このオリエンテーション・ルームの後ろが参考資料館となっており、いろいろな資料が展示してあったが、中でも異様なものはF86の実物を輪切りにしてその操縦席を見れるようにセットしたものであった。
その他にも歴史的に価値のあるものが展示してあったが、建物が老朽化している上に、管理も行き届いていない風に見えた。
ここを見終わったら自動車でエプロンに案内された。
機体の説明が終わったら今度はタワーに案内された。
このタワーも私にとってはそう珍しいものではない。
AC&Wの教育機関中にも、OJTの一環として登った事はあるし、その後何かの機会にタワーも見学した事も有り、その業務も充分に理解している。
同行者の面々はそういう機会に恵まれている筈もなく、それなりに興味があったに違いない。
その後でRAPCON(レーダー・アプローチ・コントロール)に案内されたが、ここも前と同様、私にとっては左程驚くべき所ではなかった。
私はそれよりもアラート・ハンガー(緊急発進待機所)を見たかったが、ここには案内されなかった。
RAPCONの説明を受けたとき、このレーダーでは60マイル以内の飛行機をコントロールする旨説明があった。
しかし、「それから先どうなるのか?」という質問もなかった。
これも無理のない話で、ここで再び私の薀蓄を傾けると、タワーとかターミナルのレーダー誘導を離れた飛行機は、次の管制を受けるわけで、この築城基地の第8航空団の飛行機ならば紛れもなく背振山にある管制下にはいって、訓練空域に行く筈である。
仮に北朝鮮の飛行機に対してスクランブルを掛けた時でも、その目標までの誘導は背振山の管制で行なわれる筈である。
築城基地というのは第8航空団という実戦部隊であるが、この実戦部隊の裏には、背振山の管制があるという事を強調しておかなければならない。
いわゆる実戦部隊、飛行基地、戦闘機部隊というのは、空軍としての、防空の華である。
誰も彼もが、その戦闘機の雄大さ、勇ましさ、猛々しさに感嘆する。
しかし、空の守りというのは、この戦闘機部隊のみで行なわれているのではない。
前にも述べたが、防空というのは、目となり、耳となって索敵するレーダーがあればこそ成り立っているわけで、戦闘機が目標がわからないまま飛び立って自分達で敵を探す、というものではない。
太平洋戦争の日本軍の真珠湾攻撃の時代というのは、こういう戦法であって、レーダーというものがない時代には、それも致し方なかった。
その後、技術革新をしたレーダーというものが存在する今日、そういう戦法は化石化している。
防空のシーラカンスである。
しかしアメリカ空軍には、エアボーン・アラートと称して、予め空中待機しておいて、スクランブルが掛かると、そのまま目標に急行するという戦法があった事も事実である。
これも富める国の緊急対処の戦法で、日本ではそいう事はありえない。
我々が知っているのは5分待機と15分待機である。
5分待機というのは5分で出撃するということで、15分待機というのは15分で出撃可能な状態で待機するとういうものである。
このスクランブルというのは警戒管制員もパイロットも共に緊張するものである。
実際問題として、これは実戦である。
演習というのはどこまで行っても演習であるが、ホット・スクランブルというのは実戦そのもので、一歩間違えばそのまま戦争状態に行ってしまう可能性を含んでいるからである。(スクランブルにもいろいろある)
慣れてくると発見された敵味方不明機がどういうものか、大体想像出来るようになる。
地域の特性がわかってくると、敵味方不明機が何であるかは、おおよその見当はつくものであるが、空の守りという事に関して言えば、飛行部隊というのは国防の華であるが、警戒管制員というのは隠花植物のようなものである。
飛行部隊は華々しく広報に載せてもらえるが、レーダー・サイトというのは極力広報から遠いところに身を置かないことには、その意義が失われてしまう。
広報しようにも、その事が国益をそこなう方向に向いてしまうので、実に気の毒な存在である。
それでいて、いなければ国防そのものが成り立たないわけで、まことに微妙な立場である。
レーダーで24時間、監視業務をするということは、そのまま実戦配備についているということでもある。
そんなわけで、タワーとRAPCONを見学させてもらってから、又車で築城の駅まで送ってもらった。
築城の駅というのは、これまたローカルな駅で、私がいた石狩当別の町と大して変わらない。
私が新隊員の頃、町で革靴をはいているのは自衛隊員と警察と、学校の先生ぐらいしたいないぞ、といって何も無い町のことを揶揄していたものであるが、そんな表現が今でも生き付いているような町である。
ここから普通電車で行橋というところに出て、そこからJRの特急「にちりん」に乗り換えて博多に行くというスケジュールであったが、この「にちりん」という特急電車もド派手な塗装で、それこそド胆を抜かれた。
名鉄電車の「赤」は見なれて、慢性化していたので、そういう奇異な感じはしないが、その名鉄のとも少し違って、もっともっと鮮やかで、嫌味を感じた。
お客の方はあまり乗っていなくてガラガラであった。
これに1時間近く揺られて、いよいよ博多に到着したが、この九州一の大都会はもう名古屋や東京となんなら変わるものではない。
都会はどこに行ってもほとんど同じである。
ホテルも近くにあり、1時間と少し休憩して、夕食の為に町に繰り出した。
こうなると私や信田2尉はグループの中で1番若輩者になってしまい、でしゃばる幕が無くなってしまった。
それでも信田2尉は仕事がらみで、他人任せにするわけにもいかず、気を揉んでいたに違いないが、熟年組みも今回の予算を承知しており、信田2尉の立場も充分の心得ているので、上手に取りはからっていた。
私はそれこそ出る幕が無く、あれよあれよと他人任せのまま、先輩諸氏に勧められるままに飲み食いして、この日の夕食がどういう屋号の店で、どういう料理が出たのかさえ、定かに覚えていない。
とにかく、たらふく食い、且つ飲んで、談論風発し、大いに議論して、愉快な時を過した、ということは記憶に残っている。
もう一度行けといわれても辿りつけないであろう。
何時頃ホテルに戻ったのかも定かに覚えておらず、気がついたら朝の5時であった。
6時までベットの中でテレビを見たりして、それからメモをしたり、身支度をしたりして、7時には一番に朝食に降りて行った。
朝食はパンとコーヒーで軽く済ましておいた。
そして8時になったら町に出掛けた。
町は丁度通勤ラッシュで、サラリーマン諸氏がそれぞれに急ぎ足で職場に向かっていた。
ビル・メンテナンスの人達が道路に落ちた街路樹の葉を集めて清掃していた。
来る前に、図書館の地図で、博多駅近辺の拡大図をコピーに撮ったら、駅の近くに御供所町というところがあり、そこにはお寺のマークが一杯あったので、きっとお寺が集まっているのだろうと見当を付けて、そこに行くつもりであった。
泊まっていたホテルを出て、右の方に歩いて行ったら、新幹線のガードを潜るとバス・ターミナルがあり、道なりに歩いて行ったら、博多駅の正面に出た。
この正面には黒田節を称えるというか、記念してというか、黒田節を踊っている青銅の像があった。
裏の台座には黒田節にまつわる謂れも記されていた。
城主が大杯で酒を飲む事を強要したので立て続けに3杯飲み干して城主から褒美をもらって男を上げた、というような趣旨が記されていた。
この像を一回りして、大通りそって歩いて行くと、右側に立派な寺があり、庭園がまことに由緒ゆゆしき風情に見えたので、つい山門を潜って中に入ってみた。
中に入るとこれが又立派な寺で、奥の方で住職とおぼしき年配の男が掃き掃除をしていた。
朝の挨拶をして一言二言言葉を交わしたら、この寺の沿革を記したパンフレットを持ってきてくれた。
住職が語るには、この道路の向こう側が本当の寺で、ここはその寺の一部である、といっていたがどうもその場では理解できなかった。
それでも、この庭を眺めて、道路の反対側に行って見ると、ここも工事中で足元が乱雑になっていたが、それには構わず奥のほうにはいっていくと、これまた立派な建物と庭のある由緒正しきお寺であった。
そして再び道路に出て、道路伝いに裏側に廻って見たら、これが本当のお寺の正面で、結果的に横のほうからばかり見ていたので、どうしても全体像がつかめ切れずにいたわけである。
最初にパンフレットをもらった時点で、それを丁寧に見ておけば、全体像が容易につかめたが、訳もわからず盲滅法歩き回って、最後にパンフレットをじっくり見たものだから、大事な所を見落としてきてしまった。
そして境内を公道が横切っているものだから、余計に全体像がつかめきれなかったわけである。
ここからタクシーで春日基地に向かったわけであるが、タクシーの運転手も地理不案内で、信田2尉が説明するのに苦労していた。
現地についてみると無理もない話で、この基地に関しては非常にわかりにくい場所になっていた。
ここはもともと板付基地といわれていたに違いない。
それが民間機が離発着するようになって福岡空港となったので、解りにくいのも致し方ない。
しかも春日基地という名称からして曖昧ではないかと思う。
私に取って春日といえば、西部航空方面隊司令部の基地ということが頭にすぐ浮かぶが、普通の人には福岡空港以外の何物でもない筈である。
いわば航空自衛隊が「庇を貸して母屋を取られた」ようなものである。
その意味では小牧でも千歳でも同じようなものであるが、これも平和の象徴であろう。
ここの搭乗員待合室というのも質素なもので、やはり飛行機で移動する隊員が屯していたが、その脇には消防車が2台待機していた。
ここは実戦部隊ではないので、それなりに活気に欠けているように見えたが、これも後方支援という意味からすれば致し方ない面がある。
普通の人ならば、民間空港の隅に自衛隊が間借りしている、という風に目に映るであろうが、この基地はそんなに生易しいものではない。
私に言わしめれば、この基地は西日本の防空の要の筈である。
ところが今回の研修のカリキュラムにはその部分が抜け落ちている。
それもある意味で致し方ない面がある。
前にも述べたように、防空の要であればこそ、広報したくても出来ない宿命を背負っているわけである。
私にしてみれば、この西部航空警戒管制団のオペレーション・ルームを見たみたいと思うが、これは今となっては見果てぬ夢である。
私がいたときは30数年前ということで、それ以降のレーダーの技術革新と、デジタル技術の革新がいかなる状態にあるのか最も知りたい所である。
この基地のどこかにはパトリオットも配備されている筈であるが、それも見る事が出来ない。
まことに残念である。
しかし、私はパトリオットそのものは何度も目にしているので、それは見なくてもいいが、それがどのように運用されているのか知りたいものである。
パトリオットの機材そのものは名誘の敷地に野ざらしで置いてあったのを知っているので、機材そのものは珍しくはないが、このシステムの持っているフューズドアレイ・レーダーの映像というものを見てみたい。
この文章をタイピングしている今、12月8日、この日は期しくも真珠湾攻撃の日である。
1941年・昭和16年・今から59年前のこの日、日本はハワイの真珠湾を空襲して、壊滅的は被害を先方に与え、その後からアメリカに対して宣戦布告をしたわけである。
アメリカが「リメンバー・パールハーバー」と言って、がむしゃらに対抗してくるのもむべなるかなである。
この責任はひとえに当時の外務省、駐米日本大使館にある。
東条英機がそういう策を弄したのでもなく、勿論、天皇陛下がそういう策を弄したのでもない。
ひとえに日本大使館の職務怠慢以外のなにものでもない。
こんなバカな事があっていいものだろうか。
確かに、対日戦という罠をし掛けたのはアメリカの方であるが、事もあろうに日本からの至急電報を「タイピストがいないから」といって翻訳もせずにウッチャッテおく外交官というのもあきれて物が言えない。
その時、駐米日本大使館に赴任していた国賊は奥村勝蔵、寺崎英成、井口貞夫この3人であるが、この3人がきちんと職務を全うしておれば、我々は「騙し討ちをした」という汚名は着せられなかった筈である。
結果的に、真珠湾攻撃が騙し討ちだったからこそ、アメリカ国民は対日戦に立ち上がったわけである。
不思議な事に、戦後の我々の同胞から誰一人、これら外交官に戦争の責任を追及するものが現れていない。
そして、12月8日という日に何があったのかと報ずるマスコミも皆無である。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、週刊誌、等々日本とアメリカがかって戦争をしたということなど綺麗さっぱり忘れている感がする。
国を守るという事を考えていたらこんなことを思い浮かべた。
この国を守るということについて、私はもっともっと究極のシステムを見たかった。
例えば、早期警戒管制機、移動監視管制隊、それとは別に政府専用機というものをこの目で見たかった。