香港旅行 平成13年11月18日から21日
平成13年11月18日、家内と香港を旅行する機会に恵まれた。
私が退職して以来というもの家内の内助の功によりこうした旅行が出来るようになったが、家内との旅行というのは、どうしても行く前から、お互いの思惑の違いから喧嘩が付き纏い、行く行かないの段階から行き先の決定に至るまで喧嘩腰で話をしなければならない。
我が夫婦というのは、結婚以来30年を経過しているにもかかわらず、尚お互いの我侭をモロにぶつけ合っているので、こういう争いは日常化しているわけで、そう深刻に考える必要はない。
まさしく「犬も食わない夫婦喧嘩」である。
この日、朝7時に娘夫婦が空港まで送ってくれた。
飛行機の出発の2時間前である。
名古屋空港のロビーは何時来ても綺麗であるが、今年9月に起きたアメリカの同時多発テロのお陰で、空港の利用というものに相当な影響を与えているらしく閑散としていた。
今回はアジアの旅なので、キャセイ・パシフィックである。
搭乗手続きをし、荷物を預け、税関を通り、ロビーに入ったら、このロビーの中にラウンジがあって、そのラウンジで時間待ちをした。
このラウンジというのは有料待合室である。
私一人ならばこんなところに入る事はないが、何しろ娘婿が手配してくれたので、その好意に甘えて入ってみた。
自分一人ならば決して利用するチャンスはないに違いない。
乗り込んだ機体はボーイング777のストレッチ型300のようであった。
何しろこのキャセイ・パシフィックという航空会社は機体のPRに不親切で、何処にも機体のメーカーを記したものが見当たらなかった。
座席の前にある救命胴衣の仕様書にも機体の名称が殆ど書いてなかった。
座席は右側の主翼のすぐ後で、景色を見るには不都合をきたさない位置であった。
天気も良く、定刻にテイク・オフしたが、最近の旅客機の上昇能力というのは我々旧世代の人間には信じられないような威力を示している。
今回は滑走路の南の端から北の向かって飛び立ったが、天気もよく見晴らしも素晴らしい日であったので、外の景色は手に取るように良く見えた。
滑走路の南端でフル・スロットルになったと思ったら、すぐに前方が浮き上がり、がたんがたんという震動が来て、主翼の車輪が地面を離れた事がわかった。
座席に座っている感じとしては、45度の角度で天に向かって登っていくような感じがしたものである。
滑走路の北端を越える頃にはもう100m以上の高度になっているのではないかと思われる。
この上昇角度と、上昇スピードというのは信じられないものである。
そして、このキャセイ・パシフィックの旅客機には座席の前に液晶テレビがあり、それに機体の情報が出るようになっていた。
通常はビデオを見るものだが、飛行情報をモニターできるチャンネルもインプットされており、出発の時はそれが最初からセットされていたので、タクシーの段階からそれをモニターできて、私なりに楽しむ事が出来た。
帰りのフライトでは機体は、恐らくA300であったし、このモニターのセットがわからなくて、離陸時のデータを楽しむ事が出来なかった。
この装置は今のカー・ナビのものと殆ど同じで、モニターにはGPSで地形図と機体の航跡が現れるようになっており、私を飽きさせない優れものであった。
で、機体がラン・ウエイの北端を通過したと思ったら、すぐに右下に小牧山が見えた。
昔は小牧山の頂上に登ると濃尾平野が一望できると言ったものだが、このときは濃尾平野を天国から敷衍していると言ってもいい光景である。
小牧山を右下に見て、左バンクで尚をも高度を稼ぎ、伊勢湾に沿って進路を南に向けた。
その間、一宮の競輪場や、江南の河川公園、木曾三川公園等が上空から確認する事が出来た。
この辺りで6700m、地上から6km以上あるわけで、このモニターはメートルとフイートを併記して表してくれたので非常にわかりやすい。
航空業界というのはどういうわけかポンド・ヤードの世界で、未だにフイートを使っているのが不思議でならないが、これは航空業界がアメリカに支配されているからではないかと勝手に推測している。
航空機の製造及びその運行に関してアメリカが世界の主導権を握っているので、アメリカの度量法がこの業界に定着してしまったのではないかと思う。
今時、メートル法でないのはアメリカぐらいしかないはずであるが、そのアメリカが航空業界の主導権を握っているので致し方ない。
高度をフイートで言われても我々は換算しなければ実感がわからない。
しかしメートルで表示されれば、そういうことはない。
飛行機は紀伊半島をかすめ、四国の足摺岬を右手に見て、その後九州の日南海岸の辺りを通り、この辺りから下に多分阿蘇山だろうと思うが、噴火口が5,6つ見えた。
火口湖には水が有ったり無かったりしていたが、正しく丸い火口が見えた。
此処まで飛び立ってからわずか1時間である。
最終的には高度9300メートル、3万5千フイートで南に向かった。
帰りは12500m4万1千フイートで来たが、この1万mという高度を我々はどうしても記憶から拭い去る事が出来ない。
なぜならば、この1万mの高度というのは、半世紀以上前の事、アメリカの戦略爆撃機B−29が日本を空襲した時の高度で、日本の迎撃戦闘機はこの高度まで登れずに敗退した歴史を思い起こすからである。
高度1万mというキー・ワードにはそういう歴史が潜んでいるわけで、その高度を今自分がテレビ・モニターを見ながら悠々と飛んでいるという事が不思議な気がしてならない。
あの当時、日本を攻撃に来るB−29の搭乗員も大変であったろうと思う。
戦争とはいえ、B-29の機体には爆弾がいくつ積めたか知らないが、とにかく爆弾を抱え、あのガラス張りの風貌の中でボマー・ジャンパーに身を包み、寒さに耐え、じっと何時間も辛抱して南の島から攻撃に来るのだから、攻撃する側としても並大抵の事ではなかったに違いない。
それも一機や二機ではなく、何十と連なって、空が暗くなる程の大群で来るのだから、攻める方も守る方も並大抵の事ではなかったに違いない。
因みに、高度1万mの外気温というのはマイナス40度である。
この外気温も、このモニターには表示されている。
又、対地速度というのも表示されており、これも900km以上、帰りの場合1081kmまで出ていた。
これはもう殆ど音速に近いスピードで、旅客機としては限界だろうと思う。
高度1万mから見る地球というのは全く静かである。
エンジンの音のみが聞こえ、多少揺れるのみで、正しく天国に一番近い場所である。
この揺れというのも不思議でならない。
乱気流という空気の流れの乱れである事は頭では理解できるが、目には全く見えないわけで、それでいて空気が上下左右に乱れているわけで、要するに風が吹いているわけである。
その中に飛行機が突っ込むと、がたがたと震動が来るわけで、これも不思議な現象である。
香港までの飛行は実に快適で、殆ど定刻どおりに飛行していた。
香港に近づいたら今まで南西にむかっていたものがゆるいバンクで北に進路を向けた。
空港が近づいていたので下の景色が見えたが、このとき見た香港というのはまさに水晶の山というか、鍾乳洞の石筍というか、養殖のシメジというか、ああいう感じでビルが地上から上空に向かって突き出ていた。
無事着陸してタラップと言うか、あの機体に横付けする装置を何というのか知らないが、あれを歩いてみると聞きしに勝る大きな空港である。
日本の成田空港にはまだ行った事が無いが、国際空港というからにはあれぐらいの規模がないことには意味をなさない。
アジアの中心の国際空港という感が肌で感じられる。
税関を通り、入国審査を通り、荷物を受け取り、B出口から外に出てみたら、向こうのガイドがすぐに見つけてくれた。
ガイドはもう一つ他のグループを担当しているので、それの到着までしばらく待たされたが、その間に空港内のサークルKで煙草を一つ買った。
この国もチップの世界と聞いてきたので、100香港ドルをこわしたが、こちらの硬貨は実に大きくて不ぞろいである。
日本の場合はたいてい金額が大きくなれば硬貨も大きくなるが、こちらの場合は金額の多寡と硬貨の大きさがまちまちで、大きい硬貨が必ずしも高額とは限らないようだ。
此処で5人組みの女性グループと一緒になったが、このグループとは一旦別れたあと又後で一緒に行動することになった。
それで7人グループになり、バスで空港を出て、香港の町を通り抜け、シンセンの入り口の国境まで移動した。
その国境の町は羅糊(ロウウ)というところで、此処にシンセン河という川があり、この真ん中が国境のようであった。
我々、日本人というのはパスポートの扱いになれていないので、旅行案内書にはしつこいほどその扱いに気を配った書き方がされているので、それを真正直に遵守している家内が口うるさくて、私もシャツの下のパスポート入れを隠している。
それで、その度毎に前のボタンをはずしてシャツの下からそれを出し入れしなければならず、まことに厄介である。
此処までは空港からバスで移動して、此処で一区間だけ電車に乗り、向こう側の蛇口という駅まで行った。
羅糊(ロウウ)で出国手続きをし、蛇口で電車を降りてから入国手続きをするわけであるが、その間橋を歩いて渡らなければならなかった。
その橋の上でガイドが写真を撮れというので、写真をとっていたら、中国側の若いお巡りさんに咎められてしまった。
ガイドの通訳で先方の言い分を聞くと、フイルムを「撮った分だけ巻き戻せ」ということを言っていたらしいが、新しいカメラでそのやり方がわからないと言ったら、そのまま見逃してくれた。
ガイドはしきりに恐縮していたが、実際、自分でも自分のカメラの逆戻しなど、やり方がわからない。
カメラなどというもの、一度写した写真を逆にフイルムを廻すなどということは考えた事もないので、それは出来ない相談である。
フイルムごと没収と言うのならば、まだ話がわかるが、「フイルムをまき戻せ」といわれては、はたと困ってしまった
しかし、まあ大したミスではなかったのであろう、そのまま黙認してくれた。
此処の入国管理事務所でシンセン側のガイドに引き継がれたが、空港から此処まで時間にして1時間ばかりのドライブであった。
その間の香港の景観も実に素晴らしいものである。
空港から中国本土に来る間に鉄道と車の両用の橋が掛かっており、それの景色は素晴らしいものである。
道路は立派な舗装道路で、快適なドライブであった。
しかし、考えて見ると香港と中国本土の間、又次の日に行ったマカオとの間に、入出国の手続きが要るというのも馬鹿げた話だ。
沖縄が日本に返還された後でも、沖縄に行くのに入国手続きが要るのか?、と考えた場合、その不自然さというものは一目瞭然である。
香港は1997年、マカオは1999年、中華人民共和国に返還されたわけで、返還された以上、中国本土と同じ扱いをしても良さそうに思えるが、それが植民地時代と何も変わらない扱いというのは、中国の後進性といわなければならない。
一国両制度、中国本土は共産主義体制を堅持するが、香港やマカオは資本主義のままで行く、ということは返還時の約束で、理論的にはわからないでもないが、この事実というのは共産主義体制の基盤の弱さを自ら暴露しているようなもので、中国人民が大挙して香港に逃げ出さないようにする措置としか思われない。
だから、その香港に一番近いエリア、つまりシンセンを、経済特別区として共産主義の箍を緩めたのがケ小平で、彼の功績は認めざるをえないが、にもかかわらず、この間を行き来するのに審査が要るというのは馬鹿げた話である。
ケ小平のお陰で現在経済改革の真っ只中に置かれているのが今回訪問するところのシンセンである。
此処で又次のガイドに引き継がれたが、この国境の町、蛇口というところは正しく中国である。
町の雑然さと言ったらない。
かといってスラムかと言えばそうでもなく、駅の周辺のみはまさに雑然の中にあり、都会の秩序と言うものが有る様でいて無い。
此処ではわけのわからない道を少しばかり歩かされて、車に乗せられたが、これがトヨタのハイエースと言うバンである。
日本ではハイエースの商用車として普通に走っているので、紛れもなくハイエースであるが、この車のエンブレムには甚平・JINBEIとなっていたので笑えてきてしまった。
ハイエースが甚平とは言いえて妙である。
おそらくODMで、こちらで生産している車のであろう。
形は日本の物と全く同じである。
半世紀前の上野駅のようなところからその車に乗って10分も走ると立派な市街地に出てきた。
やはり大陸というものを感じさせる。
横の広がりを感じる。
大陸なるが故に道幅は広い、しかし住居というものはどういうわけか高層ビルである。
土地が広ければ上に積まなくても横に広がれば良さそうに思うが、それがどういうわけか高層ビルになっている。
そして最初の見学地が自由市場であった。
この自由市場というのは日本でいえば、公団住宅の中のスーパー・マーケットという意味で出来たものらしい。
日本でいえば何々団地の住民の買い物の便宜を図って、団地の中にコンビ二エンス・ストアーを作るという意味合いで出来たものと思えばいい。
しかし、此処では生活習慣として生きた鶏とかアヒル又は魚等売り買いする習慣があるので、それがそのまま生きているわけである。
だから商品の中に生きた鶏、ガチョウ、アヒル、ウサギ、亀、すっぽん、なまず、雷魚等々を売っていたが、それが小さな薄汚い店で売られていた。
果物も南国の珍しいものが売買されていた。
マーケットそのものはお世辞にも綺麗とはいえないが、これはその商売柄致し方ない。
東京の国立がんセンター前の中央卸売り市場等と同じで、全く汚いの一語であるが、売り手の側は少数民族の出身者が多いとガイドが言っていた。
しかし、この少数民族という言葉もよくよく考えて使わなければならないと思う。
ガイド・ブックにも又ガイドの口からも、この少数民族という言葉が頻繁に出て、この地ではそれを売り物にしたアトラクションもその後案内されたが、少数民族という言葉は自分がそういう民族に属していない立場の者が言っているわけで、ある意味では差別用語ではないかと思う。
少数民族の側からすれば、自分達の民族の人口が少ない事が「売り」になっているわけで、逆差別をセールス・ポイントにしているのではないかと思う。
アメリカにも先住民としてのインデアンがいるが、彼らのアイデンテテイーは自らの民族的慣習を維持する事にあるわけで、自分達は少数民族などとは言っておらずに、人と同じ生活習慣に同化して、一緒になれば良さそうに思うが、そうはせずに頑なに自らの習慣から脱却する事を拒んでいるわけである。
この市場を見学していたとき、家内は「此処では誰でも店が開けるのか」と、ガイドに質問していたが、彼女は自由市場という言葉からきっとフリー・マーケットを連想していたに違いない。
しかし、共産主義の世界で日本のイメージで言うところのフリー・マーケットというものはありえないと思う。
第一、この公団住宅のようなところの、棟と棟の間には鉄の扉が有って、外から入ってくるものには非常な警戒心が有ると言う事を示している。
この団地はコンクリート製の5、6階建ての古い物で、恐らく半世紀は経っているように思えるが、共産主義の世界でも泥棒に対する警戒が要るということは、かなり意味の慎重さを物語るものだと思う。
我々のようにコンビ二エンス・ストアやスーパー・マーケットを見慣れたものにとっては、かなり異質な光景であろうが、日本人でも20代30代の人間には珍しい光景に違いない。
此処を見学したら次はホテルに案内された。
これが南海ホテルというもので、多少古くはなっているが、経済特別区になって最初の5つ星のホテルと言う事である。
日本やラスベガスのものに比べれば比較にならないが、此処で食した広東料理というのは素晴らしいかった。
レストランの食堂では琵琶の演奏まであった。
若い女性がレストランの小さな舞台でそれを奏でてくれたが、彼女のチャイナ・ドレスとウエイトレスのチャイナ・ドレスは男性の目を皿にしてしまいそうである。
空港であった5人組みの女性達とは香港の国境の町で別れていたので、此処では我々二人だけで、広東料理を食することになった。
今回の旅行はグルメ旅行になる事は最初から納得していたので、どういう料理に出会えるのか楽しみにしていたが、中国料理というのは全部並べてから「さあ食べる」と言うわけにはいかず、出されたものを次から次にと食べていかなければ後が出てこないので、それを写真に撮ることができなかった。
出されたお茶でも、まだ半分以上残っているのに、次から次へと注ぎ足していくので、結局それを記念に撮影する事は出来なかったが、おいしさにかけてはさすがに歴史が物語っている事を実感した。
この食事が終わったら夜の中国民族村と称するところでアトラクションを見るように案内された。
日比谷公園の野外音楽堂のようなところでしばらく待っていたら、アトラクションが始まったが、これが結構面白かった。
中国の少数民族の衣装を着た人たちのアトラクションで、サーカスのような芸能あり、ライン・ダンスのような出し物があり、結構見ていて飽きないものであった。
レーザー光線と照明の妙で、実に美しく演出していた。
中にはストーリーのあるものもあったようだが意味はわからなかった。
アメリカを旅行した時も、ラスベガスのレストラン・シアターでわけのわからないショウを見せられたが、それよりも数等優れている。
その中で少数民族の衣装をモチーフにした山車の行列があったが、これは余りいただけたものではなかった。
名古屋祭りのパレードの山車を少し古くしたようなもので、あまり芸の細かさは感じないし、雑であった。
犬山祭りの山車の方がよほど精巧緻密で芸が細かい。
しかし、中国の人、特に女性は実に美しい。
プロポーションも素晴らしいし、少し化粧をすれば実に美しいが、如何せん化粧をするゆとりというものが感じられず、生活臭が取れないのでなんだかみすぼらしく見えるが、基本的には美しい人が多いようだ。
このアトラクションに出演していた女性達も実に美しかった。
このアトラクションの会場の入り口の前には樹齢何百年というガジュマルの木があった。
このガジュマルという木も実に不思議な木である。
この南国には何処にでもある木のようだが、高い枝からは柳の枝のようなものが垂れ下がり、根っ子は根壁とでも言うのだろうか、壁のようなものができる不思議な木である。
翌日は9:15分にホテルのロビーで待ち合わせることにして、この日はこれで就寝ということになったが、夜道を30分ばかりドライブしてホテルに帰ってきたわけであるが、この地の夜のドライブというのは恐ろしい。
というのは車のライトは暗く、街灯も少なく、その中を歩行者も、無灯の自転車も、こん然と行き交っているので、恐ろしくてたまらない。
我々の乗ったJINBEIも、計器盤のライトが切れたまま走っている有り様で、何キロのスピードが出ているのか不明のまま走っているわけである。
これでは恐ろしくてとても私なら運転できない。
部屋はさすがに5つ星のホテルだけあって、そう見劣りするものではなく、可もなく不可もなしというところであった。
翌日、朝食に下におりたら、目の前には海が広ろがっていた。
昨日は暗くてわからなかったが、ホテルの前は海であった。
朝食を済ませホテルの庭に出てみたら、これが結構いい庭園になっており、芝生も綺麗に刈り込んであった。
ホテルのロビーから右手の方に抜ける通路があったのでその奥に進んでみると、出たところにシンセン蛇口港公安局客伝派出所となっていた。
文字のニュアンスから、恐らく日本でいえば出入国管理事務所か、海上警察の類のものに違いないが、この裏手に一隻のボートが係留されており、そのボートには船外機が5つもついていた。
状況に応じてそれをフルに稼動させるのだろうけれども、さぞかし猛スピードが出るに違いない。
そんなものを見てぶらぶらしていたら時間になってガイドが迎えにきた。
ガイドの案内で昨日のJINBEIに乗って30分ばかり走ってシンセン物産展会場のような所に連れて行かれた。
これも見学コースに入っているらしかったが、前日に見た公団アパートの一角の店のようなもので、入り口はあまり派手なものではなく質素な佇まいであったが奥に行くと結構いろいろなものが陳列してあった。
入り口には黒檀や紫檀の調度品が置いてあり、向こうの売り子の説明によると中国伝来の家族の配置に並べてあるということであった。
正面に両親の椅子があり、その両脇に同じように二つづつ椅子が並べてあった。
全体でコの字の形になっているわけで、これが中国伝来の家族の有り方を示すものだということであったが、意地悪な見方をすれば、この儒教思想そのものの家族のあり方が、中国を滅亡に導いたわけで、両親を大事にして敬うという中国伝来の倫理が、変革を嫌っていたわけである。
その古いしきたりと慣習に縛られていたが故に、共産主義に埋没してしまったわけである。
しかし、この黒檀や紫檀で出来た椅子というのは、一度購入すれば恐らく孫の代まで使用に耐える代物に違いない。
丈夫で尚且つ頑丈である。
家は潰れても、この椅子だけは決して壊れることはないだろうと思われる。
この素晴らしい調度品の部屋を抜けると、宝石やら刺繍やら陶器の部屋になっていたが、そんなものに興味は全く無い。
しかし、ガイドのてまえ、全く何も買わないではガイドに申し訳ないと思って、4個千円の小さな根付を買った。
その次にはシンセン博物館に案内されたが、この博物館というのは実にまがい物であった。
フロアーごとに案内が変わり、見るものといえば写真のみで、実物は全く置いてなく、出てくればそのまま土産物屋に直行するシステムになっていた。
ここでも同じようにヒスイの宝石とか刺繍とか掛け軸などを売っていたが、これは明らかに詐欺まがいの観光案内である。
シンセンというところは10年ぐらい前にケ小平が経済特別区として、共産主義の中にも自由主義の経済エリアを作って、経済の発展を図ろうとした土地で、その意味で中国の新しい工業団地が出来つつあるが、観光にも力を入れつつある。
しかし、如何せん、元が貧しい漁村地帯であったので、観光資源としてまだまだ練れていない。
本当の観光サービスというものが人々に理解されていない。
ガイドは理解していたようであるが、彼の職業のシステムがそうなっているので、不本意でもお客を決められた場所と順序で案内しなければならなかったに違いない。
香港は島であるがシンセンは正真正銘の中国の大地にのっかっている町で、この大地というのはやはりアメリカ大陸の大地と酷似している。
土の色がどことなく赤っぽくて、粒子の細かさというものが我々の島国のものとは違っている。
遠くから大地というものを見ると、アメリカ大陸と中国大陸では何となく類似したところが有るような気がしてならなかった。
帰りも片側三車線の広い道をとばして又南海ホテルに戻ってきたので不思議だなと思ったら、何のことはない朝方見たシンセン蛇口港公安局の隣が波止場兼出入国管理事務所であった。
この行き帰りには広い道路を通ったわけであるが、この道路の両側には椰子の木の並木があり、太陽の明るさといいい、乾燥の度合いといい、まるでアメリカ・カリフォル二アのサンタモニカと同じである。
椰子の葉陰にサーフ・ボードかスケボーを持った、だらしのない若者を配置したら、そのままサンタモニカだ。
それほどよく似た光景である。しかし、風景のセンスが違う。アメリカのようなおしゃれ感覚が無い。
このフェリーの乗り場にも、やはり出入国管理があり、イミグレイションとしてパスポートの掲示が必要であった。
此処で乗り込んだ船はジェト・フォイルというもので、海水を後方に噴射する水中翼船となっているが、エンブレムを見たらボーイング929−117−014、「帝皇星」となっていた。
席についたらシート・ベルトをつけるように言われた。
確かに揺れは少なく快適であった。
そして再び入国審査を受け、波止場を出たら次のガイドが待ち受けており、今度は立派な大きなバスで香港の町中に案内され夕食となった。
今度のレストランは「麗城海鮮酒店」というレストランで、今回は海鮮料理を味わう事が出来た。
この海鮮料理というのも、中国料理の一般的なものと同じで、次から次と料理が出てきて、食べるのにおおわらわという感じである。
中でも海老のゆでたものが出て、それは指で皮を向きながら食べなければならないので、指先を洗う小さなボウルがついており、それにはレモンが添えてあった。
値段もそれなりに高かろうが、旅費の中に組み込まれているので、我々は知らずに食べてしまったが、こういう中国料理をたった二人で食べるというのはもったいない。
二人では食べきれない。腹いっぱいになった。
満腹したところで又ホテルに案内されたが、今度のホテルは前日のように5つ星というわけには行かず、ビジネス・ホテルに毛のはえたようなものであった。
この日はまだ少々時間があったので、夜の町を散策してみたら、大通りがあって、いろいろな店が大賑わいしていた。
これが後わかった事で女人街というものであった。
女人街の散策の後就寝となったが、ビジネス・ホテルで、調度品はあまりよくなかった。
ベッドの毛布など、自衛隊で使っていたものと瓜二つで、色といい、触感といい、自衛隊で使っていたものと同じであった。
今時こんな毛布を使っているのも珍しい。
家内などは自衛隊の方を見たことがないので、何も不平をいわなかったが、知っている者が見れば一目瞭然とわかる。
しかし、眠れれば問題はないわけで、この日もぐっすりと寝る事が出来た。