グランド・キャニオンというのはいわば広大な台地にある裂け目のことで、その周辺の土地というのは、かなり高いところにあるに違いない。
この日と泊まった宿泊所というのは、アメリカ流のホテルに比べるといささかこじんまりとした施設で、いわゆる正式のホテルではなかった。
けれども周辺は松の木々が散在しており、我々日本人にとって心休まる雰囲気の土地であった。
昨夜はガイドのケンさんと部屋の外の椅子で日米文化の比較論をしたが、彼はこの地を出発する前にもうすでに一仕事終えたいたわけで、我々夫婦以外のグループは日の出を見に行っていた。
我々は日の出など何処で見ても同じだ、という意識がありそれには参加しなかった。
そのかわり朝の散策で新鮮な空気を吸っていた。
この辺りの松林というのも、日本のように木々が密集しておらず、如何にも大陸的に間隔の広い森であった。
この宿泊所は便利な作りになっており、部屋に表側と裏側のパテイオに出れる2ヶ所のドアがあった。
パテイオの側に出るとすぐに食堂に通じ、その前の通路には椅子が並べられて、会話が出きるようになっていた。
昨夜は部屋の前の椅子で、ガイドのケンさんと口から泡を飛ばしかねないほど熱中した議論をしてしまったが、彼の精神構造の中にはアメリカ人には決して負けたくない、という大和魂のようなものがあり、その意識があまりにも強いので、彼から見たアメリカ人というのはその総てが馬鹿に見えているような感じがした。
これは私とは大いに見解が違う訳で、私の方はどちらかというと、白人主義というか、西洋コンプレックスというか、彼らの偉大さに屈服しかねない控えめな思考に陥らざるを得なかった。
そんな事があっても朝の8時にはこの宿泊所を出発して最後の行程に入った。
ガイドのケン氏はグランド・キャニオンを去る前にもう一つのポイントにつれて行ってくれた。
昨夜、デイナー・ショウが終わって息子から頼まれた買い物をして帰ったのがかなり遅い時間であったにもかかわらず朝は結構早く目がさめた。
この日はロサンジェルスに移動し、その後ロサンジェルス観光となっていたのでスケジュール的には左程きつい行程ではなかった。
それに2度目のホテルで勝手が多少ともわかっていたので行動がスムースに出来た。
ホテルのロビーで待っていると、トランス・オービットの係員が呼びに来たので、その後についていくと例のバンに乗せられて空港へと向かった。
このラスベガスのマッキャラン空港も大きな空港で、巨大な飛行機が飛び交っていたが、もう30年も前の私の航空機に関する知識も色あせてしまっていた。
で、ここで待っていると若い係員が空港内を案内してくれた。
しかし、もうこちらに着て時間が経ち、雰囲気に慣れたので、空港での搭乗手続きは自分達だけでも出来そうであったが、これも家内の持ち前の哲学で、「金を払った以上徹底的に利用すべし」という趣旨に沿って言われるままに係員の指示の通りに動いた。
本日の行程は多少ゆとりがあるので、ロビーで人々の動きというものをよく観察していたが、アメリカという国はやはり実にダイナミックな国である。
今まで我々を案内してくれた日本人のガイドも決してアメリカを良くは言わなかったが、それでもアメリカから離れられずアメリカで生活しているという事は、そこにはアメリカのダイナミックさに魅力を感じているからであろう。
人々の皮膚の色から言語、物の考え方の違いから、潜在意識としての発想の相違まで、ありとあらゆる昏倒をその中に内包したアメリカというのは、やはり日本と日本人にはないバイタリテイである。
そんな事を考えながらロビーで人の動きを見ているうちに時間になり、搭乗ゲートに行き、指定の飛行機に乗り込んだ。
来る時はアメリカ・ウエストという会社の飛行機であったが、帰りはアメリカ・エアラインという航空会社であった。
やはりMD−82/83という飛行機であったが、今回も運が良くて窓側の席が確保された。
飛行機の発着時間というのはJRの時刻表のように正確なものではない。
実に大雑把なもので、今回のフライトも手元の予定表では10:45となっていたが、現地係員の言う所では11:00、実際に飛び立った時間は11:52と、実にあいまいなものである。
それもある意味では無理もない話で、乗客の安全というのは気象条件に左右されているわけで、時間厳守も天候次第なわけだから、ある意味では致し方ない面がある。
飛行機は50分以上の遅れで出発し、ロサンジェルスに向かって飛び立ったが、飛び立ったと思ったらもう砂漠である。
高度を上げるに従い、だんだん遠くの砂漠が視野に入ってきたが、昨日までの3日間というもの、この砂漠の中を走り回っていたのかと思うと実に不思議な気がする。
しかも、昨日見たフーバー・ダムとミード湖というのはラスベガスからそう遠くない所にあるはずであるが、不思議な事にこれがさっぱり見えない。
飛行機の下の土地というのは砂漠以外のなにものでもない。
砂漠の中にも人の生活する空間として蜘蛛の糸のように道路があることはわかるが、上から見る限り水というものがない。
我々の生活環境から見る限り、名古屋空港から飛行機で飛びあがれば、そこには緑の山と豊富な水の存在が目に飛び込んでくるが、そう言うものが全く見当たらない。
山はあってもそれは樹木をほんの少し申し訳程度に山肌に貼りつけた裸の山である。
まさしく不毛の土地と言う言葉がぴったりである。
昨日見たフーバー・ダムは、その建築の第一目標が砂漠の洪水の防止という事で、電力供給は副産物であった、というガイドの説明はどうにも腑に落ちないが、もしそうであればそういうものをもっともっと作れば、この不毛の土地にも利用価値が出てくるのではないか、と素人なりに考えながら窓に顔をくっつけていた。
ロサンジェルスに到着したらトランス・オービットの佐藤という係員が我々夫婦を迎えてくれた。
そしてもう一組熟年旅行の夫婦がいた。
で、その佐藤氏がロサンジェルスの街中を案内してくれたが、ロスの街というのはやはり綺麗な街で,日本の若者に人気があるのもうなずける。
しかし、いくら小人数のツアーであったとしても、こういう風にガイドから説明を受けるというのは自分の記憶に残らない。
何処をどういうふうに通って、何処を曲がって何処に行ったのか、と言う事がさっぱり記憶に残らない。
この佐藤という現地係員は実に大きな男で、この地のアメリカ人にも決して引けを取る体格ではなかった。
そしてガイドの腕前、いや口真似というべきか、そのガイド振りというのも、かなりのテクニッシャンで、それこそ立て板に水を流すように説明してくれるが、逆にあまりにもガイドが素晴らしいので、それを聞く我々の方は、その場では納得出来るが後には全く記憶に残らないという有様であった。
その彼が運転しながら左右の景色や街のいわれを説明してくれたが、その中でもやはりサンタモニカの街並みというのは綺麗な町という一言に尽きる。
このサンタモニカの、あるモールで車を止め、遅い昼食をする事になった。
ラスベガスからの飛行機が遅れに遅れたので、この時点で既に3時近くなっていた。
佐藤氏は一番近くにあるマクドナルドで我々が昼食をするものと思っていたらしいが、我々は道路を渡ってモールの中に入ってしまった。
このモールの名前は覚えていないが、名古屋で云えばパルコかナデイア・パークのような感じの店であった。
で、この中のカフェテラスで食事をしたが、中で働いている若い女性はやはりメキシコ系で、客の方は千差万別の人々が列に並んでいた。
ここでも控えめに注文したが、それでも全部は食べきれなかった。
アメリカの消費文化というのは実に贅沢で、特に紙の消費と食べ物の消費は我々の世代には耐えられないものがある。
しかし、目線を変えれば、この消費動向があるからこそ、それに合うように生産活動もなりたっているわけで、人々が物を消費しなければ作る側も控えなければならなくなるが、沢山消費して沢山作るから、アメリカ経済がなりたっているわけである。
このモールは家内にとっては目が離せなく、あっちの店やこっちの店に入ってウインドウ・ショッピングを楽しんでいた。
集合時間になったところで道に迷ってしまい、少々時間に遅れてしまった。
その次にロデイオ・ドライブという街を車の中から見たが,これはまさしく有名ブランド品の店の集まりで、街そのものは左程特徴のあるものではないが、ここに世界の有名ブランド品を扱う店が集合しているというところに価値があるらしい。
それはこの地が映画俳優の街と言う事に関係があるように思う。
ロサンジェルスの産業は映画であり、その映画に携わっている人々は金持ちだから、その金持ち相手にこの地域に世界の有名ブランドが集合したという図式に違いない。
そこに日本の若者が雲霞のように集まって、ワアワア、キャアキャア騒いでいるという現象は、やはり日本の世紀末を象徴しているのではないかと思う。
今回、我々は時間がなくて、ここで下りて街中を歩き回るということは出来なかったが私としてはやれやれである。
家内は大いに失望したに違いないが、私はこう云うブランド品には一向に興味がなく、猫に小判である。
その後、車を止めた駐車場の横が例のチャイニーズ・シアターであった。
ここはどのパンフレットにも記載されている、有名俳優の手形、足型があるところとして有名であるが、その建物、つまり映画館そのものの作りが中国の寺院を模しているところが何とも不可解である。
佐藤氏の説明によると、このオーナーが中国びいきで、自分の映画館の外観をこのような形にしたという事であるが、その建物の模倣の具合がやはり中途半端で、アメリカ人の日本観がフジヤマ芸者で象徴されるように、アメリカ人の見た中国感というもので仕上がっているせいであろうと想像する。
この場所が有名観光地として名を知られているのは、この劇場と切符売り場の間にあるコンクリートの地面にある。
このコンクリートには1m四方ぐらいの中に、有名俳優の手形、足型そしてサインが並べられているわけで、それが人を呼びつける最大の効果を成している。ジョン・ウエイン、マリリン・モンロー、トム・クルーズ、スチィーブ・マックイーン、その他いくつあるか数えることはしなかったが、それがこの劇場の人集めに貢献しているわけである。
これはコンクリートが生乾きのときに手形を取り、足型を取り、サインをして作ったものであるが、立派な客集めの効果を出している。
この場所の散策の帰り、この劇場の道路脇の隅で、黒人が金色のコスチュウムで、一種のパフォーマンスであろう、直立不動の姿勢で、お地蔵さんのように立っていた。
その前を通ったとき、家内とそのお地蔵さんの目が合ったらしく、家内は『動いた!』といって、素っ頓狂な大声を上げ、飛びあがらんばかりに驚いて4、5mも逃げてしまったので、さぞお地蔵さんのほうも苦笑していたに違いない。
駐車場の道路の反対側には改葬工事中のホテルがあったが、これはルーズベルトというホテルで、映画産業華やかなりし頃は、有名俳優が競って利用したという事であったが、今では時代に取り残され目の前で改葬工事が成されていた。
とにかく1927年に出来たという事であるので、今から約70年前の事である。
いろいろな付帯施設があまりにも旧式で、改葬を余儀なく強いられているとの事である。
このホテルの1階ロビーにはチャーリー・チャップリンの等身大の銅像があったので、それと並んで記念写真を撮った。
2階は映画資料館となっていたが、あまり大した資料はなかった。
この通りも観光客で賑わっていたが、我々はそれからリトル東京に移動した。
この日我々が泊まるホテルはこのリトル東京にあるわけで、そのすぐ近くに免税店があった。
この店に入る前に佐藤氏から小さなチケットを渡され、それを提示する事によって免税の利得が得られる仕組みになっているらしい。
この店は日本のデパート並にいろいろな品物が揃っていたが、有名ブランドのコーナーには日本人が大挙して押し寄せていた。
私達もその雲霞のような日本人の一人として、お上りさんよろしく、土産物を購入した。
私は二人の弟の為に財布を2個購入しておいたが、ここで買った品物は自分の手で持ちかえる事は出来ず、空港をたつ飛行機の搭乗手続きの後、空港で手渡されるとのことであった。
その方がこちらは余分な荷物を持ち歩くことがないので有り難い。
ここでは約一時間近くいたが、その後ホテルに移動した。
ホテルはすぐ近くであったので、車を移動した程度であるが、このホテルに佐藤氏の属するトランス・オービットの事務所があった。
ロスの空港で一緒になった熟年夫婦はアメリカ1周旅行をする予定で、その後のガイドの件に付きこの事務所で相談をしていたが、その間に我々はチェックインする事になった。
このホテル、ザ・ニュー・オータニは、その後時間がある限り歩き回ったのでかなり様子がわかってきたが、このホテル内にも数多くの土産物があった。
佐藤氏がフロントで我々の荷物をポーターに渡して、部屋に運んでおくよう依頼していたが、部屋に入ったときそれがまだ着いていなかった。
そう思った矢先に、佐藤氏が部屋に来て、食事のクーポン券を置いていってくれた。
それを持ってすぐ下のレストランに食事に行ったが、ここでの食事はまあまあ納得できるものであった。
その際、クーポン券で1銭も使わずに出るのもなんとなく気まずいなあと思ったものだから、ビールを一本注文してみた。
で、出るとき清算をする為にボーイを呼んだところ、テーブル・クロスの上に値段をボールペンで書いてしまったので、「えらいところに落書きをするなあ!」と思ったら、そのクロスは紙で、客が食事を終えると、その紙を取りかえるだけで次の客が座れるようになっていた。
ビール代は4ドル何がしであったので、チップを含めて6ドル、テーブルの上において出てきた。
ホテルの周辺には日系人が作ったリトル東京という地域があり、その中には日本と同じサークルKのようなコンビエンス・ストアがあり、そこでビールを2本購入し、それを部屋に持ち込み、、深い眠りに浸った。