熟年夫婦・大西部を行く

3月15日 グランド・キャニオンからフーバーダム

グランド・キャニオンというのはいわば広大な台地にある裂け目のことで、その周辺の土地というのは、かなり高いところにあるに違いない。
この日と泊まった宿泊所というのは、アメリカ流のホテルに比べるといささかこじんまりとした施設で、いわゆる正式のホテルではなかった。
けれども周辺は松の木々が散在しており、我々日本人にとって心休まる雰囲気の土地であった。
昨夜はガイドのケンさんと部屋の外の椅子で日米文化の比較論をしたが、彼はこの地を出発する前にもうすでに一仕事終えたいたわけで、我々夫婦以外のグループは日の出を見に行っていた。
我々は日の出など何処で見ても同じだ、という意識がありそれには参加しなかった。
そのかわり朝の散策で新鮮な空気を吸っていた。
この辺りの松林というのも、日本のように木々が密集しておらず、如何にも大陸的に間隔の広い森であった。
この宿泊所は便利な作りになっており、部屋に表側と裏側のパテイオに出れる2ヶ所のドアがあった。
パテイオの側に出るとすぐに食堂に通じ、その前の通路には椅子が並べられて、会話が出きるようになっていた。
昨夜は部屋の前の椅子で、ガイドのケンさんと口から泡を飛ばしかねないほど熱中した議論をしてしまったが、彼の精神構造の中にはアメリカ人には決して負けたくない、という大和魂のようなものがあり、その意識があまりにも強いので、彼から見たアメリカ人というのはその総てが馬鹿に見えているような感じがした。
これは私とは大いに見解が違う訳で、私の方はどちらかというと、白人主義というか、西洋コンプレックスというか、彼らの偉大さに屈服しかねない控えめな思考に陥らざるを得なかった。
そんな事があっても朝の8時にはこの宿泊所を出発して最後の行程に入った。
ガイドのケン氏はグランド・キャニオンを去る前にもう一つのポイントにつれて行ってくれた。

そこはヤバパイ・ポイントといって、谷に降りる出発点であると同時に、観光地としての行き止まりの地点でもあった。
ここはラバに乗って谷に下りるための基地でもあるわけで、われわれ同行6人は崖の上の方でウロウロしていたが、アメリカ人の観光客はロバにまたがって颯爽と谷に下りて行った。
彼らが馬に乗るとまさしく西部劇の中の劇中人物とオーバーラップしてしまう。
我々はほんの少し下りた程度で、丁度そこに小さなトンネルがあったので、そこでおり返して来た。
しかし、谷に下りる小道には、まだ氷が張っており、足元がつるつる滑るので決して侮れない。
ここにはビジター・センターがあり、お土産屋も有ったので何がしかのお土産を購入した。
ここを出発しようとした時、お土産屋の柱の淵をリスが小走りに走ったのを発見、これは撮影に成功した。
こ1時間でこの地を離れ、しばらく走ると、右側に鉄道の線路が見えてきた。
これはこれから先に通るウイリアムスという町と、このグランド・キャニオンを結ぶ鉄道で、かっては廃止されていたものが最近再び観光用に復活されたものらしい。
ウイリアムスの町で休憩した時には停車している機関車を写真に収めることができたが、走っている勇姿を見ることは出来なかった。
アメリカに来て以来というもの、鉄道の線路はしばしば見るが、走っている姿というのはさっぱり見れない。
線路とそれに沿った電信棒しか見ることが出来ない。
この辺りの道路脇には、あの蒲鉾型の郵便受けが墓標のようにいくつもいくつも並んで立っていた。
あれは郵便配達が奥地に住む人々にまで郵便を届けるとなると、それだけで1日も2日もかかってしまうので、逆に奥地に住む人々が自分の都合に合わせて郵便を取りに出掛けてくる為にあるものだそうだ。
それにしてもそんな奥地にまで人が住むという事の方が我々には驚異である。
そして思わぬところで飛行機の羅列にであった。
道路脇の右側に古いジェット戦闘機や大昔のコンステレーションという尾翼が3枚もある旅客機が見えた。
ガイドの説明によると、大金持ちが趣味で飛行機を集めており、これらは実際に飛行可能な状態で保存されているという事である。
何処の国でも考えられないような発想の持ち主というものはいるわけで、日本でもマニアの中には古い飛行機を集め、修復しているマニアがいるということは知っているが、自分で飛行場まで持っているという話は聞いたことがない。
この飛行機のオーナーは、自分の飛行場を持っているという事である。
この辺りにはまだ木々が散見出来ていたが、それを過ぎると再びアメリカ大陸独特の広大な大地となり、周囲には何も見る物がなくなってきた。
フロント・ウインドウの先は、ただただ一本道が緩やかに上下しているのみで、淡々とした光景であった。
こ1時間も走った頃、一つの小さな街に入ったが、ここはウイリアムという街で、昔のルート66が通過している町とのことであった。
このルート66というのは、出発前に読んだ旅行のパンフレットでは、あたかもこの道を颯爽と走るかのような書き方がしてあったが、実際はほんの少し立ち寄っただけであった。
第一、 このルート66に関心を持っている人がいない。
同行の年寄り夫婦もあまり興味を持ってなさそうだし、二人の若い娘も全く知らなさそうで、我が伴侶の家内も全く無関心であった。
このルート66というのはアメリカの代表的な街道で、西部開拓史の時代からアメリカ東部と西部を繋ぐ幹線道路であった。
本日行くフーバー・ダムの建設にはおそらく大勢に人がこの道を通ってその建設に携わったに違いない。
私がこの道に異常な関心を寄せていたのは、若かりし頃に見たテレビ映画の所為である。
40年以上も前、我が家に初めてテレビたるものが出現した頃、日本のテレビ界は自主制作の番組が少なく、アメリカの番組をそのまま放映していた。
その中に「ルート66」という映画があり、その他にも「サンセット77」とか、「サーフサイド6」とか、「拳銃無宿」というものがあり、この「ルート66」というのは、二人の若者がフォード・ムスタングを駆って、東部から西部に向かう1話完結のオムニバス映画であった。
これに登場する若者の名前も俳優も今は失念してしまったが、若き日の私にとっては、彼らの仕草、発想、ファッション、車というものを羨望のまなざしで食い入るように見ていたものである。
それで、このウイリアムという町は、そのルート66が通っている町であったわけであるが、今はインターステイトが出来てしまって、人々はそれにのってこの町を通過してしまうので寂れていた。
しかし、この街に休憩したとき、駅に車を止めたが、その駅には昔懐かしい蒸気機関車があった。

こちらの鉄道は日本と違って標準軌道と言って、日本の新幹線と同じ線路の幅で、そこに駐機していた機関車も日本のものと比べると一回り大きかった。
動輪が4つあったところからすれば、日本流に云えばD51となるところである。
ここではお互いに写真を取りっこして、トイレを済ませ30分程度の休憩で再び車上の人となった。
ここからインターステイトにのり、それこそ砂漠をまっしぐらに走った。
これまでの道はいわばアメリカの田舎道という感じであったが,これからしばらくは高速道路である。
行き交う車も多く、多種多様な車の羅列である。
この道を2時間ほど走ってキングトンという町で食事となり、食事そのものがバフェ・スタイルでこの形式の食事にも慣れてきたが、食事を終えレストランの前に腰を下ろし、街道を行き交う人と車を見ていたが実に面白い光景であった。
スクールバスから降りた子供達がローラー・ブレードや自転車で家路に急いでいたり、イージー・ライダーの化石のような人がいたり、ポンコツの車から最新式のポルシェまで、実に多種多様な人と車であった。
そうこうしているうちに、どう云うわけか消防車がこの駐車場に入ってきて、中からドライバーと助手が下りて、一言二言話をして再び走り去った。
この消防車は黄色であったが、私は消防車というのは万国共通に赤いものだと思っていたので、いささか意表を突かれた。
このドライバーと助手はいづれも耳にヘッド・ホーンを付けていた。
恐らくエンジン音がうるさいので無線で話をしているに違いない。
消防車を操作して見るとわかるが、消防車での指示というのは、エンジン音にかき消されてしまい、わかりつらいものである。
その為には近い距離であったも無線を使うことは有効であるに違いない。
ここで休憩をしてからというものは一路フーバー・ダムに直行であったが、何処でローカルの道路に入ったのかわからなかった。
気が付いてみたら片側1車線の地方道に入っていた。
ダム・サイトが近くなると、勾配もきつくなり、大きな車はスピードが落ちてきてしまったが、一本道ではその後にくっついて走るほかない。
坂を登りきって下りに差し掛かると道が極端に狭くなったが、遠景からはダムの全容を見ることは出来なかった。
いよいよダムに到着したらその周辺は異様な混雑ぶりであった。
車と人が日本の行楽地と同様ひしめき合っていた。
車を半地下の駐車場にいれて外に出たら、人、人で身動きも取れないほど混んでいた。
その人の後にくっついて歩いていると、歩道の開けた所に大きなモニュメントが立ち、家内はその下に座り込んでしまってもう歩こうとしなかった。
私はその周辺を少しは歩き回ったが、ダムが有名な割には、景観を眺めるという観光地としては少々見劣りがする。
ダムの反対側はミード湖と称して、ダムによってせき止められた湖であったが、コンクリートの手すりが高く、背伸びしても十分には見れなかった。
ダムの方は所々に覗き見できるようになっていたが、こちらはただただコンクリートの壁で、その高さが異様に写っただけである。
この要所はわずか100mほどの距離しかないが,ここを大勢の観光客と、大きな18輪トレイラーが行き交っているので、警官が道路に立って交通整理をしてた。
50mぐらいの間に横断歩道が二つあり、そこに黒人の婦人警官と大柄な白人の警官が手振りで人と車をコントロールしていた。
が、その50mの丁度中間地点で、上半身裸の観光客が警官の指示を無視して道路を渡ろうとして警官から叱られていた。
私もリュックを背負ったまま人ごみの中を歩いていたら、警官に叱られてしまい手に持って歩いた。
ダムの施設を見学できるコースがあったようであるが,この日は観光客が多すぎて、入場制限されており、中に入ることは出来なかった。
仕方がないので人ごみの中で家内とお互いに写真を取り合って、フーバー・ダムに来たと言う証拠とした。
ここからラスベガスは1時間半ぐらいの行程であった。
我々の泊まるルクソールというホテルは空港の近くで、ここで我々夫婦ともう1組若い女性グループが車を降り、3日間の砂漠の旅が終わった。
もう1組の年寄り夫婦は、そのまま空港からロサンジェルスに向かうという事であった。
再度ホテルにチェックインし、服を着替えて下のロビーで待っていたら、トランス・オービットの橋谷というガイドが現れて、我々をフラミンゴ・ホテルのデイナー・ショウに連れていってくれた。
これは家内がオプションしたもので、私はホテルの部屋でくつろいで、旅の疲れを癒していたい方であったが、家内が「ラスベガスに来たからには、華やかなショウを見ないことには意味がない」と主張するものだから私の方が折れたわけである。
ラスベガスというのは確かに歓楽の街で、どのホテルにもカジノがあり、人を楽しませ、喜ばせる要因には事欠かないが、私は先天的なギャンブル音痴で、一向に賭け事に興味が沸かないたちである。
だから、ショウを見るほうがまだ増しであるが、日本にいてもまともにショウなるものを見たことがないのに、アメリカにまで来て見る必要もないと思っていた。
それでも案内されるがままについて行ったが、このフラミンゴ・ホテルというのは車で10分ほど離れた場所にあった。
ルクソール・ホテルと似たり寄ったりで、ホテルそのものには大した変化はない。
ガイドの後に付いて行ったら劇場に通され、正面舞台に直角にテーブルと椅子が並べられていた。
本来は食事をしながらショウを見るというものらしいが、目下の所、食事とショウは時間差があるらしく、食事を終えてからショウが始まるということだ。
ところがこのテイブルと椅子が舞台に対して直角にあるのは良いが、相向き合いで10人づつ、両方で20人座る事になっており、我々が行った時、先の舞台に近いところに既に8人ぐらい陣取り、通路の方のやはり8人ぐらいが陣取っており、真ん中に4つ空席が出来ていた。
劇場のガイドに案内されるまま、その4つの空席の2つに家内と並んで座ったら、正面が空いたままになった。
両サイドのグループは全く関連がなさそうで、それぞれにリタイアした年配者のグループであったが、私はこれらの連中に挟まれてしまいどうにも窮屈であった。
ショウが始まるまでまだ1時間以上もあるし、言葉が通じないからといって石の地蔵さんのように朴念仁としているわけにも行かず、これは困った事になったと思っていた。
ところが我々の前の残った2つの席に、親子とおぼしき2人連れが座った。
母親とその娘さんという感じであったが、この娘の方が飛びきり美人のアメリカ娘で、その母親というのは「ステラおばさんのクッキー」のあの「ステラおばさん」とそっくりで、目の前に花が咲いたような感じがした。
私は引っ込み思案の方だから、あまり積極的に話掛ける事はどうにも億劫であったが、家内のほうは自分の持てるあらゆる言語機能を振り絞って、この親子に話掛けていた。
娘さんの方からはEメールのアドレスまで聞き出して手帳に控え、母親の方からは、職業まで聞き出していたが、その単語の意味が分からず、電子辞書で引いているうちに、その電子辞書がまたまた話題になり、その話題が周辺のテーブル全体に広がってしまい、我々を挟んだ両方のグループが一つになってしまった。
ショウそのものはそれほど感動するような代物ではなかったが、この一夜の極めてフレンドリーな雰囲気というのは捨てがたい価値のあるものであった。
一期一会という言葉があるが、たまたま知り合った仲とはいえ、その瞬間を大事にするということは貴重な事だと思う。
ショウが終わったときに再び橋谷氏が表れ、我々をハードロック・ホテルに案内してくれた。
これは家内が息子から頼まれた土産物・オリジナルのTシャツを買うために頼み込んだ事であり、彼には大変なご苦労をかけてしまった。

 3月16日 ラスベガスからロスアンジェルス

昨夜、デイナー・ショウが終わって息子から頼まれた買い物をして帰ったのがかなり遅い時間であったにもかかわらず朝は結構早く目がさめた。
この日はロサンジェルスに移動し、その後ロサンジェルス観光となっていたのでスケジュール的には左程きつい行程ではなかった。
それに2度目のホテルで勝手が多少ともわかっていたので行動がスムースに出来た。
ホテルのロビーで待っていると、トランス・オービットの係員が呼びに来たので、その後についていくと例のバンに乗せられて空港へと向かった。
このラスベガスのマッキャラン空港も大きな空港で、巨大な飛行機が飛び交っていたが、もう30年も前の私の航空機に関する知識も色あせてしまっていた。
で、ここで待っていると若い係員が空港内を案内してくれた。
しかし、もうこちらに着て時間が経ち、雰囲気に慣れたので、空港での搭乗手続きは自分達だけでも出来そうであったが、これも家内の持ち前の哲学で、「金を払った以上徹底的に利用すべし」という趣旨に沿って言われるままに係員の指示の通りに動いた。
本日の行程は多少ゆとりがあるので、ロビーで人々の動きというものをよく観察していたが、アメリカという国はやはり実にダイナミックな国である。
今まで我々を案内してくれた日本人のガイドも決してアメリカを良くは言わなかったが、それでもアメリカから離れられずアメリカで生活しているという事は、そこにはアメリカのダイナミックさに魅力を感じているからであろう。
人々の皮膚の色から言語、物の考え方の違いから、潜在意識としての発想の相違まで、ありとあらゆる昏倒をその中に内包したアメリカというのは、やはり日本と日本人にはないバイタリテイである。
そんな事を考えながらロビーで人の動きを見ているうちに時間になり、搭乗ゲートに行き、指定の飛行機に乗り込んだ。
来る時はアメリカ・ウエストという会社の飛行機であったが、帰りはアメリカ・エアラインという航空会社であった。
やはりMD−82/83という飛行機であったが、今回も運が良くて窓側の席が確保された。
飛行機の発着時間というのはJRの時刻表のように正確なものではない。
実に大雑把なもので、今回のフライトも手元の予定表では10:45となっていたが、現地係員の言う所では11:00、実際に飛び立った時間は11:52と、実にあいまいなものである。
それもある意味では無理もない話で、乗客の安全というのは気象条件に左右されているわけで、時間厳守も天候次第なわけだから、ある意味では致し方ない面がある。
飛行機は50分以上の遅れで出発し、ロサンジェルスに向かって飛び立ったが、飛び立ったと思ったらもう砂漠である。
高度を上げるに従い、だんだん遠くの砂漠が視野に入ってきたが、昨日までの3日間というもの、この砂漠の中を走り回っていたのかと思うと実に不思議な気がする。
しかも、昨日見たフーバー・ダムとミード湖というのはラスベガスからそう遠くない所にあるはずであるが、不思議な事にこれがさっぱり見えない。
飛行機の下の土地というのは砂漠以外のなにものでもない。
砂漠の中にも人の生活する空間として蜘蛛の糸のように道路があることはわかるが、上から見る限り水というものがない。
我々の生活環境から見る限り、名古屋空港から飛行機で飛びあがれば、そこには緑の山と豊富な水の存在が目に飛び込んでくるが、そう言うものが全く見当たらない。
山はあってもそれは樹木をほんの少し申し訳程度に山肌に貼りつけた裸の山である。
まさしく不毛の土地と言う言葉がぴったりである。
昨日見たフーバー・ダムは、その建築の第一目標が砂漠の洪水の防止という事で、電力供給は副産物であった、というガイドの説明はどうにも腑に落ちないが、もしそうであればそういうものをもっともっと作れば、この不毛の土地にも利用価値が出てくるのではないか、と素人なりに考えながら窓に顔をくっつけていた。
ロサンジェルスに到着したらトランス・オービットの佐藤という係員が我々夫婦を迎えてくれた。
そしてもう一組熟年旅行の夫婦がいた。
で、その佐藤氏がロサンジェルスの街中を案内してくれたが、ロスの街というのはやはり綺麗な街で,日本の若者に人気があるのもうなずける。
しかし、いくら小人数のツアーであったとしても、こういう風にガイドから説明を受けるというのは自分の記憶に残らない。
何処をどういうふうに通って、何処を曲がって何処に行ったのか、と言う事がさっぱり記憶に残らない。
この佐藤という現地係員は実に大きな男で、この地のアメリカ人にも決して引けを取る体格ではなかった。
そしてガイドの腕前、いや口真似というべきか、そのガイド振りというのも、かなりのテクニッシャンで、それこそ立て板に水を流すように説明してくれるが、逆にあまりにもガイドが素晴らしいので、それを聞く我々の方は、その場では納得出来るが後には全く記憶に残らないという有様であった。
その彼が運転しながら左右の景色や街のいわれを説明してくれたが、その中でもやはりサンタモニカの街並みというのは綺麗な町という一言に尽きる。
このサンタモニカの、あるモールで車を止め、遅い昼食をする事になった。
ラスベガスからの飛行機が遅れに遅れたので、この時点で既に3時近くなっていた。
佐藤氏は一番近くにあるマクドナルドで我々が昼食をするものと思っていたらしいが、我々は道路を渡ってモールの中に入ってしまった。
このモールの名前は覚えていないが、名古屋で云えばパルコかナデイア・パークのような感じの店であった。
で、この中のカフェテラスで食事をしたが、中で働いている若い女性はやはりメキシコ系で、客の方は千差万別の人々が列に並んでいた。
ここでも控えめに注文したが、それでも全部は食べきれなかった。
アメリカの消費文化というのは実に贅沢で、特に紙の消費と食べ物の消費は我々の世代には耐えられないものがある。
しかし、目線を変えれば、この消費動向があるからこそ、それに合うように生産活動もなりたっているわけで、人々が物を消費しなければ作る側も控えなければならなくなるが、沢山消費して沢山作るから、アメリカ経済がなりたっているわけである。
このモールは家内にとっては目が離せなく、あっちの店やこっちの店に入ってウインドウ・ショッピングを楽しんでいた。
集合時間になったところで道に迷ってしまい、少々時間に遅れてしまった。
その次にロデイオ・ドライブという街を車の中から見たが,これはまさしく有名ブランド品の店の集まりで、街そのものは左程特徴のあるものではないが、ここに世界の有名ブランド品を扱う店が集合しているというところに価値があるらしい。
それはこの地が映画俳優の街と言う事に関係があるように思う。
ロサンジェルスの産業は映画であり、その映画に携わっている人々は金持ちだから、その金持ち相手にこの地域に世界の有名ブランドが集合したという図式に違いない。
そこに日本の若者が雲霞のように集まって、ワアワア、キャアキャア騒いでいるという現象は、やはり日本の世紀末を象徴しているのではないかと思う。
今回、我々は時間がなくて、ここで下りて街中を歩き回るということは出来なかったが私としてはやれやれである。
家内は大いに失望したに違いないが、私はこう云うブランド品には一向に興味がなく、猫に小判である。
その後、車を止めた駐車場の横が例のチャイニーズ・シアターであった。
ここはどのパンフレットにも記載されている、有名俳優の手形、足型があるところとして有名であるが、その建物、つまり映画館そのものの作りが中国の寺院を模しているところが何とも不可解である。
佐藤氏の説明によると、このオーナーが中国びいきで、自分の映画館の外観をこのような形にしたという事であるが、その建物の模倣の具合がやはり中途半端で、アメリカ人の日本観がフジヤマ芸者で象徴されるように、アメリカ人の見た中国感というもので仕上がっているせいであろうと想像する。
この場所が有名観光地として名を知られているのは、この劇場と切符売り場の間にあるコンクリートの地面にある。
このコンクリートには1m四方ぐらいの中に、有名俳優の手形、足型そしてサインが並べられているわけで、それが人を呼びつける最大の効果を成している。ジョン・ウエイン、マリリン・モンロー、トム・クルーズ、スチィーブ・マックイーン、その他いくつあるか数えることはしなかったが、それがこの劇場の人集めに貢献しているわけである。
これはコンクリートが生乾きのときに手形を取り、足型を取り、サインをして作ったものであるが、立派な客集めの効果を出している。
この場所の散策の帰り、この劇場の道路脇の隅で、黒人が金色のコスチュウムで、一種のパフォーマンスであろう、直立不動の姿勢で、お地蔵さんのように立っていた。
その前を通ったとき、家内とそのお地蔵さんの目が合ったらしく、家内は『動いた!』といって、素っ頓狂な大声を上げ、飛びあがらんばかりに驚いて4、5mも逃げてしまったので、さぞお地蔵さんのほうも苦笑していたに違いない。
駐車場の道路の反対側には改葬工事中のホテルがあったが、これはルーズベルトというホテルで、映画産業華やかなりし頃は、有名俳優が競って利用したという事であったが、今では時代に取り残され目の前で改葬工事が成されていた。
とにかく1927年に出来たという事であるので、今から約70年前の事である。
いろいろな付帯施設があまりにも旧式で、改葬を余儀なく強いられているとの事である。
このホテルの1階ロビーにはチャーリー・チャップリンの等身大の銅像があったので、それと並んで記念写真を撮った。
2階は映画資料館となっていたが、あまり大した資料はなかった。
この通りも観光客で賑わっていたが、我々はそれからリトル東京に移動した。
この日我々が泊まるホテルはこのリトル東京にあるわけで、そのすぐ近くに免税店があった。
この店に入る前に佐藤氏から小さなチケットを渡され、それを提示する事によって免税の利得が得られる仕組みになっているらしい。
この店は日本のデパート並にいろいろな品物が揃っていたが、有名ブランドのコーナーには日本人が大挙して押し寄せていた。
私達もその雲霞のような日本人の一人として、お上りさんよろしく、土産物を購入した。
私は二人の弟の為に財布を2個購入しておいたが、ここで買った品物は自分の手で持ちかえる事は出来ず、空港をたつ飛行機の搭乗手続きの後、空港で手渡されるとのことであった。
その方がこちらは余分な荷物を持ち歩くことがないので有り難い。
ここでは約一時間近くいたが、その後ホテルに移動した。
ホテルはすぐ近くであったので、車を移動した程度であるが、このホテルに佐藤氏の属するトランス・オービットの事務所があった。
ロスの空港で一緒になった熟年夫婦はアメリカ1周旅行をする予定で、その後のガイドの件に付きこの事務所で相談をしていたが、その間に我々はチェックインする事になった。
このホテル、ザ・ニュー・オータニは、その後時間がある限り歩き回ったのでかなり様子がわかってきたが、このホテル内にも数多くの土産物があった。
佐藤氏がフロントで我々の荷物をポーターに渡して、部屋に運んでおくよう依頼していたが、部屋に入ったときそれがまだ着いていなかった。
そう思った矢先に、佐藤氏が部屋に来て、食事のクーポン券を置いていってくれた。
それを持ってすぐ下のレストランに食事に行ったが、ここでの食事はまあまあ納得できるものであった。
その際、クーポン券で1銭も使わずに出るのもなんとなく気まずいなあと思ったものだから、ビールを一本注文してみた。
で、出るとき清算をする為にボーイを呼んだところ、テーブル・クロスの上に値段をボールペンで書いてしまったので、「えらいところに落書きをするなあ!」と思ったら、そのクロスは紙で、客が食事を終えると、その紙を取りかえるだけで次の客が座れるようになっていた。
ビール代は4ドル何がしであったので、チップを含めて6ドル、テーブルの上において出てきた。
ホテルの周辺には日系人が作ったリトル東京という地域があり、その中には日本と同じサークルKのようなコンビエンス・ストアがあり、そこでビールを2本購入し、それを部屋に持ち込み、、深い眠りに浸った。

次に続く