続・晩秋の香港紀行

香港の一日

平成13年11月20日

朝粥とモーニング・クルーズ

翌日は朝7時にロビーに集合して朝粥を食することになっていた。
この日は私達だけではなく、22名の集団で行動を共にする事になったが、大勢の行動というのもたまには良いものである。
前日の大きなバスで、各ホテルを回って、お客をかき集め、朝粥のレストランに連れて行かれたが、ガイドについて回る行動というのは行く先が良くわからないので困る。
はぐれないようについていくが精一杯で、建物の名前や、レストランの名前を控える間もない。
これが自分一人の行動ならば、それらを全部一人で判断して、自分の考えで行動しなければならないので、そういうことにはならないが、連れて行ってもらうという受身の行動では、ついつい甘え切ってしまうところが有る。
この朝粥のレストランは「皇上皇大酒店」という大げさな名前の店であった。
店内はそれなりに立派で、今回は8人ぐらいで一つのテーブルを囲んだ。
このぐらいのメンバーでテーブルを囲むと、今度は食べそこなう事になりそうである。
今回やはり5、6品のメニューが出たが、やはりメインはお粥さんで、このお粥というのは確かに我々日本人が馴染んでいるお粥と同じであるが、お米が違っているのか、何か芯があるような舌ざわりがした。
それにあわびを細かく切ったものが混ざっていたが、これが中国伝来の朝粥というものかと大いに納得した。
中国伝来の回転テーブルで分け合って食べるわけであるが、8人もいるとどうにかすると取り損なってしまうので、あまりのんびりと食べてはおれない。
メニューの細目は覚えきれなかった。
此処での食事が終わったら、アバデイーンという場所に移動して、モーニング・クルージングというスケジュールであったが、このアバデイーンというところは、丁度、熱田区の内田橋の向こうの「七里の渡し場」と同じ感じである。
入り江になっており、生活の船が行き交い、周りは下町に囲まれ、近代的な都市と古ぼけた小さな船が行き交う風情など「七里の渡し」と全く同じである。
そこで待つことしばし、中型の船がやってきて、それに乗るというわけであるが、この船については可もなく不可も無しというところで、定員は50名ぐらいは乗れるであろう観光用に作られたものであった。
此処では他にもう5人の日本人観光客と相乗りになった。
これに乗ってしばらく外を見ていたら、面白い事に気がついた。
水上を行き交っている小型の船の形がどうにも妙である。
あの形をどう表現したらいいのだろうと考えていて、思いついたのは、長良川の鵜飼見物の船を2つに切って、それの幅を広げると目の前を行き交っている妙な形の船になる。
大きさも丁度あれぐらいで、長良川の鵜飼舟一艘で二艘できることになる。
しかし、その船の日除けに、便宜的に色々な布が被せてあるが、これが見た目には如何にもみすぼらしく、センスがなく、洒落気が全く無いので貧乏たらしい。
中国の人というのは、物は道具と割り切っているのかもしれないが、我々から見れば、同じ道具にしてももう少し個性を出すというか、洒落っ気を出して使っているが、こちらの人は不要な飾りは一切認めないという価値観のようだ。
しかし、この船は一体どういうものなのであろう。
スピードは結構出ているので、恐らく強力なエンジンがついているのであろうが、水上生活者の車か自転車に相当するものなのだろうか?
大きさからいってもそう大量のものを運べるようにはなっていなく、せいぜい小型トラック程度の物しか積めないに違いない。
そう大量のものを運ぶようにはなっていないが、結構沢山行き交っているわけで、何処から何処に行って、何処で何をするのかわからない。
船は岸壁を離れると、すぐに海に向かって走り出したが、しばらく走ると右手に水上レストランが見えてきた。
この水上レストランというのは香港観光の目玉で、日本のガイド・ブックには必ず載っているので写真では見ているが、昼間はネオンも消え、うらぶれた感じがする。
しかし、夜ともなれば俄然活気が出て、文字通り満艦飾になるのであろう。
ガイドの説明を聞くまでもなく、水上レストランJUMBOである。
それの反対側はヨット・ハーバーになっており、大小さまざまなヨットが係留されていた。

午前中の香港観光

40分ばかりのクルージングの後、スタンレー湾につき、此処で船をおりてほんのちょっと行ったところにスタンレー・マーケットという観光名所があった。
確かに、マーケットで、浅草の仲見世通りが坂道にあるという感じである。
浅草の仲見世通り、上野の御徒町のアメ屋横丁も、今時は近代化してしまったが、近代化する前のあの界隈の雰囲気と同じであった。
ただ香港というところは坂の多いところで、海からいきなり岡になっているわけで、どんなところにも坂が有る。
これらの店も坂に沿って展開しているところが違うが、雰囲気としては東京の浅草の仲見世通り、上野の御徒町のアメ屋横丁と同じである。
ガイドは此処で「花文字」というものを勧めていたが、グループのメンバーが27名もいると、先方の勧誘にあまり神経を使わなくても済むので我々、買う気のないものにとっては非常に有り難い。
誰か彼かがガイドの勧誘にのってくれるので、矛先がこちらに向かわないので大いに助かる。
この通りの果物店の店先でレイシという果物をはじめてみた。
レイシというのは最近日本でも出回っているが、本当はあの実に毛が一杯生えているのが珍しかった。
大きさは丁度杏の大きさであった。
そしてこの店で売っていたイチゴは特別に大きなジャンボであった。
やはり熱帯に近いせいか、果物の生育が良いに違いない。
此処で家内はトイレット・ペーパー掛けを一つ購入した。
身の丈30cm程のピエロが鉄棒をしており、その鉄棒にトイレット・ペーパーの芯を通すというもので、他愛ないものといってしまえばそれまでであるが、値段が米ドルで2ドルということで、安い買い物だからお遊びの範疇である。
此処ではスヌーピーのネクタイも買ったが、これも米ドルで3ドルという安い買い物で、これは娘婿用である。
彼はスヌーピー・フリークだから彼への土産である。
その次に案内されたところが、レパルス湾というところであるが、此処には何とも形容のしようのない観音様というか、仏像というか、像が対になっていたが、その極彩色の塗装は紛れもなく中国の人々の色彩感覚である。
我々は素直についていけない部分がある。
ガイドから半ば強引に買わされた絵葉書によると、「海の女神像」となっていたが、それ以上の説明はなかった。
これは一体何なんだ!と不思議でならない。
それよりも私にとって興味あることは、このレパルス湾、レパルス・ベイという名前である。
日本が太平洋戦争を始めたとき、東では真珠湾攻撃に成功しえたかに見えた頃、西の海上では日本の攻撃隊の飛行機がイギリスの「プリンス・オブ・ウエールス」と「レパルス」という軍艦を一瞬にして撃沈した事がある。
この時の「レパルス」という軍艦と、このレパルス湾というものとは、何か因果関係があるのではないかとそれが気になって仕方がない。
ガイドの聞いてみたかったが、若いガイドでは多分知っていないと判断し、又そういう話題は気分を害するのではないかと思い、思いとどまった。
ただこの浜辺は映画「慕情」でウイリアム・ホールデンと、ジェニファー・ジョーンズが海水浴をする場面に使われたのではないかと思う。
この日も白人女性がたった一人で浜辺で日光浴をしていた。
あの映画に出てくるシーンと、後ろのわけのわからない像の関係を考える妙な感じがする。
岡の方から海に向かってカメラを向ければ、あの映画のようなロマンチックなシーンが撮れるが、海から岡を撮ればグロテスク以外の何ものでもない。
香港といえば我々の世代はこの映画「慕情」を思い出さずにおれないが、若い人ではそれを知る人も恐らくいないに違いない。
この27名のメンバーの中でどれだけの人が知っているのであろう。
此処を見終わったら、次から次へと専門店に連れて行かれ、相当にうんざりした。
宝石店、シルクの専門店、漢方薬店、偽ブランド店等々、店屋ばかりに案内されたが27名もメンバーがいると買う人もいれば買わない人もおり、それはそれなりにガイドのほうもビジネス・チャンスに恵まれたわけである。

午後の香港観光

午後の観光の目玉は「黄大仙廟」というお寺で、此処も中国独特のお寺であった。
しかし、歴史は案外新しく150年ほどということである。
昔、コレラが流行った時、建立されたが、これが建立されて以来コレラが沈静化したという謂れがあるとガイドはいっていた。
この寺の行き帰りに元の香港空港、啓徳空港の傍をとおり、一部中にも入ったが、此処は今自動車の売買市場になっているという事で、モーター・プールになっていた。
ところがこの施設が如何にも中国式で、雑然としており、まるで廃車置場である。
日本からの盗難車もかなり此処に集められて売買されているらしいが、この地の車というのはかなり日本製が出回っており、7割方日本製である。
タクシーはどういうわけかホルクスワーゲン・ゴルフが使われているが、トヨタのクラウンもかなり見かけた。
ゴルフが中型タクシーで、クラウンは大型の部類に入るのであろう。
タクシーは全部色が統一されており、赤とこげ茶のツートンからである。
タクシーの色を統一するという政策は良い政策だと思う。
アメリカならば黄色で統一されているわけで、日本のようにまちまちの色というのは雑然としていて芳しくないと思う。
ところがバスになるとこれと逆で、まるで広告塔が走っているようなものである。
香港の町というのは基本的に小さな町で、その面積が小さい分、上に延びているわけである。
バスに乗せられえて移動していても何度も同じところを通っていたようだ。

香港の食事

この日の昼食というのは文化センターの中にある「英月楼」というレストランで飲茶料理というものであった。
これも例によって何品かのメニューが出てきたが、いちいち覚えきれなかった。
ところが夕食は他のメンバーと別で、彼らは海鮮料理であったが、我々は北京料理であったので、二人だけ違ったレストランに移動した。
それは「北京楼」というレストランであった。
この「北京楼」の会食は結構面白かった。
家内はあまりおいしくなかったといっていたが、味はともかくその食べ方というのが珍しかった。
何品か出てきたが、その中に薄いせんべいのようなものがあり、それに北京ダックを小さく切ったものや、ねぎを短冊状に切ったものと、きゅうりを輪切りにしたようなものがあり、その薄いせんべいのようなものの中央に、北京ダックの切ったものと、短冊状のねぎと、きうりをのせ、それを二つ折りにし、再度両側から三つ折りに畳み込んで食べるという事だ。
最初、ウエイターがそのやり方を模範演技をしてくれたが、同席の他のメンバーはそれを見落としていて、それを包み込むのに四苦八苦していた。
このレストランでは再び他のメンバーと相席になり、どういうわけか世代が同じグル−プであったので、すぐに打ち解けて和気藹々の内に時が過ぎた。
此処では我々のテーブルのすぐ脇で、麺打ちのパフォーマンスが始まった。
料理人が麺を段々細くしていくとお客の中から拍手が沸きあがった。
又その反対側では、白人の3人組がオーダーした料理に違いないが、バレー・ボールぐらいの黒い球を大きなハンマーで割るパフォーマンスがあった。
体格の大きな男性が勢いよくハンマーを振り下ろすとその球は見事に割れたが、それを家内が早速デジカメで撮ろうと駆け寄ったら、逆にウエイトレスにハンマーを握らされて写真に撮られてしまった。
その写真を家で見たらあまり良く撮れていなかった。
あの球の中身はチキンという事であった。
鶏を土の玉で包んでそれを土ごと焼いたものらしい。
どういう料理か名前はわからなかったが、楽しい一時を過ごせた。
相席したメンバーはかなり旅なれていたが、香港は始めてで、この日に着いたという事で、わずか2日間の事では有るが、先輩気分でアドバイスしたりして語り合った。

香港の夜の観光

その後再びもとのメンバーと合流してビクトリア・ピークに向かう事になった。
今度はかの有名なスターフェリーに乗らなければならなかったが、これはもうありきたりの渡し船である。
このビクトリア・ピークの「売り」はなんといってもあのケーブルカーである。
山麓の駅からそれに乗って高度が上がるに連れて外の景色・高層ビルばかりであるが、それがどうにもこうにも斜めに見えて仕方がなかった。
首をどういう風に傾けても斜めに見える。
頂上に着いたら立派な広場になっていて、展望台からの眺めも素晴らしかった。
この頂上にも店屋が並んでいたが、此処の店はいわゆる観光地の土産物屋という感じではなかった。
此処で家内は額縁を一つ購入したが、家内の買い物はどこか着眼点が違っている。
偽ブランド店でも、ラドーの時計を買ったが、この時計を日本の新聞の折り込み広告で見ると、30万円となっている。
それを偽ブランド店では1万6千円で売っていたわけで、それを買ったわけであるが、こうなると物の値段というのは一体どうなっているのか不可解としか言いようがない。
このビクトリア・ピークというのもあの映画「慕情」に登場しているが、約半世紀も前のロケーションがそのまま残っているとは思われないのでそうこだわる事はなかった。
此処から眺める夜景というのは「100万ドルの夜景」と表現されているが、この形容もやはり半世紀前のものといわなければならない。
帰りに飛行機の窓から伊勢湾の東側、愛知県側の三河地方の夜景を見ることが出来たが、やはり上空から見る日本の夜景というのも100万ドル以上のものだ。
この日はこれでホテルに帰って寝るだけであったが、翌日は朝かなりゆっくり出来た。

香港の人の生活

10時半の待ち合わせで、部屋でのんびりしていたが、窓から外の景色を眺めたらこれが又異様な光景で、窓の対面は高層アパートの壁で、そのアパートがかなり古くなっており、お世辞にも綺麗とはいえない。
この地に来てガイドの説明を聞くと、この地では10階建て20階建てというのは普通で、このホテルも20階建てある。
しかし、40年前に建てられた公団アパートいうのはエレベータがないということである。
この話を聞いた時大いに考えさせれた。
20階に住んでいた人が死んだ時、にはどうなるのだろうかと心配になってくる。
そういうアパートでは間取りも一種類で約6畳半ぐらいのスペースしかなく、台所も小さなものがあるだけで、浴場とトイレは共同という事である。
それでは人がただ寝るだけのスペースしかないわけで、生活を楽しむゆとりとか、余地というものは全く無いわけである。
正しく人間の巣以外の何ものでもない。
それにしても、そこまでエレベータもなしで、自分の足で登らねばならないとなれば、自分の家に行くのも嫌になるのではなかろうか。
全く人間性というものを無視した発想である。
しかし、それでも人は生きているわけである。
中国では今までの歴史が、泥の家に椅子の生活で、奥地の少数民族では崖に横穴を掘って生活している人もいるわけで、そのことを思えば、コンクリート製のエレベータのない高層アパートでも生きておれるわけである。
当然、スーパーの買い物袋を下げて10階20階と徒歩で階段を上がるような事は何人にとっても億劫な事に変わりはないわけで、ならば朝昼晩と全部外食で済ませようと思うのは生活の知恵でもあるわけである。
だから「松園粥店」が朝粥で商売が成り立っているわけである。
我々、日本人の生活感覚では、エレベーターのない高層アパートには住めないと思いがちであるが、それこそ我々の側の驕りかもしれない。

香港最終日

そんなわけで、この日は昼食に上海料理を楽しむ事になっており、その前に免税店をまわるというスケジュールであった。
その免税店に最初に連れていってもらったが、ここでも私はさほど欲しいものはなかった。
今回の旅行で、私は密かにマドロス・パイプを買うことを考えていたが、この免税店のダンヒルの店にもそれは置いてなかった。
今時、マドロス・パイプで煙草を楽しむ人がいないのであろう。
この町の専門店をこまめに探せばきっと何処かには有るだろうが、並みの店には置いてなかった。
香港に来て今まで散々いろいろな店屋に案内されたが、何処にもなかった。
結局、この免税店では孫のおもちゃを買ったのみで出てきた。
家内はプラダのバッグを買う魂胆を秘めており、どうしてもプラダの店に案内せよとガイドに頼んだので、ぺ二シア・ホテルのプラダの店に案内された。
このぺニシア・ホテルというのは、日本でいえば昔の帝国ホテルの趣のある立派なものだ。
恐らくイギリスの植民地時代の建物であろうが、建物に風格が有る。
一階のロビーの赤絨毯の雰囲気など、まさしく王侯貴族の社交の場という雰囲気で、聞きしに勝る立派なものだ。
この前をバスで何度も行ったり来たりしたが、今回は此処に立ち寄るスケジュールになっていなかったのが残念だ。
この一角にプラダというカバン屋がテナントとして入っているようだが、私はそんなカバンなど全く興味がないので、まさしく猫に小判である。
彼女のお目当ては売り切れたということで、色違いで妥協せざるを得なかったが、どうにも納得いかないようだ。
買い物をして、上海料理を堪能して空港まで送ってもらって、さあこれで香港旅行も終わったと思ったら、昨日付いて来たガイドのアシスタントのような人物が現れて、写真を売りつけてきた。
昨日、今日と一生懸命ガイドをしてくれた事を思うと、少々高くても目をつぶって払ってやる事にした。
こういうところにガイドという職業の醜さが表れてくる。
これは彼えらが中国人だからというわけではなく、同じ日本人同士でも観光地をガイド付で旅すれば同じ状況が展開するわけで、パック旅行の盲点である。
同時に観光業に関する限り、国境や国籍を超えた普遍的な行為でもある。
観光旅行をするという事は、既に出発の段階から金をばら撒くという事を覚悟しなければならないわけで、多少の事は致し方ない。
そこは黙って騙されてやるが大人というものだろうと思う。
家内は散々ガイドに無理難題を出しておきながら、この段になって相当腹に据えかねていたようだ。
今回はパック旅行であったので不自由な面も多々あった。
しかし、知らない外国で自分一人で歩き回るほどの勇気を持ちあわせていない以上致し方ない。
それと、安さの面からいったら、個人旅行よりもっパック旅行の方が安価なわけで、その安くなった分何処かでその埋め合わせをしておかなければならないわけである。
今回は色々な食事を堪能したが、これも個人旅行ならばセーブ・マネーが先走って、そうそう堪能するわけにはいかなったに違いない。
香港の町というのは実に興味の尽きない町であるが、あの高層建築と二階建バスには驚かされる。
この町には二階建ての路面電車があるように思ったが、それにはお目にかかれなかった。
此処は聞きしにまさる都会で、シンセンは地方都市という感を免れないが、車の多さでは決して引けを取らない。
どちらもその大部分が日本製であるという事には驚きである。
これだけの車がありながら、中国製というものがないというのは実に不思議である。
彼ら自身が中国製よりも日本製の方が良いということを認めているわけで、そのことは同時に彼らのものの考え方を表していると思う。
彼らの価値観からすると、良いものを作ろうという価値観よりも、口先3寸で人のものを掠め取る商いのほうに価値をおき、儲けた金で良い物を買えばいいという発想である。
そのことは民族の生き様を反映していると思う。
ここに来て驚いた事に、高層建築の足場に竹を使っている事である。
日本の場合でも、昔は丸太の足場を番線で括って使っていたが、此処では竹を電気工事の黒い絶縁テープで括って、それで高層建築の足場にしている。
それで見上げるような高いところまで組み上げているのは大いなる驚きである。
それともう一つ、バフェ・スタイルの食事の時、コーヒーを飲みさしまま脇に置いていると、次から次へと注ぎ足しに来るが、これもおどろきである。
恐らくお茶の感覚でそうしているのであろうが、我々にない慣習で迫られるとまごついてしまう。
こちらのレストランは確かにサービスが行き届いていると言えるが、サービスのセンスというものは我々の感覚からすると今一である。
色々なメニューからその都度取り分けてくれのはいいが、その所作ががさつである。
料理を取り分けるにも、こぼしても平気だし、音はたてるし、器の扱いはがさつだし、サービスをする所作、しぐさ、態度に、我々で言うところの優雅さというものがない。
食べれればいいだろう、美味ければいいだろう、という感じで、器を食べるわけではないし、優雅さで料理が美味くなるわけでもなかろう、という感じである。
その意味からすれば、我々日本人の高級料理というのも、皿ばかり出てきて中身の全く無いものも有るわけで、これも度が過ぎるとまやかし、詐欺に近い形になるから心しなければならない。
皿ばかり出されて、皿の真ん中にちょこんと料理が乗っかっている日本式の高級料理を見たら中国の人は詐欺と思うに違いない。
レストランの中のスタッフが多いので、お茶はすぐ注ぎ足しに来るし、皿はすぐに下げてしまうので、そういう面では確かにサービスは良い。
中華料理というのは中国の歴史と共にあるわけで、味の面ではそれが実感としてあるが、食事の作法とか、マナーというものは、この国では文化になりえなかったのであろうか。
日本で高級料理、特に和食を提供するところに行けば、ただ食えばいい、金を払っているからどんな食い方をしようと客の勝手だ、などという事は通らないわけで、サービスする方もされる方も、それなりのマナーというか作法というか、一種の文化のようなものを持ち合わせている。
私自身はそういう日本的な形式張った事が好きではないが、個人的な好き嫌いを越えて、日本にはそういものが有る。
しかし、これも中国ならではの現象であろう。
つまり人間が余っているので、人海戦術の一環なわけである。
アメリカのように人手の足らないところ、人件費が高いところでは、セルフ・サービスというものが発達するが、こちらは人件費が安い分、人海戦術でサービスを提供しているわけである。
. こちらに来て4日間というもの、何処の店に入っても店員が付き纏ってくるのは、店員を沢山雇えるという事と、盗難の抑止という意味があるものと思う。
香港という町は確かに面積が限られているので、製造業としては成り立たないが、隣りのシンセンというのは大陸にあるわけだから、もっともっと物つくりに精を出さなければならないと思う。
物作りということは、ただ物を作れば良いと言うものではなく、人間の生きる原点でなければならない。
どうすれば売れる物になるか、どうすれば人が喜ぶ物を作れるか、利さやを大きくするにはどう作ればいいのか、と言うところまで考えて作らねばならないわけで、そこまで考えるとそれは人間の生き様を問うというところまで行ってしまう。
観光業や金融業というのは所詮虚業に過ぎない。
口先3寸で人を騙しているに等しい。
金貸しを銀行などともっともらしいネーミングに呼び変えているが、所詮金貸しは金貸しである。
人間の生き様としては誠意ある実直な生き方ではない。
香港の町というものが商業で成り立っていることを実感として感じさせられたわけであるが、この町が国際色豊な町という意味では素晴らしい事である。
中国人も、インド人も、日本人も、イギリス人も、マレーシア人もこの町で仲良く生活するという意味では平和な町であって欲しい。

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