熟年夫婦・大西部を行く

3月17日 ティファナ見学

翌日のティファナへの旅は、出発時間には少々ゆとりがあって、朝は楽であったが、同行したメンバーがよろしくなかった。
今までのうちで最低のメンバーであった。
若い4人の小娘と無口な親子づれのカップルで、このカップルが中々打ち解けようとしないので車内が沈んでしまっていた。
若い小娘はこれはこれで世代があまりにも違っていて話題が合わず、どうにもちぐはぐなメンバーの集まりになってしまっていた。
その上にガイドが饒舌ではなく、必要以外の余談をあまり喋らず、ただただがむしゃらに運転をしているという感じであった。
しかし名に聞こえたロサンジェルスのハイウエイを堪能できたという意味ではやはり価値ある一日ではあった。
ロサンジェルスを南下して、サンデイエゴに到る国道5号線を走ったわけであるが、その幅の広さといったらまるで飛行場の滑走路のようなものである。
両側6車線から8車線が普通で、その中を今にも車輪が外れそうな古い車から、18輪トレーラーが混在して走っているわけである。
ガイドの説明によると、こちらでは車検制度がないので車の故障というのは所有者の責任という事であるが、それは理屈から考えて当然な事だと思う。
日本の車検制度というのは、これは日本固有の談合体質、乃至は共存共栄の社会システムの発想がその根底に潜んでいるからに違いない。
車という文明の利器を作る者も、それを利用する者も、それを修理する者も、そしてその事に税金を掛けて社会全体として利する方法として、複雑怪奇なシステムが構築されているわけである。
ところがこの土地では、車というのは人が生きる為の道具に過ぎなく、当然道具としての意味合いからして、古いものでもその用途、目的にさえかなえば、国家も、個人も、その所有に関与しないというわけである。
だから、壊れた時も、そのまま乗ろうが、修理しようが、人が落っこちようが、荷物が落っこちようが、社会に迷惑さえ掛けなければ、それは総て運転する人の責任になるわけである。
極めて単純明快な論理である。
今まででもトラックの荷台に子供を乗せたり、人を乗せている光景は何度も見たが、それで通る国である。
日本ならば即刻道路交通法違反で引っ掛かるようなことでも平気で通っている。
ドアやトランクを紐で結わえて走っている車まである。
真っ赤に錆びていようが、ペンキがはげていようが全くお構いなしである。
50年前の車から最新式のポルシェまで、実に多種多様な車の洪水である。
車好きの私が特に感じたのは、やはり国産車と18輪トレイラーである。
国産車に関して言えば、やはりトヨタの占めるシェアーが目に付くが、その中でも三菱製の車もままにある。
特にチャレンジャーに人気があるらしく、このカリフォルニアでは目に付いた。
アメリカ製のエクリプスもあり、ミラージュからギャランまで、日本と同じように目にする事が出来たが、それ以上にやはりトヨタ・日産が浸透しているようだ。
ガイドの説明によると、金持ちが日本車を買う、といっていたがそれは日本のいるときから聞いていたことである。
しかしこのカリフォルニアにはピック・アップがよく似合う。
田舎では同じピック・アップでも、シボレーやダッジのピック・アップが必要不可欠であるが、ロサンジェルスのような都会では、日本車の少々小ぶりでスタイリッシュな車がよく似合う。
ハイウエイの左側にダブルの黄色い線で区画したレーンがあったので、ガイドに質問したところ、単語は忘れてしまったが、二人以上乗車している車はこのレーンを走れるという事である。
州が車減らしの一環として、2人以上乗っている車は優先的に空いたレーンを走ることが出来る、というものであった。
ガイドの誰もが言っていたが、このロサンジェルスでは土地が余っている、のでこういう贅沢が可能であったに違いない。
狭い日本ではとても考えられない事である。
東名高速を3本ぐらい並べて作ったようなものである。
そこを100kmで,しかも料金はただで行き交っているわけである。
信号というのは市街地を出てしまうとほとんど見当たらない。
それでも日本で云うところの自然渋滞というのがしばしば起きるらしい。
それで、このハイウエイをしばらく南下したらサンデイエゴの町に入った。
この町は綺麗な町であるが、ガイドを含めて日本人はほとんど関心を示さない。
軍隊を持たない日本人にとっては全くの観光地でしかないが、この町は太平洋で一番大事なアメリカの基地があるところでもある。
正確には知らないが、アメリカの第7艦隊の基地というのはハワイかこのサンデイエゴでのどちらかで、それは日本の横須賀と佐世保にそのままつながりをもっているわけである。
ガイドも軍港があるということだけは言ってくれたが、その事の持つ意味というのは深くは考えていないように見えた。
ガイドの説明で右側を見ると、沖合いにかすかに煙る航空母艦が見えた。
その手前をフリゲート艦が右から左に移動していたが、距離がありすぎて詳細にはわからなかった。
道の右側には航空基地もあるということであった。
それも車窓からはよくわからなかったが、ガイドは航空機が滑走路に出る時、この道を遮断して横切って行くということに大きな驚きを示していた。
普通の国であって見れば、軍事が何事にも優先すると言うことが、このガイドには不可解な事と写っていたに違いない。
ここまで来ると右側は広大な太平洋で、その向こうには日本があるわけである。
左側はなだらかな丘陵になっていたが、この辺りは果物の栽培が盛んとのことであった。
町は実に綺麗だ。
そして、ここで昼食の予定であったが、いつものところがこの日は休業しており、代替の店に寄ったが、ここは中華料理のレストランであった。
5品出てきて、各自、銘々皿に盛って食べる式のものであったが、私はそうそう食べれなくて、程よい所で満足した。
後にはかなりの分量があまってしまっていたが、このアメリカの食事というのは、実に贅沢なものである。
人が食べきれないほどの分量を出すのが普通になっているが、これは実にもったいない事だと思う。
我々の世代は、戦後のひもじい思いを知っているだけに、そういう感が脳裏から離れない。
建物の外は実に快適な気温と空の色であった。
そして町の中は至って綺麗になっており、日本とは違う町の風景であった。
ここからもう少し南下すると、国境の町に入ったわけであるが、この国境というのも実に不思議な雰囲気をかもし出している。
我が日本には、陸上の国境というものがないので、われわれは映画やテレビでしかそういうものを知ることがない。
ガイドはしつこく国境の検問に関する注意事項を我々に説明していたが、それも無理無い話で、トラブルが起きれば結局は自分達〔ガイド〕がその処理をしなければならなくなるので、そうならないようにしつこく、しつこく我々に注意をしていたわけである。
で、その国境というのは、アメリカからメキシコに出るぶんには至って簡単で、逆にあちらからこちらに帰ってくる時には、検問が実に厳しいので、くれぐれも注意するように、という事である。
ガイドの後にくっついて出るときにはやはり実に簡単で、ホテルの回転ドアを通るようなもので、何の不安もなかった。
しかし、あちら側に行って見ると、実に驚くべき光景が待っていた。
まさしく戦後の日本の再現である。
昭和25、6年の日本の光景がそこには展開していた。
バラックと土産物屋と、売春婦と、ヤクザやら詐欺師やら、その他のありとあらゆる犯罪の巣といった感じである。
その混沌の中でも人は生きているわけである。
そして、その周りというのは実におおらかな太陽のもとに、この混沌とした世界が展開しているわけである。
貧乏というのは今の日本では実感が伴わないが、ここには明らかに貧乏というものがある。
国境のフェンス一枚で天国と地獄の違いがある。
この検問は自動車で越える事も出来るが、再入国の際の検問のわずらわしさを避ける為、ここで車を乗り換えるという事をガイドは行っていた。
そして国境を越え、向こう側に渡った時、待っていた車というのは恐らく50年は走っていたに違いない旧式のバスであった。
しかも表面はでこぼこで、如何にもポンコツ・バスといった代物であるが、日本では車検制度があるので、これほどのポンコツ車は見ることが出来ない。
昔、若かりし頃見た映画で、マリリン・モンロー主演の「バス・ストップ」という映画があったが、それに出てくるバスと同じである。
しかし、そのポンコツさといったら表現の仕様がない。
これでよく走れるものだ、と言ったほうがよいようなバスであった。
それに乗って10分も走るとテイファナの町にたどり着くわけであるが、この町の混沌さというのも、まさに筆舌に尽くしがたいほどのものである。
このオンボロ・バスが街の中心地に停車すると、ガイドが先に降りていって、再度全員を集合させ、注意事項を述べた後、その前の店の地下室に皆を連れていった。
ここも土産物屋になっていたが、ここは現地の日本観光業者が特別に契約をした店らしく、そういう条件のもとで店側もそうあくどい商売をしないということである。
何しろ、この町では物の値段というものがないような按配で、日本と同じ感覚で物を買うということが出来ない土地柄のようである。
我々夫婦も、町を一回りしては見たものの、到底他の店では物を買う気になれなかった。
それでも家内はトルコという国に行った経験から、さほど違和感というものを感じていなかったみたいだが、私はこういう所で物を買うということは、生理的に好きになれなかった。
その呼び込みの面白さというのもすごく、ありとあらゆる日本語の掛け声が周囲から迫ってきたいた。
「正子さん」から、「本物だよ」「ちょっと見るだけ」「見るのはただよ」と言う具合に、彼らの知っていると思われるあらゆる日本語が飛び出してきていた。
その中でもアメリカ人の観光客というのは、言われるままに彼らを冷やかして観光というか、ウインド・ショッピングというか、散策を楽しんでいるようであった。
彼らは恐らく近くのサンデイエゴの海軍基地の米兵か、その家族に違いないと思われる。
このメキシコ人から見れば、金持ちという点ではアメリカ人よりも日本人の方がはるかに金持ちに違いないが、何しろこの両国は隣同士の国同志であるから何かにつけてアメリカの方を向いているのは致し方ない。
町の中を散策していたら、一軒の喫茶店というか、レストランというか、食事をする店で、外国人旅行者がメキシコ人の「流し」に歌を唄わせていた。
日本でも「流し」の唄うたいというのはつい先ごろまでは存在していたが、カラオケというものが出現した以降さっぱり見うけられなくなってしまった。
人が金を出して唄わせているものを、そう何時までも見ているわけにもいかなかったので、そうそうに退散したが、そういう一見「流し」と思われるような人をかなり見うけた。
特に面白かったのはシマウマに見せ掛けたロバで、これに観光客を乗せて写真を撮らせ、幾ばくかの金を請求するというものである。
これはガイドが教えてくれたが、あのシマウマは偽者でロバにただ色をつけただけという事である。
そして、値段交渉を先にしなければ、後からではいくらボラれても対応のしかたがない、という事であった。
ガイドの言う注意というのは、値段を先に交渉し、金を払ったと後、写真を撮らせるのならばトラブルはないが、この順序を間違えるとトラブルに巻き込まれる、という事を強調していたのも大いにうなずける事である。
この町はどうも高台の岡の上にあるような感じがする。
どの道路の先も坂になっていて、先に行くほど下っている。
この町の自動車というのも実にオンボロ車の洪水で、日本ならば廃車のような車ばかりである。
そして日本の馬鹿な若者と同じで、異様に大きなボリュウムでステレオをかけている馬鹿がいる。
その上、案外お巡りさんが多くて、あちらでもこちらでも警笛の音がするが、人々は一向に動ずる気配がなく、その無秩序さというのはさっぱり改まる気配がない。
ここでは1時間半の自由時間があったが、町の散策は程ほどで切り上げ、例の集合場所に着て、おみやげを購入した。
私も家内も、観光に来たからには、少々誤魔化されても、現地の人に恵んでやると思えば腹が立たないという考えであったので、いくらかは買い物をするつもりでいた。
私は固い木の水鳥の彫り物を購入した。
値段が手ごろで、人にくれてやっても惜しくないものだから、誰かの土産にしようと思って購入しておいた。
時間になると全員が集まったので、再びあのオンボロ・バスで国境の検問所に来た。
アメリカ側に向かう自動車の列は大した渋滞で、これでは何時になったら通過出来るかわかったものではない。
ガイドが車を乗り換える処置は尤もな事である。
車は第1関門から第3関門まであるとの事で、最初に不審を抱かれると、第2、第3の関門まであり、それでも尚という場合は、車毎真っ二つに切断されてしまうという事である。
それほど厳しい検査で何を見つけようとするのか、と問えば、それは当然、麻薬やマリハナの探知である。それと違法入国である。
アメリカとメキシコという二つの隣り合った国で、これほど格差があれば、水が低い方に流れるのと反対に、人々は文化の高い方に流れてくるわけである。
アメリカとメキシコの労働賃金の格差は10倍以上であるらしい。
メキシコ人にして見れば、アメリカで働きたいが、アメリカの法律はそれを許していないわけで、その法の執行の為、アメリカ側は莫大な人間と機材と施設をここに投入しているわけである。
同行した一行の中で、例の小娘たちは、この検問を通る際、アメリカ側の検査官、ラテン系の女性の検査官であったが、パスポートを念入りに見られていたが、私共夫婦の時は如何にもあっさりと通してくれた。
私が検査官であっても、このような小娘がドルを持ち歩いて、へらへらと旅行と称して遊んでいるのを見れば、意地悪の一つもして見たくなる。
その女性の検査官は具体的に意地悪をしたわけではないが、パスポートを何度も念入りに見ていたことは確かである。
ここを通過してガイドの車に再び乗り込んだ時にはなんとなく安堵感に浸った。
帰りには再びハイウエイを飛ばして帰ってきたが途中2度トイレ休憩があった。
最初に止まった所は実に素晴らしい場所で、海岸縁のヨットハーバーであった。
2度目の時はスーパーマーケットで、これはアメリカならばどこにでもあるスーパーであった。
途中、長大な橋を通過したが、名前を聞き漏らしてしまった。
後で日本のガイドブックを調べて見ても、この周辺の情報はさっぱり記載されていない。
そもそも今回私共夫婦が参加したコースは、よほどマイナーなコースだと見えて、さっぱり情報がない。
日本のガイドブックというのは、日本人が行くところだけは情報過多になっているが、それに反しマイナーなコースの情報は極端に不足している。
その多すぎる情報の大部分が、買い物の店であったり、レストランであったりして、私にとっては全く価値のない情報ばかりである。
いくら有名なブランド品でも、私にとっては全く価値がない代物であるが、こういうものを極度に欲しがる人々も世の中にはいるわけで、それはそれで構わないが、ただ少し考えなければならないのは、日本の若者がこういうものを欲しがるというのは、いささか異常な思考だといわなければならない。
こういうブランド品というのは、親子代代伝わる品物であって、多少金があるからといって、若者が持ち歩く代物ではないはずである。
そこのところを日本の若者は履き違えている。
金さえあれば何を持っても良い、というのは世間知らずの発想であり、それにはその若者の親の世代の教育が間違っていたわけで、日本では親の教育から既に世間の、世界の常識から外れているわけである。
ブランド品というのは、そういう値打ちのわかる者だけが持つもので、その事の意味も、伝統もわからない若造が、ただ金があるからという理由だけで持ち歩く代物ではない筈である。
ただし、売る方も、金さえ払ってもらえば誰に売ろうが関係ない、という昔の誇りを失ってしまった、ということは言える。
昔、真偽の程は定かでないが、ロールス・ロイスはプレスリーやビートルズには車を売らなかった、という話があるが、それはこういう成り上がり者には買ってもらわなくても良い、という売る側の誇りでもあったわけである。
今日では売る側もそういう誇りを捨て、ただただ金を払う者には、日本の若造だろうと、ガングロの小娘だろうと、誇り高い商品を売っているわけである。
その事は、かってのブランド品そのものが、そのブランドの評価を捨て去って、普通の商品に成り下がってしまったわけであるが、無知な日本の若者は、かってのブランドのイメージに固執しているだけで、本当の意味の価値というものを知らずに身に着けているわけである。
そういう店の紹介ばかりが情報として出まわってしまって、本当に知りたいという情報は全くの皆無である。
これが日本の旅行書の傾向であるが、実に情けない状況である。

3月18日 ロサンジェルスから名古屋

翌日は集合が11時でしたので朝のうちは非常にのんびり出来た。
それでもホテル・ニュー・オータニの周囲は非常に治安の悪い所だという事でホテルからあまり遠くに離れる事は不安であった。
それで家内と二人で、その周辺を散策していたが、早朝でもあり、あまり人通りはなかった。
ホテルには大勢人がいたが、これらはいずれも我々と同じ旅行者で、7時なり8時という時間になると大挙していなくなってしまう。
今回の私達の旅行もガイド付きのツアーであったが、このガイド付きツアーというのは、ある意味からすると、非常に情けない行為である。
異国を旅行するのだからガイドがいても当然、という発想も頭から否定する訳にはいかないだろうが、如何にも羊飼いにつれられたか弱い羊という印象が抜けきれず、傍目には貧乏臭く写る。
それと、日本人だけの集団というのは、どういうわけか特に目に付く。
そして、すれ違う度に何か同胞の恥じを感じ、言葉では言い表せない屈辱感が付きまとう。
集団で一塊になって、その中では大声でわめき散らしている光景から、そういう印象が特に強い。
ホテルの周辺はそれこそコンクリート・ジャングルで、早朝の町は人通りも少なく、おみやげ屋もまだ開いてはいなかった。
この周辺一画をリトル東京と呼ぶらしいが、日本人というのも実にたくましい人達であった。
ここに住みついて、白人の偏見と戦いながら生きてきた人々と、ただ端に観光でこの地に来ている日本の若者の人々とが同じ民族とは思えない。
この地に住みついた古い日本人というのは、やはり心の中にヤマト魂に誇りを持ったいたに違いない。
というのは、このホテルの裏にはショッピグ・モールがあり、その中心には鬼塚中尉のモニュメントが作られていた。
これはアポロ宇宙計画において打ち上げられるべきであったアポロ13号が、打ち上げの後、機器の故障で爆発をしてしまった。
その事故は全世界がテレビで見守っているさなか、その目の前で展開され、全世界がその光景を目の当たりにした事件であった。
搭乗員は当然全員帰らぬ人となったが、その中に日系2世の鬼塚という人がいた。
このモニュメントは、その人を称え、日系人が作ったものというガイドの説明であった。
こういう志半ばで倒れた同朋の無念さを思い、自分達と同じ日系人として、自分達と同じような苦労を経た仲間を称える気持ちというのは、何も日本人だけの特質ではなく、そういう気持ちというのは人間として当然の潜在意識であるはずである。
それがこのショッピング・モールの中に建てられていたわけであるが、我が家内を始めとして、日本人の若い世代は、こういうものにいささかも敬意を払おうとしない。
事件そのものに対して無知であり、この地で我々の先輩諸氏が如何に苦労して生きてきたのか、という経緯を知ろうともせず、ただただスーベニアを買いあさる事に夢中になっているだけである。
このホテルの通りを挟んだ反対側に、日米文化センターという立派なビルがあった。
アメリカの都市の中でビルの大きさ競っても意味は無いが、これも日系移民がその成功の暁に、寄付をし合って作り上げた立派なカルチャーセンターであった。
最初のガイド・ケン氏が憤慨していたが、このアメリカという土地は移民の国というだけあって、その内に世界中が中国人に汚染されてしまうのではないか、と半分冗談ともいう雰囲気で語っていたが、そういうしたたかな民族と体一つで張り合って生き抜いてきたのが、何世代か前の日系移民であったに違いない。
移民という言葉を日本の国内で聞くと、誰もが総て成功しているように聞こえるが、実情はそう生易しいものではなかろうと思う。
例によって、私は朝が早いので早朝にホテルの周囲を歩き回ったが、家内はこういう思索に更けるよりもウインドウ・ショッピングに目がなく、チェック・アウトまでの時間つぶしにこの周囲を1時間以上散策した。
商店も10時頃にならないと店を開けなかったが、このモールの中にどういうわけか紀伊国屋という日本の本屋があった。
私はそこで地図を買い求めた。
アメリカ全土を記した壁に張る大きなものであった。
それをパテイオの真ん中で広げて、今回旅行してきたエリアを見ていたら、黒人のガードマンが怪訝そうに見ていた。
私も悪い事をしている訳ではなく、ただ地図を広げて見ているだけであるので何も言われなかったが、遠から如何にも不審そうな態度で見ていた。
今、これを書くにあたり、部屋の中にその地図を広げてゆっくりと眺めて見たら、今回私達が旅行してきたエリアというのは、アメリカ本土のほんの一部で、しかも西側の海岸線にそったほんの一部の地域にすぎなかった。
ロサンジェルスを中心として、ほんの少し東に入っただけで、後は海岸線に沿って南に下っただけである。
アメリカは実に広い。
3日間バスに揺られて旅をしてもたったこれだけしか行けなかったわけである。
チェック・アウトの時間が迫ってきたのでロビーに下りて行ったらトランス・オービットの佐藤氏が既に来ていた。
彼の車でロサンジェルス空港に送ってもらう途中、街中で映画撮影の光景に出くわした。
彼のガイドによると、この町ではしょっちゅうこういう光景が見られるそうである。
1昨日、彼が半日ロスの町を案内してくれたが、彼は街中をガイドしながら映画のロケに使われた場所を教えてくれるものの車中からでは一向に感激が薄い。
それに私が映画好きといっても、最近の映画にはとんと疎いので、あまり参考にはならなかった。
空港についたら最高に混んでいた。
ここに着くまでの間に、空港における注意事項を懇々と聞かされたが、あまりの混雑ぶりで、彼は私共を入り口で下ろして車を駐車場に置きに行った。
その間に自分達で出きる事はしよう、と言うわけで搭乗手続きをしてみたら、これがまことに幸運な事に、飛行機会社の都合でビジネス・クラスにしてくれといわた。
その時、丁度、佐藤氏の代わりのスタッフが現れたが、彼も共に喜んでくれた。駐車場が混んでいたので佐藤氏が無線で代替の人を派遣してくれたようであるが、搭乗手続きさえしてしまえば、後はさほど人の手を借りなくても出来るし、ガイドの責任範囲もここまでだったので、ここで現地係員との接触も終わってしまった。
後は飛行機に揺られて帰るのみである。
家内はこのビジネス・クラスという処置に大感激をしていた。
自分の金では決して座れるものではない、と大喜びであったが、私はさほどの感激はなかった。
ただ前席の間隔が広いので、ゆったりしているのは確かであるが、それだけの違いで料金が倍になるというほうが納得できない。
家内や娘に言わせるとサービスが違う、といっていたが飛行機会社のサービスの第一番は、やはり安全に目的地に客を運ぶ事で、機内食の良し悪しで料金に差が出るというシステムの方がおかしいように思う。
が、世の中というのは私の思う通りには中々ならないのが当たり前である。
出発にあたり機長の説明によると、このJAL027はロサンジェルスから北上して、サンフランシスコ、シアトル、アンカレッジを経由してアリュウシャン列島に沿って南下するというもので、大韓航空が何年か前にソビエットの空軍に撃墜されたのと同じコースである。
このコースで、飛行機の計器・自動航法装置の計器のセット・アップをほんの少し目盛りを間違えると、実際上は50マイル以上ロシア寄りを通る事になり、領空侵犯になりかねないコースである。
このコースはアメリカから日本に飛んでくる飛行機の大部分がこのコースを利用しているわけで、何十年も前の事故を心配しても意味のないことではあるが事実を知っている者にとっては、いささかの不安は拭い去れない。
ビジネス・クラスといっても窓際の席ではなかったので、外の景色を楽しむことは全く出来なかった。
左の窓側には2席、中央が3席、右側が又2席で、私達は左の通路の脇で、中央の3席の内の左側2席であった。
家内を中央に座らせたら案の定その向こう側にはアメリカ娘が座った。
最初の内は両方がおとなしくしていたが、その内に家内がアメリカ娘に話し掛けて、ここでまたまた日米交流の輪が広がった。
こういう時の家内のおしゃべりというのは非常に便利で、家内のブロークンの英語でも何とか意思を通じ合えるから不思議である。
彼女の得た情報によると、このアメリカ娘は野球の選手で、トヨタに招待されて1ヶ月間指導に行くという事であるが、この場合の野球というのは女子のチームの事であろうか。
あれやこれやの我々夫婦のアメリカ珍道中も、いよいよ最後となってきたが、飛行機は20分遅れで無事名古屋空港に着陸した。
名古屋空港が混んでいるとはいっても、ロサンジェルス空港ほどの混み様ではなく、税関を通りぬけて家内が娘に電話したら、既に家を出て迎えに向かっていると言う事で、外で落ち合うのが大変だなあと心配したが、案外スムースにコンタクトできてやれやれであった。

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