間近く揺られて、いよいよ博多に到着したが、この九州一の大都会はもう名古屋や東京となんなら変わるものではない。
都会はどこに行ってもほとんど同じである。
ホテルも近くにあり、1時間と少し休憩して、夕食の為に町に繰り出した。
こうなると私や信田2尉はグループの中で1番若輩者になってしまい、でしゃばる幕が無くなってしまった。
それでも信田2尉は仕事がらみで、他人任せにするわけにもいかず、気を揉んでいたに違いないが、熟年組みも今回の予算を承知しており、信田2尉の立場も充分の心得ているので、上手に取りはからっていた。
私はそれこそ出る幕が無く、あれよあれよと他人任せのまま、先輩諸氏に勧められるままに飲み食いして、この日の夕食がどういう屋号の店で、どういう料理が出たのかさえ、定かに覚えていない。
とにかく、たらふく食い、且つ飲んで、談論風発し、大いに議論して、愉快な時を過した、ということは記憶に残っている。
もう一度行けといわれても辿りつけないであろう。
何時頃ホテルに戻ったのかも定かに覚えておらず、気がついたら朝の5時であった。
6時までベットの中でテレビを見たりして、それからメモをしたり、身支度をしたりして、7時には一番に朝食に降りて行った。
朝食はパンとコーヒーで軽く済ましておいた。
そして8時になったら町に出掛けた。
町は丁度通勤ラッシュで、サラリーマン諸氏がそれぞれに急ぎ足で職場に向かっていた。
ビル・メンテナンスの人達が道路に落ちた街路樹の葉を集めて清掃していた。
来る前に、図書館の地図で、博多駅近辺の拡大図をコピーに撮ったら、駅の近くに御供所町というところがあり、そこにはお寺のマークが一杯あったので、きっとお寺が集まっているのだろうと見当を付けて、そこに行くつもりであった。
泊まっていたホテルを出て、右の方に歩いて行ったら、新幹線のガードを潜るとバス・ターミナルがあり、道なりに歩いて行ったら、博多駅の正面に出た。
この正面には黒田節を称えるというか、記念してというか、黒田節を踊っている青銅の像があった。
裏の台座には黒田節にまつわる謂れも記されていた。
城主が大杯で酒を飲む事を強要したので立て続けに3杯飲み干して城主から褒美をもらって男を上げた、というような趣旨が記されていた。
この像を一回りして、大通りそって歩いて行くと、右側に立派な寺があり、庭園がまことに由緒ゆゆしき風情に見えたので、つい山門を潜って中に入ってみた。
中に入るとこれが又立派な寺で、奥の方で住職とおぼしき年配の男が掃き掃除をしていた。
朝の挨拶をして一言二言言葉を交わしたら、この寺の沿革を記したパンフレットを持ってきてくれた。
住職が語るには、この道路の向こう側が本当の寺で、ここはその寺の一部である、といっていたがどうもその場では理解できなかった。
それでも、この庭を眺めて、道路の反対側に行って見ると、ここも工事中で足元が乱雑になっていたが、それには構わず奥のほうにはいっていくと、これまた立派な建物と庭のある由緒正しきお寺であった。
そして再び道路に出て、道路伝いに裏側に廻って見たら、これが本当のお寺の正面で、結果的に横のほうからばかり見ていたので、どうしても全体像がつかめ切れずにいたわけである。
最初にパンフレットをもらった時点で、それを丁寧に見ておけば、全体像が容易につかめたが、訳もわからず盲滅法歩き回って、最後にパンフレットをじっくり見たものだから、大事な所を見落としてきてしまった。
そして境内を公道が横切っているものだから、余計に全体像がつかめきれなかったわけである。

このお寺は、別添の図を見ればわかるが、山門が一番南にあり、中央に仏殿があり、その横に鐘楼があった。
仏殿の奥に方丈があり、その横に庫裏があり、その右手前に常楽院があるという配置になっていたが、私は最初に庫裏の方に入ってしまって、その前の庭に感嘆していたので、要領がつかめなかったわけである。
パンフレットに記された沿革については、別に添付しておくが、まず最初に目にした庫裏の建物は、実に綺麗な建物で、正面の引き戸に至っては、通常のものよりもかなり大きく、その材木が年輪を伺わせる。
日本古来の木造建築というのは、手入れをすればするほど美しさを出してくる、というのはまさしく本当である。
木の古さというものが何とも言えぬ味わいを醸し出している。
その隣の方丈の方は、白砂が敷き詰められて、それがまた箒で掃き清めたようにきちんと整えられて、実に美しい枯れ山水を表していた。
ところがここは庭の半分が工事中で興ざめでもあった。
道路の反対側に渡って、裏から仏殿というものを見たが、ここも工事中で、見れたものではなかったが、仏殿そのものはやはり目を見張るほど立派なものであった。
この工事は、宝物殿の新築という事を先の住職さんが言っていた。
この仏殿の門を外側から見ると、これもまた実に立派なもので、勅使門には大きな菊の紋章が入れてあり、竹矢来で囲ってあった。
朝から良い目の保養が出来たので、もうこれで充分だと思ってホテルの帰ってきたが、その途中博多駅の正面に向かう大通りを歩いていると、幅の広い歩道に、志賀島で出たといわれている「倭の国王の金印」のモチーフが出てきた。
直径30cmの金色の写真で、その裏はこれが朱色になっていた。
で、これにNo4となっているので、もっと若い番号もあるのではないかと、気をつけて歩いたらやはりあった。
博多駅正面のロータリーの反対側の角が基点となって、それから奥の方、つまり海の方向に向かって、「歴史の散歩道」と称して、こういうものが20数個設置してあるらしい。
博多という町もナカナカの事をやっている。
これを一つ一つ辿って行けば、結構な暇つぶしにはなるに違いない。
この地も歴史が古いだけに、ゆっくりと時間を掛けて廻れば、きっと面白い出会いがあるように思われる。
ホテルに帰りついて一休みして下に降りて行った。
ボツボツと全員が揃い、時間になり、チェック・アウトを済ませ、博多駅まできて、ここで再び買い物タイムとして解散し、10:50に再集合ということになった。
有り難いことに、ここで予算が余ったというわけで、土産代と昼食代として、金4千円也のバックがあった。
各自がそれぞれにお土産を考えながら、売店を物見して、それぞれに買い物をしたようだが、私は本を1冊買った。
田原総一郎が「日本の戦争」という本を出版したようで、その本が店頭に出ていたので、彼が戦争というもの、又自分の祖国に対してどういう考えを持っているのか知りたいと思って購入してみた。
彼の今までの発言というのは、どうしても革新の側に肩入れした発言であったので、真から転向したのかどうか、知りたいと思った。
それから博多駅の裏側の探索に出たが、これは実に見事にホームレス天国になっていた。
駅の高架下には、それぞれにJR車掌区とか、鉄道警察とか入居していたが、その前に広がっている公園は、まさしくホームレスの部落である。
屋根や壁のあるのは勿論、扉までつけて、テレビはあるし自転車はあるし、まるで一軒屋を構えているようなものである。
家の素材がシートであるというだけで、ある意味では立派と言っても良いぐらいであるが、こういうものを放置しておくのも行政として甘いと思う。
人権保護も大事であるが、美観という点からも、公序良俗という観点からも、何とか取り締まらなければならないと思う。
ここだけの問題ではなく、名古屋の公園でも、東京の上野公園でも全く同じ事が言える。
このホームレス部落を一回りしてから、駅のコンコースを通り抜けて、駅の正面に出てみたら、そこで熊本県の旅館組合がキャンペーンをしており、アンケートに答えれば抽選が出来る、という催しをしていた。
早速アンケートに答え抽選に挑んで見たが、案の定はずれであった。
尤もアンケートに真剣に考えもせず、全部一番右に丸をうって、おざなりのアンケートをしてきた以上、神の恵みにありつけないのも致し方ない。
そこで時間になったので集合場所に着てみると、私が一番最後であった。

研修の終わり春日基地

ここからタクシーで春日基地に向かったわけであるが、タクシーの運転手も地理不案内で、信田2尉が説明するのに苦労していた。
現地についてみると無理もない話で、この基地に関しては非常にわかりにくい場所になっていた。
ここはもともと板付基地といわれていたに違いない。
それが民間機が離発着するようになって福岡空港となったので、解りにくいのも致し方ない。
しかも春日基地という名称からして曖昧ではないかと思う。
私に取って春日といえば、西部航空方面隊司令部の基地ということが頭にすぐ浮かぶが、普通の人には福岡空港以外の何物でもない筈である。
いわば航空自衛隊が「庇を貸して母屋を取られた」ようなものである。
その意味では小牧でも千歳でも同じようなものであるが、これも平和の象徴であろう。
ここの搭乗員待合室というのも質素なもので、やはり飛行機で移動する隊員が屯していたが、その脇には消防車が2台待機していた。
ここは実戦部隊ではないので、それなりに活気に欠けているように見えたが、これも後方支援という意味からすれば致し方ない面がある。
普通の人ならば、民間空港の隅に自衛隊が間借りしている、という風に目に映るであろうが、この基地はそんなに生易しいものではない。
私に言わしめれば、この基地は西日本の防空の要の筈である。
ところが今回の研修のカリキュラムにはその部分が抜け落ちている。
それもある意味で致し方ない面がある。
前にも述べたように、防空の要であればこそ、広報したくても出来ない宿命を背負っているわけである。
私にしてみれば、この西部航空警戒管制団のオペレーション・ルームを見たみたいと思うが、これは今となっては見果てぬ夢である。
私がいたときは30数年前ということで、それ以降のレーダーの技術革新と、デジタル技術の革新がいかなる状態にあるのか最も知りたい所である。
この基地のどこかにはパトリオットも配備されている筈であるが、それも見る事が出来ない。
まことに残念である。
しかし、私はパトリオットそのものは何度も目にしているので、それは見なくてもいいが、それがどのように運用されているのか知りたいものである。
パトリオットの機材そのものは名誘の敷地に野ざらしで置いてあったのを知っているので、機材そのものは珍しくはないが、このシステムの持っているフューズドアレイ・レーダーの映像というものを見てみたい。
この文章をタイピングしている今、12月8日、この日は期しくも真珠湾攻撃の日である。
1941年・昭和16年・今から59年前のこの日、日本はハワイの真珠湾を空襲して、壊滅的は被害を先方に与え、その後からアメリカに対して宣戦布告をしたわけである。
アメリカが「リメンバー・パールハーバー」と言って、がむしゃらに対抗してくるのもむべなるかなである。
この責任はひとえに当時の外務省、駐米日本大使館にある。
東条英機がそういう策を弄したのでもなく、勿論、天皇陛下がそういう策を弄したのでもない。
ひとえに日本大使館の職務怠慢以外のなにものでもない。
こんなバカな事があっていいものだろうか。
確かに、対日戦という罠をし掛けたのはアメリカの方であるが、事もあろうに日本からの至急電報を「タイピストがいないから」といって翻訳もせずにウッチャッテおく外交官というのもあきれて物が言えない。
その時、駐米日本大使館に赴任していた国賊は奥村勝蔵、寺崎英成、井口貞夫この3人であるが、この3人がきちんと職務を全うしておれば、我々は「騙し討ちをした」という汚名は着せられなかった筈である。
結果的に、真珠湾攻撃が騙し討ちだったからこそ、アメリカ国民は対日戦に立ち上がったわけである。
不思議な事に、戦後の我々の同胞から誰一人、これら外交官に戦争の責任を追及するものが現れていない。
そして、12月8日という日に何があったのかと報ずるマスコミも皆無である。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、週刊誌、等々日本とアメリカがかって戦争をしたということなど綺麗さっぱり忘れている感がする。
国を守るという事を考えていたらこんなことを思い浮かべた。
この国を守るということについて、私はもっともっと究極のシステムを見たかった。
例えば、早期警戒管制機、移動監視管制隊、それとは別に政府専用機というものをこの目で見たかった。

とはいうものの、我々、熟年5人組の自衛隊研修というのも、再びこの基地からタイム・トンネルに入る事で終わりを遂げようとしていた。
帰路は信田2尉の計らいで、コックピットも覗かせてもらい、大満足でした。
私が覗いた時、機はVMC on Top、つまり雲上飛行をしていた。
無事小牧基地に戻り、再会を約して解散となった。
それぞれに、それなりに得るものがあったのではないかと想像する。

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