私と音楽

平成13年10月25日

私は中学、高校と一貫教育の学校に通っていたので、人様よりも入学試験の試練の回数が1回少ないかった。
しかも男子校で、女性徒いうものが一人もいなかったので、卒業して社会に出たとき、女性と一緒に仕事するということに非常に胸がときめいたものである。
その上、3人兄弟で皆男ばかりであったので、家庭でもまことに殺風景なものであった。
だから男っぽいいたずらもよくしたもので、その中でも学芸会というか学園祭というか、そういう催しがあると、中学生のくせに高校生に紛れてそういうものを盗み見した事がある。
昭和30年の最初の頃は既にバンカラという気風は廃れ、高校生でもサージの学生服にきちんと筋を入れ、みめ麗しき良家の子息という雰囲気が主流であった。
ところが私はどういうものかバンカラが好きで、一人異端者を決め込んでいた。
そういう青春真っ只中で、ある時高校生にやっていた学園祭を講堂に覗きに行って見ると、舞台の上で先輩達がバンド演奏しているではないか。
私は、我校の先輩も中々やるもんだ、と大いに感心してしまった。
この頃、歌謡曲以外のものはなんでもかんでもジャズと称していたが、まさしくそれを演奏していた。
思えば、このとき始めて自分の目で本物の楽器というものを見たのかもしれない。
それ以来というもの、そういう音楽に聞きほれるようになってしまったわけであるが、今思うと、あの時代は世間一般にジャズとかタンゴとかシャンソンとか歌謡曲という詳しいいジャンヌわけはせず、進駐軍の好みそうなものは何でもジャズと言っていた。
今、その事を思い出したのは、最近、NHKがオールデイーズを放送してくれるので、それを見聞きしていると、この時代のことが走馬灯のように頭をよぎったからである。
我が家にも当時古いSPレコードが箱一杯あった。
その大部分は戦時中の軍歌や歌謡曲であったが、この軍歌というのが進駐軍の命令で「聞くと罰せられる」というような事がささやかれ、ボリュームを最小に絞ってこそこそと聞いていたものである。
なにしろ我が家の前が警察署であったので、内心びくびくしながら聞いたものである。
しかし、不思議なもので、そういって聞いていたのは私だけで、父も他の兄弟も音楽にはさっぱり興味を示さなかった。
私自身も高校を卒業して、しばらくするまではジャズもポピュラー・ミュージックもわからなかったが、どうも世間一般にそのようなものであったみたいだ。
クラシックと歌謡曲、そしてジャズという大雑把なわけ方で通っていたような気がしてならない。
我が家の父は、若い頃、電気関係の技術者であったので、自分で組み立てたという電蓄が家にあった。
それでSPレコードを聞いていたわけであるが、レコードを聞くという時はやはり心の準備をしておもむろに聞いたものである。
普通の生活では、これとは別に5球スーパーラジオで聞いていた。
このラジオが居間の茶ダンスの上にセットしてあり、その前で家族が食事をし、食事が終わると父が夜なべ仕事に、生徒のテストの採点をしていた。
父は学校の先生をしていたので、よく答案を家に持ち帰って採点をしていた。
その意味では夕食後の茶の間というのは父の仕事部屋でもあったわけである。
こちらも別の部屋で勉強をしていたが、数学などで難しくて解けない問題にぶつかった時、父に教えてもらうわけであるが、父が問題を解こうと沈思黙考している間、私は茶ダンスの上の5級スーパーに顔をくっつけてアメリカン・ポップスを聞いたものである。
それが今オールデイーズとしてテレビで再現されているわけである。懐かしい。実に懐かしい。
かの有名な日劇で行われたウエスターン・カーニバルの再現など実に懐かしい。
ウエスターン・カーニバルを実際に見たわけではないが、その雰囲気というものは不思議な事に体に沁みついている。
平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎、等々の歌が再現されているが、実に懐かしいものである。
低俗といえば低俗そのものである。
しかし、これこそ我が青春という感じがふつふつと沸いてくるのが不思議だ。
音楽に特別に思い入れがあったわけではない。
自分でも音楽の才能がない事は幼少の頃より自覚していたので、楽器を弾くということはとうにあきらめていた。
しかし,中学生の時に2,3歳上の連中がバンド演奏をしているのみて、家にあるSPレコードとは違う音楽があるという事だけは分かった。
それで高校を卒業し、一般社会人になり、自分の給料というものを得、自分で好きなものが買えるという立場になった時、早速ステレオというものを購入した。
18、9の時だと思ったが、小牧の駅前に伊藤電気という電気屋さんがあった。
そこでステレオというものを購入した。
昭和33、4年頃だったと思うが、当時の金で4、5万円したように記憶している。
この頃、日本碍子の職工をしており、夜勤をしていたので金回りはかなりよかった。
それでそれを購入したわけであるが、これが我が家にあった電蓄とは似ても似つかぬもので、最初のうちはその音にしびれた。
そしてステレオという概念そのものがまだ世間一般に普及しておらず、少々鼻の高い思いをしたものであるが、丁度その頃、NHKがFM放送というものの実験電波を出した頃でもあった。
我が家に昔からあった電蓄は下の方に大きなスピーカーが鎮座していたが、このステレオというのは左右にスピーカーが分離しており、右と左で違う音が出ているのに大いに満足したものである。
今から思うと信じられないような光景であるが、これぞまさしく昭和30年代のオーデイオの状況であった。
このステレオ装置の真ん中に緑色のマジック・アイというランプがあって、FMが同調すると、瞳の瞳孔が収縮するようにインデイケーターが動き、如何にも斬新な感じがしたものである。
しかし、ステレオを買ったはいいが、それにかけるレコードがなかった。
もうこの頃は既にLPというものが普及しており、世の中にはLP、SP、EPと3種類の媒体があった。
私の買ったステレオは、この3種類ともかけれたが、やはり折角新しい機械で聞く限りは、最新のLPでなければ物足りないわけで、それで最初は先ほどの伊藤電気のレコード売り場でエルビス・プレスリーのLPを購入した。
これが1枚2千円近くしたと思った。
不思議な事に、このLPの値段というのは、LPという媒体がなくなるまで2千円近い値段で推移していたのではないかと思う。
こうしてハードウエアーを確保したら、やはりそれに対応するソフトウエアーが欲しくなって、小牧の伊藤電気では何となく田舎っぽいので、名古屋の柳橋のヤマハビルまでレコードを買いに、足を伸ばしたものである。
その前に、こういうエピソードがあって、柳橋まで足を伸ばす結果となった。
昔、新栄には名古屋駅から来る東西に走る市電の路線と、平田町から鶴舞公園に抜ける南北に走る市電の交差点になっていた。
その交叉点からほんの少し西に寄った南側の通りに面して、小池レコードという薄汚い店があった。
ショウ・ウインドウに古ぼけたレコードのジャケットが飾ってあったので、何の気なしにそれを覗いていたら、店の中からステテコ姿のおっさんが飛び出てきて、「お前さんはうちの店でレコードを買ったことがあるだろう」と言いながら、腕を引っ張って店の中に私を引き入れてしまった。
店の土間の左の薄汚い畳の上に、アンプやスピーカーがキャビエットにも入れず、もろに鎮座しており、一体これはなんであろうと訝っていると、これがまたイギリス製の高価な機械で、その名前は今失念してしまったが、その後そういう類の雑誌を読んで見ると、オーデイオ・フアンには垂涎の代物であった。
それで会話が出来ないくらい大きなボリュームで音楽を流してくれた。
その親父さんが語るレコードのレーベルというのは、私の知らないものばかりで、それをきっかけとして、もっと知るにはヤマハに行かなければ駄目だと思って、足しげくヤマハに通うようになったわけである。
その親父は「中区役所でのレコード・コンサートは自分がやっている」と言っていたが、にわかには信じられなかった。
あの時代、中区役所ホールでは確かに国際レコード・コンサートいうものが月一ぐらいの割合で催されており、私も機会があれば聞きにいってはいた。
しかし、目の前のステテコの親父が、あのタキシードを着て司会している人間と同一人物とはどうしても信じられなかった。
その親父から当時のアメリカのジャズ界の状況を聞き、ジャズのレコード会社の概要を聞き、ヨーロッパの状況をレクチャーされたわけで、それで一気にジャズ・フアンになってしまった。
この店の親父というのは、今で言う個人輸入で、向こうのレコードを買っていたようだ。
しかし、まだ1ドル360円の時代で、個人でよくそういうことが出来たものだと、今でも不思議である。
けれどもこの店の親父の言う値段というのは高くて、とてもではないが、そう安易に度々買えるものではなかった。
それでも未だにその時に買った一枚が残っている。
フリーダ・ムソングというジャッキー・マクレーンのものである。
当時3千円は出したと思っている。
ヤマハでも2千500円は取られる代物であるが、この店のものは品物も良いが値段も結構なものであった。
あのころの若い世代というのは、やはり音楽に飢えていたようで、町には音楽喫茶とか、歌声喫茶とか、ジャズ喫茶というものが氾濫していた。
音楽を家で自分一人で聞くゆとりというものがなく、喫茶店でクラシックなり、ジャズというものを皆で共有していたわけである。
40年近く前の話である。
今でも当時のジャズを聞いているわけであるが、当時は確かにモダン・ジャズであったが、それを今言うとしたらもうモダンとは言えないのではなかろうか。
今でも毎年スイスのモントレーではジャズ・フェステバルが開催されており、日本人も出演しているが、確かにジャズも変わってしまって、私達が若かりし頃聞いたモダン・ジャズというのはクラシック・ジャズになってしまった。
音楽に関する思い出といえば、色々ある中でも日比谷野外音楽堂で聞いたハワイアンは素晴らしかった。
しかし、観客の方がその音楽について行けず、フラダンスが始まったらくすくす笑い出してしまったので、東京の音楽的センスは何と低いことかと驚いたものである。
そして若くして夭折した市野公一君の誘いで行った明大マンドリン倶楽部の演奏などは今だに脳裏に残っている。

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