豪華夜行列車・トワイライトの旅

11月4日 阿寒湖から札幌、そしてトワイライト

次の日は早朝の6時50分に宿を出発した。
ここから札幌まで一気に走るわけで、その距離の事を考えれば、この時間の出発というのは妥当な線であろう。
私が北海道にいた頃ならば、阿寒から札幌までといえば一日の行程で、とても半日で走破出来る距離ではなかった。
ところが今日では北海道でも高速道路が普及して、かなり時間の短縮が可能になったということである。
ガイドさんも「この行程は始めてだ」といっていたが、運転手は案外落ち着いているところを見ると、過去に通った事があったに違いない。
北海道の道路というのは渋滞がないので比較的予定がたてやすい、とは思うが如何せん距離が長いので、予定が予定通りに行かない事もママあるに違いない。
道内の都市間の距離を示す資料が手元にないので定かではないが、おそらく300km以上はあるのではないかと思う。
それを5時間足らずで走破するというのだからかなりきわどい行程である。
今これを書いているのは北海道の道路地図を参考にしながら書いているが、この日の行程は綱渡り的なものである。
宿を出てすぐに阿寒湖遊覧船の船着場に案内された。
阿寒湖なるものをじっくり見るという心配りであったろうが、我々も実に浅はかで、景色を見るよりも、写真撮影に現をぬかして、ろくに景色を見ているものはいない。
ここでの写真撮影が終わったら、後はまっしぐらに240号線を西進して足寄、池田と通り、道東自動車道に乗った。
池田町というのはワインで有名な町であるが、今回は素通りであった。
この高速を1時間ぐらい走って十勝清水というところで下り、後は274号線というのを西の方へひた走りに走ったわけである。
窓外の景色というのは如何にも北海道という景色で、葉を落とした白樺の木々と、黄色に変色した椴松の木々が群れをなしてあちらこちらに見え隠れし、農場では秋の収穫も終わり、来年の準備という感じである。
ところどころに甜菜の山があり、それには青いシートが被せてあった。
ガイドさんの説明によると、甜菜は冬の寒さで凍ってしまうと、その後精製しても本来の甘さを失ってしまうので、凍らないように処置をしているということであった。
甜菜というのは砂糖大根という別名でもあるように、我々では蕪の大きなものといったほうが解りやすい。
これが広大な畑で栽培されているのであろう、おそらく掘り起こすのも機械でするに違いない。
この北海道の畑というのは実に広く、どんな作物にしろ手で耕作する事は殆ど不可能ではないかと思う。
アメリカでは飛行機で種をまいてコンバインで収穫するという話を聞いて驚いたものであるが、それと殆ど同じことがこの北海道では行なわれているわけである。
牛に食べさせる牧草を刈るというのも実に不思議で、広い牧草地をトラクターが進むと、刈られた牧草が大きなロール状のものになるというのも珍しい光景である。
その為の牧草の畑というものは、広大な土地に牧草だけを栽培しているものだから、我々の概念にはない畑である。
このロール、結構高いものらしい。
もっとも天候に左右される代物だから、天候の不順な時は高く、豊穣な時は安いに違いないが、それでも一個一万円もすると聞いて驚きである。
そういうものが広い畑のあちらこちらに転がっている光景というのは北海道ならではの風景に違いない。
こういう景色が私は好きだ。
十勝清水で高速を下りると今度は274号線が札幌まで続いているわけであるが、途中に日勝峠というのがあった。
ガイドの説明によると、この峠道が完成して日高と札幌の距離がうんと近くなったということである。
地図を開いて見ればそれは一目瞭然である。
札幌と道東を殆ど一直線で結んでいるわけで、大雑把にいっても最短距離である。
この峠が分水嶺となって、これから沙流川が噴火湾に流れ注いでいる。
274号線はこれから下りになるわけであるが、途中夕張を通る。
この夕張というのは以前ならば炭坑の町であったろうが今はメロンの町として名が通っている。
ガイドの説明によると、メロン一個が28万円という御祝儀相場のついたこともあるらしいが、全部が全部そんな高値で取引されているわけではない。
夕張という所で、いかなる理由でメロンを栽培しようと思い立ったのかは聞き漏らしたが、おそらく炭坑が駄目になったからその代わりというだけでは理由に乏しいような気がしてならない。
この辺りで早めの昼食となったが、どういうわけか、ここでは北海道大学の学生が大勢屯していた。
部活で何処かに合宿に行く途中のような感じであった。
こういう風に大勢の学生を一同に眺めてみると、日本の若者というのはなんだかひ弱な感じがしてならない。
若者のバイタリテイーに欠けているように見えてならないが、これから先こういう若者が将来の日本を背負って行くと思うと、先行き不安でたまらない。
アメリカの日本愚民化教育というものが真に成功をおさめたわけで、もうそろそろ日本の識者もそれに気がつかなければならない時期に来ていると思う。
何でもかんでも悪い事は政府や行政の責任といって逃げているわけにはいかないと思う。
ここでの昼食も例によって会席料理風のものであったが、こういう食事も飽きてきた。
皿の数は少なくてもいいから味噌汁とご飯だけでもいいと思うようになってきた。
そしてここを出発したらツアー・コンダクターの勝野さんから列車内の部屋割りと注意事項の説明があった。
私達夫婦は5号車の5号室を割り当てられた。
他の客は7号車と8号車に集中していたが、私達だけ飛び離れていた。
勝野さんの説明によると、申し込みの時のタイミングでこうなったみたいである。
夕張を過ぎると再び高速道路に乗ったが、どうもこの高速というのは出来たばかりらしい。
古い道路地図にはまだそれが載っていないのでそう考えられるが、北海道も次から次へと高速道路が充実してくるので、よほど注意しなければならない。
高速に乗れば後は札幌まで難なく来れる。
但し、この日は土曜日であったので、行楽の車が出ていると一抹の不安が残るが、この時間帯、真昼の時間帯ならばそう心配する事もなかった。
それで朝出るときに予定した13時には札幌駅の北口に無事到着する事が出来た。
バスは札幌壇慶観光。ドライバーは和田さん。ガイドは森広さん。
2泊3日の旅、ご苦労様でした。
観光バスの旅というのも悪くはないが、何しろ身動きが出来ないだけ窮屈でたまらない。
それと生理現象の恐怖がつきまとって、いささか緊張を強いられてストレスが溜まりそうである。
北海道の道路は空いているので渋滞というものがなく、移動し続けているという点では気が晴れるが、都市の道では渋滞に嵌り込んでしまったらまさしく生理現象というのは恐怖に変わる。
札幌駅というのは名古屋駅と殆ど変わるところがない。
大都会のターミナル駅である。
ここでは一時間弱のタイム・ラグがあったので「買い物をしておいてください」という勝野嬢のアドバイスがあった。
そこで一旦解散して、各自で行動して1時間後に再び集合するということになった。
我々は列車内で食事をする事になっていたので、さしたる買い物もなかったはずであるが、家内は例によってウインドウ・ショッピングに行ってしまった。
家内と旅行すると、家内はいつもサイト・シーーングのときは寝ているのに、都会に来ると目をきらきらさせて、興味津々と観察怠りないが、一体これはどういう了見なのであろう。
私の方といえば家内とは全く逆で、都会に来ると生気が抜けてしまうが、大自然の中に行けば、大いに好奇心が刺激される。
女性と男性に感性の違いであろうか。
1時間後に再び集合して勝野さんの小旗に導かれて、札幌駅のホームに出るとまだ列車は入線していなかった。
その間、駅を観察していると、この地でも最近の列車は非常にカラフルになってスマートに見える。
それに優良列車も多く、北海道の鉄道も捨てたものではない。
写真になるような列車が幾つも行き交っていた。
で、しばらくすると待望の列車がそろりそろりと入線してきた。
デイーゼル機関車が重連で9つの客車を牽引していた。
客車の乗車口の付近にはトワイライト・エキスプレスというエンブレムが書かれていたが、地が黒っぽい緑の上に、金色の英語で書かれているので地味なデザインである。
この命名は夜行列車よりも長い距離を走るし、夜行というと純粋に夜だけという印象を受けやすいが、これは走っている時間帯が宵のうちから朝にかけての運行だからトワイライトとなったに違いない。
昨年の夏に登場したカシオペアというのも特別特急であるが、この銘々も少しおかしな感じがする。
北の空に依拠するという意味では解らないでもないが、裏日本を走る列車にトワイライト・エキスプレスがあるとしたら、太平洋岸を走る列車にはサンライズ・エキスプレスとかサンシャイン・エキスプレスいうのがあってもよさそうに思う。
後日、時刻表を調べたらサンライズと命名された列車はあった。
東京・高松、東京・出雲を結ぶ列車で、サンライズ高松、サンライズ出雲というものである。
誰の発想もおなじようなものだということである。
列車の編成表は部屋に備え付けのパンフレットに詳細に書かれていたが、5号車5号室というのはB寝台個室であった。
部屋を見てみると、小さ目のテーブルを挟んで、一人掛けの椅子が相い向き合いにセットされていた。
その上部に上段の寝台が一番高い位置にセットされていた。
この世に生を受けて60年、未だにこういう豪華列車には乗ったことがなかったのでいささか興奮気味であった。
個室のソファーに荷物を放り投げて、早速車内の探検に出かけた。
我々の5号車の前の4号車はサロンカーになっており、ホテル並のソファーがセットしてあり、進行方向の右側は一段と低くなっていたが、そこには外の景色が見れるようの外向きに椅子が設置してあった。
そして窓も特別に大きく取ってあり、展望車という感がする。
この部屋の前後にはビデオのデイスプレーがセットしてあったが、これが長い行程の中では憂鬱な代物になるとはこの時点では思っても見なかった。
この先の車両3号車に行って見ると、ここは食堂車であって、車両の半分が厨房で、残りの半分がレストランになっていた。
この車両の造作もなかなか凝った物で、古い格式のあるホテルといった感じである。
その先の車両は、それぞれもっともっと上級のグレードの個室になっていたおり、お客がまだいなかったと見えてドアが空いていたので、その間に、如何にもそこの客のような振りをして写真だけ撮って来た。
いい年をしてまことに意地汚い話である。
このスイート・ルームというのはやはりホテルのスイートというようなわけには行かず、スペース的に様々な制約に縛られた中で、最大限豪華に仕上がっているという感じはした。
なんといっても動く列車ということを考えれば、地上のホテルのようなわけにはいかないのは理の当然である。
その制限の中で最大限に豪華にすればこのようになるという見本であるが、制約があるということは、その分合理性を追求しなければならないという事でもある。
我々の個室は進行方向に対して右側にのみ窓があり、左側は壁になっているが、扉を開ければ廊下を挟んで外を見ることが出来た。
で、定刻の14:09になると列車は静々と走り出したが、走り出してほんのわずかな時間にもう車掌が検札に来た。
こういう列車は普通の列車と違って乗客の数が少ないので検札も早く来るのかもしれないが、我々は切符というものを受け取っていないので、その旨車掌に話すとすぐに納得してくれた。
そのついでにこの部屋の使い方をレクチャーしてもらった。
特に、上のベッドの下ろし方を聴き、ドアの施錠の扱い方を教わった。
今時のドアの施錠というのはそのほとんどが電子錠で、カードを通すだけで施錠、開錠が出来るようになっている。
ところがその使い方には微妙な使い方の差があって、全部同じではないわけで往々にして戸惑う事がある。
列車が動き出したとたん、家内はサロンカーにいってしまって一向に戻ってこない。
狭っ苦しい個室よりも、サロンカーの方がのびのび出来、眺望もいいのは当然であるが、家内の関心はサイトシーングよりも人との会話の方に関心が向いていたわけである。
ここが私と家内の性分の違いで、私は一人静かに景色を眺めていたい方であるが、家内は景色を見るよりも、人との出会いを楽しむという感じである。
何処に行っても、どんな時でも、人と話をしてすぐに誰とでも友達になってしまう不思議な能力をもっている。
私の方はそんな訳には行かない。
で、個室の中から走る列車の外を見ていると北海道というのは実に広い。
窓外の景色というのは、そのほとんどが雑木林か、牧場というか牧草地で、民家の数が内地とは雲泥の差である。
そしてアメリカ西部の光景とも違って、アメリカの赤い大地と較べれば、我々の住む大地というのは緑で覆われた緑の大地である。
冬枯れの景色といえども緑が豊富な事は一目瞭然である。
札幌を発ったばかりのトワイライト・エキスプレスは、道内ではしばしば止まって客を拾うという感じである。
最初に止まったのが南千歳で、その次が東室蘭であった。
道内では時間的にもまだ午後の浅い時間であったので、こういう行程になるのも致し方ないが、一つ腑に落ちないのが、何故デイ―ゼル機関車の重連かということである。
その後判明したことによると、五稜郭で津軽海峡海底線、青函トンネルを通過するのに、機関車を取り替えて電気機関車にしたが、札幌から五稜郭までの間はそれほど急激な登り坂というのはないように思うが、それでもデイ―ゼル機関車が2両もいるということが府に落ちなかった。
室蘭を過ぎると左側に噴火湾が見えてきたが、個室からはあまり良く見えないので廊下に出なければならなかった。
そして同時に右側には樽前山が見えてきた。
この山は異様な形をしていた。
樽前山というのは噴火湾と洞爺湖のほんの狭い所にある山であるが、これには車掌の車内説明があったのでそれと理解できた。
後で家内に聞くとサロンカーにいた家内は有珠山の噴煙も見た、といっていたが私はこれを見落としてしまった。
ここを過ぎる辺りでそれこそ薄暮になり、トワイライトらしくなってきた。
そうこうするうちに車内放送で「夕食の用意ができた」、という知らせがあり、家内と二人いそいそと食堂車に出掛けてみた。
家内は出発の前からこのフランス料理を楽しみにしており、少々値が張るので私ならばコンビニ弁当でも我慢出来るところであるが、ここは我が大蔵大臣の言うがママについていった。
食堂車では綺麗なテーブルクロスに、洒落た電気スタンドが各テーブル毎にあり、如何にもゴージャス且つシックな雰囲気を醸し出していた。
そして黄色いナプキンが進駐軍のGIの帽子のような形にセットされていた。
テーブルに備え付けのメニューにしたがって料理が出てきたが、どうにも食べ慣れないものだから、食べ物がどこに入ったか解らないようなありさまであった。
料理は一皿ずつ運ばれてきたが、その都度ウエイターがその料理の説明をしてくれた。
しかし、その内容というのは備え付けのメニュうーにきちんと記されているので聴かなくても解っているけれど、我々、庶民というのは、こういう格式ばった料理よりも居酒屋で「小皿叩いてちゃんちきおけさ」といった感じの方が精神衛生上よろしい。
ところが家内にとってはこれが夢であったので、一つの夢をクリアーしたわけである。
狭い列車内の食堂であるので入れ替え制で、後のグループは19:30からということであったが、この頃になると列車が海底トンネルに入ると思って私は早い方の時間帯を選択しておいた。
食事を終えて部屋に戻ると既に19:00近くになっていたが、家内は再びサロンカーに腰を据えてしまって部屋にも来なかった。
それで部屋のベッドを整えて、その上段のベッドで私はすぐに寝てしまった。
五稜郭で機関車を取り替えるという事は車内放送で知っていたが、これからトンネルに入れば何も見るものはないに違いない、と早合点していたがこれが拙かった。
家内の言うところによると、その後サロンカーで乗務車掌による紙芝居を使った海底トンネルのレクチャーがあったらしい。
これを聞き漏らしたのは残念だ。
長男が大学を卒業する時、下宿の引き払いと、荷物の発送の手伝いとして、函館に行った事があるが、その時、長男の車で函館半島を回ったことがある。
その際、青函トンネルの吉岡という入り口にはそれを記念したモニュメントと記念の建物があったことは知っているが、この時はどういう訳か閉館していた。
青函トンネルに関しては全く予備知識がないわけではないが、隠れたエピソードを聞き漏らした事は残念至極である。
私は旅に出ると寝るのが早いので、もうトンネルの中では仕方がない、と思って草々と寝てしまったのがいけなかった。
起きたら列車はまだ薄暗い雑木林の中を走っていたが、走り去る駅名表示を見たら、新津となっていた。
時間は4:37、私の通常の起床時間よりも少々早い時刻であった。
日本海のドンよりとした海が見え隠れしたいた。
ここは羽越本線ということが後で時刻表を丹念の調べると解ったが、私はこの東北地方にはどういうものか縁が無くて、重工在職中に2度ばかり田代に出張しただけで、ほとんど東北という地に関しては予備知識がない。
しかし、もうここまで来ると北海道の景色とは違っているわけで、同じ雑木林とはいっても、その木の種類が違って、内地ということが実感出来る。
そして風景そのものがやはり日本的になって、我々が住んでいる土地と同じということで、なにかしら安心感が漂ってくる。
長い道中であるが、列車の旅というのは、椅子に縛り付けられているわけではないので、比較的体を動かす事も出来るし、その意味では時間は掛かるがゆとりはある。
食堂車で食事をした時つくづく思ったけれども、日本ではサービス業に従事しているのが若い人が多いが、これも本当はもっともっと深刻に考えなければならないことではないかと思う。
食堂車のウエイターやウイトレスは20代前半から後半という世代であったが、こういう若い人が、こういう仕事をしていてはいけないのではないかと思う。
ホテルの従業人にしろ、こういうサービス業にしろ、若い世代の人が従事するということは、国としての活力を失う事になるのではないかと思う。
ファーストフード店でアルバイトの学生が仕事をしているのとは訳が違うわけで、若い人がウエイターやウエイトレスになるということは、接客業というものを冒涜しているのではないかと思う。
確かに表面的にはそう難しい仕事ではなさそうに見えるが、そこにはサービスと言う物が何であるか、という事がわかっていないことには本当の接客にはならないと思う。
簡単な仕事で、ペイがいいから、安易な気持ちでそういう職業を選択する、というところに日本の将来を危惧しなければならない最大の原因があるように思う。
接客業というのは、世の中の酸いも甘いも身を以って体験した人が、その体験に基づいて客のもてなしをする、というところに価値があるのではなかろうか。
若者がマニュアルにそって、マニュアル通りにすれば、それで通用するというものではないように思う。
その背景にある状況というのは、それを許容している方の大人が、こういう昔からの固定観念としての接客というものを蔑にしているから、若者がマニュアル通りの接客をすればそれで満足しているわけである。
その意味からすれば、この列車の食堂の人々というのは良く訓練されている。
朝早く目が覚めたのでサロンカーに行って景色でも眺めようと思ったが、ここではどういうものかビデオを上映していて、それも安っぽいドラマをボリュウムを大きく上げてかけているものだから10分とおれない。
わざわざ高い金を掛けて旅行に出て、安っぽいドラマを見る人の気持ちが知れない。
しかし、人は何故に旅行に出るのであろう。
古くはコロンブス、マゼラン、マルコポーロ、三蔵法師、松尾芭蕉、等々、人々は旅に憧れ、旅に出て、それを書き記している。
「非日常性を求める」という言い方はもっとも整合性のある理由であろうが、非日常性を追求するということは、好奇心の成せる技なのか、それとも心の洗濯という意味のものなのか、一体どちらであるのか定かに分からない。
冒頭に述べたように、女性の生き方と男性に生き方には大きな違いがある、という意味からすれば、女性の旅行というのは命の洗濯という要因が強いように思える。
毎日の日常生活ではルーチン化した生活を強いられるが、一歩旅に出れば、上げ膳据え膳で正真正銘のお客様として扱われるわけで、それこそ命の洗濯が可能である。
ところが男性が旅に出るというときは、何か目的を抱えて旅に出るのではないかと思う。サイトシーングであろうと、グルメ旅行であろうと、何か目的を持って旅に出たからにはくだらんドラマを見ることはないように思えるのだが、人は実に様々である。
歯を磨いたり、トイレに行ったり、サロンカーに行ったりしているうちに6:00になり車内放送が始まった。
列車は糸魚川から直江津の間を走っていたが、ここで朝食の案内があった。
朝の食事も事前に申し込んでおいたのですぐに出てきた。
家内は洋食を取り、私は和食を取った。
こういう場合、家内は私と同じ物を決して取らないのも不思議だ。
食事の後に出てくる飲み物でも決して私と同じ物は取らない。
ホテルにしてもそうであるが、こういう場合の朝食というのは実に高いものである。
サービスということを考えれば致し方ない事かもしれないが、自分の家ならば3日分ぐらいの値段である。
旅行中の事だから値段の愚痴は言わないようにしなければならない。
今回の旅行では富山からの参加者がいたが、この人達は朝起きるが早々に下車の仕度をしなければならなのでさぞかし大変であったに違いない。
富山には7:50についてしまうので、うかうかしていられない。
もうこの辺りに来ると旅行の気分は半減してしまって、出てくる地名が身近なものになってしまう。
糸魚川を過ぎると親不知という所を通り、このときは車内放送でその旨放送したのであわてて窓の外を見たが、見えたのは道路の陸橋のみであった。
この親不知という土地は昔から交通の難所で有名な所であるが、今は道路が2重3重になっており身も蓋もない。
一番上の真っ白な橋が北陸自動車道で、その下には国道8号線の橋がある。
一番下の波打ち際にはそれこそ生活道路としての道があるわけで、列車ではその詳細を見ることができない。
不思議なもので、この長い道中でも、この辺りに来て再び興味ある事柄に出会えれた。
この親不知も今度じっくり見学に来たいものだと思うし、もう一つ敦賀を越えた所に興味深い場所があった。
金沢では大勢の同行者が降りたが、我々の席よりも後ろの方に乗っていた人達で、見送ってあげたいと思っても、停車時間は短いので充分には見届けれなかった。
そして敦賀に着くと、ここでは20分の停車時間があり、再び機関車の付け替え作業があった。
今度我々の列車を引くのはEF81という電気機関車で、この停車時間には列車のエンブレムを入れて家内と二人で記念写真を撮り合った。
尚も私は機関車の写真が撮りたいと思っていたが、あいにくと運の悪い事に、ここでフイルムがなくなってしまった。
そうこうするうち20分が経ち、列車が動き出すと、車内の放送で、この先の急峻な登り坂に関してレクチャーがあった。
正確には聞き取れなかったが、次の駅までに88mも高度を稼がねばならず、直線では無理なので、はるな山という山を一回りするループがあり、その為に強力な機関車と取り替えたという旨放送していた。
私はこんなところにこんな場所があるとは全く気がつかなかったが、こんどゆっくり調べてみなければと思った。
それで後日、名古屋に出た折に国土地理院の1/25000の地図を買ってよくよくこのエリアを調べて見ると、敦賀を出てすぐ南にある衣掛山をほとんど真円を描いてトンネルになっていることが解った。
途中1ヶ所、切れ目があるので第1衣掛トンネル、第2衣掛トンネルとなっている。
列車に乗っていると時はトンネルが円を描いているとは思っても見なかったので、どうもイマイチ変な気持ちでいたが、これで納得である。
こういうループは全国で5ヶ所あるといっていた。
例の碓氷峠も急峻な登り坂で有名な所であるが、今はどうなっているのか定かには知らない。
もうここまで来れば帰ったも同然であるが、これからの時間の長い事といったらない。
なまじ自分の生活圏の近くに来たのでじれったくてならない。
車内放送では、この列車は日本一長い海底トンネルと、2番目に長い北陸トンネルを通過し、日本に5つしかないループの一つを登り、1000kmを走ったといっていたが、こういうデータを出されると今更ながら驚かざるを得ない。
そして京都には昼に着き、後は新幹線で我が家に帰ってきた。

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