小牧市民病院

平成13年10月26日

今年の夏、知人の病気見舞いに小牧市民病院に行った。
知人は5階に入院中で、体を動かせない病気ではなかったので、本人も私も煙草が吸いたく、5階のロビーに出て雑談をしていた。
この階から眺める濃尾平野というのは実に素晴らしい眺めである。
昔は小牧山の頂上からの眺めが素晴らしかったが、同じ眺めでも約半世紀の間には大きく変わってしまった。
その昔、小牧山の頂上からの眺めは、四方八方、名実共に濃尾平野で、春には菜の花畑と大根の花の黄色と白のモザイク模様が実に素晴らしかった。
南の方は名古屋市まで見え、西は養老山脈、北から東は東濃の山並みが横たわり、小牧山のみが独立峯として濃尾平野の真ん中に鎮座するという図式であった。
名神高速も、東名高速もなく、ましてや名古屋高速もなく、文字とおり平野そのものであった。
この病院の高層の窓から見る光景というのは、それとは又別の、現代の工場の盛況と繁栄の映った光景である。
半世紀前の牧歌的な風景とは趣を異にするものである。
恐らくここから見る夜景というのは素晴らしいものに違いない。
ところが私はこの病院には曰く因縁というものがある。
まず第1は、この病院で母を亡くした。
母は病院で息を引き取ったわけではないが、この病院に掛かっていたにも関わらず、薬石効なく自宅で息を引き取ったが、その責任の大半はやはりこの病院にあったのではないかと思っている。
しかし、病気が病気だったので、病院の責任ということにはならないかもしれない。
いわゆる半世紀も前の日本では不治の病と称せられた結核であったので、あの状況下では致し方ないと言う他ない。
昭和27年,私は小学校6年生であった。
母の死んだのは前年の5月であった。
これから逆算すると、母は私の小学校3年か4年ごろから入退院を繰り返していた事になる。
それがこの小牧市民病院、当時はまだ市にもなっていなかったので、ただ小牧病院と言っていた。
その頃は木造の2階建てあったように記憶している。
玄関は東向きで、玄関を入って南の方の病室があり、白ペンキの、如何にもサナトリュウムという感じがして、クレゾールの匂いと共に私の脳裏から離れない。
窓の傍には大きな桜の木があった。
そして南側は少々小高い土手の上にあったように記憶しているが、その辺りの地形の関係で、そういう作りになっていた。
その土手の下には小さな池があり、おたまじゃくしなどがいたが、病院のすぐ下の池で、子供心にもなにか病気が移るような気がして、その池では水遊びはしたことがなかった。
私は長男だったので、病院への使いによく出されたものだ。
病院へ行くと、母と同室の患者から慰めてもらたりして、それがなんとも嬉しかった。
母の病気が結核であったという事は知ってはいたが、近所では露骨に嫌味を言う人もいた。
あの当時、結核は不治の病として世間一般に恐れられていたが、今から思えば一種の贅沢病で、贅沢して良いものばかりを食べて体力をつければ、ある程度克服できたものに違いない。
しかし、当時の食糧事情というのは極端に悪く、特に勤め人であった父の俸給では、当然の事、栄養豊富な食事という事は望むべくもなかった。
父の実家というのが今私の住んでいる牛山で、私は家の使いで父の実家に米を分けてもらいに自転車を走らされたものである。
小牧の家を出て、桜井の交叉点で東に折れ、大山の神社の前を通り、歌津橋を右に折れ、牛山まで通ったものであるが、このコースが全面砂利道で、途中転んだ事も度々あり、チェーンが外れた事もしばしばあった。
父の実家というのは農家で、その上この時はまだ両親が、私から言えば父方の祖父母であるが、健在であったので米や野菜を分けてもらっていた。
その代金を父が払ったかどうかは定かに覚えていない。
結核という病気は今は克服されているが、当時とすれば今の癌に匹敵する恐怖の病気であった。
この頃、父が母のために買っていた薬が、パスという薬で、これは高価なものだったらしい。
その後ストレプト・マイシンという薬が開発され、それで結核は克服されたと聞く。
まだペニシリンもない時代であった。
母が病気で,父が教師であったので、父兄からの見舞いがよく来たものであるが、その中で一番嬉しかったのは卵であった。
卵といえば、あの当時滋養のある食物として通ったいたわけで、今のように発泡スチロールのクッションなどない時代であったので、籾殻の中に卵を入れ、その籾殻がクッションの役割を果たしていた。
そして卵も、今のように白色レグホンにゲージの中で産ませたものではなく、地鶏というか、名古屋コーチンに広い小屋で生ませた卵であったりして、赤いのや白いのがあった。
菓子箱に籾殻を入れ、それに卵を入れれば立派な贈答品として通ったものである。
鶏卵は物価の優等生といわれているが、約半世紀前と今の卵が同じ値段という事は、当時は如何に高かったかという事でもある。
一番下の弟は,母が体調を崩してから生まれたせいか、母乳が出ずに、私が牛山の祖母の家まで、やぎの乳をもらいに走り、それで成長したようなものである。
今考えてみると、よくあんな事が出来たものだと不思議な気がする。
朝出勤する父と一緒に小牧駅から電車に乗り、間内駅で降りて、やぎの乳をもらって帰り、それから学校に行ったわけで、そういうことを考えると私は小さい頃よく家の手伝いをしたものである。
しかし、私は長男で体格もよかったので、祖父母の農作業というものも大いに手伝わされて、それで米や野菜の代金が帳消しにされたのかもしれない。
母が死んだ時はどうもはっきりとした記憶がない。
その日の朝は学校にいつもどおり行ったように記憶している。
しかし帰った時には母の顔に白い布が被さっていて、ああ死んだのか、ということが子供心にも分かった。
そして頭の上には小さな短刀が置いてあり、我が家の何処にあんなものがあったのだろうと訝ったものである。
その上質素な葬式であった。しかも我が家は神道で、人様の葬式とはだいぶ趣が違っていた。
母が命をなくしてからというものは、しばらくその病院とは縁がなかった。
この時は母の母親、つまり私達兄弟の母方の祖母が、母に付き添っていた事は記憶にある。
この時、既にこの祖母も高齢であったので、力仕事は私が代行した。
その中でも一番の力仕事といえば、井戸の水汲みであった。
まさしく、安寿と厨子王の汐汲みに匹敵する作業であった。
というのも、我が家の井戸は台所から離れた場所にあり、井戸といえば手押しポンプで、それから水を汲んで一度瓶にためてから使うというシステムになっており、その瓶に1杯水を入れるにはバケツで3杯汲まなければならなかった。
そして距離があるものだから、それが又大きな負担で、それ故その力仕事は私の仕事であった。
それから約40年が経過した時点で、父がここで世話になりかけたが、門前払いを食わされた。
あれは平成10年の秋であったが、父が骨阻喪症で救急車でこの病院に担ぎ込まれたさい、病院側は本人が痛がっているにもかかわらず、どこも悪いところがないからといって文字通り門前払いを食わせた。
この病院は近代的な総合病院に建て替えたときから、採算性を重視する経営になったという事で、採算の合わない患者は早々に退院させる方針になったと聞いたが、まさにそれの具体的は例が父のケースであった。
父は老年になってからというもの、骨阻喪症になっていた事は承知しているが、本人が痛がっているにもかかわらず、痛み止めをしただけで、何処も悪いところがないからというわけで、入院を拒否された。
骨阻喪症というのは外見からは何ら患部が分からないわけで、見た目には何処も悪くはないに違いない。
病院側はとにかく入院を拒否するばかりであった。
仕方がないので老人介護を主体とする小牧第1病院につてを頼って入院させることが出来たが、老人介護でも本人から金を取るわけではないので、病院側とすればそう儲からないはずはないと思うのだが、儲けの幅が小さかったのかもしれない。
この時は腹がたったが、入院させないというものは何とも致し方ない。
事ほど左様に私はこの病院には因縁がある。
両親とも直接的に死に関わったわけではないが、死にいたる過程で、この病院には恨みがある。
建物ばかりが立派でも、その中身には心の温かさというものが感じられない。

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