豪華夜行列車・トワイライトの旅

北海道旅行  平成12年11月2日から5日

11月2日  名古屋空港から新千歳、そして層雲峡

定年を迎えてからというもの暇が出来たので家内がしきりに旅行に誘うようになった。
先日、小学校時代の同窓会があって、それに出席した時つくづく思った。
同じ人間でも男と女では生き方に大きな違いがあるようにみえる。
というのは、女性の場合、我々の世代でも20代の前半で結婚し、それから出産、育児と家庭というものに非常に制約を受ける生活を強いられているように思えてならない。
それに反し、男性というのは社会に出て、ある面では企業戦士という場面があるにしても基本的に自分のしたい事をかなりする自由があるように思える。
ある意味では奥さんの理解があれば自分の趣味というものを持つ気楽さがあるが、女性の場合は企業戦士ではないとはいうものの、家庭という枠に束縛された人生を強いられた人が多いのではないかと思う。
小学校時代の同級生の女性の姿を見て、つくづく女性の人生と男性の人生とは大きく違うものではないのかと感じた。
我が家の家内もその世代に属するので、その日常生活をオペレーション・リサーチして見れば、朝昼晩と食事の世話から洗濯に振りまわされていたに違いない。
定年になって、毎日家に居てみるとつくづくそれがわかった。
> その意味では罪滅ぼしという気持ちも大いに含まれているが、家内がせつくものだからあまり気乗りはしなかったけれど、彼女のパワーに負けたというか、命の洗濯に付き合うというか、北海道旅行に行く事になった。
以前から私がトワイライト・エキスプレスに乗ってみたい、といっていたものだからそういうコースを選んでくれたが、行きは飛行機である。
私が自分で自分のためにする旅行計画ならばトワイライト・エキスプレスとカシオペアを両方同時に制覇するコースを考えるが、経済を握っている家内が計画したものだからそうそう私の納得のゆくプランにはなり得ない。
で、今回の場合は、行きが飛行機で帰りがトワイライト・エキスプレスというコースである。
それでこの日旅立ちとなったわけであるが、朝起きて見ると外は一面霧がかかっており、果して飛行機が出発出来るがどうかはなはだ心細い天候であった。
今回は国内のツアー旅行であるので、約束の時間に約束の場所に集合しなければならず、おお慌てで旅したくをして名古屋空港国内線ロビーに集合した。
ここまでは娘が送ってくれたが、その途中の渋滞といったら非常なもので、今時、車の移動というのは実に時代遅れではないかと思えるぐらいである。
もっとも無理もない話で、今では一人に一台の車の保有率である事を考えれば、通勤ラッシュには道路が混雑するのも致し方ない。
渋滞を助長するものにもう一つ信号機というものがあるように思う。
この信号機というのも、所構わず「歩行者の安全」という大儀名分のもと、やたらと数が増えたが、これが渋滞に輪をかけている。
交通渋滞に腹を立ててもしょうがない事で、それに対処するには時間的な余裕を持って行動する他ない。
それで空港に着いてみると約束の8時よりも10分程度早めに着けた。
約束の場所に行って見ると、タビクス・ジャパンの係員が旗を持って立っていた。
我々を案内してくれるのは勝野という若い女性で、自己紹介を兼ね挨拶をした。
同じタビックスのバッジを付けた人が他にも居たように思ったが、その人達は他のコースのお客であったに違いない。
名古屋空港の混雑振りというのも名古屋駅の混雑と殆ど変わらない。
航空機の移動というものがもう既に特別のものではなく、全く庶民に浸透しているという感じがする。
しかし、私は未だにあの重い機体が空を飛ぶということが理論では理解出来るが、実感として不思議でならない。
私のような想いをしている人は世の中の多多いるわけで、「飛行機は嫌いだ」といいながら利用している人がいるのも事実である。
で、掲示板の指示に従い、時間になったら所定の手続きをして、所定の場所に行って搭乗することになった。
我々に与えられた席は後ろの方で、景色を見るには最高の場所であったが、この日は如何せん地上でも濃い霧が立ち込めており、何も見ることは出来なかった。
飛行機は定刻よりも10分ぐらい遅れて出発をした。
この霧では遅れる事は致し方ない。
ランウエイは北に向かっており、飛行機はボーイング767であった。
機体がランウエイの正面を向き、ブレーキを解除してマキシマムパワーを出し、機首が浮上し、高度を稼ぐ間というもの、まるで牛乳ビンの中に居るようなもので、窓の外というのは真っ白であった。
とにかく何も見えなかったが、今時の航空機というのは、航法システムが発達しているのでこういう気象条件のもとでも飛行出来るが、これも不思議というか、不可解というか、我々には理解しがたい事である。
で、その真っ白の中を上昇して20分か30分すると雲の上に出た。
雲の上は太陽がさんさんと輝いていたが、これも実に不思議な事だ。
雲の上から見る自分の体よりも下の雲というのはまるでマシュマロの海のように見えた。
太陽の光を受けて雲の上面が反射している光景というのも実に不思議な光景である。
天の神様しか知り得ない状況を垣間見ている感がする。
途中、雲の切れ目から地上が見えた時には、日本の冬がれの景色が見えたが、日本の景色というのはやはり緑の大地という感じがする。
冬で木々が枯れてはいるというものの、それは又来年の春には芽吹くもので、そこには生きた命があると云う事を実感させられる。
千歳の空は曇りで、雲も高かったため北海道の大地は良く見えたが、北海道は何度来ても私の心を和ませてくれる。
ここで空港のロビーの出てみると、先の勝野さんが出迎えてくれて、改めて同行の方と挨拶をした。
機内で我々の横に座っている人がどうも我々と同じワッペンを付けているような気がしたが、その人が我々と同じ旅をする人であった。
後になってわかったことであるが、この二人づれは水野さんといって、テレビ塔の東に住んでいる名古屋の人であった。
それで、このロビーには勝野さんともう一人のガイドさんがいて、我々4人はガイドさんに案内されてバスに乗った。
このバスが又立派なバスで、ハイデッカー車で、運転席は低いが客席は一段と高い位置にあるものであった。
我々が最初の乗客であるので、この日は一番前の席が割り当てられて、そこから見る眺望は実にすばらしいものであった。
このツアーには我々の他に富山からの人や、金沢からの人が皆同じツアーに参加しているということで、勝野さんはその人達を全部集めなければならなかったが、各地からの到着時間がまちまちなので、それまでの間、我々はノーザン・ホース・パークという所に案内された。
新千歳空港からわずか20分ぐらいのところにそれはあった。
ここは大きな公園というか、牧場というか、とにかく広大な敷地の中に各種の遊戯施設が散在していた。
ここで「昼食を食べなさい」という事で、案内された温室のような施設で出された食事というのが海鮮バーベキュウというものであったが、これは頂けない代物であった。
食べる所をより自然に近づけたつもりであろうが、それが中途半端になってしまい、雰囲気としては野外バーベキュウに近いものであったが、我々、熟年旅行者にとっては、はなはだ違和感を拭い切れない。
バーベキュウの素材も海鮮とはいうもののたいした物ではなく、ホタテと鮭の切り身があった程度で如何にも安っぽい感が免れない。
今回の企画は全行程を通じて食事の質が悪かった。
企画の段階から食事にはウエイトを置いていないようで、これも我々の事前調査の不備だったかもしれないが、同行者の中にはその不満を漏らした人もいた。
公園そのものはそれなりに立派なものであったが、中でも園内を馬車でまわるというのは西部劇を思わせる興味ある代物であった。
これに使用されている馬車は、赤い荷車風のものと、それこそ西部劇から持ってきたようなワゴンタイプと2種類あり、私はワゴンタイプのものに乗ってみた。
これは2頭立ての馬車で、まさしく西部劇に登場するものと瓜二つであるが、如何せん本物ではないので所々に鉄の素材が使ってあった。
その為かなり重そうな感じがした。
これを引く馬というのもやはり特別なものだそうで、足の毛がふさふさしており、如何にも力がありそうに見えたが、今時の女学生のルーズソックスを思い浮かばせるような足元をしていた。
品種は説明されたが忘れてしまった。
馬車に乗った感じというのは、自動車とは趣が大いに違う感じがする。
その前日に、昔、テレビからエア・チェックしたビデオの「リバテイー・バランスを撃った男」というジョン・フォード監督の古い映画を見ていたので、それに登場してくる馬車とそっくりであった。
若き弁護士のジェームス・スチュアートがこれに乗って西部にやってくる、というシーンである。
それを模したものと思えば間違いないが、本物というのはもっともっと木を使っているのではないかと思うが、この馬車は鉄を利用しているので本物と較べるとかなり重いように見えた。
この馬車で園内を一回りしてからあちらこちらを歩き回ったが、ここでは馬の飼育が専門らしく馬小屋というのは実に立派なものが沢山あった。
そして園内には乗馬の屋内教習場というものまであった。
中では2組教習を受けていたが、馬というのは近くで見るとかなり大きな動物である。
そしてこの公園には競走馬の記念館のようなものまであったが、私自身競馬にはさっぱり関心がないのでここは素通りした。
それでも一応中を覗くと、各競技会で実績を上げたことが展示してあった。
公園内の総合案内所の裏にはレーザー銃による射撃場があり、これは一度挑戦して見ようとしたが、その銃があまりにもチャチなもので興味を削がれてしまい、トライする事を止めた。
前々から不思議に思っていたことであったが、北海道の農場、牧場で馬を飼うということはどういう事か理解できなかった。
牛ならば肉牛にしろ乳牛にしろ納得が出来るが、馬となれば、昔のように軍馬の需要があるわけではないし、荷馬車の需要があるわけではないし、馬を飼うメリットというものはさっぱり理解できなかったが、どうも競走馬を飼育するということらしい。
こうなると私としては倫理観が許せなくなる。
何故にこの時代に競走馬を飼って競馬をしなければならないのか不可解千万である。
競馬というものが地方の税収に寄与している事は承知しているが、競馬から税金をとるということ自体不謹慎だと思う。
日本のギャンブラーというのは実にセコイ。
馬を走らせてそれで賭けをするということは、もともと貴族の遊びであったわけで、それを日本の貧乏人が真似する事自体が不謹慎である。
その上、それから寺銭を巻き上げる税制というのは許しがたいものと思っている。
この北海道はそういう馬の産地であるわけだ。
要するに虚業なわけで、私としては自分の倫理観が許さない。
畑正徳の「むつごろう王国」で馬を飼うというのならばまだ納得出来るが、競走馬を飼うなどということは見下げた商売としか思われない。
そのうちに痛い目にあうに違いない。
牛ならば人の生存に寄与しうるが、馬では虚業に寄与するのみで、人類の生存に不可欠なものではないことから考えても、いずれ暴落して痛い目に遭うに違いないと思う。
しかし、そうはいうもののこの施設の環境は素晴らしく、自然が一杯という感じで好感が持てるものではあった。
ここには13時少し過ぎに再びあのバスが若干の客を乗せてやって来て、我々をピックアップし、もう一グループが待機している場所に移動した。
最後の客は金沢から着いた人達で、土産物屋の前で待っていた。
この人達をピックアップしてようやく今回の企画のお客さんが全員揃った事になった。
それでバスは高速道路に乗って一路旭川の方向に走り出したが、この高速道路は札幌の町はバイパスしている。
進行方向の左手に札幌の町並みを見ながら一路北に向かって走ったわけであるが、北海道にも高速道路が出来るなどとは30数年前ここにいた時には考えられないことであった。
家内と結婚した時、新婚旅行で来た際にはこのコースを列車で移動したものである。
新婚そうそうグリーン車に乗る乗らないで喧嘩したものである。
それが今ではバスで移動である。
バスの旅も悪くはないが、如何せん席を立つことが出来ないのでそれが苦痛である。
それでもこの時は一番前の席で、見晴らしが最高であったのでまだ救われるが、翌日以降は席を替わらなければならないので先が思いやられる。
札幌を離れると車の数は目っきり少なくなって毎日渋滞に悩まされている我々には羨ましい限りである。
こういうところでこそ車というのは本来の機能を発揮するに違いない。
そしてトイレ休憩を兼ねて砂川のハイウエイ・オアシスで小休止した。
ここのサービス・エリアというのは我々が日常利用している東名・名神のサービス・エリアと遜色ない。
車の絶対数が少ない事が特徴といえば特徴である。
ここまででおおよそ1時間半ぐらいの行程で、さらに旭川で高速を下りて1時間ぐらい走った所にある北の森ガーデンというドライブインで大休憩をした。
ここにはアイス・パビリオンという超低温を体験出来る施設がある、ということでガイドがしきりに薦めたが我々は入らなかった。
それよりも外の風景を見入っていた。
ここの駐車場にはこれから活躍するであろう大型の除雪機械が待機していたが、それが実に大きくて圧倒される思いがする。
この辺りは北海道でも有数の雪の深いところで、これから大いに活躍するに違いない。
ガイドの説明によると、既に道内では降雪があって、車はスタッドレスタイヤを装備しているということであった。
昨年12月に札幌に来た時には路面の雪に脚を取られて自分が転倒しかかったこともあるが、雪の恐怖というのは何処に潜んでいるかわかったものではない。
早めの準備に越した事はない。
団体旅行でなければもう少しゆっくり見てまわれば何か面白いものあったかもしれないが、この日はスケジュールに追われる団体旅行であるが故に、他には何も記憶に残るものが無かった。
ここを出てる頃はすっかり外が暗くなってしまって、暗くなってからの観光バスというのも実に味気ないものである。
それでも「カラオケをやらせよ」というお客がいなかっただけ幸いである。
層雲峡に向かう道中は真っ暗で窓の外には何も見えなかった。
我々夫婦のハネームーンの時のことはもう記憶が薄らいでしまっているが、上川からバスで層雲峡に入ったに違いない。
あの時は札幌の私学会館に宿を取っていたので、そこを拠点としてあちらこちら回ったため、層雲峡も日帰りであった。
今回は層雲峡プリンスホテル朝陽亭という豪華なホテルであった。
我々に振り当てられた部屋は630号室で、6階の長い廊下の真ん中辺りの部屋であった。
風呂は7階と1階にあり、7階にある方は大浴場で、1階にあるのは露天風呂ということであった。
私は部屋に着くやいなや、すぐに一風呂浴びてきたが7階の大浴場というのは実に大きくゆったりしていた。
家内の方は遅い時間になって1階の岩風呂の方にいってきたと言っていた。
アメリカのラスベガスのルクソール・ホテルほどではないが、大きなホテルでそれこそ迷ってしまいそうに大きいものであった。
こういう観光業界のホテルというのも、地元にとっては大きな雇用を作り出しているに違いない。
このホテルで働く人達の数も半端なものではないと想像する。
しかしこれから先、道内の観光地を回ることになったわけであるが、観光地の商売、特に土産物屋というのは汚い商売をするのが常で、私としてはどうもそれが気に入らない。
地元にしてみれば年中商売が出来るのではなく、1年の内の限られた時期にしか観光客が来ないので、その期間に精一杯稼がねばならない、という状況は理解出来るとしても、一見の客だからといって、汚い商売をする根性が気に入らない。
観光業というのもやり方によっては非常な収益の出るものだということは、デイズニーランドやラスベガスの在り方を見ればわかるが、日本の観光地というのは、そういう研究が不足しているのではないかと思う。
一見の客だからといって、少なからず高めの値段をふっかけて、客が帰ってからのフォローには全く関心がないわけで、これでは一度来た客は二度とは来なくなってしまう。
一度来たからには、二度目も三度目も来よう、という気にさせる商売でなければならないと思うが、日本の観光地というのはそこまで気を回していない。
一風呂浴びて夕食の膳についたが、そこで名古屋から同行した水野さんと少々話を交わした。
彼は写真が趣味で、方々を撮り捲っているというような話しをした。
部屋は和室にもかかわらず、そこにはユニットバスがあり、これも不思議なことである。
温泉でありながら部屋にユニットバスがある、というのも解せない話しである。
私は旅行中でも部屋に入ればすぐ眠ってしまう癖があるみたいで、この日もそうそうに寝てしまった。

11月3日  層雲峡から阿寒湖

昨夜は早くから寝てしまったので翌日は早々に目が覚めてしまった。
この朝は早朝から黒岳のロープエイに登る人達がおり、彼らは7時40分頃から集合して出掛けて行ったが、私達はそれには参加しなかったので9時までゆっくりできた。
朝、ホテルの庭を散歩したり、ホテルの前を歩いたりして見たが、このホテルの庭というのは実に凝った日本庭園になっていた。
とはいうものの、如何せん、京都にある名園とは比べ物にならず、そこは文化の違い、伝統の違いというほかない。
だいたい北海道で日本庭園をこしらえるというところが間違っているように思う。
この北の大地では西洋風の庭のほうがよほど周囲の土壌にマッチしている。
ここに来る観光客が皆内地の観光客であるから、そういうものを作ったとすれば、それは客に媚を売る事になってしまう。
不特定多数の客の中にはそういう風景を好む客がいるかもしれないが、私個人の感想とすれば、西洋風に庭の方がうんと好きだ。
もっと欲を言えば、なにも人間の手を加えない自然のママの光景の方がより好ましいが、今時はそういう人間の手に入っていない自然というのは希少価値で、それこそ世界遺産に登録されたようなところでなければ存在し得ない。
日本庭園というのも、京都のようなところではイメージ的に良く似合うが、北の大地には似合わない。
この北海道でも原生林というのは殆ど無くなったのではないかと思う。
バスで移動している最中に、窓の外に見える光景には林の中の倒木が何度も目に付いたが、倒木がそのまま残っているというのは実に悲しい風景である。
このバスに乗っている人で、どれだけの人がそれに気がついたか知らないが、バスの窓の外に見える林というのは、すべからく人間が植林した木である。
大自然とは程遠い存在であるが、それでも自然の中で木々が育っている事には変わりはないわけで、人間が手で植林したものであればこそ、その木が倒れれば再び人間が手を加えて、残りの木々をより大きく育てなければならないわけである。
原生林というのは確かに人間の手は加わっていないが、それだけに気の遠くなるような時間というものが加えられているわけで、人間が植林した森というのは、その時間を節約しているわけだから、一度手を加えたら最後まで手を加え続けなければならない。
人手が足りないから倒れた木をそのままにしておく、となれば逆に取り返しのつかない状況に陥る。
原生林を育んできた時間というのは10年とか20年の単位ではないわけで、100年、200年という単位であるから、我々はそんな尺度では生きていられないわけである。
層雲峡のホテルをバスで出発したと思ったら、ほんの少し走っただけですぐに下車見学となった。
それは昨夜着いた時には辺りが暗くてなにも見えなかったので、ここにある有名な滝を見ることが出来なかったため、明るい今それを見学したわけであるが、滝というものは私に言わしめればただ水が落ちているだけの事で、それにもっともらしい名前をつけているだけのことである。
ガイドさんは男滝と女滝という言い方をしていた。
観光地に私のような皮肉屋がいちいちケチをつけても始まらないが、この場所を出発した際、ガイドが面白い事を言っていた。
というのはここを出てすぐにトンネルに入ったが、このトンネルを走ると今まで道路沿いに並んでいた観光名所を素通りする事になってしまうので、層雲峡の観光業者が頭を悩ましたと云う事であった。
この付近には大函、小函という断崖絶壁もあったはずであるが、今回はどういうわけかコースから外れて案内されなかった。
この光景というのは谷底を道路が走り、その壁面を眺めると滝があったり断崖絶壁があったりするというもので、アメリカに行った時に見たザイオン国立公園とよくには風景である。
層雲峡とザイオン国立公園で決定的に違うことは緑の多さという点である。
アメリカ大陸の西部と我々の祖国である日本を較べると、緑の多さという点では我々の方にダンゼン軍配が上がる。
アメリカの西部というのは基本的に砂漠である。
それに反し、我々の祖国というのは緑滴る木々の国である。
地球の緯度の関係かとも思ったが、基本的に大地を成している土の問題ではないかと思う。アメリカの西部の土は赤い土である。
日本の赤土とも違っているようで、日本の場合は何となく湿った感じがする赤土であるが、アメリカの場合はさらさらに乾燥した実にもろい赤土で、日本のものとは完全に異質なものである。
これが植物の成長に適していないに違いない。
植物というものも適者生存の自然法則に則って、周囲の環境に順応しながら、環境にマッチしたものが生き残って繁殖するのが普通の姿であるはずである。
ところがこのアメリカの赤い土に、乾燥した砂漠に順応しうる植物は殆ど無かったに違いない。
だから地表というものが植物に覆われるということがなかった。
それに反し、我々の祖国の大地というのは、土そのものが植物の生育に完全にマッチしていたわけで、北は北海道から南は九州まで、基本的に日本の国土というのは緑で覆われている。
この層雲峡界隈というのも、先ほど行ったアメリカのザイオンやグランド・キャニオンと良く似た地形であるが、そのスケールの大きさではアメリカに及ばない。
層雲峡を出発し、滝を見学し、トンネルを抜けたら後は一目散に石北峠にむかって国道39号線を東に走ったわけである。
その間の道中というのは、先のアメリカ旅行の時と同じようなものであったが、決定的に違うのはやはり日本には緑が多いという事である。
バスの窓の外というのは両側に農地の広がった広々とした光景が映し出されていたが、今の時期、木々は冬枯れで緑滴るという表現は当たらないが、来春になれば又新たなる葉をつけることが確実な木々があったわけである。
こちらの光景というのは、その雄大さにおいては実に素晴らしいものがあって、私は大好きである。
広い農地と防風林としての白樺とか椴松という落葉樹の並木、そして農作業用トラクター、そして所々には牛がいたり馬がいたりする光景はなんとも好きなシーンである。
しかし、団体でこうしてバスの中に缶詰にされ、引きまわされていると、風景の印象というものはイマイチ記憶に残らない。
バスの中でカラオケで騒いでいるわけではないが、それでも一向に記憶に残っていない。それは道路が良すぎてスムースに走れているので印象が薄いのかもしれない。
北海道の道路は空いているので実にスムースに流れ、快適な移動が可能であるし、道路そのものも良く出来ている。
前にも後ろにも、全く車が見えないときもあるくらい道路は空いていた。
それでもドライブインに止まると、同じような観光バスが三々五々並んでいるところを見ると、我々と同じように移動している人々がいるわけである。
こんなわけで道路が快適であったものだから、石北峠というのも知らないうちに越えてしまっていた。
ガイドがきっと説明したに違いないが、全く記憶に残っていない。
で、次に止まった所がキタキツネ牧場というお土産屋さんであった。
がしかし、ここの地名を定かに記憶できなかった。
今時の観光業界というのは、いろいろと業界内で連携しており、観光バスの会社と、お土産屋さんが提携して、バス会社のほうではお客のトイレの欲求に応えなければならないし、お土産屋さんのほうも買い物をしてもらわなければならないので、この連携があるため一見妙な所でトイレ・ストップということになりかねない。
それはそれで結構な事ではあるが、それが有名地でない場合、我々の印象が薄いのが難点といえば難点である。
ここはおそらく北見市の郊外ではなかったかと思うが、とにかく網の中でキタキツネを飼育している場所に案内された。
網の中では狐が放し飼いという事になっているが、要は狐のおりの中に我々、人間の方が入るという感じである。
このキタキツネというのは木に登る事が出来るものらしい。

檻の中で2匹の狐が木に登っているのを見た。
狐というのは犬に酷似しているが、木に登れるという点では、犬よりも勝っているのではないかと思う。
このキタキツネ牧場の入り口は広大な空地になっており、そこには時計台が作られ、毎時時報を鳴らしているということであったが、この時計台が凝ったつくりで、仕掛け時計となっているとの事である。
鳩時計よりももっともっと凝ったもので、時報の鳴るのを見たかったがタイミングが合わず、素通りとなってしまったのは残念である。
この近辺では以前はハッカの生産が盛んで、それによって産を成した人も大勢いるということをガイドが喋っていたが、世の中の移り変わりというのは、こういう生産業者の思惑を超えて、次から次へと人々の嗜好が変化してしまうので、まさしく輪廻転生という言葉の通りである。
一昔前までは北海道といえばニシンという言葉がキーワードであったが、今、ニシンなどというものは幻でしかない。
それと同じことがここの北見でも起きたわけで、人が生きるということは、実に大変なコトなはずである。
今儲かると思って大きく投資しても、それがいつ裏目に出るかわかったものではない。
先に述べた競走馬の飼育などというものは、そういう憂き目に遭いやすい業界だと思う。
まだ牛の場合は人々の日々の生活に欠かせない品目であるので、需要が急激に減るということはならないように思われる。
キタキツネ牧場の狐というのも可哀相なものである。
犬というのは自然の中で生きるということを殆ど忘れた存在であるが、狐というのは人間に飼われる事自体狐の誇りを失ったものではなかと思う。
狐ならば大自然の中でウサギやネズミを自分の手で取って生きて行くのが彼等の生存の基本のはずで、それを人間の手でエサを与えられ、見世物として巣も作れない環境に置かれればフラストレーションが溜まることは必定だと思う。
バスの窓から外の光景を見ていると、この地ならば野生の鹿、熊、狐なりが如何にも居そうに見える。事実居るに違いない。
大自然とフェンス一枚で区切られたキタキツネ達は可哀相な存在である。
ここからは一路網走に向けてひた走りに走ったわけであるが、網走の街の入り口辺りに例の網走刑務所というものが川の向こう側に見えた。
ここに来る途中の石北峠の道の開削にも刑務所の囚人が使われたということは物の本にも書いてあるしガイドも説明していたが、そういう先入観があるにもかかわらず、刑務所の建物というものは案外質素な建物であった。
バスの窓から見ただけで詳細は解らないが、時間があればもっとゆっくり見学してみたいものである。
ガイドの話では、ここから脱獄したのはたった一人しかいない、ということであったが、それだけ管理が厳しかったということでもあろう。
アメリカのアルカトス監獄というのは如何に脱獄するか、ということが映画にもなり、いろいろおもしろおかしな話を聞き及んでいるが、この網走監獄ではたった一人が、看守を困らせる為だけに脱獄したということである。
しかしその反面、ここの囚人達が道路の開削作業にこき使われて、哀れにも命を落としたという美談まがいの話が流布されているようだ。
囚人をそういう作業に使うということは、この場所が初めてではないわけで、石狩当別の近くにある樺戸という所にも監獄があって、そこの囚人達も同じように石狩地方の道路の開削に使われた、ということが物の本には記されている。
犯罪者をこういう使い方をするというのは私の考えからすれば当然なことだと思う。
今時の戦後民主主義に世の中では、そういう発想そのものが罪悪であるかのような風潮があるが、犯罪者というのは法を犯したという意味からしても、人権というものを制限すべきであると思う。
物事には程度というものがついて回るわけで、犯罪の中でも軽度のものと重いものとの違いはあるが、その重みの違いによって、人権というものにも軽重の段階があってしかるべきだと思う。
それからバスは網走駅の前を通過したが、この網走駅というのは縦書きの看板があるということをガイドが言っていた。
たしかにJRの駅で縦書きの駅名というのは珍しいものと思うが、実際に縦書の「網走駅」という大きな看板を見た。
この駅を通過したらすぐに昼食の為に海鮮市場というところに停車した。
そこで昼食となったが、ここも大きな土産物屋で、その3階が我々グループの昼食会場であった。
ここでは膳に毛蟹が載っていた。
蟹というものは食べればおいしいものであるが、食べるのにまことに苦労する。
両手でもって食べなければならず、それでも上手く食べれず、ホークのような匙で掻きだしたとしても、それでもうまく実が出てこずに、まことに食べにくい代物である。
そして食べ滓のみ溜まってしまって、まことに厄介な食べ物である。
こういう場面で思い出すが、人間の食欲を満たすということは実に尊大な行為ではないかということである。
この蟹がこういう風に食べられる大きさになるのにどれだけの時間がかかっているのであろう。
そしてそれを採集するのに如何ほどの人間が携わっているのであろうか。
そういうことを考えると、あだや疎かにはしえないが、如何せん、食べにくい事には変わりがない。
こうして人間が蟹を食べるということは、環境破壊・自然破壊そのものである。
農業にしろ漁業にしろ自然相手の産業というのは、これすばからく自然破壊につながるわけで、環境を守るとか、自然を大事にするということになれば、人間の存在そのものを否定しなければならないことになる。
今日の環境問題というのはそういう意味からして、人間の生の否定につながっているにもかかわらず、世の知識人というのは、口先だけの綺麗事を言っているに過ぎない。
食欲というのは人間の基本的な欲望なわけで、古今東西、美食を追及するというのは、人間の根源的な欲求のはずであるが、これは自然の破壊なしではありえない。
食膳に載った蟹を見てつくづくそう思ったが、米にしろ麦にしろ、基本的に地球の表面を加工して作っているわけで、自然を大事にしなければということになれば、それを又昔の雑木林に返さなければならない。
こんな馬鹿な話もないわけで、最も整合性のある言い方をするとすれば、自然を加工する際には「必要最小限にしておきましょう」という言い方ならまだ納得出来る。
巨大プロジェクトに対して言うときの自然保護というのは、これは完全に補償金目当ての行為で、最初から疑ってかからねばならない。
いくら綺麗事を並べても基本的には金をせしめる手段に過ぎない。
と言うような事を頭に描きつつ、この建物の外に出てみたら、同じようなツアーのバスが何台も止まっていた。
家内が言うには、「他のグループの食事はもっと立派であった」といっていたが、それもこれも金次第なわけで、我々の今回のツアーの目的はトワイライト・エキスプレスに乗るというのが主目的なはずで、グルメツアーではないので致し方ない。
この土産物屋を出発したら釧網線にそって原野に出た。

この原野は小清水という原生花園のある場所であったが、今の時期は枯野で花らしいものは何一つなかった。
春になればきっと素晴らしい景色が展開したに違いない。
私はこういう風景が好きだ。人口の造作物が何一つない風景というものが好きだ。
しかし、遠くの景色は殺風景であったが、手前にはログハウスのような駅舎があり、如何にも「観光地で御座います」、という光景である。
そしてその傍らには真新しい土産物屋があったがシーズン・オフで、ただ一軒しか店を広げていなかった。
この辺りはまだ海岸線で、それから道は再び山の中にはいり、硫黄山というところに連れて行ってくれた。

これは小高い山があって、その中腹から蒸気が噴出している。
昭和新山の規模の小さいものと思えばいい。
ここにも土産物屋があったが、ここで我々は記念撮影を行った。
その際、カメラ屋はアイヌの衣装を貸し出して、全員それを羽織って写真を撮った。
後にこの写真は一枚千円なりということで希望者を募って販売していたが、半分ぐらいの人しか購入しなかったようだ。
この山の中腹の噴気の出ているところで温泉卵を売っていたので家内が一つ購入たが、後で土産物屋の中ではもっと安い値段で売っており「騙された」とぼやいていた。
ここでは記念写真を撮って、小休止して、すぐ又バスは摩周湖に向けて走り出した。
この摩周湖というのは、山の中にあってかなりの峠道を登って第3展望台というところについた。
我々は運が良かったと見えて、この日の摩周湖は全景が見ることが出来たが、この湖は「霧の摩周湖」といわれるだけあって、なかなか全景が見れないことで有名である。
海からそう離れていない上に、この海の海流の関係と、後ろの山の関係で、いつも霧がかかりやすく一番見やすいのは秋口だ、ということは聞いていた。
ここでも記念写真を撮ったが、これもやはり一枚千円ということであった。
我々、日本人の旅行の仕方というのは、考えてみると実に馬鹿げたやり方を呈している。
私を含めて、こういう観光地に来ても写真を撮る事だけに一生懸命で、風景を眺めるという本来の旅の目的を忘れてしまっている。
私もその馬鹿の一人で、写真を撮る事に気を取られて、風景を鑑賞する心の余裕を失ってしまっていた。
時間的には夕刻で、陽が沈む直前であったが、湖面は黒くて深い緑であった。
ここを見終わったら釣る瓶落としのように陽が陰って、辺りは真っ暗になってしまった。
陽の落ちたこの辺りというのは実に真っ暗で、バスの窓から外を見ても、自分の顔しか映っていない。
それでも時間は5時前ぐらいであった。
時間的にはまだ充分早い時期であったが、その真っ暗な中で、阿寒湖畔の吉田屋という土産物屋の前で下車する事になった。
ここもやはり提携した土産物屋だと見えて、ホテルのほんの前であるが、契約上止まらざるを得なかったに違いない。
土産物屋に入っても、私はトイレを借りるぐらいで、殆どなにも買わないが、本当は買って上げなければならない。
しかし、私にとってはこういう場所では、金を出して買わなければならないものがない。せいぜいアイスクリームかビールを買うぐらいで、こういう場所では私の欲しい物というのは何一つ無い。
けれどもこの店にはジャガイモのビールを売っていたので一つためしに飲んで見たが、普通のビールとの違いは解らなかった。
この店からホテルまではほんの少ししか離れていなかった。
この夜の宿は阿寒ビューホテルというものであったが、これは先日のホテルより1ランク下がる。
部屋は洋式であったので如何にもホテルらしい感じはするが食事が頂けなかった。
今回はツアーなので毎回毎回同じような食事でいささか食傷気味であった為、余計に印象が悪い。
この日もそう遅い時間ではなかったが私は早々と眠ってしまった。
というのも、翌日の出発が早いので、それが心配で早めに床に着いてしまった。
ホテルに泊まるたびに思い出すのがベッド・メーキングである。
これは私が自衛隊で教わった作り方と全く同じで、違うのは毛布の数が違うだけで、作り方というのは全く同じであろ。
その事が不思議でならない。
毛布を封筒のような形に折り込んで、上から体を忍ばせるというやり方は自衛隊と全く同じである。
戦後設立された自衛隊というのは米軍のやり方を見習ってきているわけで、その影響かとも思うが、軍隊の仕様がホテルで通用するというのも実に不思議なことである。
このホテルもそうであったが、最近のホテルとか旅館というのは、朝食は大抵がバイキングスタイルである。
この様式はアメリカではバフェ・スタイルと言っていた様な気がする。
このスタイルだと私よりも家内の方が沢山取ってきて、最後は食べきれなく、私に無理に食わせようとする。
女性の生活感覚から少しでも余分に食べなければ損だ、という意識が無意識に内に働いているに違いない。
しかし、この方がお仕着せにならなくて良い。

次に続く