テロの遠因

2001年、平成13年10月18日

今年の9月、アメリカで起きた同時多発テロに関し、10月現在ではアメリカがアフガニスタンを空爆して、テロに対する報復をしている。
テロに対する報復としてアメリカが武力行使をするについては色々な意見が噴出しているが、あの罪もない犠牲者の事を思うと、アメリカ政府といえども黙ってされるままでは、これまたアメリカの世論は黙っていないに違いない。
こうしたテロに対しては、対抗する術がないわけで、きちんとした法的手法でもって犯人を裁けと、もっともらしい意見が罷り通っているが、テロの実行犯に対してこういう対話が通じていれば、最初からテロ行為そのものが存在しないわけで、そういう道理が通らない連中がこういう行為に出ているわけで、そういう相手に対してはもっともらしい道理は通用しないのではないかと思う。
報復するのではなく、テロの根源を断つという論理が罷り通っているが、もしそれを推し進めようとすればイスラム原理主義者というものをホロコーストしなければならなくなるわけで、それこそ無意味な殺傷の繰り返しという事になる。
この問題の根源はやはり中東問題にあると思われる。
イスラエルとアラブの確執がその根底に横たわっているように思えてならない。
しかし、この問題というのは宗教に寛容というか、冷淡というか、曖昧な立場を取る我々、日本民族にとっては理解しがたい面がある。
私如き、宗教学者でもないものが論評を差し挟む事は、盲人が像を撫ぜるようなもので、的を得ることにはならないだろうが、私は私なりの考えを書き留めておきたい。
中東問題というのは言うまでもなく、イスラエルという国があの地に入植し、移植し、移民をし、イスラエルという国家を建設した時点からアラブ諸国との摩擦が絶えないわけで、それはまさしく20世紀の宗教戦争なわけである。
このイスラエルとアラブの対立というのは、宗教を介在しているとは言うものの、その本質は近代文明を受容するのか拒否するのかという立場の違いなわけで、それを宗教という殻が取り囲んでいるのではないかと思う。
表面上の目に見えるところでは宗教戦争であるが、宗教という盾の裏には、近代文明を受け入れるか、それともそれを遠ざけるのか、という違いが潜んでいるのではないかと思う。
その事は、明らかに価値観の衝突でもあるわけで、価値観というものが宗教を介在する事で正反対になっているわけである。
それが同時多発テロにも現れているわけで、テロ集団に対抗すべき相手は、きちんとした超近代的な主権国家なわけで、この両者にとっては価値観というものが正反対の方向を向いているわけである。
この価値観というものが人類共通の土俵に乗っている限りにおいては、こういう事件が起きないわけで、地球規模で見て、大方の人々は大体において共通の価値基盤の上にのっかって生きているわけである。
「人のものを黙って取ってはいけませんよ」と言う事は、価値観が地球規模で共通しているという事である。
共通の価値観がある限りにおいては、人々は共通の道徳律で自己を律する事が出来ているが、これに価値観の違う人が紛れ込むと、そこに無用な軋轢が生まれるわけである。
それは当然の成り行きである。
第2次世界大戦が終わるまで、ユダヤ人というのは自分の祖国というものを持っていなかった。
それで世界大戦が終わった時点で、地球上のユダヤ人が中東の地に自分達の祖国を作ったわけであるが、その土地はもともとアラブ系の人々の土地であったわけで、アラブ系の人達からすれば自分達の土地によそ者がやってきた、という感情に犯されるわけである。
しかし、この土地というのは砂漠で、生き物にとっても、又人間にとっても快適な土地ではなかったわけであるが、そこに入植したユダヤの人々は、近代文明の恩恵というものを最大限に利用して、開拓をしてしまったわけである。
一方、アラブ系の人々というのは、近代文明に背を向けていたから、いつまでたっても禿山が豊な土地にならなかったわけである。
ところが広大なアラブの土地にも神のえこ贔屓で、石油の出るところと出ないところがあったわけで、ここでも人々の生き様に大きな較差が出来てしまったわけである。
中東の荒地に入植したユダヤ人達は、近代文明の恩恵を最大限に利用して、自分達の納得する国家を作り上げたわけであるが、アラブ系の人々というのは、イスラム教に忠実に仕えるという生き方を選択したが故に、近代文明というものを拒否する方向に向いたわけで、これでは荒地は一向に豊な土地にならないわけである。
そして同じ荒地でも、石油の出るところと出ないところでは、人々の考えが異なってしまったわけである。
イスラエルという国は、世界の各地からユダヤ教徒が集まって開拓した国であるが、その事はアメリカの建国の歴史と軌を一にしているわけで、アメリカとしては近代文明というものを遺棄するアラブ系の人々よりも、近代文明を最大限利用する生き方をするイスラエルに近親感を持っていたわけである。
アメリカがイスラエルに近親感を持てば、同じ土地で、太古からの生活をしつづけているアラブ系の人達から見れば複雑な気持ちになるのも致し方ない。
しかし、アラブ系の人々がイスラムというものに固執し、近代の文明というものに背を向けている限り、生活の向上ということを自ら放棄しているようなもので、それをアメリカの抑圧という事は論理の飛躍以外の何物でもない。
中東世界もアフガニスタンも、地勢的にはよく似た土地で、いわゆる不毛の土地である。
我々、農耕民族からすれば、作物の取れない不毛の土地であるが、ここに太古から住んでいる人々にとっては、やはり自分達の土地そのものであって、ここのよそ者が入ってきて近代的な生活を営むという事が我慢ならないわけである。
我々の発想に立てば、そんな昔ながらの生活に見切りをつけて、近代的な生活をすれば良さそうに思うが、これは我々の側の傲慢な発想なわけで、彼らにしてみれば昔ながらの、羊を追って、泥の家で、電灯もなく、日暮れ腹減りの単調な生活で十分だと思っているわけである。
先方がこういう考えで凝り固まっている限り、その相手に対して、車に乗ってエアコンのきいた部屋で快適な生活をしなさい、といってもここで価値観が全く違っているわけで、彼らにしてみれば我々が快適な生活と思っている事が宗教を冒涜する行為と映っているわけだから、この両者が融合する接点が全くないわけである。
この価値観の融合する接点がないものだから、アラブとイスラエルで何度停戦協定を結んでも、それが実効を伴わないわけである。
停戦協定の数だけ約束不履行があったわけで、その結果として、明けても暮れても、テロとその報復が続いているわけである。
イラクのサダム・フセインでも、タリバンのオサマ・ビン・ラデインでも、彼らの行為の根底には、アメリカがイスラエルを支援している事があるわけで、そのことが彼らにとっては何とも許しがたい事になっているわけである。
アメリカに「イスラエルへの支援を止めよ」という事は、この21世紀の国際社会では考えるだけでも不遜な事である。
イスラム側の唯我独尊的な思い上がりである。
いやしくも、建国のいきさつがどうであれ、国際連合に加盟している主権国家の存在そのものを否定するような発想は、21世紀に生きる人間としての倫理に反する行為であるといわなければならない。
しかし、こういう認識が彼らには通じないわけで、まさしく唯我独尊的に自らのイスラム原理主義に入り込んでしまっているわけである。
こういうイスラム原理主義者のテロの元を断つということは、イスラエルという主権国家を「地球上から抹殺せよ」という事に他ならない。
我々、日本人としてこういう状況を、どう話し合いで解決する事が出来るのであろう。
我々、日本人が言う話し合いで解決という事は、話し合いで事の解決を先延ばしにするだけで、事の本質的な解決には何ら貢献しうるものではないという事である。
理論的には、話し合っている最中は、人の殺し合いというのは中断されてしかるべきであるが、こういう倫理をわきまえた相手ならば、話し合っている最中に妥協点というものが出てくるわけである。
つまり、我々の言う話し合いという事は、最後は我々の側が妥協点を見出さなければ結論というものはありえないという事である。
つまり相手の言いなりにならざるをえないという事である。
今日のイスラエルとアラブのテロの報復合戦というのも、明らかに力の行使であるわけで、戦争状態というものが恒常化しているわけである。
我々は、先の世界大戦で、日本全土というものがほとんど壊滅状態になってしまった。
ところがアラブ世界でも、アフガニスタンでも、いくらアメリカ軍の空爆があろうとも、泥の家や横穴式の住居で、都市らしい都市もない禿山の領域ならば、いくら爆弾を投下しても確たる効果は目に見えないわけで、民間人の犠牲者が出たといったところで、数百人単位の犠牲者である。
我々が経験した東京空襲、名古屋空襲、大阪空襲の犠牲者というのは数千人単位の犠牲者であったわけである。
こういう経験に鑑みて、我々は「もう2度と戦争は御免だ」という心境に至ったわけである。
ところがアフガニスタンでもアラブ世界でも、こういう犠牲というのを払った経験は全くないわけで、戦争が恒常化しているといっても、その犠牲者というのはほんのわずかである。
これでは「戦争はもう2度と御免だ」と言う心境にまで至らないわけである。
イスラム原理主義の言う「アメリカの抑圧があるから我々はテロの走るのだ」という言い分は、価値観という共通の土俵上での議論ではないので、不合理な論法である。
しかし、我々の側がいくら不合理だと言って叫んだところで、先方でそれを理解する気持ちを持ち合わせていない以上、これは暖簾に腕押しという事になってしまい、論理のすれ違いになってしまうわけである。
こういう価値観の違うもの同士が、宇宙船地球号というものに乗り合わせている限り、その価値観の融合という事はありえないような気がしてならない。
宗教というものは本来、この価値観の融合というものを推進する方向に向かわなければならないのではないかと思う。
宗教というものが自分の考えと違うものを排除する方向に向いてはならないのではないかと思う。
しかし、過去の人類が崇めていた宗教というのは、そのこと如くが排他的であったわけである。
この排他的な要因が価値観の融合というものを拒んでいるわけで、宗教が寛容であれば決してこのような事態には至らないのではないかと思う。
イスラム教を信じるものには酷な言い方であるが、イスラム教を信じて一日に5回もお祈りをしている限りにおいては、イスラム教徒の未来はないと思われる。
彼らの価値観に立てば、近代文明の恩典に浴することがイスラムを冒涜するものであると、言っている限り、我々の価値で良しとされる生活には近寄れない違いない。
テレビのニュースの報道で垣間見る中東、乃至はアフガニスタンの環境というのは、まさしく禿山以外何もないわけで、我々のいう文化生活の対極にあるわけであるが、ああいう生活が至上のものだとすれば、我々の価値観で「難民が気の毒だ」という哀れみの感情も捨て去らねばならない。
黒柳徹子がアフガニスタンを回って、「かの地の子供達は気の毒だから、我々、豊な社会からは支援の手を差し伸べなければならない」というのは我々の驕りと云う事になってしまう。
価値観が根底から違っているのだから、我々が自分の価値観で気の毒だと思ったところで、彼らにしてみれば同情の押し付けにしか映らないわけである。
何もしない事が彼らを理解する事になるわけである。
彼らにしてみれば、我々が享受しているような生活をしたいとも思っていないわけで、それを我々の基準にてらして気の毒だと思う事自体、彼らを冒涜したことになるわけである。
テレビのニュースで垣間見るかの地の光景を見れば、彼らはいくら空爆を受けたところで、失うものは何一つないわけで、少々人が死んだところで、可愛そうでも何でもなく、寿命が少しばかり縮まっただけの事で、可愛そうでも何でもないわけである。
それを可哀相と思う事は、我々の側の価値観に立っているからである。
そういうものが否定されている限り、我々の側としては、手の打ち様がない。
話し合いで解決といったところで、同じ価値基準の中での話し合いでない限り、それが履行される保障はないわけで、それがイスラエルとアラブの確執として現れているわけである。
いくら停戦協定が結ばれても、結んだ端からそれが破られているわけである。
そこには、お互いに取り交わした約束は、お互いがきちんと守らなければならない、という共通の認識というか、価値観というか、倫理というか、そういうものが無いわけだから、約束をした端からそれが破られているわけである。
中近東にしろ、アフガニスタンにしろ、我々日本人からすると如何にも遠い国のような印象が強い。
地理的な距離の遠さよりも、意識の上での遠さのほうがより強い感じがする。
我々からすると、まるで「月の砂漠」という歌のイメージの世界で、日常の意識の中ではまるで別世界である。
湾岸戦争のときも、石油という問題がなければ、別世界の出来事であった。
我々の意識がそうである限り、イスラム教という宗教に関しても当然感心が薄いわけで、東京にも立派なイスラム教の寺院が出来たという事は知っていても、何か異質な宗教で我々の生活には全く関係がないよう気持ちでいた。
ところが、アメリカのニューヨークでああいう事件が起きると、改めてイスラム教徒の恐ろしさというものがふつふつと沸きあがってきたわけである。
宗教というものが人間の心の平安を司るものであるとすれば、イスラム原理主義というのは、邪道の最たるものといわなければならない。
邪道であろうとなかろうと、当事者にとっては敬虔な教えであるわけで、部外者には窺い知れないものがあるわけである。
しかし、今回の同時多発テロというのは、どういう発想でもってああいうことがしえたのであろう。
何の罪もない旅客機の乗客を道連れに、何の罪もない人々が働いているビルに飛行機ごと突っ込むという事は、宗教的にどういう整合性があるのであろう。
これに比べれば、サダム・フセインの行ったクエート侵攻というのは、我々にも多少の理解の余地があるが、今回の事件というのは我々の思考の外の出来事である。
これがまさしく砂漠の民の発想であったのであろうか?
そこには人の命の事など微塵もないわけで、この一事をとっても価値の基準が全く違っているわけである。
我々の倫理観というのは、人の命を基準として、その基準に対して許されるか許されないかが価値判断の元となっているが、彼らの基準はイスラム教の教義が倫理の基準になっているようで、人の命よりもイスラム教の教義が優先しているわけである。
あの事件はオサマ・ビン・ラデインが指令を出したといわれているが、もしそうだとすれば、彼はどういう気持ちで罪もない人々を道連れにする事を承認したのであろう。
前にも書いたように、我々は空襲が避けられない時は、学童児童を避難させたが、彼らはその反対で、そういう人々を盾に取るという事がイスラムの教義に反していないのであろうか?
我々が学童児童を空襲に合わないように避難させたのは、特別に宗教的な意味があったのではなく、次の世代を担う子供達を保護したい、という種族の永続性を保つためであったわけで、そういう子供達を自分自身の盾にするなど思いもよらない事である。
交戦国同士であっても出来れば無用の殺生は避けようという気持ちが働いていた事は事実だと思う。
捕虜の虐待という事が戦後姦しいが、これも無用な殺生を避けたが故に、そういう問題が噴出してきたわけで、戦争中だからといって、何でもかんでも敵国人を殺してしまえば、捕虜の虐待という問題は起きなかったわけである。
この事件に関しても、日本人の関心というのは、アメリカの報復攻撃を糾弾する方向に向いているが、テロの遠因を改めるということは我々のなしえる事ではないような気がする。
我々はあまりにも中東という地域にも、イスラム教という宗教についても、知らなすぎると思う。
ただ当事者がアメリカだから、アメリカに対しては何でも反対しておれば無難だ、という浅薄な発想が根底にあるのではないかと思う。
平成13年10月18日のNHK TV クローズアップ現代で、このアフガンの難民問題を取り上げていたが、その中で元国連高等弁務官の緒方貞子さんのコメントがあった。
その中で彼女は、「アフガニスタンというのは世界から見捨てられて地域だ」という事を述べていた。
確かに、この同時多発テロが起きるまでは、世界から見捨てられていたに違いない。
旧ソビエット連邦のアフガン侵攻では、その対抗勢力を支援するためにアメリカが支援していたが、ソビエットというものが崩壊し、アメリカが肩入れする必要が消滅した時点で、アフガンは世界から見捨てられたわけである。
しかし、世界から見捨てられるという事は、その地に住む人自身の問題ではないかと思う。
だからと言って、あの同時多発テロを起して、世界の耳目を集中させて良いと言う事にはならない。
東西の冷戦が終わり、ソビエットが撤退し、アメリカが支援を止めた時点からは、自らがきちんとした国家を作るのがスジではないかと思う。
それが出来ない理由を、他国の所為にするのは如何なものかと思う。
ソビエットが撤退し、アメリカが支援の手を止めたら、今度は自分達で国家建設に励むのが普通の常識ではないかと思う。
如何なる民族でも最初からきちんとした主権国家ではありえないわけで、お互いの構成民族が協力し合って曲がりなりにも主権国家というものを作っているわけで、それが出来ないからと言って、それを他国の所為にするのはやはりその地に住む人々の意識の問題だと思う。
それを国連という立場から見ると、やはり人道的見地から「支援しなければならない」という事になりがちであるが、これもある意味では民族自立に関する干渉となりかねない。
アフガンが貧しく、医療もなく、学校もなく、飢饉で、食糧もないので何とかしなければならない、というのはまさに人間の善意そのもので、なんびとも正面から反対しきれない問題である。
黒柳徹子の発想と同じなわけであるが、それを別な見方をすれば、そこに住む人々の選択でもあったわけである。
我々が善意でもって、その地に住む人々を支援するという事は、その地に営々と何世代にも渡って生きてきた人々の生き方を変えさせる、つまり我々と同じ価値観を持つことを強要する、という事でもあるわけである。
我々はニュースの報道でもって、あの地域の光景を見、あの地域に住む人々の暮らし振りを見、気の毒だと思うのは我々の価値観に立って彼らを見るからであって、彼らの立場から見れば「いらぬお節介」かもしれない。
緒方貞子さんと云う人は、言うまでもなく近代文明の最先端にいる人なわけで、その意味では黒柳徹子でもそうであるが、そういう立場から、かの地の現状を見れば、「何とか支援して、彼らに近代文明、近代文化の恩典に浴せるようにしてやりたい」と思うのは、非常に、人間として心やさしき発想である。
そういうところに爆弾の雨を降らせるなどとは以ての外だ、と思うのも無理ない話である。
しかし、彼らの価値観を我々の側に近づけようとすれば、まず最初に宗教の放棄から説得しなければならず、それこそイスラムのテロを増大させるような事になるのは目に見えている。
東西冷戦が終焉して、地球規模で各地で民族紛争が噴出したが、民族紛争というのは当事者同士の小競り合いにわけで、それがいくら大きな悲劇を生み出そうとも、それはあくまでも当事者同士で解決すべき問題である。
いわゆる内政不干渉の精神を部外者は貫く事が理性的な人間の対応だと思う。
そういう状況のところに、人道的というモラルを振りかざして干渉するという事は、干渉する側の驕りだと思う。

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