熟年夫婦・大西部を行く

2000年〔平成12年〕3月12日から19日

長谷川 峯生とその妻・瞳美

旅行について考えたこと

私が三菱に入社したのは昭和44年・1969年の7月の事で、それ以来30年が経過したことになるが、自分でも実に不思議な気がしてならない。
三菱に入社するまでの私は実に我侭で、自分本意の考えに固執するあまり、職場を3度も変えていたのが、三菱に入社してからというもの、30年も同じ職場に奉職したということは我ながらよく続いたものだと思う。
これも家内・妻というものの存在があったからに違いない。
私が三菱に入社するまでの間というものは、自分の好き勝手な事をし尽くしていたので、入社と同時に家内と結婚して、すぐ子供にも恵まれ、自分の家庭というものを持ってみると、今までのように自由奔放、気ままな生活というのは諦めなければということを自ら悟った。
外国人が日本のサラリーマンを気の毒に思っているらしいが、それは価値観の相違による生き方・考え方によるものと思う。
家庭を持ったならば家族第一主義に徹し、そのためには会社というものと運命共同体となることが家庭生活を平穏に送る元になっているわけで、私の若かりし頃の失敗のように、その場限りの思いつきで職場を変えるようでは安定した家庭生活というものが最初から成り立たなくなる。
日本人以外の人々にとっては、自分を押し殺してまで忍従に耐える事を嫌う風潮があるが、その為に家庭不和や、離婚という現実が覆い被さってくるわけで、それを正面から受け入れる事は我々の人生そのものである。
人の生き方として、そういう選択も決して悪くは無い。
しかし、私はそういう生き方を選択する勇気を持っていなかった。
その分、若い時に青春を謳歌し、結婚後はある意味で、家庭の為に、妻子の為に、自分の欲望を押さえるという生き方を選択したわけである。
そしてその選択を30年間もよく我慢して続けたというところに、自分でも驚いているわけである。
そういう努力を会社側が褒賞するという意味合いで、昨年、永年勤続の旅行の通知をもらった。
従来、三菱では永年勤続者は団体旅行が慣例として行われており、昔の徒弟制度、乃至は家族主義的な日本固有の会社システムの中で、会社に功労のあった社員を旅行に招待する制度が確立されており、それは勤労課の社員が総て御ぜん立てをした上での団体旅行であった。
近年はそれが旅行のクーポン券にかわり、各自好きな場所に好きなとき行けるというシステムに変更された。
額面33万円のクーポンで、夫婦二人でそれだけの料金の旅行を各自が企画し,自分たちで行ってきなさいというものに変わったわけであるが,これにも恐らく賛否両論があったに違いない。
私は会社の偉い様が同行する旅行よりも、クーポン券をもらって好きなところに好きなときに行ける方がより幸せである。
そういう状況下で、会社からその通知をもらってからというもの、家内と二人で行き先をいろいろ話合っていたが、素直には意見が一致しなかった。
私としてはトワイライト・エキスプレスとカシオペアを利用して、北海道を回りたかったが、家内のほうは「北海道ならば何時でも行ける、この際思いきって外国にすべきだ」ということを譲らなかった。
永年勤続ということは自分一人の功績ではない。
やはり内助の功というものがあったが故の結果であって、会社に毎日出勤したのは亭主の方であるが、それを影で継続せしめたのはやはり家内の目に見えない協力があったからこそである。
その事を考えると、そう自分の方の欲求ばかりを押し付けるわけにもいかないと思い、妥協せざを得なかった。
それで妥協の結果、アメリカ西海岸を珍道中する嵌めになった。

3月12日 名古屋からラスベガス

いよいよこの日アメリカに旅立つことになったが、出発は夕刻にもかかわらず1日中どうにも落ち着かなかった。
娘が名古屋空港まで早めに送ってくれたが、空港は異常に混んでいた。
我々は国際線の出発ロビーで車から降りてすぐに娘を家に返した。
搭乗手続きはまだ日本の中だから何の苦もなく終わり、機上の人となったが、飛行機はMD−11でこの飛行機はエンジンが後ろの方にあるものだから、後ろの席にもかかわらず窓の外はよく見れた。
定刻に出発したが名古屋の夜景というのも実に綺麗だ。
まさに宝石箱を引っ繰り返したような光の輝きであった。
この光の海が遠くになってしまったら後は寝るほかない。
最初の内はシートの操作をいろいろ試していたが、その内に機内食が出、それを食べたら後は寝るほかする事がない。
それでその通りにして、夢うつつのまま眠ったのか眠れなかたのか自分でもよくわからないうちに窓の外が明るくなってきた。
窓のシェードを少し開けてみると外はさんさんと太陽の光が降り注いでいた。まだ海の上を飛んでいた。
しばらくすると陸地に入ってきたが、海岸線の波打ち際には白い波がたっており、山の方は日本の山とは随分趣を異にしていた。
日本の山は上から見れば樹木に覆われているがそれがない。
その内に機が高度を下げてくると蜘蛛の糸のように地上の道路が目に入ってきた。
とうとうアメリカにまで来てしまったのかという実感が沸いてきた。
機がロサンジェルス空港のラン・ウエイに入ってくると、有るはあるは、ありとあらゆる色彩の飛行機が見えた。
そして機が所定の位置に止まり、ドアが開き、前の方から人がおりだした。
建物の中に入り、入国審査も無事通過してトランクを受け取り、税関も無事通過してアライバル・ホールに出て見ると実に多種多様な人の流れに驚いた。
日本からの観光客を迎える為に、それぞれプラカードを掲げて人待ち顔の旅行会社の人達も大勢いた。
名鉄観光も当然そういうふうに出迎えてくれものとばかり思っていたが、我々の前には一向にそれらしき人が現れなかった。
家内はすぐに他の旅行会社の人に聞いてまわったが一向に埒があかなかった。
1時間近くもそうして待っていたが一向に出迎えが来る様子がないので、家内は電話を掛けようとした。
しかし、この電話がかなり難しく、さっぱりつながらなかった。
こちらの電話というのは使い慣れないとさっぱり用を成さない。
電話の掛け方まで他の旅行社の係員に教えてもらったが、それでもつうじなかった。
途方に暮れかかった時、私が構内にインフォメーションがあるのを見つけ、そこで男性の係員に電話を掛けてもらった所、これが幸運にも通じ、名鉄観光の現地係員が飛んできてくれた。
及部という名前で、出迎えが無かった事について非常に恐縮していたが、彼のお蔭で我々も無事乗換えが出来た。
最悪の場合我々だけでラスベガスまで行くつもりをしていたが、やはり助っ人が現れれば心強い。
ロスで乗り換えた飛行機はアメリカ・ウエストという航空会社で、この飛行機はわずか1時間の飛行であったが昼間の飛行であったので、窓の外の景観を十分に見ることが出来た。
空から見るとアメリカは砂漠まるけである。
丁度、月のクレーターを見るようなものであった。
ラスベガスには5時頃ついたが、この空港には我々を出迎えてくれる人がいて、すぐにホテルまで車で送ってくれ、ホテルの前で再び違う女性の係員とバトンタッチした。
今度はこの女性の係員がホテル内を案内したり、注意事項を念入りに説明してくれたが、後になってみるとこの女性がどうもトラブルの原因らしかった。
このホテル、ルクソール・ホテルというのは馬鹿でかいホテルで、1階は総てカジノになっていた。
女性の係員が一通りは案内してくれたがたった1度ぐらい聞いたところで覚えきれるものではなかった。
問題は、ホテルの部屋に収まったとき、食事代を現金で返してきた事である。我々は旅行中の食事代を総て払い込んできているので、食事券をくれるのならば話がわかるが、現金を返すということはどうにも腑に落ちなかった。
しかし先方のいう事を鵜呑みにしてサインしてしまったので、後々その事でトラブルが付きまとってしまった。
ルクソール・ホテルというのは実に馬鹿でかいホテルで、1階にはスロットルマシンがあふれんばかりにおいてあった。
そのほかにもカードをするテーブルがありアメリカの紳士淑女がそれぞれにギャンブルに興じていた。
同じギャンブルでも日本のパチンコや競輪・競馬とはおおいに趣が違っており、血眼になって熱中するというふうにはみれなかった。
あくまでも遊びで、気楽に金を投じて、必死になって「儲けなければ」という雰囲気ではない。
私はギャンブルというものを生理的に受けつかないたちなので、この夜は早々に床についてしまった。
アメリカのホテルのベッドというものも馬鹿でかい代物である。
日本でいうダブル・ベッドが二つもいれてあった。
大の字になって寝てもまだおつりが来るくらいである。

3月13日 ラスベガスからレイク・パウエル

翌日はいよいよ砂漠行きのため、「7時にロビーに集合」といわれていたので、時計を念入りに調整して満を期していた。
そして目覚ましを間違いなくセットし、決して遅刻しないように準備万端整えて休んだ所、事態はとんでもない事になっていた。br> ホテルの部屋の時計が1時間進んでいたのだ。
我々は5時に起き、準備おさおさ怠りなく整え、ロビーに行った所、ロビーで「まだ6時だ!」といわれた時には、これから先どうなる事かと大いに失望した。
5時に起きて身支度をし、食事をしようと1階のカジノに行ったところ、まだカジノは開いており、1晩中開いているとは聞いていたが、流石にプレイしている人はくたびれ果てており、生気がなかった。
それでも食堂もスナックも開いているわけで、我々は5時のつもりであるが、実際は4時という時間に食事が可能なわけである。
しかし、ここでの朝食は当てが外れ、注文したものがまともに来なかった。
けれども腹ごしらえだけはしなければならず、少々トラブルがあったとしても食事だけは済ませなければならなかった。
この時点でまだ1時間早い事に気が付いておらず、早々と下に降りて行ったが、一向に呼びに来る気配がないので、家内が再び電話に挑戦してみたが、案の定通じなかった。
それで1時間早い事がわかったとしても、どうする事も出来ず、ただただ時間の来るのを待つほかなかった。
約束は7時であったが、正規の7時になっても誰も現れず、これは先行き悪い事になりそうだと思って心配していたら7時半頃になってやっとガイドが現れた。
ついついガイドに文句を言ったら「私は7時45分と聞いてきた」という事であった。
これからこのガイドに3日間の命を預けるとなれば、草々文句を言うわけにもいかず、切りの良い所でこちらも機嫌を直し、2泊3日の旅に出ることとなった。
同行者は我々と同じホテルに投宿していた若い女性の二人連れと、途中のホテルでもう1組年寄り夫婦をピックアップして、ラスベガスを後にする事となった。
車はフォードのバンで、V8、5000ccクラスのもので、少々古びているが馬力はありそうだ。
どてっ腹にはモニュメント・バレーの絵が書いてあって、ビッグ5ツアーと大きく書き込まれていた。
ガイド兼ドライバーはケンと自己紹介していたが、フルネームは最後まで不明のままで、最後までケンで通してしまった。
ラスベガスを通りを抜けて、インターステイトに乗ると、丁度朝の8時半頃の時間帯で、ラッシュアワーの真っ盛りであった。
片側何車線もある高速道路で、対向車には種々雑多の車があり、中でも大型トレイラーには目を見張るものがある。
ケンはあれのことを「エイテイン・ウイール」と教えてくれたが、18輪、18フォイールを格好よくアメリカ流に発音すればウイールとなるわけである。
これが怒涛のように走っている様は、以前見た「コンボイ」という映画とそっくりである。
「コンボイ」というのは船団の意味であるが、10年ほど前、アメリカのトラック野郎を主題とした映画が作られ、その時に登場していたのがこの18ウイールであった。
ラスベガスを後にして坂を登っている時、ケンが後ろを指して「ラスベガスの空気はあんなに濁っている」といった。
確かにラスベガスの町はスモッグのようなものに覆われ、霧がかかったように薄ぼんやりと見えたが、その分今走っているところが自然に寄り近いわけで、これから先は自然が一杯なはずである。
インターステイト15号を北上する事1時間あまりするともう砂漠で、両側にはほとんど何もない状態である。
何もないとはいうものの、人がこの地で生きている証拠として、舗装された道と、それに沿って立てられている電信棒は、人間の生存を示している。
不思議な事に、この道路に沿った電信棒というのが日本でもあまり見られなくなった木の電信棒で、文化文明の最先端の国で、木の電信棒というのは何とも納得の行かないことだ。
この頃になると道路の左側に鉄道の線路が現れてきたが,これはユニオン・パシフィックのものという事で、動いている列車というのは見ることが出来なかった。
しかし線路上に置かれた貨車を見るとやはりコンテナが2段に積まれていた。アメリカの鉄道が斜陽になってひさしいが、やはりアメリカ人の発想というのは、合理主義に貫かれている。
コンテナを2段に積めば能率も2倍になるわけで,こういうことが出来るのも企業というか、社会というか、産業というか、そういうものに余力があるからに違いない。
日本ならば真っ先にトンネルの作りからこういう事は成り立たない。
トレーラーにしても、貨車のコンテナの2段積みにしても、やはりその国の実情というものを抜きには語れないわけで、アメリカにはアメリカの合理主義というものが一番ぴったりと当てはまるわけである。
ガイドのケンはアメリカ社会の貧富の差という事を非常に強調していたが、貧富の差は人種差別とも深い関わりがあるわけで、その後の行程の中で接した日本人ガイドに聞いてみたところ、やはりこの国の人種差別というものは歴然とあるという事を言っていた。
道のあちらこちらに散見する住宅は、ケンの言うところによると、皆、貧乏人のトレーラー・ハウスであるといっていた。
我々の概念からすればトレーラー・ハウスを持てるなんて金持ちではないかと思うがそうではないらしい。
そういうものが視界に入らなくなったと思ったら、本当の砂漠に差し掛かったわけで、と、ある町で小休止をしたところ、これが日本にゆかりのある町で、この地のインデイアンはモンゴリアンの特徴を顕著に持っていたので、日本をスパイする目的で沖縄の戦場に送られたとのことであった。
ここにはインデイアンの家が復元されていたが、それはエスキモーの氷の家とそっくりである。

ただ材質が氷と赤土の違いだけで、外見はエスキモーの家とほとんど同じように見えた。
他にも木で出来た粗末な小屋のような家があったが、この木をどこから持ってきたのか不思議でならない。
見渡す限り建物にするような大きな木はその周辺にはないので、どこから運んできたのか興味あるところだ。
この国道から分かれてローカルな道に入ったら、だんだんと道の両側に断崖絶壁が迫ってきた。
しかもその絶壁には横に筋が通っており、この辺りの土地が何世紀も前には海底にあった、ということが顕著に表れてきた。
そうこうするうちに車の右側にはきれいな川が現れ、こればバージン川といい、これから先のザイオン国立公園から流れてきているという事であった。

ザイオン国立公園というのは、断崖絶壁の底にあたる場所にある公園で、ガイド氏によると、ここはグランド・キャニオンを下から眺めるようなものだ、といっていた。
後でわかったことであるが、グランド・キャニオンは確かに上から下を眺めるが、ここでは下から上を眺めるわけである。
このローカルな道は9号線で、途中トンネルをくぐってグランド・キャニオンに抜ける道であった。
しかし、一旦は谷底の一番奥にまで進んで、そこのロッジで昼食となった。
この昼食もいわゆるアメリカ人に普遍的な昼食で、ハンバーガーであった。
そしてこの谷の突き当たりの場所はきれいなキャンプ地となっており、人々が三々五々散歩をしながらくつろいでいた。
バージン・リバーもこの辺りではほんのせせらぎとなっており、その周辺には遊歩道が出来ていた。
木々も多くとても砂漠の真ん中とは思われない。
ここで昼食を済ませ、再び9号線に戻ったわけであるが、この分岐点から先の9号線というのは、この断崖絶壁を攀じ登るつづら折れの道であった。
途中トンネルもあったが、トンネルでは警官が立ち、大きな車が来ると対向車をストップさせていた。
トンネルが小さくて大きな車はすれ違いが出来ないとのことであった。
このつづら折れの坂を攀じ登ったら、後は再び広大な大地を驀進するのみで、行けども行けども砂漠で、信号もなければ交差点もない道である。
砂漠といっても絵で見るエジプトの砂漠や、アラビアのローレンスに出てくる砂漠とは少々趣が違う。
草は所々に茂っているが、如何せん、土そのものが赤土で、それが又我々が普通日本で見る赤土とも違う。
きっと植物に適した栄養分が微塵も含まない死せる土に違いない。
この台地の割れ目がいわゆるキャニオンと呼ばれる渓谷なわけであるが、この渓谷と台地の関係というのは、恐らく地球のプレート・テクニックスと関係があるのではなかろうか。
地球上の大陸は大きなプレートを形成しており、それが移動しているため、大陸というのは常に変動しているという説であるが、そのプレートが地上に露出したのがこの辺りの地形ではなかろうかと思う。
そうとでも思わなければ、この台地と渓谷の関係は成り立たないように思う。台地の上は砂漠で、台地の割れ目がキャニオンになるわけで、下の方は緑滴る豊かな土地というのは、土地の滋養分が全部下に下がってきてしまうからだと思う。
台地の上の砂漠というのは、小さなブッシュはあるが、他の植物は一切育たないという感じである。
この砂漠を時速100km近いスピードで走りに走って、下り坂に差し掛かったと思ったらそこがレイク・パウエルであった。
パウエルというのは人の名前で、勇猛果敢な軍人であったらしいが、この砂漠の治山治水に貢献した人物とのことであった。
この湖の水面に近いところに今夜の宿舎があった。
きれいな宿舎で、ラスベガスのような過度な華やかさというものはないが、こじんまりとした落ち着いた宿舎であった。
その入り口にはどういうわけか桜が2本あり、それが満開であった。
まさしく「湖畔の宿」という歌の題名そっくりである。

3月14日 レイク・パウエルからモニュメントバレーそして グランド・キャ二オン

レイク・パウエルの朝というのは素晴らしい朝であった。
人のいない湖畔の朝というのは、いかにもすがすがしく空気まで何かしら美味しいような気がした。
このワーウイープ・ロッジの玄関先に咲いていた桜は今が満開で、こんな所で桜に出会えるなどとは不思議でならない。
7時からの朝食は例のバイキング・スタイルで、何でも自分の好きなものを好きなだけ取れる式のものであった。
食事の件に関してはどうも連絡が不充分だったようで、家内は出発に先立ち総ての食事代を払い込んでいたらしいが、それが現地には伝わっておらず、少々行き違いがあった。
昨日我々をここまで運んでくれたガイドのケンが朝早くから現れたので、どうしたのかと思ったら、昨夜泊まったところは食事がついておらず、我々と一緒に朝食を取るとのことであった。
ガイドが傍にいてくれるということは非常に心強い気がする。
昨日の行程は約500kmほどを走ったことになるわけで、日本ならば東京・大阪間を走ったようなものである。
本日の行程もそのくらいあるようだ。
食事の後、8時頃宿を出発したが、すぐにペイジと云う所で散策となった。
ここはグランド・キャニオンの上流で、同じコロラド川の川上にあたる場所であるが、グレン・キャニオンという渓谷で、ここにも大きなダムがあって、それに付随して発電所があった。
フーバー・ダムほど大きくはなかったが、それでも観光用の施設になっており、資料も展示してあった。
日本で水力発電所というと深山幽谷の山の奥深い所にあるのが普通で、両岸は鬱蒼たる木々に覆われ、ダムに通じる道はがけっぷちに沿った一本道という印象が強いが、ここのは大平原の中にあるダムで、四方八方が大きく開けた場所に存在するのでなんとなく我々のイメージする水力発電所とは違和感がある。
けれども水力発電所であるからには、水位の落差がない事には始まらないわけで、その落差というのが十分に確保されているところが不思議である。
つまり日本では平らな土地に山が競り上がったという感じがするが、こちらでは平らな土地が侵食されて谷ができたという感じである。
その侵食された谷をせき止めても、人の立っている平らな方は悠然とそのままの威容を保っているが、日本のほうはダムが巨大な壁としてそそり立ってしまうという形になる。
水面とダムの下では相当な落差が出来ているにもかかわらず、人のいる場所が広大な平らな大地であるので圧迫感というものが全くない。
広い水面をたたえた湖はコンクリートの壁一つ隔てる事によって、その反対側は非常に深い谷底になっている。
このビジター・センターを見学している間に、家内はもう係員と話し込んでいた。
インフォメイションを担当するその係員はカウンターの中にいたが、そのカウンターはアメリカ人向けに背の高いものがたら、チビデブの彼女はそのカウンターにアゴを乗せて話し込んでいた。
女のお喋り好きというのは、言語の壁というものを苦もなく乗り越えて意思の疎通を可能にする不思議なもののようだ。
このビジター・センターの脇に大きな橋がかかっており、道路を渡った反対側に行くと、その谷底が見えるという事であったが、そこにパトカーが止まっており、警官が一人仁王立ちで張り番をしているのでそこには近づけなかった。
ここを見学しているほんの少しの間に警官が大勢集まってきて、建物の上に登ったりして警戒をしていたが、どうもどこかの重要人物・アンバサーダーが来るらしい。
それで周辺地域の警官に召集がかかったのではないか、とガイドのケン氏が推測していた。
この辺りはアメリカの田舎という感じで、道も片側1車線であったが、信号機のないのはありがたく、その単調さというのも実にアメリカ的である。
前方に見える道路は上下にうねってはいるものの、ほとんど一直線で、こういう道路では昼間でも車のヘッドライトを点けて走る事は非常に合理的である。
昼間でもヘッドライトを点けて走れば、対向車のドライバーに自分の存在をアピールする効果があり、運転の単調さを少しは緩和する効果があるように思う。
ガイド氏の話によると、カナダではもう車のエンジンを掛けると同時にヘッドライトを点すような措置が講じられているとの事であった。
アメリカではまだそこまで徹底はされておらず、点している車とそうでない車の割合は半々程度であった。
まったく信号機のない道を1時間も2時間も100km近い速度で走っているが、窓の外の光景というのは何時まで経っても変化がなく、ついつい居眠りしてしまった。
とにかく何もないという言葉がぴったりで、遠くには名も知らぬ山脈が見えるには見えるが、そこに至るまでの視界の中には家一軒、煙突一本見当たらない。
所々に草の塊があるだけで、まさしく荒野そのものである。
ガイド氏の説明によると、この辺りの土地は地球誕生以来3度地殻変動で海中になったり隆起したりを繰り返したという事であるが、それもうなずける。
今走っているところは平らな台地であるが、昨日走ったザイオンは目の前に横に線の走った壁に沿って走ったわけで、その壁の横線というのは海底にあったときに堆積した地層が露出していたわけである。
壁と壁の隙間を走ったようなものであるが、この日のドライブは、壁の上の台地を走っているわけで、はるか地平線まで何にも視界をさえぎるものがない。車内でうとうとしていると昼近くなって周りの景観に変化が出てきた。
地上に大きな岩の塊があちらこちらに散見出来るようになってきた。
いよいよモニュメント・バレーに近くなってきた。

この岩の塊をビュートと呼称するらしいが、それぞれのビュートには名前が付けられており、見る角度によってその名前の物に見えるという事である。
一つ一つのビュートは相当に大きなものに違いないが、何しろ遠くから眺めるだけなので、その大きさというのは実感できない。
しかし、赤土の台地にこれがある光景というのは、自然に西部劇の光景を髣髴させる。
西部劇といえば当然、インデイアンを連想するのが普通で、ここに来るまでの間にガイド氏からこの先住アメリカ・インデイアンに関するレクチャーを受けた。
我々が昔見た西部劇にはスー族とかアパッチ族というインデイアンが登場していたが、これらの種族は遊牧民で、広いアメリカ大陸を移動しながら生きていたらしい。
ところがこのモニュメント・バレーの近くに生きているインデイアンというのは農耕民族で、穀物を栽培して生きている人々ということであり、インデイアンの中にも攻撃性が強く排他的なものと、そうではない温和な性質の種族があるという事であった。
この周辺はナバホ族の土地で、ナバホ・ネーションになっており、彼らの自治が認められた土地という事であった。
西部劇というと我々はともすると拳銃の撃ち合いの方に関心が行ってしまうが、還暦近くなって改めて大昔の西部劇というものをビデオで見てみると、案外民主主義の縮図をそれとなく表現しているものがあるのには大いに驚かされる。
例えばゲーリー・クーパー主演の「真昼の決闘」、さらにはジョン・ウエン、リー・マービン、ジェームス・スチュアート主演の「リバテイーバランスを撃った男」、その他2流3流の西部劇でも結構民主主義というものを正面から見据えたものがある。
赤土の中に聳え立つビュートを見ていると、ついつい西部劇の中に引き込まれそうな気持ちになってしまう。

このビュートが見え出した地点で、ガイドが車を止め、写真を撮ることをうながし、カメラのシャッターを押してくれたが、その道路はまったく交通量が少なく、道路の真ん中でポーズを取る事を薦めてくれた。
で、それに従い2、3枚シャターを押した後、さらに進むとインデイアンのお土産物を売る店が集中した交差点で右折し、その行き止まりがモニュメント・バレーのビジター・センターになっていた。
申し訳程度のお土産と、展望台を兼ねたレスト・ハウスになっていたが、ここで今まで乗ってきた車を乗り換えてバレーの砂漠の中を見学する事になったが、その乗りかえるべき車というのがとてつもないポンコツ車で、これに客を乗せるのかといささか危惧したが、砂漠の起伏をゆっくりゆっくり移動するだけなので、これでも用は足りたわけである。
ガイド氏の云う事には「皆さんは管理社会で生きているので、一生の内に1度くらいはワイルドな環境に身を置いてみて下さい」と言っていたが、確かにワイルドそのものである。
そのポンコツ遊覧車はトラックの荷台に勝手に椅子を取りつけて、ドライバーのみキャビンで運転出来るが、客の方は吹きさらしの荷台で埃まるけになるというものであった。
日本では到底車検が通るわけがない。
とは言うものの、ここでそんなことを文句云うわけにも行かず、その車に乗り変えて谷底に向かう事になったが、車は非常にゆっくりと移動し、風もなかったので、頭から埃を被るということはなかった。
この土地の色は真っ赤で、しかも粒子が非常に細かいという事でった。
坂を降りる途中に羊がいたり、コヨーテの巣があったりして、写真を撮りたいと思ったが左右に大きく揺れ動く車上ではカメラをセットする暇がなかった。
家に帰って写真を現像に出したところ、家内はそのコヨーテを上手に写真に収めていた。
私は帰りに撮ろうと思ったが、その時には動物の方がいなくなってしまい、結局撮影には失敗してしまった。
谷底に下りて行くと四方八方ビュートがそそり立っており、ナバホのガイド兼ドライバーが説明してくれるがさっぱり理解できない。
キャビンの中でマイクを使って喋っているが、マイクのスイッチが入っておらず、後部の荷台にいる我々には声が届かなかった。
その中でもジョン・フォード監督が西部劇の撮影に使用したというポイントはいかにも西部そのものであった。
ビュートとビュートの間から今にもインデイアンが襲い掛かり、第7騎兵隊がラッパを高だかと鳴らしながら進軍してくるような感じがした。
で、この荒野のっ真っ只中で昼のランチとなったが,このランチは簡素なハンバーグでとても美味とは云いきれないが、ワイルドという点ではこれほどワイルドな昼食もない。
察する所、このエリアではめいめいのガイドが、それぞれに自分の客を案内するアリアが決まっているに違いない。
というのは、この場所に簡易トイレが一つぽつんと置かれていたので、私が小用でそれを使って見たところ、これが昔懐かしいポットン・トイレで、とても女性の使用に耐える代物ではなかった。
その帰りには、どういう経緯か知らないうちに家内はナバホのガイドと並んで運転席に入り込んでしまい、ガイド気分でマイクを握って楽しんでいた。
そして彼女がいろいろとドライバーに注文をつけたらしく、帰りの時間をオーバーしてしまい、ケン・ガイドを慌てさせてしまった。
ケン氏にして見れば、彼なりの予定があったわけで、次の行程の時間の関係もあり、彼は首を長くして我々を待っていたようだ。
モニュメント・バレーというのは西部劇に出てくるそのままの光景であった。後は一目散にグランド・キャニオンに向かう事になったが、この道中もいたって単調な道で、私達は車中でうとうとしてしまった。
グランド・キャニオンに近づくに従い、おいおいと木々が多くなってきた。
とは言うものの、日本で云う森林と比べればいささか見劣りがするが、それでも砂漠の中のブッシュとは趣を異にする。
車の中でうとうとしていると、どういう風に着いたのかさっぱりわからないが、後で資料をよく見ると、東のほうから64号線に沿って入り込み、デザート・ビュウというポイントで下ろされ、ここで渓谷の威容にうたれた事になる。
ここには監視塔があって、いかにも観光地という感がし、又実際に観光客も多く来ていた。
この監視塔の作りが石を積み上げた砦のようなものであったので、私はてっきりインデイアンの砦かと思ったが,この地のインデイアンの家の作りを模倣した監視塔の事であった。
ここは国立公園であるので、公園の維持という観点から、人名救助から、山火事の監視まで、やはり監視業務というものが必要であったに違いない。
ケンは一生懸命説明をしてくれたが、それをいちいち記憶に留めきれなかった。そこからの景観というのは「筆舌に尽くしがたし」という言葉通りで、表現の仕様がない。
まさしく断崖絶壁で,その深さたるや1600mにも及ぶという事である。
断崖の壁は赤色に染まり、人はとても近寄りがたい光景を呈していた。
しかし、この谷底でも先住民族は生計をしているとの事で、そこには橋もかかり、宿泊所もあるとの事であるが、それは先住民族のためにあるのではなく、白人の観光客の為に設けられた施設であるとのことであった。
「筆舌に尽くしがたい」光景である以上、ここでは文章で表現しきれない。
写真で見るほかない。
その崖っぷちをウロウロしていたら、どういう訳か日本人の観光客が大勢やってきた。
中でも高校生の一団がいたが、アメリカで見る日本の若者というのは実に情けない。
言葉が通じないというだけではなく、その体格から姿勢に至るまで、まるで精気がない。
この時間になって辺りも薄暗くなりかけたので、ガイド氏が「太陽の沈むのを見よ」といって薦めてくれたが、グランド・キャニオンのサンセット、サンライズというのは言葉では聞いていたが左程の関心はなかった。
日の入り、日の出の美しさというのは、人それぞれに感じ方が違うわけで、全地球規模でどんな場所でもそれなりの美しさというものはあるはずである。
同行6人がそれなりに日の入りを楽しんだ頃、いよいよ本日の宿舎に向かう事になった。
グランド・キャニオンの宿舎はクオリテイー・インと称して、日本で云えばさしずめ民宿という感じである。
私共夫婦にあてがわれた部屋は、部屋の両サイドに入り口があり、真に使い勝手が良かった。
部屋に落ち着いたらすぐにガイドのケン氏がやってきて、食事の件で連絡不行き届きの為、現金の払い戻しをしてくれた。
道路の反対側のドアから外に出るとそこが食堂になっており、ここでもバフェ・スタイルでそれぞれに好き勝手に食べれるのでこの点も良かった。

次に続く