食にまつわる思い出

ヤギの乳

私は昭和15年生まれで、下に弟が2人いる。
次男は幼少の頃より体が弱いという事で、何かにつけて大目に見られて得をしていたようだ。
家族が危機に見舞われた時、どうしても表面に出されるのは体が大きく力もありそうな長男の私になってしまって、体が小さく一見ひ弱に見える次男はそういう家事から難を免れていたようだ。
3男は戦後生まれで、時代背景から言えば一番食糧難の時代に生を受けた。
この頃、昭和22年頃の日本といえば、日本全国津々浦々が食糧難の時代で、我が家だけが特別に食糧がなかったというわけではない。
あの終戦の年、昭和20年という年は、日本人の全部に大変な変革と、未曽有の混乱を引き起こした年であった。
その影響を我が家の父もモロにこうむってしまった。
父は東京で民間企業の技術者であったが、あの戦争の影響で職場が空襲で倒壊し、今で言うリストラを余儀なくされ、Uターン就職した。
それで名古屋の私立学校で教鞭をとっていた。
いわゆるサラリーマン生活をしていたが、そういう状況下で誕生した一番下の弟は、生まれた時から母乳の不足に悩まされた。
母はそれまではサラリーマンの妻として、3食昼寝付きの環境下で生きておれたものが、戦局の悪化と、終戦、食糧難という時局に引き込まれ、苦難の道を歩まざるを得なかった。
あの時代にサラリーマンの家庭というのは貧乏人の代名詞であった。
我が家もその仲間内であり、周囲も皆似たり寄ったりの生活であったので特別に惨めという事は思いもしなかった。
しかしそういうところに新しい生命の誕生があってわけで、母親はなれない生活と心労で病に伏せてしまった。
母の病気は結核で、小牧病院に何度も入退院を繰り返していたが、病に倒れた母の看病と、母がすべき仕事は全部私の仕事となった。
それで、小学校の時から米の研ぎ方から飯の炊き方まで自然と身につけたが、当時炊飯というのは薪でやったもので今思うとよくやれたものだと不思議な気がする。
貧乏と病気と母乳が出ないという3重苦に陥った時、家族というものはただただ生きんがために結束しなければならなかった。
当時我が家は小牧の街中に住んでおり、父の実家というのはこの春日井市の牛山という地域であった。
そこには父の両親、私から言えば父方の祖父母が健在に生きており、その上農家を営んでいた。
父方のおじいさんというのは田舎のインテリで、本人は農業よりも地域の世話役のような仕事を好んでいたようであるが、自分の家のことをほうっておくわけにも行かず、それなりにはやっていた。
おばあさんというのはそれこそ働き者で、朝から晩まで体を動かしていた。
弟が生まれ、母親の母乳が出ないという状況下で、この牛山のおじいさんおばあさんの飼っているヤギの乳で、母乳の不足を補う事になった。
そこで活躍したのが長男である私の出番であった。
もう既に私は小学校に上がっていたが、朝父親の出勤の時、父と一緒に家に出て、小牧駅から電車に乗り、間内駅で降り、そこから牛山の祖父母の家に行き、一升瓶に入ったヤギの乳をもらい、それを家にもって帰ってから学校に駆けて行ったものである。
このとき小牧と間内の電車賃を定かには覚えていないが確か子供は5円であったように記憶している。
往復10円を毎日払うのが何とも贅沢に思え、もったいなく思え、何とかしてこれをくすねる事が出来ないかと、子供心に悪知恵を働かせたものであるが、結局勇気がなくて出来なかった。
普通の日は既に誰かが搾っておいてくれたものをもらってくるだけであったが、学校が休みの時は農作業を手伝いによく出かけていたものだから、そんな折りにはヤギの乳を搾った経験もある。
ヤギを柵の中に入れ、首の辺り固定し、大きな乳房をしごきながら両手で搾ったものである。
それをビールのジョッキに受けて一升瓶に移し、それが弟のミルクとなった。
その弟も今では出世して、小さな会社とはいえ経営者側に身を置いているが、本人はそのことを何も知らないようだ。無理もない話ではある。
そしてこのヤギの世話というのも中々大変で、ヤギの乳で育った弟は、母親が病に伏せていたとき、病気が移るといけないというわけで、この祖父母の家に隔離された事があった。
当時、ヤギに餌さをやるのに川の堤防につないで堤防の草を食べさせたものである。
その時、川の堤防につないだヤギが、頭で弟を小突いて川に落したという事があったらしい。
我々家族は小牧の家に居たのでそのことを知らなくて、事後その話を聞いた。
どうも弟とヤギというのは因縁があるらしい。
牛乳でもそうであるが、ヤギの乳も鍋に入れて暖めると表面に薄い膜が出来る。
この膜が何とも不思議でならなかった。

おじいさんおばあさんの家では夏から秋口に掛けて田んぼの畦にざるを仕掛けて泥鰌を取った。
この泥鰌が泥抜きのため井戸館の隅の瓶に移され、口元まで張った水の上に時々飛び上がっていた。
この泥鰌汁というのが病気の身には滋養があるという事になっている。
それでおばあさんがその泥鰌汁を作ってくれたが、肝心のそれを一番呑まなければならなかった母親は、気味悪がってどうしてもそれを食す事が出来なかった。
無理もない話で、私の母親というのは都会育ちで、都会の学校を出た当時としてはかなりのインテリであったので、こんな田舎のワイルドな生活には耐えられなかったに違いない。
いくら体の為とはいえ、とても泥鰌を食する気分にはなれなかったに違いない。
しかし私は案外この泥鰌汁が好きで、お代わりもしたくらいである。
沸騰した味噌汁の中に、ザルですくった泥鰌を放り込むと一瞬にしてピンピンになってしまう。
それが喉を通る時は太いうどんのような感じがして、飲み込む時は少々覚悟がいるが、骨までやわらかく結構おいしいものである。
今時は農家も薬品散布をするので、水田の泥鰌もすっかり姿を見なくなってしまったが、昔は何処にでもいたものである。
母の病気に関連して思い出される事は、この頃の病気見舞いには生卵というのが非常に重宝がられた事である。
特に我が家のように街中で生活しているものにとっては鶏を飼う事も出来ず、病気見舞いに卵を持ってきてくださる方は非常にありがたかった。
今のように卵のパックがあるわけではないので、菓子箱の中に籾殻をいれ、その中に卵を並べれば立派な贈答品になったものである。
母の病気に関してはこの見舞いが一番ありがたかった。
当時はまだ鶏をゲージで飼うという事がなかった時代で、鶏卵も色々な種類が混在しており、白いものや赤いものが混ざっていた。
今でも私の頭の中ではそのときの卵のイメージが払拭しきれず、卵ななんとなく貴重品という感じがしてならない。
卵は「値段が変わらない」という意味で、物価の優等生と言われているが、そのことは逆に値下がりしたという事で、生産者は大変な合理化を迫られているに違いない。
食べ物に関する記憶といえば、人間誰しも還暦に至るまで生き延びた人間ならば様々な思い出を持っているに違いない。
中でも我々戦後世代というのは、あのなんとも言われぬ食糧難の時代を潜り抜けてきているわけで、いろいろなものを工夫して食べてきたものである。
不思議な事にそういって生きんがために創意工夫をして食べてきたものが今は貴重品として扱われているのが不思議でならない。
幼児体験で忘れられないのがコンビーフの缶詰である。そしてナッツの缶詰である。
ナッツの缶詰というのは普通の形をしているが、コンビーフの缶詰というのは世にも不思議な形で、これは進駐軍の配給で我々の手元に回ってきたものであった。
そしてあの開封の仕方を見ても合理的そのものである。
あれを見た時、わずか小学生かそれよりも前の年であったが、アメリカ人の物の考え方に驚いたものである。
合理主義というものを肌で感じたものであるが、そのときはまだその言葉そのものを知らなかった。
あのコンビーフの缶詰、そしてアメリカ人の乗り回していたジープを見た時、アメリカ的合理主義、アメリカのプラグマテイズムというものを実感として感じた。
子供心にもこれでは戦争に勝てない、負けても仕方がないと思ったものである。
あの当時、アメリカの兵隊はああいうコーンビーフの缶詰やナットの缶詰を携えて戦場で戦ったに違いないが、我々の側は恐らく現地調達で、侵攻した先で食料を得るという手法でなかったかと思う。
2、3日分の食料は携えていったと思うが、それ以上は現地調達しか道がなかったに違いない。
この発想の違いは既に戦争をする前の民族的なものの考え方の違いで、日米決戦というのはいわゆる民族のものの考え方の衝突であったわけで、ある意味では文明の衝突であったのかもしれない。
食というのもある種の文明なわけで、その意味からすれば、戦後の食糧難というのは原始社会に里帰りしたようなものである。
まさしく戦後の食糧難の時は、我々は原始社会に戻ったような生き様であった。
私は街中に住んでいたが、それでも町そのものは田舎に囲まれていたので、町と田園のボーダーラインに生きていたようなものだ。
それであの食料の無い時代、イナゴから、泥鰌、しじみ、川魚、セリ、ヨモギ等々縄文時代そのものの食生活であった。
イナゴというのが結構面白く、秋口、学校から帰ると近所の田んぼに取りに行ったものである。
袋の先に竹の節のないところを括りつけて、取ったイナゴをこの口から入れると、イナゴは外に出る事が出来ず中でたまるという仕掛けであった。
取ってきたイナゴを母がどう料理したか定かに覚えていないが、とにかく真っ黒になってほろ苦い味は覚えている。
セリもヨモギもよく採って食したがセリは和え物が多かったが、ヨモギは蓬餅にしてくれたものである。
そしてシジミは当然のこと味噌汁の実であった。
あの時代、政府の配給のみでは我が家の3人兄弟は生きていけなかったわけで、当然の事こういう原始社会のような食物採集を余儀なくさせられた。
片一方ではアメリカの援助物資の食糧を得ながら、片一方では縄文時代の食物採集をしていたわけで、我々の生活というのは混乱の極みにたしていたわけである。
子供の世界ではこの頃から学校給食が実施され、これに供されたのがコンデンスミルクという粉ミルクである。
これが子供の間では不人気で、周囲の子供が皆「こんなものは飲めない」といっていたが、私は好きであった。
今考えてみると、ここにも貧富の差が露呈していたわけで、私の学校友達というのは小牧の町中の子供達で、この小牧というのは空襲にもあわず、旧家の商家が明治、大正のまま生き残っていたわけで、いわばあの時代では御大尽であったわけである。
彼らは日常的に普通のご飯を食していたに違いない。
確かに食糧は統制され配給というもので拘束されたいたが、金を持っているのでヤミという手法で縄文時代のような食生活は免れていたに違いない。
今振り返ってみると、この縄文時代のような食糧確保というのは私を随分ワイルドな性格にしたようだ。
しかし晩年になって色々な人と接触してみると、この世の中には私の知らない食物が非常に多いという事を知った。
中でも、タラの芽というのはこの年になるまで聞いた事も食した事もなかった。
世の中には珍味と言うものが確かにあるが、私の子供の頃がいくらワイルドであったとしても、あの蜂の子だけは食せなかった。
というのは、あの時代のトイレというのは普通は貯め置きの瓶で、汲み取り式が常識であった。
そしてそこには当然ウジが湧くわけで、蜂の子とあのウジは全く相似しており、それが為私はどうしてもあれだけは食せなかった。
この時代、代用食という言葉があった。
配給が完全には行き渡らなかったので、その代用としていろいろなものが創意工夫され、それらをひっくるめて代用食と言っていた記憶がある。
その中でも傑作は、今も鬼饅頭として残っている小麦粉にサツマイモをサイコロ状に切ったものを入れたパンというか饅頭というか、これを各家庭で作ったものである。
又、雑炊というものもあった。
これは味噌汁の中に、ありとあらゆる残り物を入れて煮込んだものである。
これは寒い冬など結構体が暖まったものである。
私の父は電気関係の学校を出ていたので、この時代に電気パン焼き器というものを作った。
今のトースターぐらいの大きさの木の箱を作り、その中に銅版を貼って小麦粉の練ったものを入れればパンが出来るはずであったが、それでまともに作ったパンというものは見た事がなかったのできっとそれは失敗作であったに違いない。
しかし、先日上京した時、九段下の昭和館という博物館を見学した折り、それと全く同じ物があったところを見ると、父は何かから知識を得てそれと同じ物を作ろうとしたに違いない。
我が家では母が患っていたので、どうしても「おかゆさん」をこしらえる機会が多く、それも私の仕事のレパートリーとなっていた。
土鍋に水をたっぷりと入れ、米を煮立てたものであるが、問題はこの米である。
当時の非農家では早々に米があるわけではなかった。
米の配給が不十分だからこそ代用食としてコンビーフやナッツの缶詰の配給があったわけで、米が充分に出回っていれば当然こういう代用食の類の配給もなかったわけである。
それでここでも長男としての私の出番である。
父の両親が牛山で農家を営んでいたので、ここに行けば米にはありつけたわけであるが、如何せん地理的に離れていたので、そのお使いが私の仕事であった。
この時は学校から帰った後の仕事でしたので、電車は利用せずに自転車であった。
小牧の家を出て、今の桜井の交叉点を東に折れ、大山側で右に折れて牛山の祖父の家に行ったものであるが、当時この道は未舗装で、今で言うところのダート・コースであった。
よく砂利にタイヤを取られて転びそうになり、よく転びもした。
転ぶ度にチエンが外れ、それを直す度に手が油まるけになったものである。
米といえば、この祖父母の家で、断片的ではあるが、一通りの農作業はこなした。
田植えから稲刈り、そして籾乾しまで一通り大人に混じってこなしたものである。
今思えば懐かしい作業である。
今の田植えや稲刈りとはかけ離れた作業であった。
当時は人海戦術で人手でしか田植えも稲刈りも出来なかったわけで、集中的にそれこそ猫の手も借りたいほどの労働の集中であった。
だから父が自分の実家から米をもらったにしても、金を払っていたのかどうか定かに覚えていない。
私の使役で帳消しになっていたのかもしれない。
秋の取入れが終わるとお祭りで、そのときにはオマントウという馬を走らせる催し物があった。
馬の背中に小さなおみこしのようなものを括りつけて、その馬をお宮さんの鳥居の前の馬場を走らせるわけであるが、この馬が時々逃げて、馬が逃げるとそれこそ大変な事になり、それが面白かった。
そして若い青年団の連中がこのときばかりは女性の襦袢を着て、わっしょいわっしょいと馬を囃し立てていたが、何故あの場面で女性の襦袢を着るのか未だに不可解なままである。
そしてお祭りの宴が終わると、青年団の人達がそれぞれに馬追い歌を歌いながら、馬を飼い主に返しに行く光景が瞼に焼き付いている。
米というものが日本人の主食として定着したのは何時の事だか詳しくはしらないが、昔は米穀通帳というものがあった。
この通帳がないことには配給が受けられなかったはずである。
この通帳を持って配給処というところに並んだ記憶がある。
そして米が不足して、規定の量だけ配給できなかったものだから、その代わりとして乾パンや米軍放出のコーンビーフの缶詰やナッツの缶詰の配給があったわけで、私は米よりもそちらの方をもらいたかった。
しかし、今米穀通帳そのものがどうにかなってしまって、これがこの世から消え去ったのは何時頃のことであろう。
私が家内と結婚したのは昭和44年、1969年の事だが、この時既に消え去ってしまっていた。
けれども私の脳裏をこの米穀通帳の事がよぎったことは確かだ。
市役所に行って「米穀通帳を下さい」と言ってみたい衝動に駆られたものだ。
私の住んでいた小牧の家から祖父母の牛山に行く途中大山川の袂で右に折れる(今の歌津橋)わけであるが、ここに父が家を建てた。
しかし、当時この地は何も作物を作らず荒地のままにほうって置かれていた。
戦後の食糧難のとき、父が一念発起してここを開墾してサツマイモを植えた。
ところがこのサツマイモが採れて採れて、収獲したらリヤカー一杯になった。
仕方が無いのでそれを小牧に家まで運んできたけれど、ここはもともとそういうものを保存する場所もないものだから玄関に入れたところ、玄関は芋だらけになってしまって足の踏み場も無い有り様になってしまった。
嬉やら困ったやらで泣き笑いという情況を呈した事があった。

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