2000年〔平成12年〕3月12日から19日
長谷川 峯生とその妻・瞳美
いよいよこの日アメリカに旅立つことになったが、出発は夕刻にもかかわらず1日中どうにも落ち着かなかった。
娘が名古屋空港まで早めに送ってくれたが、空港は異常に混んでいた。
我々は国際線の出発ロビーで車から降りてすぐに娘を家に返した。
搭乗手続きはまだ日本の中だから何の苦もなく終わり、機上の人となったが、飛行機はMD−11でこの飛行機はエンジンが後ろの方にあるものだから、後ろの席にもかかわらず窓の外はよく見れた。
定刻に出発したが名古屋の夜景というのも実に綺麗だ。
まさに宝石箱を引っ繰り返したような光の輝きであった。
この光の海が遠くになってしまったら後は寝るほかない。
最初の内はシートの操作をいろいろ試していたが、その内に機内食が出、それを食べたら後は寝るほかする事がない。
それでその通りにして、夢うつつのまま眠ったのか眠れなかたのか自分でもよくわからないうちに窓の外が明るくなってきた。
窓のシェードを少し開けてみると外はさんさんと太陽の光が降り注いでいた。まだ海の上を飛んでいた。
しばらくすると陸地に入ってきたが、海岸線の波打ち際には白い波がたっており、山の方は日本の山とは随分趣を異にしていた。
日本の山は上から見れば樹木に覆われているがそれがない。
その内に機が高度を下げてくると蜘蛛の糸のように地上の道路が目に入ってきた。
とうとうアメリカにまで来てしまったのかという実感が沸いてきた。
機がロサンジェルス空港のラン・ウエイに入ってくると、有るはあるは、ありとあらゆる色彩の飛行機が見えた。
そして機が所定の位置に止まり、ドアが開き、前の方から人がおりだした。
建物の中に入り、入国審査も無事通過してトランクを受け取り、税関も無事通過してアライバル・ホールに出て見ると実に多種多様な人の流れに驚いた。
日本からの観光客を迎える為に、それぞれプラカードを掲げて人待ち顔の旅行会社の人達も大勢いた。
名鉄観光も当然そういうふうに出迎えてくれものとばかり思っていたが、我々の前には一向にそれらしき人が現れなかった。
家内はすぐに他の旅行会社の人に聞いてまわったが一向に埒があかなかった。
1時間近くもそうして待っていたが一向に出迎えが来る様子がないので、家内は電話を掛けようとした。
しかし、この電話がかなり難しく、さっぱりつながらなかった。
こちらの電話というのは使い慣れないとさっぱり用を成さない。
電話の掛け方まで他の旅行社の係員に教えてもらったが、それでもつうじなかった。
途方に暮れかかった時、私が構内にインフォメーションがあるのを見つけ、そこで男性の係員に電話を掛けてもらった所、これが幸運にも通じ、名鉄観光の現地係員が飛んできてくれた。
及部という名前で、出迎えが無かった事について非常に恐縮していたが、彼のお蔭で我々も無事乗換えが出来た。
最悪の場合我々だけでラスベガスまで行くつもりをしていたが、やはり助っ人が現れれば心強い。
ロスで乗り換えた飛行機はアメリカ・ウエストという航空会社で、この飛行機はわずか1時間の飛行であったが昼間の飛行であったので、窓の外の景観を十分に見ることが出来た。
空から見るとアメリカは砂漠まるけである。
丁度、月のクレーターを見るようなものであった。
ラスベガスには5時頃ついたが、この空港には我々を出迎えてくれる人がいて、すぐにホテルまで車で送ってくれ、ホテルの前で再び違う女性の係員とバトンタッチした。
今度はこの女性の係員がホテル内を案内したり、注意事項を念入りに説明してくれたが、後になってみるとこの女性がどうもトラブルの原因らしかった。
このホテル、ルクソール・ホテルというのは馬鹿でかいホテルで、1階は総てカジノになっていた。
女性の係員が一通りは案内してくれたがたった1度ぐらい聞いたところで覚えきれるものではなかった。
問題は、ホテルの部屋に収まったとき、食事代を現金で返してきた事である。我々は旅行中の食事代を総て払い込んできているので、食事券をくれるのならば話がわかるが、現金を返すということはどうにも腑に落ちなかった。
しかし先方のいう事を鵜呑みにしてサインしてしまったので、後々その事でトラブルが付きまとってしまった。
ルクソール・ホテルというのは実に馬鹿でかいホテルで、1階にはスロットルマシンがあふれんばかりにおいてあった。
そのほかにもカードをするテーブルがありアメリカの紳士淑女がそれぞれにギャンブルに興じていた。
同じギャンブルでも日本のパチンコや競輪・競馬とはおおいに趣が違っており、血眼になって熱中するというふうにはみれなかった。
あくまでも遊びで、気楽に金を投じて、必死になって「儲けなければ」という雰囲気ではない。
私はギャンブルというものを生理的に受けつかないたちなので、この夜は早々に床についてしまった。
アメリカのホテルのベッドというものも馬鹿でかい代物である。
日本でいうダブル・ベッドが二つもいれてあった。
大の字になって寝てもまだおつりが来るくらいである。
翌日はいよいよ砂漠行きのため、「7時にロビーに集合」といわれていたので、時計を念入りに調整して満を期していた。
そして目覚ましを間違いなくセットし、決して遅刻しないように準備万端整えて休んだ所、事態はとんでもない事になっていた。br>
ホテルの部屋の時計が1時間進んでいたのだ。
我々は5時に起き、準備おさおさ怠りなく整え、ロビーに行った所、ロビーで「まだ6時だ!」といわれた時には、これから先どうなる事かと大いに失望した。
5時に起きて身支度をし、食事をしようと1階のカジノに行ったところ、まだカジノは開いており、1晩中開いているとは聞いていたが、流石にプレイしている人はくたびれ果てており、生気がなかった。
それでも食堂もスナックも開いているわけで、我々は5時のつもりであるが、実際は4時という時間に食事が可能なわけである。
しかし、ここでの朝食は当てが外れ、注文したものがまともに来なかった。
けれども腹ごしらえだけはしなければならず、少々トラブルがあったとしても食事だけは済ませなければならなかった。
この時点でまだ1時間早い事に気が付いておらず、早々と下に降りて行ったが、一向に呼びに来る気配がないので、家内が再び電話に挑戦してみたが、案の定通じなかった。
それで1時間早い事がわかったとしても、どうする事も出来ず、ただただ時間の来るのを待つほかなかった。
約束は7時であったが、正規の7時になっても誰も現れず、これは先行き悪い事になりそうだと思って心配していたら7時半頃になってやっとガイドが現れた。
ついついガイドに文句を言ったら「私は7時45分と聞いてきた」という事であった。
これからこのガイドに3日間の命を預けるとなれば、草々文句を言うわけにもいかず、切りの良い所でこちらも機嫌を直し、2泊3日の旅に出ることとなった。
同行者は我々と同じホテルに投宿していた若い女性の二人連れと、途中のホテルでもう1組年寄り夫婦をピックアップして、ラスベガスを後にする事となった。
車はフォードのバンで、V8、5000ccクラスのもので、少々古びているが馬力はありそうだ。
どてっ腹にはモニュメント・バレーの絵が書いてあって、ビッグ5ツアーと大きく書き込まれていた。
ガイド兼ドライバーはケンと自己紹介していたが、フルネームは最後まで不明のままで、最後までケンで通してしまった。
ラスベガスを通りを抜けて、インターステイトに乗ると、丁度朝の8時半頃の時間帯で、ラッシュアワーの真っ盛りであった。
片側何車線もある高速道路で、対向車には種々雑多の車があり、中でも大型トレイラーには目を見張るものがある。
ケンはあれのことを「エイテイン・ウイール」と教えてくれたが、18輪、18フォイールを格好よくアメリカ流に発音すればウイールとなるわけである。
これが怒涛のように走っている様は、以前見た「コンボイ」という映画とそっくりである。
「コンボイ」というのは船団の意味であるが、10年ほど前、アメリカのトラック野郎を主題とした映画が作られ、その時に登場していたのがこの18ウイールであった。
ラスベガスを後にして坂を登っている時、ケンが後ろを指して「ラスベガスの空気はあんなに濁っている」といった。
確かにラスベガスの町はスモッグのようなものに覆われ、霧がかかったように薄ぼんやりと見えたが、その分今走っているところが自然に寄り近いわけで、これから先は自然が一杯なはずである。
インターステイト15号を北上する事1時間あまりするともう砂漠で、両側にはほとんど何もない状態である。
何もないとはいうものの、人がこの地で生きている証拠として、舗装された道と、それに沿って立てられている電信棒は、人間の生存を示している。
不思議な事に、この道路に沿った電信棒というのが日本でもあまり見られなくなった木の電信棒で、文化文明の最先端の国で、木の電信棒というのは何とも納得の行かないことだ。
この頃になると道路の左側に鉄道の線路が現れてきたが,これはユニオン・パシフィックのものという事で、動いている列車というのは見ることが出来なかった。
しかし線路上に置かれた貨車を見るとやはりコンテナが2段に積まれていた。アメリカの鉄道が斜陽になってひさしいが、やはりアメリカ人の発想というのは、合理主義に貫かれている。
コンテナを2段に積めば能率も2倍になるわけで,こういうことが出来るのも企業というか、社会というか、産業というか、そういうものに余力があるからに違いない。
日本ならば真っ先にトンネルの作りからこういう事は成り立たない。
トレーラーにしても、貨車のコンテナの2段積みにしても、やはりその国の実情というものを抜きには語れないわけで、アメリカにはアメリカの合理主義というものが一番ぴったりと当てはまるわけである。
ガイドのケンはアメリカ社会の貧富の差という事を非常に強調していたが、貧富の差は人種差別とも深い関わりがあるわけで、その後の行程の中で接した日本人ガイドに聞いてみたところ、やはりこの国の人種差別というものは歴然とあるという事を言っていた。
道のあちらこちらに散見する住宅は、ケンの言うところによると、皆、貧乏人のトレーラー・ハウスであるといっていた。
我々の概念からすればトレーラー・ハウスを持てるなんて金持ちではないかと思うがそうではないらしい。
そういうものが視界に入らなくなったと思ったら、本当の砂漠に差し掛かったわけで、と、ある町で小休止をしたところ、これが日本にゆかりのある町で、この地のインデイアンはモンゴリアンの特徴を顕著に持っていたので、日本をスパイする目的で沖縄の戦場に送られたとのことであった。
ここにはインデイアンの家が復元されていたが、それはエスキモーの氷の家とそっくりである。
レイク・パウエルの朝というのは素晴らしい朝であった。
人のいない湖畔の朝というのは、いかにもすがすがしく空気まで何かしら美味しいような気がした。
このワーウイープ・ロッジの玄関先に咲いていた桜は今が満開で、こんな所で桜に出会えるなどとは不思議でならない。
7時からの朝食は例のバイキング・スタイルで、何でも自分の好きなものを好きなだけ取れる式のものであった。
食事の件に関してはどうも連絡が不充分だったようで、家内は出発に先立ち総ての食事代を払い込んでいたらしいが、それが現地には伝わっておらず、少々行き違いがあった。
昨日我々をここまで運んでくれたガイドのケンが朝早くから現れたので、どうしたのかと思ったら、昨夜泊まったところは食事がついておらず、我々と一緒に朝食を取るとのことであった。
ガイドが傍にいてくれるということは非常に心強い気がする。
昨日の行程は約500kmほどを走ったことになるわけで、日本ならば東京・大阪間を走ったようなものである。
本日の行程もそのくらいあるようだ。
食事の後、8時頃宿を出発したが、すぐにペイジと云う所で散策となった。
ここはグランド・キャニオンの上流で、同じコロラド川の川上にあたる場所であるが、グレン・キャニオンという渓谷で、ここにも大きなダムがあって、それに付随して発電所があった。
フーバー・ダムほど大きくはなかったが、それでも観光用の施設になっており、資料も展示してあった。
日本で水力発電所というと深山幽谷の山の奥深い所にあるのが普通で、両岸は鬱蒼たる木々に覆われ、ダムに通じる道はがけっぷちに沿った一本道という印象が強いが、ここのは大平原の中にあるダムで、四方八方が大きく開けた場所に存在するのでなんとなく我々のイメージする水力発電所とは違和感がある。
けれども水力発電所であるからには、水位の落差がない事には始まらないわけで、その落差というのが十分に確保されているところが不思議である。
つまり日本では平らな土地に山が競り上がったという感じがするが、こちらでは平らな土地が侵食されて谷ができたという感じである。
その侵食された谷をせき止めても、人の立っている平らな方は悠然とそのままの威容を保っているが、日本のほうはダムが巨大な壁としてそそり立ってしまうという形になる。
水面とダムの下では相当な落差が出来ているにもかかわらず、人のいる場所が広大な平らな大地であるので圧迫感というものが全くない。
広い水面をたたえた湖はコンクリートの壁一つ隔てる事によって、その反対側は非常に深い谷底になっている。
このビジター・センターを見学している間に、家内はもう係員と話し込んでいた。
インフォメイションを担当するその係員はカウンターの中にいたが、そのカウンターはアメリカ人向けに背の高いものがたら、チビデブの彼女はそのカウンターにアゴを乗せて話し込んでいた。
女のお喋り好きというのは、言語の壁というものを苦もなく乗り越えて意思の疎通を可能にする不思議なもののようだ。
このビジター・センターの脇に大きな橋がかかっており、道路を渡った反対側に行くと、その谷底が見えるという事であったが、そこにパトカーが止まっており、警官が一人仁王立ちで張り番をしているのでそこには近づけなかった。
ここを見学しているほんの少しの間に警官が大勢集まってきて、建物の上に登ったりして警戒をしていたが、どうもどこかの重要人物・アンバサーダーが来るらしい。
それで周辺地域の警官に召集がかかったのではないか、とガイドのケン氏が推測していた。
この辺りはアメリカの田舎という感じで、道も片側1車線であったが、信号機のないのはありがたく、その単調さというのも実にアメリカ的である。
前方に見える道路は上下にうねってはいるものの、ほとんど一直線で、こういう道路では昼間でも車のヘッドライトを点けて走る事は非常に合理的である。
昼間でもヘッドライトを点けて走れば、対向車のドライバーに自分の存在をアピールする効果があり、運転の単調さを少しは緩和する効果があるように思う。
ガイド氏の話によると、カナダではもう車のエンジンを掛けると同時にヘッドライトを点すような措置が講じられているとの事であった。
アメリカではまだそこまで徹底はされておらず、点している車とそうでない車の割合は半々程度であった。
まったく信号機のない道を1時間も2時間も100km近い速度で走っているが、窓の外の光景というのは何時まで経っても変化がなく、ついつい居眠りしてしまった。
とにかく何もないという言葉がぴったりで、遠くには名も知らぬ山脈が見えるには見えるが、そこに至るまでの視界の中には家一軒、煙突一本見当たらない。
所々に草の塊があるだけで、まさしく荒野そのものである。
ガイド氏の説明によると、この辺りの土地は地球誕生以来3度地殻変動で海中になったり隆起したりを繰り返したという事であるが、それもうなずける。
今走っているところは平らな台地であるが、昨日走ったザイオンは目の前に横に線の走った壁に沿って走ったわけで、その壁の横線というのは海底にあったときに堆積した地層が露出していたわけである。
壁と壁の隙間を走ったようなものであるが、この日のドライブは、壁の上の台地を走っているわけで、はるか地平線まで何にも視界をさえぎるものがない。車内でうとうとしていると昼近くなって周りの景観に変化が出てきた。
地上に大きな岩の塊があちらこちらに散見出来るようになってきた。
いよいよモニュメント・バレーに近くなってきた。